増える獣枠

「お前胡蝶の妹と結婚すんのかァ」
 表情を歪めて目の前にいる顔を見上げると、神妙な顔をして義勇を眺める不死川がいた。
 不死川もクラスメートではあるが、突っかかられることが多くあまりきちんと会話をすることがなかった。振られた話の内容に眉根を寄せると、違うのかと一言問いかけられた。
「あ、いた義勇! 大変な誤解起きてるぞお前、何しでかしたんだ?」
 答えようと口を開いた瞬間、廊下から声をかけられ義勇は顔を向けた。離れたクラスに所属する友人が不死川へと目を向けながら、慌てたように教室へと入ってきた。
「傷物とか責任逃れとか、胡蝶さんの妹を弄んだとか物凄い言われてるぞ」
「はァ?」
 絶句した義勇は目を丸くして驚き、不死川は不快そうにガンを飛ばしてきた。友人は義勇の人となりを非常に良くわかってくれており、驚いた義勇の顔を見て知らなかったのかと呟いていたのだが。
「てんめェ、胡蝶の妹弄ぶたァとんだ最低野郎だなァ」
「弄んでない」
 噂を信じてしまうのは仕方ないとはいえ、目の前に本人がいるのにそれは酷くないだろうか。せめて本当かと問いかけてくれれば良いものを、というか最初に結婚するのかと聞いてきたくせに、弄んだとかいう噂を信じるのか。
「どうだかなァ。てめェのその澄まし面の裏で何してるかなんざ知らねェし」
 仲悪いのか、と友人が少し気にしながら義勇と不死川を見守っていた。錆兎が聞いた話を詳しく聞きたいのに、不死川が至近距離で血走った目を見せてきて動くに動けなかった。何故こんなに不死川が怒っているのか、義勇にはさっぱりわからない。胡蝶の妹を弄んでいるなどという噂を聞いてからこれだ。ああ、そういうことか。不死川が怒る理由はつまり。
「胡蝶の妹のことが好きなのか」
「どんな流れでそうなったァ! 違ェわ殺すぞ」
「……違うのか」
 どんなも何も、不死川の様子を見てそうなのかと思い至っただけなのに。
 不死川が胡蝶の妹を好きだというのならば、尚更義勇が身をもって責任を取るなどできない話である。せめてもっと違う形で償うべきだし、不死川の誤解は解かねばまずいものだ。ふいに廊下の人影に気づいて目をやると胡蝶とその妹が教室を覗き込み、胸ぐらを掴んで今にも殴りかかりそうな不死川と今にも殴られそうな義勇に目を向けていた。
 目が合うと胡蝶の妹は見るからに落ち込んでしょんぼりとし、胡蝶が肩を支えて寄り添った。仲の良い姉妹は見ていて癒やされるものだったはずだが、その後の言葉に義勇は慌てた。
「やっぱり責任取るつもりないんですね」
「そうかァ、責任取らねェとなんねェようなことしでかしたってことだよなァ」
 指の骨を鳴らしながら血走った目が義勇を睨んでくるが、義勇としてはそれどころではない。不死川の言葉に頬を染めて困ったように目を逸らした胡蝶の妹を見た男子生徒が、いや女子からの視線もあったかもしれないが、とにかくほぼ全員の視線が義勇へと突き刺さった。この場の良心的存在になっている錆兎の反応が救いだった。妹の反応を見て少々照れたように頬を染めたものの、首を傾げて義勇を見ていた。
「不死川さんには関係ないです」
「めちゃくちゃ何かあった反応だろうがァ……」
 むくれたように唇を尖らせて、胡蝶の妹は不死川の腕を掴んで襟首から手を離させた。そのまま離れろとでもいうように不死川を手で払いながら、義勇の腕へしがみつく。錆兎の目が輝いて口元を手で隠しているが、そんな反応今までしたことあっただろうか。逃避しかけた意識を戻すように胡蝶の妹の声を耳に入れた。
「不死川さんにも一端があるんですよ。そもそも雨の日に家に来るのが、」
「あーッ! 馬鹿ふざけんな! つうかそれよりもっと重要なことだろうが!」
 怒りよりも焦りで大声を出した不死川に首を傾げたが、胡蝶が教室へ入りまあまあと宥め始める。彼女が口を挟むと大抵騒ぎは収まるのだが、今はまだ少しざわついていた。胡蝶の妹の言葉で義勇に向いていた視線が不死川にも向かっていく。家? と小さく呟く声が聞こえた。
「とにかく! 冨岡さんは私の理解者なんです、放っといてください」
 視線から殺意を感じたのは初めてだった。確かに胡蝶と話している時も良く視線を感じていたが、今ほどはっきりと感情が送られてくることはなかった。さすがというべきか、胡蝶姉妹が目立つ存在なのだということを義勇は再確認した。
 正直目立つことをあまりしたくない義勇としては、巻き込まないでほしいというのが一番の望みである。何故か自分でばらしている胡蝶の妹はこの視線がずっと続くことになることをわかっているのか。まあ本人には向かわない視線なのだろうけれど。
「なあ、ちょっと良いか義勇。いつの間にそんなことになってたんだ? 先週まで何もなかっただろう、猫のことで電話かかってきたくらいだ」
 義勇から何も聞いていないことを不満げに主張した錆兎に、胡蝶の妹の肩がびくりと震えた。不思議そうに錆兎は妹を眺め、首を傾げつつも義勇へと向き直る。猫、と呟きながら不死川の顔が更に強張っていくのを目の当たりにした周囲の生徒が悲鳴を上げて離れていった。
「てめェ、まさか」
 両手で襟を掴み上げられ、義勇はふと不死川が妹の体質を知っているのだろうことに気がついた。もしかして戻り方も知っていて、それで怒っているのではないか。
「見たんだなァ」
 妹の裸を見たことに気づいたらしい不死川の怒りが増幅したのがわかり、義勇は胸ぐらを掴まれたまま引きずられるように教室を飛び出した。
「ちょ、ちょっと、不死川さん!」
「やばい、痴情のもつれだ」
「まじ? 不死川も胡蝶さんの妹が好きなのか」
「やだ、そうなの? 大変だわ」
 不死川が胡蝶の妹を好きだというのなら、義勇は別の責任の取り方を提案するのだが。頭に血が上っているらしい不死川は聞く耳も止める腕も構わず走り続けた。
 注意を送る教師の声も聞かず、廊下を走り非常階段を降りて行き着いた先は屋内プールだった。年中水の溜まっているそこへ胸ぐらを引っ張り義勇の体が宙を浮く。思わず不死川の襟首を掴み、驚いた顔を視界に収めて二人同時に飛び込んだ。
 飛沫が上がりプールの底まで一度落ち、義勇は呼吸のために水面から顔を出した。視界の隅で慌てたようにこちらへ走ってくる胡蝶の妹へ顔を向け、不死川が上がってくるのを待った。
「冨岡さん、不死川さん!」
 上がって来ない不死川に溺れてでもいるのかと不審に思い、義勇はもう一度水へ潜った。不死川の服らしきものが見え、その付近へ手を伸ばす。何かを掴んで顔を上げ、水面へ持ち上げた。
「え?」
 掴んでいたのはずぶ濡れの、恐らくこれは犬だった。ぎしりと固まった義勇が白い犬を凝視していると、遠くで胡蝶の声が聞こえた。
 静かに離すとその場に留まり、犬は義勇を睨みつけた。何でこんなところに犬が。服だけを残して不死川本体が消えた。何故、どうやって。怖い。
「あちゃあ。冨岡くん、不死川くん、大丈夫?」
 犬から目を離さず距離を取るためにプールサイドへと泳ぎ、義勇は背中に触れた壁を伝って重い体を持ち上げた。大丈夫かと問いかける声に答えることもできず、ただ犬の挙動を見守る。今のところは大人しく水に浸かっているが、いつ牙を向いてくるのかわからず義勇は臨戦態勢を取った。
「近寄るな」
 こちらへ泳いでくる白い犬に向かって吐き捨てると、動きが止まりまた水面から顔を出すだけに留まっている。こちらの言葉がわかるらしく、そこでもう一度不死川がいないことを思い出した。
「向こう側に行け。こっちへ来るな」
 血走った目が義勇を睨み、怯みそうになるのを必死に堪えた。不死川の服と突然現れた犬、そして消えた本体。胡蝶の妹の体質。少し冷静になった頭が線に繋げていく。そうか、成程。あの白い犬が不死川だ。
「……でも駄目だ。早く元に戻ってくれ」
「冨岡くん、犬嫌いなの?」
「……動物は好きじゃない」
「あらまあ。そんなとこまでしのぶと一緒なのね。しのぶも離れすぎよ、不死川くんだってば」
「わ、わかってるわよ!」
 胡蝶の妹はプールから離れた隅に立っており、水が近いせいもあるのだろうが、どうやら彼女も動物が苦手らしい。ずぶ濡れのまま顔を向けると、困ったように眉を顰めた妹が隅でひっそりとこちらを眺めていた。今そんな共通点を見つけても素直に喜んでいる暇はなく、妹から少し離れた場所で立ち止まり、水を吸った制服を脱いで絞ることにした。飛沫だけでも駄目なのかもしれないし、これ以上動物が増えたら自分が倒れるかもしれないし。
「とりあえず人が来ないうちにシャワー浴びてきて。ジャージとか持ってる? 着替えないと」
「ちょっと待て。俺と犬を二人にしないでほしい」
「しのぶ、一緒にいてあげなさい。私持ってくるから」
「え……いや、でも……」
 胡蝶の妹がプールから出てきた犬と義勇、そして胡蝶の顔を見て言い淀み、同じクラスだからとさっさと走っていった姉に手を伸ばしながら泣きそうな顔をした。まるで今生の別れのような様子に義勇も少々申し訳ない気分になったが、犬と一緒にいるくらいなら多少恨まれたほうがましだった。
「……先に行け」
「ドア開けてあげないと……」
 更衣室のそばにあるシャワー室へ指を差した義勇に、妹は小さな声で指摘した。黙り込んだ義勇は絞った服を肩にかけながら、意を決して歩き始めた。
 シャワー室へ到着し、背後にいる犬に目を向けながら中へと入る。少し離れた後ろにいる妹はともかく、不死川は義勇に怒りを見せていたのだから、噛まれでもしたらたまったものではない。苛立ったような目を向けてきても、こちらもトラウマというものがある。一刻も早く元に戻ってほしくて犬を中へと恐る恐る案内し、湯を出してから義勇はシャワーヘッドを犬へと向けた。
「……てめェが素直に一人で落ちてりゃこんなことにはよォ」
「お前がプールに来たんだが」
 そんな体質は不便だろうと思うけれど。湯気の中現れた不死川にようやく義勇は安堵の息を吐き、隣のシャワーへと移動した。
「で? 見たんだよなァ」
「……誰にも言わないと約束した」
「それもう言ったようなもんじゃねェか……?」
 シャワーを止めて隣同士、小さな声で会話を始める。姿形が不死川ならば義勇も怯えることなどないが、仲良くなりたいと思っていた相手が犬になる体質だったことは、義勇の中で二の足を踏む理由に充分なり得た。不可抗力とはいえ申し訳ないことをしたことは事実であり、しかし一方的だったとはいえ約束してしまった手前見たとは言えず、突っ込みを入れた不死川から呻くような相槌が漏れ、小さく義勇は謝った。
「いや何で俺に謝ったァ」
 そういうのは本人に、と呟くのですでに謝った後であることを告げ、続けて義勇は口を開く。謝った内容に対して怒っていたのではないのかと聞くと、それに対しては間違っていないと不死川は呟いた。
「妹のことが好きなんだろう」
「それは誤解だわァ」
 呼ばれて顔を出すと不死川も隣から顔を出しており、違うと念を押した。首を傾げると苛立ったようにもう一度違うと口にして、責任を取れと義勇へ指を差し向けた。
「でも、お前は」
「違ェっつってんだろ。責任取れって本人がてめェに言うんだから取れ」
 その責任の内容を不死川は知っていて、怒りを表すほど大事なのだろうに妹に義勇をあてがおうとする。納得がいかない顔をしていると、溜息を吐いて頭を抱えた。
「……あー、てめェが何か色々考えて渋ってんのは何となくわかったからよォ……本人の言うとおりしてやれやァ。それで納得すんだからよ。それとも何か、あいつのことが嫌いかァ」
「いや、好きだ。話しかけてくれる」
 猫になるのはいただけないが、まあ大人しくしてくれていたので妹ならば恐らく大丈夫だと思う。犬でなければ近くに寄ることは問題はない。これで胡蝶の妹が犬になる体質だったならば、是が非でも体質を元に戻してもらわねば責任など取りようもないのだが。
「……あっそォ」
「お待たせ! あら、仲良いのね」
「良かねェわ」
 ジャージとタオルを手渡され、礼を告げるとまた胡蝶はシャワー室を出た。錆兎が気にしていたらしいが後を頼んで来たようで、他クラスであるにも関わらず義勇たちのクラスに留まってくれているらしい。後で何か奢ってやらなければ、そして話をしなければ。二人の体質のことは言ってはいけないだろうが、噂のことは伝えておかなければならないだろう。溜息を吐くと隣からも同じように溜息が漏れ聞こえた。
「とりあえず、責任取るらしいぞォ」
「案外すんなりだったわね」
 更衣室を出ると突然不死川が口を開き、良かったと胡蝶が飛び跳ねて喜び妹へと抱き着いた。妹自身は驚いたように目を丸くしたものの、照れたように義勇を見上げてくる。
 取るとは言っていないのだが、不死川はもう言質でも取ったかのような言い方をした。きちんと話をしなければならないと思うのだが、義勇ではどうにも流されてしまいそうだった。
「本当ですか? 嫌なら良いですよ、別に」
「その気にさせるだけだもんね?」
 別に嫌というわけではない。嫌というわけではないのだ。何やら恐ろしい言葉を聞いた気がするが、それを差し置いても余すところなく見たことは悪いと思っているし、責任の取り方がそれしかなく、かつ本人がそれを望んでいるのならば、応えなければ逆に失礼にもなりそうだ。
「嫌じゃない」
 腹を括れと錆兎なら言うだろう。体質を知っている者がどれだけいるのかは知らないが、理解者になれというのも義勇で良いのならば応えてやりたいと思う。
「不死川のようにはなれないが」
「何で不死川さん?」
「まだ言ってんのかてめェ!」
 胡蝶がそわそわと不死川と義勇を見比べ、妹へと目を向けたが本人は首を傾げて眉を顰めていた。
 不死川自身は違うというのだし、気にしなくて良いのならそれで良いのかもしれないが、黙り込んでいると胡蝶の妹は手招きし、義勇の耳元で言葉を聞かせた。
「……冨岡さんじゃなきゃ言いませんよ」
 正直なところ、何故義勇ならば言ったのかわからなかった。胡蝶姉妹は校内でも人気があり、義勇を気にかけてくれるのが不思議だったくらいだ。クラスメートの姉ならともかく、妹は話しかけてくれるとはいっても毎日顔を合わせていたわけでもなく、常に胡蝶を間に置いての関わりだったはずだ。好意があるといってもそれが恋愛に発展するかなど義勇は考えたこともなかったし、あの時もただ驚いて光景を忘れることに専念していたが。
 瞬いた目を妹へ向けると、じっと義勇の目を見つめたあと控えめに笑みを漏らした。顔を合わせるたび見ていたものと同じ笑顔だったと思うのに、それが普段より何倍も可愛く見えて、義勇は思わず妹の顔を凝視した。

「うおっ! 何だてめェ!」
「ちょっと、何するんですか!」
 教室に戻ろうとする胡蝶の腕を掴み、不死川の首根っこを掴み、胡蝶の妹の首を腕に抱え込み更衣室へと戻った。騒ぐ不死川と妹には悪いがまだ聞きたいことがある。ここまで巻き込まれたのだから聞く権利もあるだろう。
「何で姉さんが腕で私が首なんですか。おかしいでしょう」
「手が塞がってた」
「まあまあしのぶ。距離が近いから良いじゃない」
 胡蝶の指摘に義勇は腕を離し、少し顔を赤くしてむすりとする妹へと謝った。不死川は苛立ったように顔を歪めていたが、義勇の聞きたいことでも勘付いたのか黙って更衣室のロッカーへ体を凭れさせている。
「不死川と妹以外にいるのか」
「あー、体質ね。さあ、私は二人以外知らないわ」
「私も知りません。不死川さんのことはこの間知ったばかりです」
「しのぶが逃げ出した時のね」
 義勇の家の玄関に陣取っていた日、どうやら胡蝶家に来ていたらしい不死川が雨に濡れて犬へと変わり、驚いて逃げ出したということらしい。
 その日は両親もまだ帰っておらず、急いで風呂へ突っ込み元に戻して服を着て帰ったのだそうだ。まあそのあたりの顛末は必要ないのだが、顔を強張らせた不死川を見ながら胡蝶が楽しげに話すので、義勇も聞くことにした。
 以前から話していたらしい勉強会を二人で開催し、帰ろうとした時に雨が降ってきた。屋根の下にいなかった不死川は犬へと変身し、丁度帰ってきた妹が目の当たりにして傘を落として逃げ出したらしい。
 勉強会のことは口外するなと口にした不死川は強面だからか割と怖がられていることを義勇は知っている。人気のある胡蝶と仲が良くても誰が文句を言うのだろうと思うが、そのあたりの思惑は不死川にしかわからなかった。
「だから冨岡くん家に逃げたのは不死川くんにも一端があるって言ったのよ。しのぶが逃げなきゃ良かった話なんだけど、この子も動物苦手だからね」
「猫になるのに」
「なりたくてなったわけじゃないですから」
 自分が猫になることは慣れたらしいが、やはり目の前に動物が、特に毛のある動物がいると駄目なようだ。不貞腐れたように唇を尖らせているが、義勇としても目の前に犬が現れたら身動きが取れなくなる。気持ちは良くわかる。
「……錆兎が言ってた噂はどこから」
「あれねえ。たぶん中庭で聞かれたんじゃないかなって思ってるわ。私、冨岡くん説得してもらおうと不死川くんに頼んだけど、」
「説得?」
「ええ。結婚したいって言ってるのにしてくれないから」
 問いかけに頷いた胡蝶は笑みを見せながら説明してくれた。したいと言ったわけじゃないと妹が慌てたように遮るが、今更取り繕っても無駄だと胡蝶は笑っていた。何ともいえない顔をした不死川を眺め、気分的にも恐らく義勇も似たような顔をしていたのではないのかと思う。
「冨岡くん鈍いみたいだし、わかりやすくいかないと駄目だなって。しのぶも割と頑張ったもんね」
「もうその話良くないかしら」
 不死川に胸ぐらを掴まれる前は確かに落ち着いて問いかけられていたことを思い出し、一部始終を聞かされないまま問いかけてきたのだろう。何故そんな話になっているのかわからないまま駆り出されるのも何だか妙な話だが、不死川も了承した結果義勇に問いかけ、酷い噂のせいで頭に血が上ったということだ。
「俺は鈍くない」
「そう? 割と周りの目とかあんまり気にしないわよね。自分の噂とか知らないでしょう」
「弄んだとかいう噂か?」
「それ以前からのやつとか」
 首を傾げて思い出してみるが、義勇に噂があったなどと聞いたことがない。錆兎も何も言わなかったし、彼に言われなければ義勇に話しかける者はそう多くない。疑問符を浮かべても胡蝶は笑うだけで教えてはくれないようだった。
「冨岡くんの友達もあんまり気にしないのね。さすがに今回は酷かったから気づいたのかしら」
「お前たちと話してると視線は感じる」
「そういうことでもないんだけど」
 ではどういうことなのか。目で訴えても胡蝶は口を割らず、妹を見ても何も言わない。不死川へ目を向ければ、口で言えと呆れたような声音で窘められた。
「目で訴えるのはしのぶだけにしてね」
「口で言ってくれるほうが良いですけどね」
 目を見れば伝わるという姉の言葉どおり、姉も錆兎もわかってくれていたからそのまま過ごしていたのだが、三人には駄目らしい。やはり年月を重ねなければ難しいのだろう。まあ仕方ない。
「そういうのが噂になるのよ」
「……わからないんだが」
「でしょうねえ。まあそれは良いじゃない」
 ふいにポケットを探り始めた胡蝶がスマートフォンを取り出し義勇へと差し出した。ジャージを取りに行った時に錆兎から渡されたらしく、ついでに不死川のものも持ってきたようで手渡していた。振動は錆兎からの電話で、通話を押して耳へと当てると聞き慣れた声が聞こえてきた。
『痴情のもつれは終わったか?』
「ち、……痴情のもつれじゃない」
 凭れていた不死川の後ろのロッカーが音を立てて揺れ、強面を更に強張らせて震え始めた。揶揄うような声がわかっていると笑う。
『クラス大変だったぞ、胡蝶さんの妹を巡って喧嘩し出したとか。そうなのか?』
「妹を巡って……いや、そういうわけじゃ……ないのか?」
「ねェわ! しっかり否定しろォ!」
「ない」
『わかった。家に行くからその時聞く』
 堪えきれないらしい笑い声を漏らしながら錆兎は電話を切り、溜息を吐いた義勇を窺うような視線が三対向けられたことに気がついた。
 クラスは胡蝶の妹を巡って不死川と義勇が喧嘩をしたことになっているらしい。不死川は妹のために怒ったのだし、個人的にはそう間違ってはいないと思うが、これを肯定するとまた色々と根も葉もない噂が飛び交うようになるのかもしれない。それはさすがに義勇も避けたいところだ。
「ただでさえ胡蝶と話してると視線がうるせェってのに……」
「……今日は殺意を感じたが」
「そういうのは気づくのね」
 胡蝶の言葉に眉を顰めると楽しげに笑いながら頷いている。何が楽しいのかは知らないが、とりあえず話もひと段落したのだからと更衣室の扉を開けた。

*

「で? いつからそんな話に?」
 気になっていたのだろう、錆兎は義勇の家に来るなり口を開いて問いかけてきた。
 いつから。はっきり決まったのは今日からだが、そんな打診をされたのは先週だ。だがそのきっかけになったのはあの雨の夜だった。
「猫が来た時……?」
「何で疑問形? そういえば女の声聞こえたな。あれ蔦子さんじゃなくてもしかして胡蝶さんの妹だったのか」
「ああ、まあ」
 義勇の動物嫌いを知っている錆兎は、だから猫を入れたのかと納得したようだった。胡蝶の妹が猫を拾い、義勇の家に連れてきたのだと勘違いしたらしい。正確には猫が胡蝶の妹だったのだが、それを伝えるわけにもいかず曖昧に誤魔化して頷いておいた。
「洗ってもらえば良かったのに」
「妹も動物が苦手らしい」
「良く拾えたな。怪我してたんだっけ」
 頷くと錆兎の中で胡蝶の妹の株が上がったらしく、優しいと一言呟いてまた相槌を打った。少し考え込んだあと、錆兎はまた口を開く。
「責任てのは猫のことか? まあ噂なんて尾ひれがつくととんでもないことになるし、弄んだとかいうのもそうなんだろうな。義勇がそんなことするわけがない」
 妹も弄ばれたような反応ではなかった気がする。錆兎なりの見解を口にして一人納得し、これから付き合うのならと続けて祝いの言葉を口にした。
 何だか良い感じに勘違いしてくれているようなので、これ幸いと猫を理由に責任を取るということにしておいた。普通の猫にどんな理由があって妹の責任を取ることになるのかは義勇にもわからないが、まあそのあたりのことは放っておこうと考えた。