すべての始まり

 玄関前に招かれざる客が佇んでいた。
 危うく後退りするところだったが、義勇は何とか堪えた。こちらを見上げる双眸は光に当たって紫色にも見え、白と黒の毛並みに目の色が妙に映えていた。
 軒先を眺め、手に持っていた傘を眺め、振り続ける雨と空を眺めた。恐らくだがこの客は単に雨宿りをしにきただけなのだろうと思うが、それにしたって玄関の真ん前に陣取らなくても良いのではないだろうか。触れようと考えたこともなかったが、野良を追いかけてもなかなか懐いてくれないと友人は嘆いていたし、こうして義勇の前に佇んでいるのも珍しいのではないかと思う。近寄るだけで逃げるのならば、今回もそうしてくれれば良いものを。まあ犬じゃなかっただけましかもしれないが。
「……退いてほしいんだが」
 言葉がわかるとも思えないが、恨みがましく義勇は一言呟いた。すると玄関前に陣取っていた客はしなやかな動きで腰を上げ、するりと義勇の足元を通って通路の反対側へと座り込んだ。
 白い後ろ足を動かした際に見えた血のような赤い部分に、怪我をしているのかと義勇は思い至った。ほんの少しだけ引きずるような動きもした気がして、痛いのだろうと何となく思う。
 手当でもしてやるべきか、しかし動物の知識など皆無である義勇にとって、野良猫を手懐けることすら難しいだろう。何故か少しも玄関前から動こうとしないこの白黒の猫に、義勇はどうして良いか困り果てていた。
 捕まえて動物病院にでも連れて行くべきか。しかし夜遅いこの時間ではもう閉まっているだろう。飯でも恵んでやるべきか、いやそこまでしてやる義理はあるのか。たかが猫、しかも野良猫だ。綺麗な毛並みをしている気もするが、そんな判断は動物を飼ったことのない義勇にはわからない。
 とりあえず移動してくれたのだからと義勇は鍵を開け、家の中へと足を踏み入れた。動くことなくこちらを眺めているだけの野良猫を通路へと残し、義勇は静かに扉を閉めた。

「……まだいたのか」
 怪我をしていたのが気になって玄関を開けると、先程の猫はまだ玄関前に鎮座していた。
 義勇の声に耳を反応させ、何かを訴えでもしているかのようにじっと目を向けてくる。腹が空いているのかと問いかけると短く鳴き声を漏らしたが、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「……入るか?」
 雨宿りをする前に濡れていたらしい毛並みはまだ乾いておらず寒そうにも見える。扉をもう少しだけ開けると、待っていたとでもいうようにするりと足元を伝って入り込んできた。
 人慣れでもしているのか、猫とはこういうものなのか。靴の隣で猫は姿勢良く座り、礼儀でも弁えているかのような態度を取る。どこかの飼い猫なのだとしたら、飼い主を探してやらねばならないのかもしれない。
 恐る恐る猫へ手を伸ばしたものの、触れて良いのか怒らないか、引っ掻かれたりしないだろうかと不安になった。頭のすぐ上で一先ず止まり、義勇はじっと猫を観察した。玄関先にいた時と同じ顔をして、礼儀正しく座っている。更に近づけたら逃げるだろうか。逃げられたら義勇では恐らく捕まえることは不可能なのだが、外にいた猫に室内を走り回られるのは困る。どうしようかと固まっていると、猫は自ら頭を義勇の手に擦り寄せた。思わず驚いて目を丸くすると、紫の目が呆れたように顰められたように見えた。
 猫に呆れられた。いや、義勇の目にそう見えただけだが、どうにも目の前の猫は義勇が怖がっているのを気づいているような素振りをする。
 とはいえ擦り寄ってきた毛玉にようやく息を吐いた義勇は、できるだけ優しく頭や背中を撫でてやった。
 触れてみると犬とは違って大人しい。気持ち良いのかまではわからないが、嫌がって逃げる素振りもない。これまた恐る恐る両手を伸ばして持ち上げると、されるがまま猫は義勇の目の前へとやってきた。
 片手でも持てそうな小さい猫だ。持ち上げてからどうしようと義勇は悩み、誰かが動物を抱き上げていた様子を思い出しながら、肩に前足を置けるよう見様見真似で片手で抱え直した。助けを求めるためにスマートフォンを操作し、友人の番号を呼び出す。三コール目で途切れ端末の向こうから声が聞こえる。
「猫を抱えてる。助けてくれ」
『何だ急に。良く触れたな』
 動物が苦手なことを知っている友人は、想像でもしたのか楽しげに笑い声を漏らしていた。笑っていないで早く助けてほしいと言っても、義勇の家まで今から行くのは面倒だという。酷い話だ。今はまだ大人しいが、このまま抱えていたらいつか暴れて室内を走り回ってしまいそうなのに。
「雨に濡れて怪我もしてる。どうしたら良い」
『子猫か? 汚れてるだろうし風呂に入れないと。お前のスマホ防水だっけ? 教えてやるから電話したまま風呂に入れてやれ』
「わかった。いや、でも暴れたらどうする」
『ドア閉めてればどうにかなるよ。どうしようもなくなったら行ってやるから』
 友人の言葉を信じて義勇は風呂場へと直行し、着の身着のままで浴室へと入った。大人しかった猫は場所が変わったことに気づいたのか急に落ち着きがなくなり、義勇は慌てて押さえ込みながらスマートフォンを浴槽の縁に置いた。
「まずい、暴れ出した。助けてくれ。潰しそうだ」
『落ち着かせろ。できるだけ優しくしてやれよ、小動物なんだから』
 どうやって。暴れる猫の爪が手の甲や腕を引っ掻き、義勇は少々眉を顰めた。先程まで礼儀正しかったというのに、猫とはこんなに暴力的なのか。やはり動物とは仲良くなれそうもない。犬よりはましだけれど。
 シャワーの音が怖いという友人の指摘に従い、すでに沸かしていた浴槽から湯を掬い、タイルの上に洗面器を置いた。姉がいたら入浴剤が入っていただろうが、猫には良くないかもしれないので入れる前で助かった。ぬるま湯が良いというのでとりあえず蛇口から水を継ぎ足し、鳴き喚く猫をできるだけ落ち着かせようと背中を擦りながら、掴んだ手ごと洗面器に浸からせようとした。
「っ、」
 悲鳴のようにも聞こえる鳴き声を上げた猫に思いきり腕を引っ掻かれ、思わず義勇は力を緩めた。即座に逃げ出した猫は浴槽の縁へ上がり鳴き声とは違う声を義勇へと向けて発した。
「まずい、逃げられた。錆兎」
『あー、猫って風呂嫌いだったりするしな。行ってやろうか?』
「頼む。これ以上は無理だ」
 大人しい時なら何とか抱えられたものの、これだけ警戒されては近づくのも容易ではない。じりじりと浴槽の縁を右往左往する猫が落ちてしまわないかはらはらしていたのだが、その不安は的中してしまった。
 湯に濡れた縁へ足を乗せ、つるりと猫は浴槽へと落ちた。ぼちゃんと小さな水飛沫を上げて視界から猫が消えた時、義勇は小さく声を漏らした。
 慌てて浴槽の中を覗こうと顔を向けると、義勇の視界には有り得ない光景が映り瞬きも忘れて固まった。
「………っ、見ないでください!」
 浴槽から顔を出した一糸纏わぬ姿の女が、義勇の頬を思いきり平手打ちした。

『義勇? 何か女の声聞こえたけど、蔦子さんいたのか?』
 頼めば良かったのに。暢気な声がスマートフォンから聞こえてくる。いたらこんなに頑張って猫を風呂に入れようなどしない。
 浴室から追い出された義勇は痛む頬を押さえながら、同様に投げ置かれたスマートフォンから聞こえてくる友人の声を茫然と聞いていた。
「……いや、うん。そうだな……すまん、切る」
 雑な挨拶をして通話を切り、湯に濡れた服を脱いで洗濯機に投げ込みながら、義勇は湧いてくる疑問符をどう片付けるか考えた。
 さっきの猫はどこに行ったのか。今まで夢でも見ていたのかと思ったが、腕を見れば現実であることは良く理解できた。引っ掻かれて蚯蚓腫れや血が滲み、何なら流血といえるほど深く傷がついているところもある。脱衣所にある洗面台で血を洗い流しながらぼんやりと義勇は思い返した。
 突然現れた女に殴られるのはあまり納得がいかないが、思いきり見てしまった義勇としても申し訳ない気持ちはある。忘れようにも衝撃が強すぎて忘れられないというのが本音だ。
 素っ裸の女が現れて見るなというのは無理がある。いや、義勇とて見たくて見たわけではないが、思い出すとのぼせたような感覚が頭を支配した。気を抜くと鼻血でも出そうだった。
 さすがに思い出すのは女側からしても嫌だろうが、瞼に焼き付いたものはそうそう離れはしなかった。何か別のことを考えておかないといつまでも脳裏に過ぎってしまう。
「……あの、すみません。着替えを借りたいんですけど」
 浴室のドア越しに話しかけてきた女の声に義勇は思いきり肩を震わせたが、先程よりも勢いの萎んだ声音に少し冷静になった。
 突然現れたのは全裸の女である。何も持っていそうにない様子は理解して、義勇は部屋に戻って適当に服を見繕ってから脱衣所へと戻った。ついでにバスタオルも洗濯機の上に出したことを伝えると、小さな声が礼を告げた。
 この声、聞いたことがある。良く思い出せば顔も見たことがあった。というか、がっつり知り合いであることを思い出した。
 何故うちに来た猫がクラスメートの妹に変わったのか。さっぱりわからないまま義勇は脱衣所を出た。

「……叩いてすみませんでした」
 風呂から上がった女は湯あたりでもしたように頬を染め、目を逸らしながら義勇へ謝った。
 向こうとしてもパニックを起こしていたのかもしれないし、謝ってくれたのでそれは良い。痛みと引き換えに滅多と見ないものを拝んでしまった身としては謝るべきか礼を言うべきか悩んでしまったが、とりあえず義勇も謝っておいた。
「……人間じゃなかったのか」
「人間です」
 正体が猫というわけではなく、れっきとした人間なのだそうだ。ならば何故猫が消えて目の前の人物が現れたのか。言い淀んでいたが言う気になったのか、小さく口を開いて話を聞かせてくれた。
 どこぞの曰くつきの泉に落ちて、水を被ると猫に変わるようになってしまった。
 湯を被れば元に戻るが、戻り方がまたとんでもない。猫の姿は服など着られないのだから、風呂になど突っ込まれれば先程のように素っ裸で元に戻るそうだ。思い出さないようにしているのに、悶えるように両手で真っ赤な頬を隠してお嫁にいけないと呟く様子に、義勇は眉根を寄せて頭を押さえた。
「何でうちに来たんだ」
「……気づいたら冨岡さん家だったんです」
 何やら自宅から慌てて逃げてきたらしく、傘を取り落として猫になったまま走ってきたらしい。荷物とか色々と大丈夫かと思うが、それよりも今はまだ悶絶しているので頭にないようだ。
「猫の姿だと触ろうとする人が多かったので、一定の距離を保とうとしてた冨岡さんなら大丈夫かと」
 玄関前で立ち往生していたことを言っているのだろう。退いてほしいと呟いたのを聞いて、無理に触ったりしないだろうと踏んだらしい。家に入ったのは肌寒かったのと、少しくらいなら触られても我慢しようとしたからだという。
「なのに手だけ伸ばして固まってるし、見兼ねてしまいました」
 少しなら触っても大丈夫だと言うつもりで頭を擦り寄せたのだそうだ。呆れたような目は本当に呆れられていたらしい。
「いや、動物は……」
「苦手なんですか?」
 顔を逸らして頷くと、ふうんと相槌を打ったあと少し笑みを見せた。苦手なのに洗おうとしたのかと問いかけられ、ふと怪我をしていたことを思い出して救急箱を取り出した。
「濡れてたし、怪我をしてた」
 瞬いた目が義勇と手にある救急箱へと向けられ、椅子に座るよう促すと素直に腰を下ろした。足首に傷跡があり、怪我は元には戻らないのかとぼんやり考えた。
 走っていた時にどこかで引っかけでもしたのだろうと口にして、大人しく手当を受けている。包帯を巻き終えて顔を上げると、頬を染めて少々困ったような顔が義勇を眺めていた。
「……あの、その腕の」
「……ああ」
 風呂場で思いきり引っ掻かれた時の傷を見つけたらしく、申し訳なさそうにすみませんと謝った。湯から逃げようとしてついたものなので特に義勇は怒ってはいないが、何やら責任を感じているらしい。
「すぐ治る。それより」
 姉への連絡をするよう伝えると思い出したように声を漏らし、連絡手段を所持していないことに気づいたらしい。スマートフォンを操作してクラスメートの名前を呼び出してから手渡すと、また一言謝って通話ボタンをタップした。
「……あ、姉さん。私、しのぶ。そう、走ってたら冨岡さん家まで来てて……まだいるの?」
 もじもじと指を動かしながらスマートフォンで会話を始め、義勇は救急箱を戻して溜息を吐いた。
「そ、そうよね。びっくりしたけど知り合いだし、大丈夫よ、……たぶん。え、ええ、今から帰るから。服は借りたの! 大丈夫よ」
 当たり前だが姉も妹の体質は知っているらしい。通話を終えた妹は礼を告げてスマートフォンを義勇へ差し出し、帰ると一言口にした。
「何がいるんだ?」
「ああ、ええと……いえ、何でもないんです。別に大丈夫ですし」
 下手な誤魔化しで笑みを作るのを眺めながら、言いたくないことを無理に言わせるのも悪いと感じて義勇はそうかと呟いた。窓を開けるとまだ雨は降っており、暗い中一人で帰すのも良心が咎めた。
 玄関で見送るとでも思っていたらしいクラスメートの妹は、サンダルを渡して靴を履いた義勇を不思議そうに見上げていた。
「早くしろ」
「え、でも。借りたものは今度返しに来ますよ」
「今何時だと思ってるんだ」
 深夜というほど遅くはないが、店も閉まっている時間帯だ。街灯があろうと暗いことに変わりはなく、まだ年若い子供といっても差し支えない少女を一人帰すのは、恐らく蔦子がいたら駄目だと言うだろうとも思う。
「雨に当たって全部落とされても困る」
「……それはすみません」
 不満げに義勇を睨んだあと、少女は少し困ったように表情を翳らせ礼を呟いた。

*

「冨岡くん、今日お昼何食べるの? 良かったら一緒に食べない?」
 クラスメートの家へと妹を送り届けた日、義勇は玄関で傘を受け取りサンダルを回収してそのまま踵を返して家へと帰った。軒先まで来たことを見届けたのだから、さすがにもう大丈夫だろうと判断してのことだ。夜も遅いし色々あり過ぎて頭もパンクしそうだった。友人には一言猫を帰したことを伝えると、見に行こうと思ったのに、と少し残念そうなメッセージが届いていた。
 その翌週、教室へと足を踏み入れぼんやり窓の外を眺めていると、クラスメートである胡蝶カナエは義勇へ声をかけてきた。
「しのぶがね、お礼にお弁当作ってきたのよ。美味しいから是非食べてほしいの」
 胡蝶しのぶの手作り弁当、とざわつく声とともに視線が義勇へ集まるのを感じた。
 姉がいる時は弁当を作ってもらうこともあるが、仕事の関係であまり家にいない蔦子は最近も顔を見ていない。ふたり暮らしなのに一人でいることが多く、学校にいる間の昼食は食堂で食べることが多かった。今日も食堂へ向かう予定だった義勇は少々考え、礼をもらう謂れはないと一言呟いた。
「でも今日は食堂なんでしょ? だったら良いじゃない、私も冨岡くんと話したいし」
 敵意のようなものを感じてしまい義勇は居心地が悪くなったが、話したいと言われては義勇も断る気にはなれなかった。話しかけるのが苦手な義勇は友人も少なく、こうして声をかけてきてくれるのは素直に嬉しい。了承すると嬉しそうに笑った胡蝶は席へと戻り、周囲の視線は相変わらず義勇へと向けられていた。
 胡蝶姉妹というのは学校内でも有名で、見た目や人当たりの良さから好意を抱く男子が後を絶たないそうだ。姉は確かに優しいが、謝られたとはいえ殴られた義勇は妹がすぐ手が出るらしいことを知っていた。まあ、怒る理由は理解できるのだが。

「あ、いたいた、しのぶ!」
 胡蝶とともに一年のクラスを覗くとざわついた教室内が更にざわつき、妹が振り向いて姉と義勇を目にした時、少々頬を染めて鞄を手に寄ってきた。学年が違おうと胡蝶の人気は凄まじいようだ。ぼんやり考えていたら急かされ、義勇は二人の後ろを黙ってついていく。
 食堂よりは人の少ない中庭へと向かい、適当な場所に腰掛けてむすりとした妹から弁当を手渡された。胡蝶が早く開けろと急かし、言われるがまま蓋を開けて中身を見た。彩りの良いおかずがバランス良く配置されている。姉の弁当も綺麗なものだが、胡蝶の妹が作ったという弁当は妙に可愛く仕上がっていた。
 義勇に渡すには少々可愛すぎる気もするが、早く食べろと胡蝶がまた急かし、妹は頬を染めて黙ったまま眺めてくる。そんなに見られては食べ辛いのだが、とりあえず義勇は目についた玉子焼きを口に運んだ。
「……美味い」
「わあっ、良かったわねしのぶ! 頑張った甲斐があったわ!」
「余計なこと言わないで!」
 胡蝶の口を塞ぎながら妹は義勇へと視線を向け、本当かと問いかけてきた。頷くと少しばかり安堵したように息を吐き、小さく笑みを浮かべた。
「良いお嫁さんになると思わない?」
「姉さん!」
「……まあ、なるんじゃないか」
 これだけ作れるのだから料理の腕は充分あるのだろうし、義勇に対して辛辣な物言いをする時もあるが、それも見咎めた故の言葉でしっかり者だからと考えれば、蔦子のように家計も問題なく預かってもらえるのではないだろうか。
 しかし、もう嫁に行く予定があるのか。行けないだとか呟いていたのを思い出し、義勇は咀嚼していた食べ物を飲み込んで考えたことをそのまま口にした。
「嫁に行く予定があるのか」
「この間立ったわ。責任取ってもらわないと。ねえ冨岡くん」
 箸を動かす右手が止まり、義勇は首を傾げて胡蝶を見た。責任を取らせる相手がいるらしいが、それを義勇も知っている人物なのだろうか。不思議そうにしたのがわかったのか胡蝶は含み笑いをして、妹を肘でつついていた。当の妹は頬を染めたまま、唇を尖らせて自分の弁当を見つめている。
「冨岡くんも誕生日二月だったわよね。しのぶが十六になったら結婚できるからよろしくね」
 箸を取り落としてしまったが、幸い弁当の上だったおかげで何とか無事で済んでいた。いやそれよりも、胡蝶の言葉に義勇の頭がうまく作動しなかったようだ。何故誕生日の話を振られ、妹が十六になったらよろしくと言われなければならないのか。責任を取らせる相手はどうしたというのだろう。
「………。何故、俺に」
「何故って……、ぜ、全部見ておいて責任逃れですか?」
 全部。見ておいて。
 そうだった。無理やり頭から追い出してもことあるごとに脳裏に浮かんだあの光景。あれの責任を取れということか。ようやく思い至った義勇は納得しかけたものの、だからといっておいそれと頷くことはできなかった。
 裸を見たから責任を取る。言い分はわかるが、義勇が相手で良いものか。良くないだろう。
「それに、冨岡さんを傷物にしてしまいました……」
 飲み込んだ茶が器官に入り、噎せた義勇は咳をしながら必死に呼吸を整えた。背中を擦ってくれるのは助かるが、自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。困ったような顔をして、終始頬を染めている胡蝶の妹は確かに義勇にも可愛いとは思う。思うけれど。
「全部、不可抗力だろう。大体傷物というのも」
 言い方がおかしい。義勇は口下手だの言葉足らずだのと指摘されては怒られてきたが、それでも妹の言うことはおかしいと感じられた。義勇よりおかしいと思う。責任を取らせたいのか感じているのか知らないが、もう少し考えてからにしたほうが良いと思うのだが。
「物凄く引っ掻いたって言ってたわよ。ちょっと見せて」
「見せない。やめろ」
 落としそうになった弁当に気を取られた隙に二人がかりで腕を捲られ、引き始めた蚯蚓腫れの後と複数の爪痕に、胡蝶は非常に眉を顰めて頬に手を当てた。妹は妹で後悔しているらしく、眉をハの字にして元気がなくなった。
 生傷など良くあることだし、その辺りを深く考えることはしなくて良い。どう考えても義勇が慣れない猫に触ったのが悪いのだ。しかも中身は胡蝶の妹、人間に戻ってしまうのだから湯から逃げるのも仕方ないことだったのだろうし。
「しのぶのこと嫌い?」
「そういう問題じゃない」
 嫁がどうとか責任がどうとか、確実にこの先の将来を決定するようなことを話している二人に、義勇は頭を抱えて溜息を吐いた。何度も話したことがあるとはいえ、たかだか姉のクラスメートにそれを言うのはおかしいはずだ。いや、責任逃れをしようとしているわけではないし、妹のことが嫌いというわけでもない。
 好きか嫌いかでいえば胡蝶の妹のことは好ましく思っている。顔を見れば挨拶をしてくれるし、話しかけてくれることもある。不可抗力で手が出たとはいえ人当たりが良いのは間違いない。こうして話してくれる者を嫌いになどなるはずもなく、責任を取ることで喜ぶというのならまあ、いやそれもおかしいが。
「お前が怪我の責任を感じてるのはわかったが、それはこの弁当で手打ちになった」
「全部見た責任はどう償うつもりですか?」
 また手が止まった義勇はしばし黙り込んだ。できれば風呂を貸したことで手打ちにしてほしいところだが、割に合わないというのはあるだろう。しかし、それでもだ。
「……お前はそれで良いのか」
 義勇が頷いて結婚などということになって。年頃の女子なのだから好きな相手の一人や二人いるだろうに、裸を見られたからといって恋愛感情のない相手とそんな関係になれるものか。なれるのだろうか、今時の女子は。
「それ聞いちゃうの?」
「好きか嫌いかで責任の取り方も変わるんじゃないか」
 顔も見たくない相手ならば結婚などしても苦痛でしかないだろう。話しかけてくれるので嫌われてはいないと思うが、適当に決め打ちするのもおかしな話だ。姉は恋愛結婚がしたいと昔話していたし、女子とはそういうものなのだと思っていたし。
「良く考えて冨岡くん。しのぶはモテるのよ。色んな男の子から告白受けたけど、どれだけ人気があっても頷かなかったの。手を上げたことだって何回かあったわよ。でね、そういう時もしのぶは責任なんて取ろうとしなかったのよ」
「ちょ、姉さん」
「ちょっと黙ってて。取りたいと思わなかったからよ。この意味、良く考えてほしいの」
 疑問符とともに義勇の眉間に皺が寄り、胡蝶の言葉を反芻してみたがいまいち掴みきれなかった。
 他の男子には責任を取ろうとしなかった妹が、義勇の怪我には責任を感じてどうにか償おうとした。姉のクラスメートでもあるからか、義勇本人に好意を抱いているか。嫌われていれば話しかけてくれはしないだろうから、好感は抱かれているのだろう。それは有難いが。
「でね、全部見られたのが冨岡くんで良かったって言うのよ! この意味ちゃんとわかるわよね」
「そこまで言ってないでしょ!」
 真っ赤になった妹が胡蝶を押し退け、勢い良く顔を上げて義勇を睨みつけた。若干涙目にも見えるが、興奮と恐らく恥ずかしいのだろうことは理解できた。
「冨岡さんだけで良かったって言ったんです! 他に人がいたらもう生きていけない……」
「……いや、うん」
 それはそうだ。義勇だってそんな体質になって誰かの目の前に全裸で現れるようなことになったら、恐らくもう外を歩けない気分になるだろう。それが複数人いる前だったとしたら、いつまでも泣き暮らして姉に心配をかけてしまいそうだ。
 確かに、自分に置き換えて考えてみれば妹の気持ちは理解できた。見られたのが一人で良かったし口数も友人も少ない義勇で良かったとなるのはわからないでもない気がする。状況を交換してみても、恐らく妹も嫌がらせをするようなことは、本気で頼み込めば言わないでいてくれるだろうし。
「……成程、わかった」
 目を輝かせた胡蝶と驚いたように真っ赤な顔を向ける妹に目を向けて、義勇は口を開いた。
「誰にも言わないと約束する」
「そういうことじゃないんだけどなあ」
 黙り込んでいた間の思考を説明するように言われても、上手く言葉にできず義勇はまた黙り込んだ。不機嫌そうに睨む妹に少し姿勢を正したが、困ったように胡蝶は笑みを浮かべて妹の肩を叩いた。
「それとなくしても駄目みたいね。もう一度聞くけど冨岡くん、しのぶのこと嫌い?」
 首を横に振ると胡蝶は笑みを深め、妹は安堵したような顔を向けた。口で教えてほしいけど、と一言呟きながら、胡蝶は妹へ目を向けたあと義勇へと視線を戻した。
「嫌いじゃないなら、せめてそう、しのぶの体質の理解者として仲良くしてほしいのよ。それなら良いでしょ?」
「……まあ、それくらいなら」
「そう、助かるわ! そっちがその気ならこっちにも考えがあるし」
 考えとは何だ。何やら不穏なことを口にした胡蝶へ目を向けて表情を歪めると、含み笑いをして頑張れと妹の背中を叩いた。何ともいえない顔をした妹の頬はまだ赤かったが、困惑したような目で見上げてくるので義勇は少しばかり居心地が悪くなった。