隣の席の他課の人・おまけ
「いやさ、何なのそれ? 見えてないよな?」
「反省しろという意味だ」
冨岡が業務課の島から戻ってきて随分経った頃。
朝出勤すると課内の同僚の眼鏡に何やら目隠しのように紙が貼られてひらひらしていた。手元は見えてもパソコンの画面は見えないらしいが、だったら剥がせば良いのにと村田も尾崎も呆れるばかりだった。
「昨日実家に一つ忘れて、今日は落として割れたからこれしか使えるものがなかった」
「うわっ」
「アーッ!」
ひらついていた紙を退かすように捲りあげると、村田にとっても初めて見る眼鏡を掛けてきていたらしい。
それは街中で出会えば間違いなく目を見張るような、とにかく見慣れた瓶底眼鏡が死ぬほどダサいと再認識できるほど、元々の顔の良さを更に引き立てたような姿が紙の下に隠れていた。尾崎が悲鳴を上げて顔を覆った。
「始業したら外して良いと。向かいは村田だから」
「あ、こ、胡蝶さんか……大変だな……」
「わあっ、こっち見ないでください!」
瓶底ではなく薄いレンズの奥からは、驚くほど涼しげな目元がショックを受けているのがよく見えた。
胡蝶の仕業らしい貼り付けた紙は顔が見えないように隠すためのもの。自分を棚上げしているが可愛い独占欲だと思いはしても、彼女も大変だなと少し気の毒にも思う。すでに結婚したのだからもう周りから何かを言われるようなことはないと思いたいが、瓶底ではない冨岡などただのイケメンであり、ちょっかいをかけようとする誰かがいないとも限らないのだろう。嫁としては隠したくなるのかもしれない。そのくらい想われてみたいものである。
「ていうか、その壊したダサ眼鏡必要か? スペアもあるんだろ」
「……ずっと使ってるから愛着が……」
まあ確かに、どんな気に入らないものでも長く使い続ければ愛着は確かに湧くだろう。子供だった冨岡が自分で買うと意地を張って小遣いを貯めて買ってきたらしいものは、詳しく聞けば売れ残りのものを安くで譲ってもらったという話だった。あの眼鏡は当時からダサい判定にあったのだろう。冨岡はもはや見えれば何でも良かったようだが。
「会社には絶対あれにしろと言ってくる」
「え、胡蝶さんですか? 女神様もそんなヤキモチ焼くんですねえ……」
「俺はその条件を変更したい」
会社用の眼鏡をあのダサい瓶底眼鏡以外のものにしたいという。珍しく意見を主張しているが、聞いたところによると今冨岡が持っている眼鏡は全部で三つ。一つは今掛けている素晴らしく似合っている眼鏡、もう一つは姉の家に忘れてきたという新しい瓶底眼鏡(何故また瓶底なのか)、そしていつものダサい瓶底眼鏡だ。
「へえ、どれが良いんだよ。コンタクトは?」
「瓶底以外。軽い……」
「あー……あれやっぱ重いんだ……あ、冨岡さん、コーヒーいるなら淹れてきますよ。ほら、うろつくと胡蝶さんがヤキモチ焼くんですよね」
普段始業前にコーヒーを淹れる冨岡を知っている尾崎は、雑談ついでに声をかけた。いつも村田にも淹れてくれる優しい女性だが、如何せんイケメンに耐性がないと言って冨岡の隣を嫌がっている。ショックを受けた顔をしていたので、嫌がる理由を冨岡は誤解しているようだが。
小さなトレーを持って立ち上がり、給湯機の前まで歩いていく尾崎の後ろ姿をこっそり見送っていた冨岡は、ぼんやりとした口調で小さく呟いた。
「あいつに言われても納得いかない」
「まあそうだよな。胡蝶さん人妻でも人気あるし、気が気でないのはお前こそだよなあ」
冨岡の浮いた話は胡蝶が初めてだが、それは胡蝶にも当てはまる。社内で誰にも靡かなかった女神がこれほど可愛い独占欲や嫉妬を抱くなど思いもしなかった。
ダサい眼鏡のせいかおかげか、冨岡自身の容姿に対する自覚が全くないのが心配の種なのだろうとは何となく感じているが。
尾崎が席へと戻りコーヒーを有難く受け取っていると始業のチャイムが部署内に鳴り響く。不満げにも面倒にもしながらぼやいていた冨岡は、さっさと紙を引き剥がして無言で仕事に専念し始めた。
向かいで見ながら仕事をするには眩し過ぎる顔があるが、とりあえず村田も溜息を吐いて仕事を始めることにした。