隣の席の他課の人・三

 朝のフロアがざわついた。
 一度しんと静まり返った後、それはもう騒然とした。しのぶもまた唖然として席に座る様子を眺めた。気にした様子がないように見える冨岡は、静かにパソコンの電源を入れて始業の準備を始めている。
「………、あの、冨岡さん。……眼鏡は?」
「踏んで壊した。今日直してくる」
「………。……そうですか……」
 ドジを発揮して眼鏡を壊したらしい。ベッドサイドに置いていたはずの眼鏡は何かの拍子に床に落ちていて、それを気づかないまま起きた時に踏んだという。ばきばきに割れたレンズを見て途方に暮れた後、そういえばコンタクトレンズを購入していたと思い出して装着してきたようだ。
 会社にしてくるのはやめたほうがいいと言ったのに。いやまあ不可抗力ではあるだろうし、冨岡の視力では裸眼だとほぼ仕事はできないだろうから一番良い解決法なのだろうが、女性社員たちは頬を赤くして冨岡を見ているし、男性社員たちもまた驚いて凝視していた。あの二人の社員は少々苦々しい顔をしていたが。
 ばれてしまったではないか。あの二人しか知らなかったはずの素顔を思いきり部署内に晒した。仕方ないとはいえ、しのぶはぐっと歯を噛み締めた。
「冨岡さん、お昼食べに行きましょうよ!」
「買ってきたからいい」
「ほら、こう言ってんだから行こうぜ」
 午前中、仕事をしつつ意識は皆冨岡に向かっていた。それなりの関係を築いていたらしい技術課の面々など島に呼び戻してまで話を聞いていたし、尾崎の顔は真っ赤だった。イケメンに慣れていないとその後トイレでぼやいていた。課内で何を話していたのかまでは知らないが、とにかく今日の話題は見事に冨岡が掻っ攫っていた。
 頭を抱えたくなったしのぶはそれでも我慢してデスクで弁当を食べ始めたが、ちらりと隣を見ると相変わらず曲線が綺麗に描かれた横顔がある。少々疲れたような遠い目をしている気もするが、普段と変わりなく澄ました態度をしていた。
 ひっそりひっそりと近づこうとしていたというのに、周りの邪魔が更に入ってきそうで気分は最悪である。何でこんなに顔が良いのかと理不尽にも怒りを心中で冨岡へ向けた。
 仕事がひと段落した者は雑談ついでに冨岡へ声をかけては去っていく。部長などはあの瓶底眼鏡はやめたほうがいいなどとアドバイスをして、営業に異動するかとまで口にしていた。冨岡は普通に断っていたが。
 女性陣は非常に色めき立っていたし、営業課の男性社員はやはり冨岡を睨むように眺めていた。女性陣の視線が冨岡に向かったのが面白くないだろうことは容易に察せられたが、しのぶとしても面白くないのだ。
 むすりとしたまま隣であしらっている冨岡の様子を横目に、しのぶはきゃいきゃいと騒ぐ女性陣に舌打ちでもかましたい気分になっていた。女共がうるさいったらない。結局彼女らを捌くのにまあまあの時間を要し、ようやく食事に連れて行くのを諦めて皆帰っていった。
「帰らないのか」
「もう少しやって帰ります」
 明日の朝にまわせるような仕事を机に置きながら、しのぶは目も向けずに返事をした。少しばかり困ったような空気が冨岡から感じられ、席を立とうとしていた冨岡は座り直した。
「……不機嫌だな」
「ええまあ」
「……何かしただろうか」
 冨岡から話しかけてくるのは珍しいが、しのぶの態度が目に余ったのだろう。別に冨岡が悪いわけではないと思うが、どうにも気持ちを落ち着かせるのが難しかった。
「いいえ。眼鏡がないだけで百八十度態度が変わるのが気持ち悪くて。掛けてても変わりません」
「何が?」
「だから、眼鏡掛けてようとなかろうと同じ人なのは変わりないですよ。大体冨岡さんの顔くらい、隣で見てたらわかるんだから必要以上に騒がなくたって、」
 苛ついたままの状態で、しのぶは口から飛び出すまま言葉を紡いだ。眉根が寄ると皺になってしまうというのに、全然離れようとしない。
「……見てた?」
「………っ、」
 ど、と心臓から大きな衝撃が起こり、しのぶはようやく何を口にしたのか自覚した。じわりと頬に熱が集まるのを感じ、隣から感じる視線に顔を向けられなくなった。
 どうしよう。ええ見てました、なんて軽い感じで適当に躱しておけば良かったのにこんなに狼狽えてしまって、何と返せば誤魔化せるだろうか。冨岡が眼鏡を置いてきた今日に限って落ち着けない。いや、誤魔化さなくてもいいのかもしれないけれど。
 誤魔化さなくていいだろうか。そうすれば冨岡はしのぶを意識してくれるだろうか。
 ぼんやりと思い至った思考は、しのぶの口から戸惑いながらも言葉を溢した。
「い、いえ、その、………、……み、見てました」
「そうか」
 そうかって何。顔を向けるには非常に勇気がいったが、しのぶが眉根を寄せたまま赤くなった顔を向けようとした時、冨岡の声が耳に届いた。
「俺も見てた」
「え、」
「胡蝶の横顔。というより、たぶん、行動とか」
 行動を見られていたのは非常に恥ずかしいが、恐らくしのぶも似たようなものだ。隣で起こす冨岡の言動、気配、全部に注意を向けていた。
「胡蝶は……皆に優しいから、俺に興味など持たないだろうと、」
「そんなことないです」
 愚痴ばかり溢していたこともあったはずだが、冨岡の中でしのぶは優しいらしい。男性社員を冷たくあしらっていたのも見ていたはずなのに。
「物凄く興味があります」
 目を丸くした冨岡が瞬いた後、何が面白かったのかふいに笑みを見せた。今まで一度も見なかった笑みはどこか以前見せてもらった冨岡の姉の笑顔を彷彿とさせた。
「もっと知りたいです、同僚以上に。その、……こ、恋人に対する態度とか」
「……俺も知りたい」
 赤みは未だに収まっていないのはわかっているが、しのぶは応えるように笑みを向けた。

「今日眼鏡直しに行くならスペアも買いましょう」
「スペア……」
 何だか良い雰囲気というものになった気がしたが、とりあえずしのぶは伝えておかねばならないことを口にした。
 ドジをして壊すのなら予備がなければ危険だろうに、何故今まで買わなかったのか疑問である。
「これから買いに行くんですよね。……一緒に行ってもいいですか?」
「ああ。……いや」
「あ、駄目なら別に無理には」
「……知り合いの店だ。胡蝶が気にしないなら」
 昔馴染みの店らしく、数年前に店主が代わり冨岡の友人が営んでいるらしい。何か言われるかもしれないと少々不安げにも見える表情を見せた。
 そのくらいなら構わないのでしのぶは頷いた。何よりスペアはしのぶも口を出してしまいたいのだ。
「瓶底買いましょうね」
「あれは中学の時に小遣いで買ったからで、もっと薄いやつがあるのも知ってる」
「へえ、お小遣いで……いや、瓶底はそのままで。じゃないと今日みたいに皆浮き足立っちゃいますから」
「……そうか? 睨まれてたが」
 女性陣の熱い視線は感じなかったのかと問い質したい気分だが、気づいていないなら今はそれでもいい。男性社員が睨んでいたのも冨岡の顔面が良かったせいなのに、そこには思い至らないらしい。何故だろうか。
「そうですよ。素顔を見るのは、……私だけが良いです」
「……そんなことを言うのは胡蝶しかいない」
「そうでもないですよ……」
 この自覚のなさは瓶底のせいか、それとも他に要因があるのか。今のところはわからないが、薄いレンズには少し憧れもあるらしい。そう言われるとしのぶも悩んでしまう。できれば瓶底のままでいてほしいのだが。
 とはいえそれは店についてから考えることにして、しのぶはもう一つの頼みを口にした。
「あと、ランニングもまた一緒に」
「ああ」
「今度はちゃんと合流後のルートも考えておきます」
「………」
「何です? 変な顔して」
 何かに気づいたような素振りでしばし天井を仰ぎ、今度は視線を彷徨わせて口元を手で覆い隠した。何を考えたのか問いかけると、逡巡した後に小さな声が紡がれた。
「……会うことばかり考えてたというのは」
「………っ、いやっ、ちょ、そ、そんなこと思い出さないでください!」
 しのぶが含みのある言い方をしてしまったと若干焦った時のことを思い出したらしい。要らぬことを思い出していないで、早く行こうと急かすと冨岡は素直に立ち上がったが、ほんの少しだけ照れているように見えた。

「あ、冨岡さん、待ってたよ! ……は、」
「うず」
「天元さまー! 冨岡さんが彼女連れてきた!」
 閉店の札が掛けられていた扉を躊躇なく開け、連絡していたらしく出迎えた女性は冨岡を迎え入れようとして即座に奥へ走っていった。ちらりと冨岡を見上げると、表情は完全に死んでいるような気がする。
「何ぃ!? どこの馬の骨だ! 詐欺師の金目当てか!?」
 どこの頑固親父で失礼極まりないセリフだと言いたくなるような言葉が聞こえ、失礼な言葉に次いでばたばたと走る音が聞こえて、奥から顔を出したのは言葉では言い表せないほどに派手な男性だった。女性も派手だと感じたが更にきらびやかである。
 友人が営む店。この男性が友人なのだろうことは何となくわかり、この人のせいで冨岡の自覚がないのではないかとしのぶはふいに思い至った。
 出てきた男性はしのぶの顔を黙って見つめ、しのぶはしのぶでどうしていいのかわからず固まった。見れば見るほど派手で綺麗な顔立ちをしている。
「……美人局とかさあ」
「同僚だ」
 何とも失礼な言葉ではあるが、冨岡の端的な返答に男性はがっかりしたような溜息を吐いた。
「んだよ、彼女じゃねえのかよ。せっかく春が来たと喜んでやったのに」
「天元さま、思いきり親バカな親父目線でしたけどね」
「うるせえ。……え、何。本当は彼女なの?」
 黙ったまま目を逸らした冨岡は会社で見た時よりもはっきり頬を染めて照れていた。そんな顔を晒すとは思わず、しのぶもついつられるように頬を染めてしまったが。
「照れてんじゃねえよ!」
「冨岡さんが照れるとこ初めて見たよ。初々しいね、いつから付き合ってんの?」
「……今日」
「できたてほやほやじゃねえか。そんな日にこんなとこ来てんじゃねえよ。コンタクトあんなら眼鏡なんか今日買いに来なくてもいいだろ」
「スペアも買いに。選んでくれるらしいから」
「ふーん。今更スペアねえ、まあいいけど。どうぞどうぞ」
 会釈をしつつ店内を見渡すと、眼鏡店らしくずらりとフレームが並んでいる。手頃な値段からブランド物まで取り揃えられていた。
 店主は名前を宇髄、女性店員は宇髄の奥方であるまきをだと紹介され、冨岡に視力の確認をしつつ話を聞いている。まきをに促されしのぶはフレームを選ぶことにした。
「いい加減レンズ薄くするか? 安くしてやるけど」
「あ、瓶底でお願いします」
 宇髄の言葉についしのぶは割り込んで口を挟み、目を丸くした宇髄がまじかと口元を引き攣らせた。眼鏡フェチか何かかと問いかけられたが、しのぶにそんな趣味はない。
「良いのかそれで。もしかしてこいつの顔嫌い?」
「い、いえ、そうではなく」
「………! 駄目ですよ天元さま! 隠しておきたい可愛い乙女心です」
 いずればれていただろうとも思うが、いざ言葉で指摘されると恥ずかしさが半端なく襲ってくる。宇髄の引き攣っていた口元がにまりと口角を上げて楽しげに笑っていた。
「成程ねえ。ならくっそダサいフレーム選べよ」
「一度くらいは軽い眼鏡を使ってみたい」
 そう言われると何だか瓶底を勧めるのも可哀想な気がするのだ。確かにあんな分厚いレンズは重いだろうとも思う。しかし今日のように踏み潰された時のスペアが薄いものでは、また今日の二の舞で騒がしくなるのは目に見えている。何度も壊しているのだからきっとまたドジをやるはずだ。
「あー。どうする、スペア二つ作る? 彼女できた記念に一個プレゼントしてやろうか」
「そんな記念あるのか?」
「普通はやらねえよ、お前が初めてうちに人連れてきたわけだからな。一応心配してやってんの。うし、彼女二つフレーム選んでやってくれよ、片方薄いのにしてやっから。会社にはあのダッサイやつ使ってろよ」
「なら早く直してくれ」
「へいへい」
 会社での冨岡しか知らないしのぶには、今こうして誰かと親しげに話しているのが非常に珍しい。世間話や雑談をしないのは恐らく会社だからで、友人には気楽に普通に話をする。しのぶにもそうしてよく話してくれていた。
 知らない冨岡を知るのは楽しい。宇髄と話す冨岡は普段よりリラックスしていて楽しそうで、しのぶも自然と笑みを浮かべていた。
「これとかどうです?」
「良いですね。ちょっと掛けてみてください」
 まきをと良さそうなフレームを選び、しのぶは冨岡を呼び寄せて手渡した。言われるがまま眼鏡を掛けた冨岡がしのぶへ目を向けた時、またも心臓が大きな音を立てた。
「あ、良いじゃないか、似合うよ! どうですか、……大丈夫かい?」
「………。や、やっぱり両方瓶底にしませんか」
 あのいつもの眼鏡が驚くほどダサかったのはとりあえず理解したが、まさかフレームを変えたくらいでこれほど破壊力が篭って格好良くなるとは思わなかった。
「あんまり素顔見てないんですか?」
「普段眼鏡掛けてますから……」
 冨岡は相変わらずわかっていないらしく、首を傾げつつも何故か体調を気にかけてきた。呆れた目を向けたまきをはしのぶの肩を抱きながら、乙女心をわかってやれと冨岡を窘めた。
「冨岡さんに自覚がないのはあなたのせいですよね?」
 作業をしている宇髄のそばの椅子に促されて腰を下ろしたしのぶは、フレームを眺めている冨岡とまきをを眺めつつ口を開いた。顔を上げずに相槌のように唸った宇髄は言葉を続けた。
「まあそうかもな。あいつの、てかよくつるんでるのがもう一人いるんだが、これがまた派手でよお。あいつ阿呆みたいな瓶底だし、何でこいつとつるんでんの? みたいなことは言われてたな」
 周りからは昔から色々言われていたらしい。気にしている様子は会社では見なかったが、俺に興味などないだろう、などと自虐的なことを口にしていたし、昔はもしかして気にしたのかもしれない。まあ、気にしていたら眼鏡を変えようとするかもしれないが。
「視力悪いから鏡でも自分の顔の全体像とかちゃんと見えてねえだろうし、眼鏡掛けても瓶底だからな。自分の顔はよくわかんねえんだろ。コンタクトで見えたと思うが」
 他人の顔の良し悪しはわかると笑った宇髄は、宇髄を正しく色男だと認識しているし、もう一人の連れだという派手な男性のことも男前だと冨岡は言っていたという。まきをのことも美人だと言うし、姉は一等美人だと言うのだそうだ。
 ちゃんと口にしているらしい。何だか羨ましくなったが、ふいにコンタクトレンズを装着した直後の冨岡の言葉を思い出して唇を噛み締めた。
 綺麗だな。そう口にしたのは視界が鮮やかだったからのはずだ。いつかそれをしのぶにも言ってもらえたら嬉しいのだが。
「冨岡さんて、人のことはちゃんと褒めるんですね。宇髄さんやまきをさんの容姿とか」
 目当ての眼鏡は無事直り、瓶底と薄いレンズの眼鏡も二つ手に入れた。どこかで食べて帰ることにして連れ立って歩いていた時のことだ。
 羨ましくなったのは間違いない。まだしのぶにはそんな言葉を告げられていないし、思っているかも何だか不安だ。人の容姿の良し悪しはわかっていると宇髄は言ったが、冨岡の美的感覚など確認したこともない。写真を見せてもらった姉のことは美人だと言うのだし、しのぶとそう変わらない感覚の気はするが。
「思ったことは言えと言われた」
「へえ。宇髄さんたちには伝えるようにしてるんですね」
 そういえば仕事でも言わなければならないことははっきり言っていた。そのうちしのぶにも伝えてくれるようになれば良いけれど、そうなるとしのぶも伝えるようにすれば良いのだろうか。どこが好きとか、格好良いとか。口にするのは少し恥ずかしいが、まあ冨岡が喜ぶならそれも良いかもしれない。
「……胡蝶は」
 隣を歩く冨岡が視線だけをしのぶへ向けた後、また前を向いてから口を開いた。
「息が止まるかと思うくらい綺麗だと思った」
 本日三度目の大きな衝撃が心臓を襲い、しのぶは冨岡へ顔を向けたまま唖然とした。
 そんな殺傷力のある言葉を今投げつけられるとは思ってもいなかったせいで、しのぶの心の準備は何もできておらず、抵抗できないまま串刺しにされた気分だった。
「眼科で視界が鮮明になって、胡蝶を見て驚いた。本当に眼鏡とは全く違ったから」
 別にコンタクトレンズを入れていなくとも美人であることはわかっていたが、それでも印象も何もかも初めて見たかのような衝撃だった。言われ慣れているだろうし、美人で優しいから自分のことなど少しも気にしてはいないだろうと思っていた。自分で良いのかと思いもするが、同じ気持ちなのが嬉しい。しのぶが唖然としている間に告げられた言葉だ。
「………、……ちょ、ちょっと、待ってください……」
「何だ。まだ言うことが残ってる」
 会社で何一つ無駄話をしなかったくせに、しのぶに大しての言葉はまだまだ続くらしい。こんなに沢山話せる人だったのかと驚きつつ、しのぶの印象をつらつら語るのはやめてほしかった。いや、嬉しいことを言ってくれているのだが、今は嬉しさより羞恥が勝ってしまっているのだ。
「あの、一気はちょっと……少しずつ伝えてください……」
「ああ、わかった。今日は終わりにする」
 素直なのは良いのだが、素直過ぎても心臓に悪い。冨岡の懐に入り込んだらこれを耐えなければならないのかとしのぶは不安になってしまったが、これを言われるのはしのぶだからだと思えばやはり嬉しい。耐えきるには少々慣れが必要ではあるが。