隣の席の他課の人・二
あの二人は衝撃だったらしい冨岡の容姿の話を周りにはしなかったようだ。無駄に広められてはしのぶも困るのでそれは助かったのだが、元々邪魔なだけの敵対心が更に大きくなってしのぶに向けられてきた。
「胡蝶さんは冨岡さんと付き合ってないんだよね? じゃあ私が狙っても良いよね」
「どうぞご勝手に。会話してくれると良いですね」
冨岡が相手にするとは思えないし思いたくないが、売られた喧嘩には多少なりともジャブを打っておくことにした。苛ついた顔がしのぶを睨みつけてきたが、あくまでも笑みは絶やさないまま受けて立つことにしたのだ。
狙う狙わないの話はしのぶにどうこうできるものではない。確かにばれてほしくなかったのは間違いないが、それを大っぴらに本人に伝えられるほどの関係ではないのだ。そのくらいわかっている。
それはそれとして、宣戦布告のように告げてきたことはしのぶの機嫌を悪くさせた。こんなことに時間を使っているから成績が上がらないのよ、と悪態を心中で吐いておいた。
女性社員の売り言葉と同時期に、あの夜顔を出した男性社員は更にしのぶに近づいてくるようになった。男性社員がしのぶに話しかけている間、女性社員は冨岡に誰でもわかりそうなどうでもいいことを聞いては席から冨岡を連れていく。本人は割と親切で気が利くので、請われれば否とは言わないのだ。それも何だか不満だった。
どうやら二人で結託でもしているのだろう。面倒過ぎないか。周りは何故常日頃顔しか見ないと言っている女性社員が冨岡にばかり声をかけているのか不思議そうだったが、何てことをしてくれるのだろう。こんなあからさまでは冨岡の顔が整っているのが全員にばれるではないか。いちいち声をかけてくる男性社員も、あまりに酷くなれば上長に相談しなければならないだろうかと溜息を吐いた。
それもそれとして、しのぶはひっそり冨岡と出かける予定は立てていたわけだが。
「自分で何とかできそうですか?」
「………」
「無理につけなきゃいけないわけでもありませんし、そんな深刻そうな顔しなくても良いんじゃないですか?」
「いや、でも……確かに世界が変わった」
変わりはしたが見え過ぎて少々驚いているらしい。まあわかる。しのぶも最初は驚いてしばらく辺りを見回しては感動していたものだ。
しのぶが通っている眼科で検診を受け、コンタクトレンズの試着に向かわされた冨岡は、はっきりいえば非常に怖気づいていた。眼科助手の女性がにこやかにコンタクトレンズを近づけて、何やら覚悟を決めてからは何とか眼球に装着できていたが。
目を開けた冨岡は表情からも読み取れるほどに驚いて感動していたようだった。動きが止まった冨岡にしのぶが声をかけるとこちらへ振り向き、目を丸くしたまま一言溢した言葉に内心非常に狼狽えたが、助手の女性が頬を赤らめていたのを見て我に返って誤魔化したのだ。助手の彼女に対して全然誤魔化せてはいなかった気がするが、冨岡自身はそれよりも鮮明な視界に夢中だったのでそれでいい。
綺麗だなどと、しのぶを見て笑って言われたら確実に好意があると普通に思う。それが視力の悪い冨岡が初めてコンタクトレンズを装着した時でなかったらの話だが。
あー、視界が鮮やかで綺麗でしょう? びっくりしますよね、わかります。
自分自身にも言い聞かせるようにしのぶは冨岡に声をかけ、照れたような顔をしていた眼科助手は何だか不満そうにしのぶを見てきたが、こんな自分を何とも思っていなさそうな人の言うことは素直に受け取るわけにはいかないのだ。せめてはっきりしのぶのことを綺麗だと言っているような状況で言われたい。いや、まあ、狼狽えるくらいには驚いたし緊張もしたのだが。
当初の目的を果たした後、さすがに昼間から解散するのも何だか味気ないので、ついでにコンタクトレンズに慣れるために街を歩き回ろうと提案した。歩いている間、映画を観ている間、ショッピングセンター内を散策している間。冨岡は態度こそ平然としていたのに、目だけはずっと何を見ても輝いていた。店のメニューを小さく読み上げてみたり、どこぞのファーストフード店の前にある人形を見て、こんな顔をしていたのかと驚いてみたり。
まあ要するに、一日デートのように好きなところを回ったわけである。しのぶも中々に楽しかった。
「一人で外せます? 眼科でやったようにやるんですよ」
「……たぶん?」
帰り際、揶揄うように声をかけると眉間に皺を刻み込ませて悩んだ冨岡は、曖昧な返答をして笑わせてくれた。
最悪姉に頼むと言うが、コンタクトレンズに触れたことのない者からしたら恐ろしくて堪らないのではないかと思う。まあ冨岡が姉を信じきっているようだからそれで良いが。
楽しかったと口にして、送ると言った冨岡に最寄り駅からすぐ近くだからと丁重に断り、しのぶは途中まで並んで乗っていた電車を降りてホームから手を振った。見えなくなる頃ようやく改札へと向かい、ぼんやりしながらマンションへと歩いていく。
楽しかった。久しぶりに愛想笑いのない状態で過ごしたような気がしないでもない。マンションに帰り着いたしのぶはそのままソファにダイブし、鞄からスマートフォンを取り出して寝転びながら操作した。
帰ってすぐのメッセージは何だか早すぎる気がするから、一先ずしのぶはやり取りをしていたメッセージ画面を開くだけ開いて遡るようにスクロールした。当日は何もやり取りをしていなかったので最新は昨日の日付だ。端的なメッセージは何だか冨岡らしい気もするが、彼は短いながらも案外返事をしてくれていた。
――綺麗だな。
ふいに思い出したのは眼科での冨岡の言葉で、しのぶはむすりと唇を尖らせた。
あんな口説き文句のようなことを言って、もししのぶが自分のことを言っているのだと思い込んだらどうするつもりだったのだろうか。あれは確実に天然だ。まあ普段の雑談からも何となく滲み出ていたが。
あんな瓶底眼鏡のない状態で言われては、望んで勘違いするような女性まで出てきそうではないか。今までそういったことに無縁だったのかもしれないが、家族は一度も見た目に言及しなかったのだろうか。それとも瓶底で守られていたからそのままにしていたのか。
しのぶに向かって言われたとしたら、それはもう舞い上がっただろうけれど。
心中文句を言いつつも知らぬ間に口元が綻んでいることに気づかないまま、家に帰り着いた旨のメッセージを作るだけ作り、一先ず一服でもしようかと立ち上がって電気ケトルを引っ張り出した。
「でも何で急に冨岡さんに行ったんでしょうね? 少し前ならあんな地味な奴って馬鹿にしてたのに。確かに地味かもしれませんけど、冨岡さんは良い人ですよ! 物凄くわかりにくいけど!」
「ふふふ、技術課は本当に頼りにされてますよねえ。まあ冨岡さんは今のところ全く興味なさそうですから、放っておけば良いのでは?」
あんなのに靡かれてはたまったものではないが、現時点で冨岡は全く、露ほども、歯牙にかけていないというのが伝わってくるのだ。あ、これ大丈夫そう。なんて失礼にも程があるなどと言われそうなことを考えたりもしていた。別に女性社員に対して失礼など、そんな殊勝なことは思いもしていないが。
隣で繰り広げられるものはしのぶにとっては面白くないものだが、親切ではあれどしのぶとしているような世間話や雑談を冨岡は女性社員に一つもしようとはしなかった。休日は何をしているのか、好きな食べ物、好みのタイプ云々、仕事中にするような話ではないおかげで冨岡は一つも答えずに仕事に向き合う。むしろ意外と根性あるのね、と女性社員を感心したように見てしまうくらい、冨岡は非常に素っ気ない態度だった。馬鹿にしてきていた男性社員に対する態度と変わらない。まあ他の社員にもぱっと見は同じような感じではあるが。
冷たくした覚えはないと以前は言っていたが、嫌になってきたのかもしれない。冨岡にも好き嫌いくらいはあるのだろう、いくら天然だからといってもそのくらいは。そう思うと何だか親近感も湧くし、好きになられないで良かったと決して褒められはしないことを考えてしまうのだ。まあ、本当に素っ気なく見えるだけなのかもしれないが。
冨岡を好意的に見ている女性社員というのは、今では同じ技術課の尾崎としのぶくらいしかいない。業務課の女性社員二人は好意的だったがすでに退職済みである。
ばらさないのはまあ良いとして、中身も良い人だというのにあの女は顔ばかり気にする。人の好みなど興味はないが、それがしのぶの好きな人に対しての反応なので複雑だった。
尾崎の言うとおり、冨岡はわかりにくいが良い人だ。だからこそ顔しか見ていない女が擦り寄るのが尾崎は不思議でならないようだし、不安なのだろうと思う。良い人だからこそ変な女に引っかからないでほしい。何だか弟でも相手にしているかのような言い草で笑ってしまったが、正直しのぶにも多少は理解できてしまった。
あのつっけんどんな態度を潜り抜ければ、冨岡の優しさは馬鹿にしてくる相手にも一応向いている。どうにも営業のような花形課には冨岡は地味過ぎて嫌なのだろう。学校のカースト制度のようなものかもしれない。それも失礼な話だが。
「お疲れ様です」
定時で上がる際にも冨岡は最後に鍵を締めることが多い。それを期待してしのぶはのんびり帰り支度をしていた。すでにしのぶと冨岡以外の全員が帰った後、鍵を締めると促されてしのぶはフロアを出た。
「冨岡さんはランニングどこ走ってるんですか?」
「近所とか、走りたい時は適当に」
残業終わりに会社から走って帰ったこともあるらしい。思った以上に本気で走っているようだ。だからこんなに引き締まっているのかとぼんやり考えた。
仕事中は作業着を羽織っていることが多いので気づきにくいが、着ていた上着を脱いで帰り支度をする少しの間とか、食事に行った時に上着を脱いでカッターシャツになった時とか、ほんの合間に見える体格がやたらとしっかりしているのだ。インドア派であると言いつつ走るのは好き。無心で走ると知らないところまで行っていたりもしたことがあるらしい。やり過ぎ感もあるし、ぼんやりし過ぎだし、それはもはやインドア派とはいえないのではないだろうか。
「ランニング、私も始めようかと思って。おすすめのところありますか?」
「……線路沿い?」
何故疑問符がついているのか不明だが、冨岡は電車と並行して走るのが好きなようだ。隣に電車が通ると追いつけないことはわかっていても、ついスピードを上げてしまうらしい。何だか子供のような楽しみ方をしている。
「ふうん。私が逆走したら合流できませんかね」
最寄り駅は違えど同じ方面の電車を使っているし、冨岡が並行して走るなら、しのぶは電車に向かって走る。そうすれば鉢合わせるのではないかとふと考えたのだ。
「そうか……?」
それを伝えると冨岡は少々不思議そうに首を傾げたが、しのぶは無視して話を進めることにした。
「会えますよ、ゆっくり走って探してください。あ、走る時はコンタクトすれば見えますよ。景色もよく見えるし、どうです?」
夜ならさほど人の顔など見ないだろうし、面倒な社員もいない。走る時も眼鏡がないと人や電柱にぶつかるらしく、そんなことがあるのかと呆れたし、それならランニング用の眼鏡でも買えば良いのにと更に呆れたが。
「成程。頑張ってみる」
「ああ、あれから一度もつけてないんですね」
「……まあ」
何だか罰が悪そうにしている気がする。別に怒っているわけではないのに、しのぶは小さく笑ってしまった。
「練習ついでに良いんじゃないですか?」
外せないのなら外してあげてもいいのだが、さすがにそんなことを言っては特別扱いがばればれだろうと口にはしなかった。仲は良くなったとは思うが、まだ同僚の域を出ていない関係である。そもそも冨岡がしのぶをどう思っているかはわからないのだ。周りと世間話をしない冨岡がしのぶとは話すのだから、好かれているのではないかと感じてはいるが。
「冨岡さん!」
言葉どおり線路沿いを走っていたしのぶは、ランニング中の人影を見ては顔を確認して走り去っていた。ようやく目当ての人物を見つけて声をかけると、しのぶの提案どおり眼鏡を置いてきた冨岡が目を向けて気づき近寄ってきた。
「ほら、会えました。久しぶりだと結構きついですね。……どうしました?」
「……いや、何でもない。ここからどう走るんだ?」
笑みを向けると何だか妙な顔をした冨岡は首を振ったが、問いかけられた言葉にしのぶは少々考え込んだ。
そういえば合流することばかり考えていてこの後を考えていなかった。気づかないうちに浮かれていたらしい。ちょっと恥ずかしい。
「……胡蝶?」
「あ、いえ。会うことばかり考えてたので、どう走ろうか今考えてるところです……どうしました?」
問いかけてからしのぶは自分が口にした言葉が何だか含みのある言い方をしてしまったような気がして焦ったが、それよりも芳しくない表情をしている冨岡が気になって問いかけた。
「……いや。凄いな」
「何がですか?」
しばしの沈黙が流れ、何やら逡巡していたらしい冨岡はようやく小さく口を開いた。
「今まで痛い目を見たことはあるか?」
「はい? 何の話ですか。例えば?」
「いや、ないならいい。今までよく無事だったな」
何のことだ。色んな意味でよく無事でいたと思うのは冨岡だろうに。しのぶの思考に含まれるものと同じ意図を持っているのかもわからないけれど、そんなことを冨岡に言われるなど思ってもいなかった。何だそれは。
「そこまで言ったんなら教えてくださいよ」
「知らないなら言わない」
「ええ……? 何なんですか、もう」
*
会うことばかり考えていた。
そんなことを胡蝶に言われて勘違いするのは烏滸がましい。ランニングのことだとわかっていても、こんなことを言われるのは初めてで少々心臓が跳ねてしまった。
凄いな。義勇のような人間にもこのようなことを口にするのか。胡蝶のような女性はそもそもそんな言葉は何の意味も含んでいないのだろうが、こうやって勘違いする輩は増えていくだろうに。社内で見ていたあの男性社員には冷たくあしらっていたように思えたが、そういうのも言ったりするのかと驚いた。
いや、これは天然な気がする。残業中に話す彼女の言葉の節々から、時折それが滲み出ていた気がした。義勇が言った言葉もあまりピンと来ていないようだし、本当にこれでよく今まで普通に生きていたものだと思う。まあ話をするようになるまで胡蝶のことは同じフロアにいる関わりのない社員だったし、義勇とは生きる世界が違うのだと考えていたので大して知らないのだが。
優しいだとか人当たりが良いとか、その辺りは話に聞いて知ってはいたけれど、隣の席になってからは案外気が強いということを知った。営業課の男性社員を扱き下ろすまではいかないが、それなりに鬱憤が溜まっているらしく愚痴を溢してくるし、上司の嫌なところも口にしたりする。何だか皆女神のように崇めていたが、割と普通の女性なのだと義勇は知ったのだ。
優しいのは間違いない。胡蝶は義勇のような日陰者にも優しくしてくれるし、これが人気がある秘訣なのだろうとぼんやり思ったものだ。その優しさが自分だけに向けられているのだと勘違いする者がいるのもまあわかる。天と地ほども住む世界が違う義勇は勘違いなどするつもりはないが、それでも浮き足立つのはもはや仕方ないことだと諦めていた。
営業課からは席を移動してから目の敵にされているし、女性社員は何を狙っているのかやたらと義勇に話しかけてくるようになったが、胡蝶は変わらず隣になった時から優しかった。
それが義勇には有難くもあり、少々悩みにもなっている。
このままでは普通に好きになってしまうので、さすがにそろそろまずいのではないかと思うのだ。
まあ、弁解のしようもないほど義勇は胡蝶を見てしまうことが増えているので、完全に今更のような気もするが。
まさかランニングまで一緒にやると言い出すなどと思っていなかったし、顔を合わせた時の笑顔が驚くほど可愛くて眼鏡をしてくれば良かったと後悔したほどだ。世界が変わったあの時もそうだった。フィルターのように眼鏡が遮断してくれていたのではないかと思うくらい、コンタクトレンズ越しの胡蝶は息を呑むほど綺麗だったので。
義勇が思わず溢してしまった言葉を胡蝶はコンタクトレンズで視界が鮮明に見えたからだと判断したようだが、あれはそれだけではなかった。
正しく胡蝶に向けて放った言葉だったのだが、正直天然で勘違いしてくれて助かったのだ。あんなことは言われ慣れてもいるだろうし、義勇のような者よりもっと言われたい者がいるだろう。
そう考えると分不相応にも悲しい気分になってしまうが、やはり住む世界が違う胡蝶と関係を深めるなど有り得ない話だった。今こうして社外で顔を合わせていることも、やはりどこか夢なのではないかと考えるくらいには。