隣の席の他課の人・一

 しのぶの勤める会社は部署ごとにフロアが分かれている。
 元々は部署内でも課ごとに島も分かれているのだが、業務課であるしのぶの席がある島は時期は違えど退職者が出て空きがあり、今は課長の席としのぶの席、そして技術課に所属する者の席がしのぶの隣にある。フロアの端同士、業務課の島と反対側の端の島である技術課は来年定年退職する者の引継ぎで人が増やされていて空きがなく、その人が退職するまではしのぶの隣にいることになっている。
 これがまた部署内で散々揉めた。関係のない営業課の連中が主にしのぶの隣席を奪い取ろうと舌戦を繰り広げていた。羨みも妬みも混じえた女性陣からの視線にも呆れたが、面倒になって我関せずを貫いて傍観した。
 結局営業課の訴えは部長から普通に却下され、技術課内であみだくじをやって当たったのが冨岡という男性社員だった。
 決まったのならと早々に机のものを動かし始めた冨岡は嘆く全員を無視してせっせとパソコンの設置を始めていた。
 地味で無口な同僚。今時分厚い瓶底眼鏡をかけている。技術課と業務課の島は一番離れているせいか、雑談しているところを見たことがなかった。昼食も一人デスクで食べているようだし、誰かと連れ立って外に行くところも見たことがない。仕事だけは恐ろしく速くて正確。基本的に繁忙期以外は定時できちんと帰っているようだ。割とうちの会社は残業は少ないので皆そうなのだが、帰りに誰かと飲みに行くなどということもないらしい、正に一匹狼。
 まあ、しのぶに無駄話を吹っ掛けて来る者たちや睨みつけてくる女性陣よりはよほどましだろう。そう思って設置が済んで座った冨岡によろしくと笑みを向けると、案外彼はこちらこそと会釈を返してくれた。
「ま、でも冨岡さんが胡蝶さんに相手にされるわけないっすよねえ」
「当たり前だろ、あんな地味な奴」
「えー、これを機に付き合ってみても面白いかもしれないわよ」
 変更はないと部長から言い渡され撃沈したはずの営業課の男性社員たちは、馬鹿にしてくる女性社員との談笑に花を咲かせることにしたようだった。

 業務課の島に来てから意外と冨岡は課内で重宝された。
 主にちょっとした力仕事のようなもので。蛍光灯が点かなくなった時など課長に頼むわけにもいかず、営業課の若い男性社員に頼んでは交換してもらっていたのだが、何を言わずとも冨岡は立ち上がって蛍光灯を交換してくれるし、パソコンに詳しい冨岡にわからないことを聞けばすぐに対応してくれる。年配の女性社員は退職する前、彼は気が利いて良い子だと褒めていたくらいだ。寿退社した女性社員も頷いていた。
 しのぶもそれは感じていた。技術課からは案外頼りにされているようで、冨岡の隣席だった女性社員の尾崎は、席を移動して早々に良い人だとわざわざ言いにきたくらいだった。技術課の面々はしのぶの隣に行きたくはあったが、冨岡がこちらに来るのも止めたかったのだそうだ。席が遠くなってすぐ頼りにできなくなるのが困ったらしい。あみだくじで決められてしまい、女性である尾崎を移動させる目論見が外れてしまったのだという。先にそれを部長に伝えられていればとも思うが、営業課の男性社員たちが必要以上に騒いだせいでかき消されてしまったのだろう。
 営業課というのは華やかな者が多い。騒いだ男性社員の一人は部署内で一番のイケメンだと持て囃されていたし、女性社員は美人だと言われている。しのぶが同部署に所属したせいでちやほやされる頻度が減って何やら要らぬ敵対心を持たれてしまったらしいのだが、しのぶには全くどうでもいい話だった。
 まあとにかく、業務課の島に来てから和やかに仕事をしていたが、営業課は不貞腐れていた男性社員が多かったので面白くはなかったのだろう。あんな地味で声小さい人の隣とか可哀想、などと女性社員たちは嘲笑うようにトイレでしのぶに伝えてきたが。
 それはともかく、案外冨岡は声をかければ答えてくれるし仕事も速くて気が利くのだ。可哀想などと言われる筋合いはなく、何ならしのぶは隣になったことを楽しんでもいた。残業中、誰もいなくなった頃に愚痴を溢すと黙って聞いてくれるし、何だか実家に置いてきたぬいぐるみに向かって愚痴を発散していたのを思い出してしまったりもした。
「胡蝶さんの隣とか本当に羨ましい奴だよなあ。お前席代われよ」
「部長に打診しろ」
 冷たくあしらうのもしのぶには助かる。一度それを指摘すると、冷たくした覚えはないと首を傾げられた。どうやら冨岡自体がそもそも冷たく思われる対応をするのだ。本人は素っ気ないつもりも一匹狼でいるつもりもない。人付き合いが不器用なだけだということも隣になって初めて知った。
 そしてもう一つ、隣になって知ったことがある。
 ちらりと視線を向けるとパソコンを眺める横顔がある。案外鼻筋が通っていて、横顔の輪郭が綺麗な曲線を描いているのだ。眼鏡の太いテンプル部分が邪魔をして目元は見えないのだが、実は整った顔をしているのではないかとわくわくしてしまう。いつも作業着を羽織っているが、背筋がぴんと伸びていて姿勢が良くて、意外と体格も良さそうだった。何か運動でもしているかと問いかけると、帰った後走ったりたまに泳ぎに行ったりと中々充実した時間を過ごしているらしい。ジムに行くのを検討していると世間話の一環で口にすると、走るのが嫌いでなければジムよりランニングがおすすめだと言われた。金もかからないし、風景を見ながら走るのは楽しい。成程としのぶは頷いた。
 そう。冨岡との会話は案外楽しかったのだ。こちらが話しかければ冨岡は答える。冨岡の扱いを心得ていただろう技術課の社員が良い人だと言うのもわからなくはない。瓶底眼鏡だけはダサいと思うが。

「はあ……疲れましたねえ。冨岡さん、終わりました? ご飯食べに行きません?」
 残業で居残っていたしのぶは伸びをして、ようやくひと段落ついたところで隣へ声をかけた。同じくずっとパソコンに向かっていた冨岡は一拍置いて頷き、キーボードを叩いて電源を落とした。しのぶも帰り支度をして上着を羽織り、すでに二人しかいなかったフロアに鍵を掛けて会社を後にした。
「あ、うどんとかどうです?」
 適当に建ち並ぶ店に目を向けながらしのぶが提案すると、少しばかり悩んだように感じた冨岡は頷いた。丼ものも酒もあるらしいので選べるだろうとしのぶが足を向けると冨岡も素直についてきた。
 席に落ち着いてメニューを眺めてきつねうどんを頼むと、冨岡はまた悩みつつうどんと丼のセットを注文した。
 冨岡と食事に行くのは初めてだが、運ばれてくるまでの間、しのぶの愚痴を冨岡は黙ったまま聞いてくれる。業務課というのは技術課と仕事で関わることはそれほどなく、主に関わるのは営業課だったりする。相変わらず食事に行こうとか何だとか小うるさい男性社員に管を巻いた。食事に行く相手は自分で決めるのだから必要ないと溢しながら。
「お待たせしましたー」
 運ばれてきた料理が湯気を立たせ、美味しそうな匂いが鼻腔を擽る。残業で疲れた空腹にこれは堪らないと笑みが零れた。
「いただきます。……ぶふっ、湯気で曇ってますよ」
「ああ。いつものことだ」
 普段から眼鏡の奥が見えないほどの瓶底が、湯気で更に白く曇っている。普段パンを食べているのはもしかしてこれがあるからかと笑ってしまった。
 躊躇なくぐいと頭に上げられた眼鏡は、普段からそうしているのだろうことが察せるほどに自然な動きだった。
 しのぶは固まった。横顔が綺麗な曲線を描いていたから、実は見た目は悪くないのではないかと思ってはいた。いたけれど、これは。
 しのぶが想像していたよりも余程整った顔が眼鏡の下に隠れていた。
 何てことだ。こんなの営業課の女性社員にばれたらただでは済まないだろうに、あんな瓶底眼鏡をしていたおかげで助かっていたらしい。いや、別にあの女性社員を冨岡がそういう目で見ているのなら構わないのだろうが。
「………、冨岡さんの視力ってどのくらいなんです?」
「かなり悪い」
 口にした数値は本当に悪かった。だからそんなに瓶底なのかと納得しかけたものの、薄いレンズの眼鏡などいくらでもあっただろうに。その眼鏡は気に入っているのかと問いかけると、そういうわけではないらしい答えが返ってきた。
「中学の頃に買った」
「物持ち良いですね……壊したりとかしないんですね」
「したこともある。直して使ってる。どれが良いとかわからん」
「ああ……成程」
 ダサいのは流行りがわからなくてそのまま使っているからのようだ。レンズくらい直した時に薄くすれば良いのに。いや、しないでくれたほうが今は助かるし、していなかった今までにとりあえずしのぶは安堵していたが。
「コンタクトにする話もあったが、正直あれを自分で入れられる気がしない」
「あー……まあ扱い間違うと目に傷もつきますからね。眼鏡が無難ですよ」
 冨岡がコンタクトなんかしてきたら気が気ではなくなる。部署内は大騒ぎになりあの女性社員の猛烈なアプローチが始まり、営業課の妬みも増えそうである。あれらは皆からちやほやされるのを喜んでいるので大いに予想がついた。
「使ったことがあるのか?」
「ああ、私コンタクトです。最初は世界が変わったってくらい見えて感動しましたけど、洗うのも面倒だし、コストはかかるし、眼鏡に慣れてるならそちらのほうが良いですよ」
「世界が変わる……」
 物凄く興味を示されている気がする。しのぶとしては冨岡にはコンタクトを使ってほしくはないのだが、気になっているのなら教えてあげたほうが良いだろう。せっかくしのぶしか知らないのだからそのままでいてほしいけれど。
「ぼやけてたのが一気に鮮明に見えて、ちょっと酔うかと思うくらい。もしかして興味あります?」
「……少し」
「ふうん。気になるなら付き合いましょうか? 私の行ってるところ、眼科も併設されてますし」
「本当か」
 案外乗り気のような冨岡に少しばかり胸がざわつき、何だか出かける予定でも立ちそうな様子にもざわついた。一応釘を差すことは忘れずにしのぶは口を開いた。
「でも、会社にはしないほうが良いかと。長くつけてるとドライアイにもなりますし、あまり良くないですよ。私も目薬ないと駄目ですから」
「そうか」
「見に行くくらいなら付き合いますよ。つけられなかったらどうせ使えませんけどね」
 頷いた冨岡から連絡先を聞かれ、仕方ないとでもいうようなスタンスを装ってしのぶはスマートフォンを取り出した。
 ああもう。自分から食事に誘うくらい気になっていた同僚ではあったけれど、一気に不安要素が増えてしまったではないか。自分からコンタクトをつけてきそうな機会を作ったのも何だか悪手だ。自然な流れで予定を立てられそうだと思ったのに、頭を抱えそうになるのを必死で堪えた。

「おい、冨岡! 今朝一緒にいた美人誰!? まさかお前みたいなのにあんな美人の彼女いたの?」
 出勤して席に着くとともに騒がしく近寄ってきた男性社員に、しのぶは色々な感情を揺り動かされた。
 朝からうるさい。そんな他人のプライベートなことなどわざわざ聞き出して何が楽しいというのか。一緒にいた美人とは誰なのか。彼女の存在をそういえば質問したことなどなかった。冨岡の見た目を馬鹿にするような発言に苛立ちを覚え呆れると同時に、彼女という単語にしのぶは隣で人知れず胸中がざわついた。
「彼女? ……誰のことだ」
「朝何か渡されてたじゃん。仲良さそうにしてさ」
「渡され……ああ、あれは」
 答えようとするだけの身に覚えがあるらしい冨岡にも焦りを感じたが、始業のチャイムが鳴ると冨岡はすぐに会話を打ち切って席に戻れと促した。男性社員は納得がいかないらしく今言えよと促したが、就業時間に無駄話をしない冨岡は口を噤んでいた。紹介しろと騒ぎながら戻る男性社員を見送り、しのぶは唇を引き結んだ。
 この日、冨岡は珍しく弁当を持ってきていた。隣でちらりと見た限り、綺麗に敷き詰められたものは手が込んでいるように見えて、何だか朝の美人の手製なのではないかとしのぶは考えた。弁当を作るくらい親密な女性が冨岡にいるらしい。いや、件の美人が作ったものかはわからないのだが。
「彼女いたんですか」
「いない」
 勤務時間内の雑談よりも残業中のほうが冨岡はよく話してくれる。話を聞く者がしのぶ以外にいないからか、一日の疲れを冨岡も感じていて喋りたいのか。その辺りはよくわからないが、とりあえず残業している時間は込み入ったことも話してくれることが多かった。
「今朝あの人が言ってましたよ」
「あいつが言ってたのは姉だ」
 手がぴたりと止まり、しのぶは隣へ顔を向けた。相変わらず理想的な曲線を描く横顔を眺めつつ、しのぶは無意識に姉、と小さく呟いてしまっていた。
「お姉さんいるんですか。私も姉がいます」
「そうか」
「どんな人なんです? 美人だって言ってましたよね。うちはねえ、これです」
 何だか似た家族構成を見つけてしのぶはつい不満を忘れて楽しくなった。あの男性社員は美人だと言っていたし、冨岡の姉ならば間違いないのだろう。しのぶがスマートフォンで姉と撮った写真を見せると、眼鏡の奥で瞬いたらしく睫毛を揺らした冨岡が似てると口にした。
「そうでしょう? 自慢の姉なんです」
「……俺も自慢の姉だ」
 見せられた写真は来年式を挙げる予定の姉夫婦だという話で、柔らかく笑う女性が優しげに目尻を下げている。隣に立つ男性も優しそうだった。
「綺麗な人ですねえ。似てるかはわかりませんけど」
「昔は目が似てると」
「ふうん。そうなんですか? えいっ」
「っ、おい」
 確認のために分厚い瓶底眼鏡を奪い取ると、非難がましい声を上げた。少しくらい良いだろうと宥めつつ冨岡へ顔を向けると、困惑しているらしく眉尻が情けなく下がっている。
「あ、でも確かにちょっと、似て」
 観察のようにじっと見つめていたら、予想以上に近づいていたらしく目と鼻の先に冨岡の顔があった。驚いているらしい顔が、目の前に。
 近っか。自分からやったことにも関わらず、あんまり驚いたしのぶは間抜けにも唖然としてしまった。慌てて謝り離れると、相変わらず困った顔がしのぶへ向けられていた。恥ずかしい。
「返してもらえるか」
「……はっ、ご、ごめんなさい!」
「ぐっ、」
「あっ! す、すみません目大丈夫ですか!?」
 慌てて眼鏡を元の場所に戻そうとして、テンプルの先の部位が思いきり目元を突いてしまった。目元を覆って俯く冨岡にしのぶが慌てながら謝っていると、フロアの外から何やら声が聞こえてきた。
「電気点いてたから見に来たら、胡蝶さんまだいたんだあ」
「げっ、あ、お、お疲れ様です」
 小さく漏らしてしまった声には気づかれなかったらしく、フロアを見に戻って来てしまった男女二人の社員はどうかしたのかとこちらを覗き込み、そして冨岡を見て固まった。
 しのぶもまた顔を歪めてしまったのだが、二人に気を取られている内に手から眼鏡を奪い返され、冨岡はさっさと眼鏡を掛け直した。まあ、今更なのだが。
「……え、え!? と、冨岡!? ……さん!?」
「もう帰るから早く出ろ。胡蝶も」
「あ、は、はい」
「えー! 嘘、冨岡さん眼鏡もう一回取ってよ!」
「見えないから嫌だ」
「何それ! コンタクトにすれば良いじゃないですか、絶対そっちのほうが良い!」
 溜息が出た。ばれてしまった、同僚に。しかも男は顔だと言って憚らない女性社員に。
 部署内で一番のイケメンだとか持て囃されていた男性社員は非常に不満そうに冨岡を睨みつけているが、それはまあざまあみろとは思うのだが。ばれたのがせめて技術課の誰かであったならば、しのぶもここまで焦ることはなかっただろうと思うのに。
 その後言葉通りさっさとフロアから二人を追い出した冨岡は、きっちり鍵を締めて会社を後にした。