茨の先で花と散る—不帰

 ――真っ白だ。
 どうしたんだっけ、と炭治郎は考え込んだ。
 とても大切な、正念場だったような気がする。ここをしくじるとどうなってしまうのか、想像したくもないと思えるような絶望感があった。だから炭治郎は必死になって止めようとしていた。そうだ、死ぬ気で殺そうとしていたのだ。鬼の首魁である鬼舞辻無惨を。
 どうなったんだっけ。炭治郎は焦りを覚えた。
 対峙していた鬼舞辻無惨と死闘を繰り広げていたはずなのに、途中から記憶が途切れていた。結果がどうなったのかが思い出せないということは、炭治郎は気絶してしまったのかもしれない。あれほど修行を重ね色んな人にしごかれて、柱にまでなったというのにまだ足りなかった。足を引っ張らないように、隊士たちを少しでも多く助けられるように頑張っていたというのに、どうなったのかがわからない。一番大事なところで意識を失うとは不覚、未熟、最悪だ。
 ふいに視界の隅に映ったのが人影であることに気づき、匂いが感じられないことでつい驚いてしまった。
 金の釦の隊服の上に羽織る片身替りの羽織。一つに縛った黒髪と、涼しげな目をした男が立っている。面影と覚えのある羽織に炭治郎は思い至った。生身を失くそうと炭治郎を導いてくれた兄弟子だ。
「――冨岡さん」
「よくぞ悲願を達成した。……勝手にその肩に重荷を背負わせたこと、悪く思っている」
 狭霧山で会った時よりも低く、脳に響いていた時よりも柔らかい声音だった。
 悲願を達成。ということは、鬼舞辻無惨は倒されたのだろうか。それとも禰豆子が人に戻ったことだろうか。どちらも炭治郎の大願であり、いや冨岡が言うのならきっと両方だ。間違いなく脅威は去ったと安堵できる。周りに助けられてばかりで炭治郎が実感できることは少ないが。
「そんな! 俺はずっと、そんな、重荷だなんて……。俺こそ、ありがとうございます」
「何も感謝されることはしてない。……本来なら、お前たちのような者を守らなければならなかった」
「一人では限界があります。皆で達成できたのなら、この先に生まれてくる人たちが平穏に暮らせるなら、俺はそれでいいんです。俺は……冨岡さんが俺に期待してくれたことが嬉しかった。あなたが俺の家族を守ってくれたことが本当に嬉しかったんです」
 その恩に報いることで感謝を伝えられると思っていた。冨岡だけでなく、炭治郎は色んな人たちに助けられてきた。全員に報いることができたかどうかはわからないけれど、そうして助けてくれたことを後悔されないような生き方をしてきたつもりだ。けれど。
 ――俺は死んだのかな。
 話しているのかいないのか、感覚があるようでないような、なんとも曖昧な状態だった。冨岡の声は聞こえるけれど、自分の存在がなんだか不確かなもののような、ひどく脆いような気がして不思議な感覚だった。冨岡は迎えに来てくれたのかもしれない。これが死というものなのかはまだ自覚できなかったけれど、皆が、家族が無事なら炭治郎はそれでよかった。
 しばらく黙ってこちらを見つめていた冨岡がふいに小さく笑みを見せたことで、炭治郎の視線は外せなくなった。
「……行け、炭治郎。皆が待ってる」
「え……」
「お前はまだ戻れる。皆と生きてこい」
「……そんな。俺は、だって……あ、あの! また会えますか?」
「さあな」
 もしも生まれ変わったら。急かす冨岡に背中を押されるような感覚を覚えながら炭治郎は問いかけた。にべもなく突き返された言葉は冷たいものだったが、声音はひどく優しいままだ。本来の彼の優しさが滲み出ているようだった。
「繋いでこい。最期まで」
「……はい。でも、義勇さん。義勇さんは充分繋げましたか?」
 あの雪の日に見た骸。転がった頸と不死川の腕の中で崩れていく亡骸が、炭治郎の脳裏には鮮明に焼きついている。忘れる選択肢など存在しないほど、強烈な印象を炭治郎にもたらした。
 不死川と同い年の、まだ十代だった水柱。今の炭治郎とさほど歳は変わらなかったはずなのに、手を伸ばしても届かないような遠い人だった。死してなお与えてくれたものはとても大きなものだけれど、二十年にも満たない時の中で、冨岡はどれほどのものを繋げたのだろう。
 空気が揺れているような気がして背後の冨岡を振り向くと、彼はひどく楽しそうに声を漏らして笑っていた。
「俺はもう繋いだよ。お前のおかげでな」
「俺の……?」
「ありがとう。炭治郎」
 悔いのないように生きろ。そう響いた声はやはり優しくて、この声も一緒に生きてくれればいいのにと炭治郎は思ってしまった。

「――起きた! 炭治郎!」
「お兄ちゃん!」
 騒がしい声が聞こえる。視界が滲んでうまく見えなくて、耳に届く声をただ聞いていた。
 薬品の匂い、人の匂い。ばたばたと騒がしい足音、泣き声。母と禰豆子の顔を認識して目元を拭われた時、自分が泣いていたことに炭治郎は気がついた。
 うまく声が出ない。身体も動かない。それでも意識は戻ってきた。最期まで生きるために、冨岡に背を押されて鬼のいないこの世へと舞い戻ってきたのだ。

*

 どこだ、ここは。
 目が痛くなりそうなほどの白。白。白だ。地獄の淵では真っ黒だったというのに雲泥の差だ。その地獄の淵へ二度目に行くことはなかったが。
 まあ、死んだのだろうと不死川は納得した。自分が天国なんてところに行くなどとは思ってはいなかったが、地獄とも違う場所である。人生二週目、臨死体験も二度目となれば落ち着きも払うというものだ。我妻ならば毎度騒ぐのだろうが。
 あてもなく、左右前後もわからないまま白を歩く。何かがあれば有難いが、二度目を生きた不死川は地獄にも天国にも行けないのかもしれないとふと思い至った。そうなれば奴もここに辿り着いていそうなものだが、気配も姿も何もなかった。
 結局ひとりかよ、と不死川は溜息を吐いた。気づいた時には手遅ればかり、同僚は救えても家族は玄弥以外救えなかった。数えてみれば奴とそう変わらない人数になったかもしれないが。
 動かしていた足を止め、その場にどかりと胡座をかいた。白をいくら歩いたところで視界に何かが現れることもなく、意味を見出だせずに座り込んでしまった。
「鬼は退治しちまったからなァ、暇つぶしもできやしねェ」
「そう言うな、退治しきれていないとなれば死んでも死にきれん」
「―――っ!?」
 言葉と同時に背中に気配を感じ、不死川は胡座をかいたまま飛び跳ねるように振り向いた。一つに縛った黒髪と、かつて見ていたあの片身替りの羽織を背負う後ろ姿が真っ先に目に入ってきた。
「よくやってくれた」
「………、おー。誰かさんが早々に退場したせいでめちゃくちゃ疲れたわァ。……笑ってんじゃねェよ」
 振り向いた姿勢を元に戻し、背後の気配に思いきり体重をかけてやった。本当に苦労したのだからもっと労ってもらってもいいはずだ。特にこいつからは念入りに。
「だが、まァ……結局良かったかどうかなんてわかりゃしねェ。仲間の命は救えても……戦えなくなることばっかだったしな」
「そうだな。でも、……何もしないよりましだ。俺たちの気持ちの問題だけなんだろうが」
 こいつは家族と兄弟子、弟弟子とその家族を救ってきたけれど、その代わり、代償のように早々に退場した。不死川は不死川で、救えなかった家族の分、同僚たちを救ってこられたのだろうと思うことにした。そうであってほしかった。
「そんで雑なんだよなァ、俺には挨拶のひとつもなかったしよォ」
「動けなかったんだから仕方ない」
 へえへえ、と適当な相槌を打ちながら、制限のあるなか竈門たちを鍛えてきたことは素直に有難かった。そうでなければ不死川が世話を焼いていた竈門はともかく、我妻と稲玉の二人が柱になることは難しかったとも思う。宇髄に師事したことも含めて、不死川の手がまわらなかったことだ。
「会いたかったか?」
「………っ、うわっ。鳥肌立っただろがァ」
「失礼な奴だ」
 捲ったままの隊服は、鳥肌の立った不死川の腕が晒されている。見せつけるように背後へ腕を伸ばせば不満げな文句が飛んできた。失礼なのは一度目のお前の態度だよ、と苦言を呈しておいた。
「あー、まァ、お前もお疲れ」
「いや? 俺はな、――不死川が同じだとわかった時点で、もう怖いものはなかったよ」
「……すげェ口説き文句だこと」
 動かないはずの心臓が跳ねて、耳が熱くなっているような気がした。反応は望んだものではなかったらしく、馬鹿にしているのかとこれまた不満げだった。だから躊躇なく頸を落として死ねたのかと納得したが、どうせなら鬼化してでも生きていればよかったものを。
 一人も二人も同じだ。もしもの時の腹くらい、こいつにだって懸けてやれたと今なら思う。こいつにこそ懸けてやれただろうとも。
「いやァ……光栄だなァと思ってよ。……俺は少しも安心できなかったがなァ。てめェが同じだったんなら、なんでもっと早く……ってな」
 そうすれば死なせることもなかったかもしれない。
 もしもの仮定話など不死川は嫌いだった。どうにもならないことをうだうだと考えている時間があるなら、鬼を殲滅するほうが有意義だ。それでもこうして考えてしまっていたのは、きっと二度目だったからだろう。
「……腹を懸けたと聞いた時は、さすがに耳を疑った」
「うるせェなァ。一回目のお前のほうがおかしいんだよ」
 小さな笑い声が背中越しに伝わってきて、ちらりと不死川は視線を向けた。向こうもこちらへ振り向いた時、水底のような目が不死川を捉えた瞬間、不死川はその目に手を伸ばしていた。
 何年ぶりだろう。随分久しぶりに顔を見たことを思い出した。存在自体はずっとそこに在って、見えずともこの男が成してきたものが不死川のそばにあった。竈門たちが生きていることこそが証のようなものだ。
 頬に触れて抱き締めてみる。不思議そうに不死川を呼ぶ声が耳元で聞こえた。生身ではないはずなのにおかしな話だ。温もりだとか気配だとか、すべてがかつてのように存在していると感じられるのだ。
 どちらももう心臓など動いていないはずなのに。
「……後悔してることがある。てめェが死んだことだよ」
「お前もだ。早すぎる」
「俺は悪鬼滅殺果たして死んでるんでェ」
 むぐ、と二の句を告げなかったのだろう気配が手に取るようにわかってしまい、不死川は小さく笑みを漏らした。労ってやったのに、と恨めしく呟いているが、不死川は別にこいつからの下手な言葉が欲しかったわけではない。
「託して死んでんじゃねェよ。同じなんだからよォ……」
「……うん、ありがとう」
 ぽん、と叩かれた背中が、やけにじんわりと温かいように感じられた。

 三度目があったらどうする、と呟いたのは、何もない白の中で何をしようと考えていた時だった。
 此岸の様子が見られるわけでもなく、かといって地獄で鬼とやり合うわけでもない。もしや一番過酷なのは何もないことなのではないかと思ってしまったが、ひとりではないからまだましだ。
「んなもん決まってるわァ。まずは家族を死んでも守らねェとなァ」
「死んでる場合か」
「てめェが言うな。……ま、今度があるなら、最初からてめェんとこに行ってやる。勝手に死なねェようになァ」
「俺は、」
「あーうるせェうるせェ。……三度目な。次はお互い長生き目指そうぜェ」
 戯れだ。もしもの話などして何が変わるというものでもない。しかし、この先時間だけは有り余りそうな白の中で、少しくらいはそんな与太話をする機会を増やしてもいいと思うのだ。
「まあ、こんなところにいる時点で転生も三度目もなさそうだがな」
「お前少しは情緒ってもんをなァ……。ひとりだと気が狂うだろうが」
「お前がいるからそれもない」
「……どうもォ」
 随分気恥ずかしいことをさらりと言って少々照れてしまったが、不死川もひっそりと同じことを思ってしまっていた。