茨の先で花と散る—追惜
音が聞こえる。
天井。周りはバタバタと足音が行ったり来たり。あの死闘から生き残り、善逸たちは大怪我を負いながらも蝶屋敷に戻ってきていた。
聞き覚えのある音だ。悲しくて寂しくて、怒りを混じえていても優しい音。いつ聞いたのだったかと思い出して、ふいに善逸の意識は浮上した。
少し前に目が覚めて、今日も薬を飲んでそのままうたた寝していたことを思い出した。
死闘直後の阿鼻叫喚から少し落ち着いた頃だ。善逸が起きる前に伊之助やカナヲは起きていて、比較的軽傷の隊士たちは隠とともに怪我人の対処に追われている。未だ寝台から出られない善逸はその騒がしさを聞きながら安静にしていたのだ。
鬼舞辻無惨の滅殺が大願であるのだから、成し遂げた鬼殺隊は喜ぶべきではあるのだろう。どれほどの犠牲が出ようと、この先に鬼の脅威はなくなった。柱の片割れである兄弟子は生きていて、師はよくやったと泣いて褒めてくれた。良かったと言うべきことだった。
「――ですが、あなた様は……」
「……この足ですから、お役に立てるとは思いませんが、どうか……」
玄関口あたりだろうか、アオイと女性の話し声が聞こえる。この声も聞き覚えがあった。
どうかお使いください。そう口にして、恐らく頭を下げたのだろう女性の声に、アオイは非常に狼狽えているようだった。
「……仮にも一度は藤の花の家紋を掲げました。こちらの都合で降ろしてしまいましたが……最後くらいは、あの子と同じ鬼狩り様のためにやれることをしたいんです」
「アオイ。柱のご令姉様よ、上がっていただいてね。……衣服や包帯が、足りないんです。処置が何より優先でしたから、そちらにまで手がまわらなくて。縫製をお願いできますか?」
「はい、ありがとうございます」
「も、申し訳ありません。では、こちらへ」
蝶屋敷の主人、胡蝶カナエの柔らかい声が聞こえてきて、框を上がって屋敷内を歩く足音も聞こえてくる。びっこを引く足音だ。聞き覚えのある音。不審そうに善逸を見ていた、冨岡の姉が来たことを理解した。
人の会話を盗み聞きしたくてしているわけではないけれど、善逸はぼんやりと聞こえた会話に思いを馳せた。
藤の花の家紋を降ろした。これはきっと、冨岡が死んだ時に降ろしたのだろうと察せられた。
未だ傷の癒えない隊士たちの中には、家族が生きている者も少数だが存在する。死闘の終わりを知らされた彼らはいてもたってもいられない者ばかりのようだ。家族なのだからそりゃそうか、と善逸は納得した。
けれど、生きて戻ってきた者ばかりではない。先の死闘で死んだ者の家族は、抜け殻のようになってしまう者だっているのだ。家族が生きているのといないのと、どちらが苦しまずに済むのだろうな、と善逸にはわかり得ないことを考えていた。
「――冨岡さ、」
違った。
いや、善逸が性別を見間違えるはずなどなかったのに、何故か今ばかりはつい口をついて出てしまった。
だって見覚えのある柄の羽織を着ている人の後ろ姿だったのだ。善逸が乗る車椅子を後藤に押してもらい、通りがかった部屋に彼女がいると音で気づいて目を向けたら、片身替りの羽織が視界に入ってきたのだ。その羽織は善逸が世話になった人が着ていたものだったけれど、彼がどんな音を持っていたかなんてわからなかったから。
振り向いた女性の隣に天狗と知らない男がいて、善逸はびくりと肩を震わせてしまったが。
「あなたは……うちにいらした方ですね。よくお戻りに……このたびは、本当に……」
「……はい。いや、俺はその……あの、冨岡さんにはお世話になりました」
「えっ」
女性の言葉を遮って口にした言葉に背後の後藤が疑問符を浮かべたらしい。まあ確かに、善逸が隊士になる頃には冨岡はもう死んでいたし、いつ知り合ったのか不思議でならないのだろう。昔の知り合いかと問いかけられた善逸はどう言おうか悩んでしまった。というより、声をかけるつもりもこんなことを言うつもりもなかったので、やってしまったという思いが強かった。
「……冨岡さんは、あなたをとても心配してました。合わせる顔がないとも言ってましたけど。……でも」
しかし、善逸は適当に誤魔化すことはしなかった。できなかったようにも思う。後藤には曖昧に笑みを向けつつ、善逸が口にした言葉に不審そうな音を天狗と男が鳴らしていることに気づいたが、女性からは少し困惑したような音が鳴っていた。
「………、義勇に会ったの?」
「……はい」
「そう……」
振り向いた顔が少し俯いて、唇を噛み締めたのがわかった。すぐに顔を上げた女性は善逸に向かって笑みを見せた。今にも泣きそうな笑みだった。
まだ弟の死を受け入れられていないのかもしれない、と思えるような笑みだった。
「……お加減が良ければ、こちらで少し話をしませんか。あなたの話が聞きたいわ」
頷いた善逸に気を遣ってくれた後藤は、車椅子を部屋に入れて椅子を退かして卓につかせてくれた。ともに休憩を取っていたらしい天狗と男は少し悩んだようだが、女性はそのまま座っていてほしいと口にした。
彼らは冨岡の師と兄弟弟子らしく、狭霧山から炭治郎の身を案じてこちらへ来たそうだ。今は家族がそばにいるので、隠たちの仕事を手伝いながら容体を確認していたらしい。
「へ、変な奴だと思うかもしれませんけど……あの日、俺冨岡さんに会いに行ったんです」
女性と鉢合わせたあの日、冨岡の姿は消えていた。それまでユーレイとして生家に縛りつけられていて、これ幸いと色んなことを教わった。おかげで柱にもなれたし鬼舞辻無惨との戦いも耐えられた。一矢報いることすらできたように思うのだ。
気持ち悪い、なんて言葉で善逸はいつも避けられていたけれど、そう思われても仕方ないと思えるようなことを口走ったと自覚している。それでも彼女に伝えておきたいと思ったから口にしたのだ。
「………。……私も、あの子がいたから耐えてこられたことがたくさんあるの。……鬼殺隊に入るって言い出した時は、喧嘩だってしたことなかったのにどうしてって不思議だった。……気が気じゃなかった。死んだと聞かされた時は、狂うかと思ったわ」
狂っていたかもしれない。直後は過呼吸を起こして倒れ、しばらく臥せっていたのだという。自分から弟を奪ったと鬼殺隊へ憎しみすら抱いて、藤の花の家紋も降ろした。同じように怒り悲しんだ夫は今回蝶屋敷へ行くのを止めようとしたが、結局は彼女の好きにさせようと送り出してくれたのだそうだ。
「……義勇はたくさん人を救ったでしょう?」
「……はい。俺も助けてもらいました」
「ここに来てから、あなたのように声をかけてくれる人がたくさんいたわ。義勇を覚えてる人がたくさんいるの。……嬉しかった。私も、憎むのは苦しいの。だから」
だから、冨岡が人生を懸けて、全員で大願を果たした鬼殺隊のためにできる限りを手助けしたいのだと教えてくれた。鬼の脅威が去ったことを、冨岡は喜ぶだろうからと口にして。
嘘を吐いている音がする。
辛いのに、最後だから、冨岡の姉だからここに助けに来てくれたのだ。それは彼女にとってもこの先憎しみを捨てる大事な一歩になるのだろう。けれど。
――なんであの子がいないの。
そう言っている音がする。冨岡を覚えている人がいて嬉しいなんて、それだけのはずがない。どうして本人がいないのかと怒って悲しんでいる。当然だ。家族がいなかろうとそれくらい善逸にだってわかる。
「……鬼狩りは休みなく戦うから、手を貸してほしいとあの子が言ったの。……でも私、そんなの知らないって言ってしまったのよ。私を助けてくれたのは義勇だったもの。鬼狩り様は現れなかった。義勇を助けには来てくれなかった」
「………、」
鬼殺隊は私から義勇を奪っていくのに、どうして手を貸さないといけないの。まだ少年だった冨岡が姉を置いて死の淵に身を投じようとするのを止めないわけがなかった。泣いて縋っても冨岡は頑として譲ろうとはしなかったが、姉を説得するために試行錯誤していたのだという。
――俺が鬼狩りになるから、そうしたら鬼狩りが来たことになるから、お願い。
「……屁理屈言ってくるんだもの。初めてだったわ、あんなに変なこと言う義勇は……。呆気にとられて、でもあんまり必死だったから……ちゃんと顔を出すことを条件に頷いたの」
守りたいものがあったのだろうと彼女は言った。
それは鬼のいない世界に生きる人たちで、きっとその中の誰かだろうと。善逸などはそれにあやかっただけの存在だろうけれど、冨岡が本当に守りたかったものは一体何だったのだろうと考えた。
姉と、師と、兄弟弟子。きっと炭治郎と禰豆子もここに入っている。そんな気がした。
「話してくれてありがとう。あなたの話、信じるわ。……私より辛い人はたくさんいるんだから。それに、あなたのように戦ってくださった鬼狩り様の前で、いつまでも悲しんでばかりいられないもの」
「……俺は、怖がりだしビビリだし、……だから、怖いものは怖いって言っちゃいます。それが駄目なんですけど……冨岡さんは言いました。怖くてもいいから目を逸らすなって」
それは甘ったれの善逸に向けられた言葉だったのだろうが、冨岡の言葉は厳しくとも誰かのためを思ってのものだった。冨岡にも後悔することがあって、だからこそかけられた言葉だったのだろうと思う。同じ轍を踏むなと冨岡はずっと善逸に言っていたのだ。
「怒っても、悲しんでも、憎んでもいいから……。な、なんか……うまく言えないんですけど……すみません」
「……ううん、ありがとう」
言いたいことはあるのにうまく纏まらない。何を伝えたいかすらわからなくなっていた。それでも彼女は儚げに笑みを見せ、善逸の手を取り礼を口にした。
「失礼します……わっ」
「………」
隠が一人、部屋の外に立っていた。
後藤は部屋に善逸を残し、すでに立ち去った後だった。上背があるのに少し細身で、知り合いであることに音で気づいた善逸は彼を見上げて名を呼んだ。
「……玄弥」
「……俺も、泣いてばっかじゃ怒られるし……しっかりしねえとな。ありがとう」
「俺が言ったんじゃないし……」
「俺は善逸から聞いたよ」
袖で無理やり目元を拭い、小さく笑みを見せたのは歳の近い少年だった。上背はあっても善逸と変わらない子供だ。炭治郎を介して話をする仲にはなっていたが、彼の兄には恐れをなしてあまり関わることがなかった。
それでも、冨岡は彼の兄に全幅の信頼を寄せていた。炭治郎もそうだった。善逸の耳に伝わる音も、熾烈であれど優しさを含んだものだったから、恐くはあっても悪い人ではなかったときちんと知っていた。