茨の先に曙光は差すか—枯水
冨岡の屋敷に到着してから驚き続けてなかなか落ち着くことができなかったようだが、ようやくとばかりに炭治郎はひと息つくことができたらしい。お下がりのおはぎと鮭大根に舌鼓を打った後、ついでとばかりに善逸が刀の手入れをし始めた時に炭治郎は口を開いた。
「善逸の刀綺麗だなあ。俺の刀刃こぼれしちゃって、今度直してもらいに里へ行くんだ」
「ああ、刀鍛冶の里だっけ。宇髄さんも言ってたなあ」
「傷に良いっていう温泉もあるらしいんだ」
温泉は入ってみたい。ついでにいえば混浴だと善逸は非常に喜ぶが、そんな夢のようなことが起こるはずもない。隊士の刀は特注のものもすべて刀鍛冶の里で鍛えられているのだが、場所は秘匿されているから当主の許可が必要だという話である。
「刃こぼれは鬼を斬り続けてきた結果だ。……ついでだ、お前たちも行けるよう進言しろ」
「え。でも、そう簡単に許可貰えますかね? 獪岳もでしょ?」
冨岡は刃こぼれなどしなさそうだ。それはともかく、当主である産屋敷に許可を取り、刀鍛冶の里へ向かえと言ってくる。そう簡単に許可など降りないだろうにと思うが、まあ、ユーレイとはいえ世話になっている相手だ、従うことにした。断られたら仕方ないと報告すればいい。
「そうだ、今更なんですけど、俺ここで寝泊まりしていいですかね?」
「えっ」
「構わない」
炭治郎から短い声が漏れたが、直後にすぐ冨岡から許可が降りた。宇髄家に通っている時なら場合によってはそのまま泊めてもらうこともあるのだが、担当地区の関係上、この屋敷に拠点を置くと楽になりそうなのである。どうせ誰も住んでいないから、と冨岡は頷いたが、炭治郎は少々不服そうに見えた。なんでだよ。
「でもわりと綺麗ですよね。誰か管理してたり? 鉢合わせたらまずいよなあ、空き巣だと思われてもやだし」
刀を隠す隙もなく鉢合わせたら完全に不審者どころか犯罪者扱いだ。日夜鬼を狩っているだけの善良な隊士だというのに、警察官は問答無用で捕まえようとしてくるだろう。違反者はこちらなので仕方ないのだが。
「……恐らくは姉夫婦が来ている」
「姉夫婦? お姉さん? がいたんですか」
「ああ、鬼に襲われた時に足を負傷してからうまく歩けない。見ればすぐわかるだろう。美人だ」
「わあ、楽しみ。……い、いや、いやらしい目で見たりしませんよ! 冨岡さんが美人だとか言うからじゃん!」
「善逸、俺は聞こえないから全然話がわからない。教えてくれ、楽しそうだ」
炭治郎の要望は理解できるが、不貞腐れたような顔をしていて少し面倒くささを感じてしまった。冨岡に姉がいたこと、嫁いで幸せに暮らしていること、元々知り合いだった義兄とともに冨岡の安否を心配していたことを聞き出したので、それを炭治郎に伝えてやった。少々表情が翳ったが、炭治郎は冨岡へと問いかける。
「お姉さんのところ、様子見に行かなくていいんでしょうか?」
「………、……うちは、二人家族だった。親代わりでもあったから、ひと際心配性なきらいがある」
両親がいなかったのか。病か蒸発かはわからないが、これほど立派な屋敷を遺すのだから金銭に余裕のある親だったのだろうと予想はできる。善逸のように捨てられたわけではないのだろうな、とぼんやり考えた。
親の代わりに頑張り続けた姉に怪我を負わせてしまった冨岡は後悔してもし足りないそうだが、それを気にせず義兄は本来の時期より遅れてもきちんと姉を娶ってくれたという。善逸だって鬼であろうと怪我をしようと禰豆子を娶る気満々だが、傷物だなんだと婚約を反故にする男の風上にも置けない連中がいたりもするらしい。最低な奴らだ。
「だから安心して任せられたんだが、鬼殺隊に入る時は揉めた。ずっと反対してたな」
「まあ、そりゃそうなんじゃないですか? 炭治郎の家族だって反対してたんだろ、鬼殺隊に入るの。お姉さんめちゃくちゃ反対してたって」
「ああ……まあそれは。隊士になってから会ってないけど……」
なにやら当時不死川に言われたことを守っているらしく、家族とは手紙でのやり取りしかしていないらしい。それを聞いた冨岡は少し複雑そうな顔をした。死と隣り合わせの鬼殺隊において、会いたい人に会わずにいるなど馬鹿の極みだと善逸は思うが、決心が鈍るとかなんとかあるのかもしれない。
「藤の花の家紋を掲げてくれはしたが……そもそも鬼殺隊を良く思ってない。それに、……合わせる顔がない」
「………」
冨岡は姉に愛されていた自覚があるのだろう。だからこそ、自分が死んだ時の動揺がどれほどのものか図り知れないということなのかもしれない。善逸にはわからない家族の情だ。師はそれに似たものを与えてくれたけれど。
「藤の花の家紋の家なのか……じゃあお世話になったりしたかもしれないのかな。……でも、管理してるのがお姉さん夫婦なら、いつか鉢合わせるんじゃ?」
「………」
姉から冨岡の姿は見えなくとも、冨岡からは姉の姿が見えるはずだ。憔悴しているのか、幸せそうにしているのか。何年も前に死んだと冨岡は言うが、愛していた家族を失くした姉は、その数年で立ち直ることはできるのだろうか。善逸にはわからなかった。
「お前たちは生きて帰れよ」
「……む、無茶振りでしょそんなの……冨岡さんが死んでるのに……」
話を逸らされたような気がするが。
いつもいつも死んだと思うことばかりだというのに、どれだけ強いと言われたって、信じられない気分になることのほうが多いのに。炭治郎はともかく、善逸はそんなこと約束できるわけがなかった。
だってその後の水柱が空席になるほどの剣士だったはずの冨岡が死んでいるのだ。わかりました、なんて口にできるわけがない。
「精進を怠るな。お前たちは強いが驕りは禁物だ。常に冷静さを忘れるな」
泰然としていろ。それって水の呼吸の教えなのではないかと思いはしたけれど、どの呼吸にも通じるものなのかもしれない。確かに冷静さを持っていなければ、雑念ばかりの善逸なんて泣くわ喚くわ気絶はするわで戦えたものではなかった。
「泰然さだって炭治郎」
「はいっ! 生きて帰ると約束はできませんが頑張ります!」
素直すぎる。とはいえ言いたいことは善逸も炭治郎に似ている。逃げ出したいと思うほどに怖く感じる善逸でも、逃げては駄目な時があることくらいわかっている。柱になるためにはその恐怖を克服しなければならないのだ。
それが一等難しいこともわかっているけれど、兄弟子と友がついているから頑張れる。
たぶん、きっと。
*
獪岳とは別行動だったのだが、まさか悲鳴嶼と一緒に現れるとは思っていなかった。
知り合いだったのかなあ、と眺めながら、獪岳の音がまた少しだけ変わっているように思えた。詳しく話を聞くのをやめておくことにしたのは、柱に囲まれて萎縮させられ血反吐を吐きそうだったからというのもある。
結局当主の許可を得ることができて向かった刀鍛冶の里で上弦の鬼に襲われ、撃退した後の柱合会議である。
善逸と獪岳、そして伊之助は初参加だ。どうやら普段は当主が現れるのだが、体調不良のためお内儀が代役を務めたということだった。善逸たちが呼ばれた理由はただ一つ、柱の任命である。
これから鳴柱という重いものを兄弟子と二人で背負うことになる。
なりたい、とは考えていたが、本当に柱になれるとは思っていなかった気がする。その通達に驚いて声を出せなかった時、癇癪を起こした伊之助が暴れたことで我に返ったが、宥めるのに非常に苦労した。すぐに追いついてやる! と意気込む猪頭に勢いで殴られた結果、怪我の完治が少し延びたことは許していない。しかもその後遅れて伊之助にも通達が来て、善逸は殴られ損ということになったのである。絶対に許さない。
善逸たちが柱を任命されたのは、特に煉獄が推薦してくれていたのだそうだ。
リハビリ中の煉獄は復帰に意欲的ではあったが、柱の仕事ができていないことを人知れず気に病んでいたのだろう。有望な隊士がいるなら引退するということは確かに言っていたらしいのだが、それが善逸たちや伊之助を指していたとは思わなかった。もしかして刀鍛冶の里に向かえたのも、当主が煉獄の進言を汲んでくれたのかもしれないと善逸は考えた。
「背負うものが重いよ……いやでも、爺ちゃんのためにも報いなきゃ」
「……強くなったなあ善逸。一緒に頑張ろう! 伊之助も獪岳さんもこれから冨岡さんのところに報告に行きますか?」
背中をぶっ叩かれて少々痛みを伴ったが、炭治郎は善逸の成長を喜ばしいと思っているらしい。悲鳴嶼のそばを離れて他の柱へ挨拶を終えてからこちらへ近づいてきた獪岳に、炭治郎はにこやかに問いかけた。
冨岡が連れてこいと行った後、伊之助もきちんと連れていったので顔見知り、いや声見知りだ。結局姿は伊之助にも見えていなかった。しのぶの継子であるカナヲは誘う暇がなく連れていくことはできなかったが。
「は? 冨岡? ……水柱のか?」
「そうですけど……」
獪岳が答える前に聞こえたらしい伊黒が驚いたように口を挟んできた。この人は苦手だ。不死川も怖くて苦手だが、炭治郎へのネチネチした態度を見ていたら伊黒も苦手になってしまった。獪岳は悪い人ではないと言っていたが。
「水柱の墓前に貴様が行って何があると――」
ぶお、と一陣の風が善逸たちと炭治郎の間で吹いた。
正確には一陣の風になった不死川が炭治郎を掴んで通りすぎたのだが、それに気づくのに一瞬かかってしまい無駄に凄さを実感してしまった。同じ柱になってもこれほどの違いを見せつけられると、元々ない自信が更になくなってしまう。
「……言うのかね……」
「さすがだぜ、おっさん」
しかし、速さについていけていないのは善逸だけではなかったらしい。ネチネチと話していた伊黒が言い終わるよりも前に炭治郎は消え、少し離れたところで不死川に首根っこを掴まれていた様子に彼もどう反応していいか困っているようだった。あの様子は炭治郎も驚いているが、伊之助は馬鹿みたいに感心しているだけだ。
「あの人冨岡さんの名前が出ると目の色変わるんですよねえ」
「えっ。も、もしかしてただならぬ仲だったのかしら!?」
「やめてくれ甘露寺……二人の名誉に関わるだろう」
心底興味津々な様子の可愛い甘露寺に比べ、本気で嫌そうな伊黒の言葉にこればかりは同意した。どちらかといえば善逸は不死川より冨岡と関わりが多かったが、男同士でなんて悍ましくていつもと同じ態度で過ごせなくなりそうだ。想像したくもない。
「まあ、うっかりさんでしたから、案外流されるままにそういう仲になる――なんてこともあったかもしれません」
「胡蝶!」
「冗談ですよ」
「……何年も経つというのに、冨岡の存在感は消えないな……」
「………」
そりゃあ消えていないのだから、存在感があってもおかしくはないと善逸は思う。今回は周りを気にせず炭治郎が口にしたせいだが、こうして過剰にも見える反応をする不死川も原因のような気はしていた。
「冨岡が、なんだってェ……? 聞いてねェけどォ……?」
「すみません、報告忘れて。いやその、野方村に冨岡さんの生家があるんですけど。そこに地縛霊みたいにいらっしゃって……」
「………! 地縛霊だァ?」
「そうなんです、結界? みたいなのがあって出られないそうで。狭霧山で会った時もそうだったらしくて、俺に稽古つけたあと急に追い出されたとか」
妙なことになっていやがる。
突然まるで生きているかのように話を切り出した竈門につい取り乱してしまったが、勝手に死ぬからこういうことになるのだと文句を心中でぶちまけた。
竈門自身は狭霧山以降、冨岡のことは認識できないらしく普段の意志の疎通はもっぱら我妻善逸を介しているという。何故我妻だけに見えているのかは謎だが、おかげで色々と教わることもできているのだとか。乗り移れば脳内で会話もできるとかなんとか。なんでもありかあいつは。
しかも竈門だけでなく稲玉も嘴平も知り合いとは、一度目の人付き合いの悪さはどこに行ったというのだ、腹が立つ。
「行きますか?」
「……いや、いいわ。俺は……全部終わってから手向けにでも顔出してやるよォ」
「……そうですか」
死人相手に会うも何もない。そもそも何故こちらから顔を出してやらねばならないのだと改めて思い出した。挨拶に来ない理由は大体わかったが、それで不死川から会いに行く理由にはならない。いや会いに行くってなんだ、冨岡なんかに会いたくもない。顔を出すのもおかしな話だ。
相手は死人だ。不死川が死んだ時に殴れればいいのだから、わざわざ顔を出すことだってしなくていいはずなのだ。
*
「……冨岡さん……?」
異変があった。
屋敷には音が増えていたのに、見えていたはずの姿がそこにはなかった。不審者だと思われてしまうことも頭ではわかっていたけれど、それでも確認しなければと思ってしまったのだ。
俺たち柱になったよ。そう報告しようと思ったからこうして獪岳たちとともに訪れたのに、目当てにしていたユーレイはいない。
ここから出られない。そう言っていたはずなのに。
「……どなたですか?」
今までいたはずのユーレイが消え、代わりに聞こえてきた音。覚えのない声が善逸たちへとかけられた。襖の奥から歳上の女性がこちらを窺っていた。
綺麗な人だった。草臥れたような雰囲気が善逸よりもひと回りは歳上に見えたけれど、笑えばきっと若々しく見えるのだろうと思えるような人だ。
ああ、この人は冨岡さんのお姉さんだ。そう気づくのにさほど時間はかからなかった。
「……その隊服……鬼狩り様、ですか。申し訳ありません、ここは誰も住んでいないので……」
「あ、あの! 任務中にちょっとここで落とし物して、探しに来たんです。人がいないから勝手に入ってしまってすみません……」
「そうですか。見つかればいいのですけれど」
柔らかい声だ。不審そうな音を鳴らしていたけれど、彼女はびっこを引きながら室内へと入っていく。聞いたとおり足が悪いのだ。
鬼殺隊を良く思っていない。以前冨岡はそう言っていた。今も不審そうなのはそのせいかもしれない。
断りを入れて部屋をすべてまわり、冨岡の姿がどこにもないことを確認する羽目になり、善逸は彼が言っていたことを思い出していた。
出られないということは、やることがあるのだろうと思う。確信はなくともそう口にしていて、狭霧山では稽古を終えたらそこを弾き出されたのだと言っていた。だから今回も、有無を言わさず移動させられたのかもしれない。姉に会うこともなく、柱になった報告を聞くこともないまま。
元は死人だ。ユーレイである。ここにいたことがおかしな話だが、それでも今まで世話になった人が消えるのはなんともすわりの悪い気分だった。
何をするために留まっていたのか、明確なことは何もわからない。善逸たちを柱へ成長させるためだろうかと思うことはあったけれど。
それがいつまで続くのか、冨岡の仕事はあとどれだけあるのか。死んで終わりではないそれが辛くはないのか、姉に会える日はいつなのか。善逸はお節介にも考えてしまったことがあった。
家族のいない善逸にも、会いたい人に会えないことが辛く寂しい日々であることくらい理解できている。合わせる顔がないなどと言っていても、会いたくないわけではなかっただろうことくらいもわかる。
もう少しくらい、待つ時間があったら良かったのにな。
それとも、姉の姿をひと目でも見てからどこかへ行ってしまっただろうか。それはそれで後ろ髪引かれることになりそうだとも思うので、どちらにしろ辛いことに変わりはないのだろうと勝手に寂しくなってしまった。
結局のところ、俺のようになるなと口にしていた冨岡の気持ちはわかってしまったのである。