茨の先に曙光は差すか—余波

「柱が任命されるらしいわね! どんな人なのかしら」
「さあ……どうでもいいかな……」
「水柱は相変わらず空席ですけど、もしかして」
「後釜に座れる者が現れたとでも? ――宇髄はどう見る。お前は今回の会議で引退するんだろう」
「まあなあ。俺も水柱が来ると思ってたんだが、違うだろうな」
 同僚の会話を耳に入れながら、不死川はぼんやり庭の池を眺めていた。
 ここ最近で不死川が干渉したのは那田蜘蛛山での任務の後のこと、上弦の参との戦闘だ。全員怪我を負いながらも結果的にその場にいた隊士とともに鬼の頸を落とすことに成功はしたものの、中でも重傷だった煉獄は未だリハビリ中だ。本人はやる気もあり車椅子ながら今回も会議に参加しているが、実質柱の仕事はできないのだから後釜が来れば引退するという。相変わらずうまくはいかない。
 その上遊郭で上弦の陸とやり合った宇髄のところへは救援に間に合わず、一度目と同じく片目と片腕を失くして引退という形になった。
 結局不死川ができることといえば、鍛錬に明け暮れるくらいである。それも隊士たちが血反吐を吐いて気絶するほどの熾烈な鍛錬。そう言ったのは隊士の噂話を聞いていた宇髄だったが、何が熾烈だよと不死川は不満だった。あんなもので熾烈などと言われては、この先鬼舞辻無惨と渡り合えるはずもない。
「なに? 本当にあてがいたのか。誰だ?」
「不死川がよく知ってるだろ。例の拾壱ノ型を扱う隊士」
「なんだと!? そんな奴が……水柱の直弟子とかか?」
「いや。でもあいつが極めてるのは水の呼吸じゃねえからなあ」
 宇髄の話に食いつくのは伊黒だ。水の呼吸から派生させている蛇の呼吸だが、関わりのない今回に至っても気にはなっているらしい。宇髄に不死川の名を挙げられて、会話の中心へと一気に引きずり出されてしまった。
「不死川の弟子か?」
「なっ……あ、あいつが!? まさか!」
「んなんじゃねェよ、なし崩しに鍛えてやっただけだァ」
「あら、意外ですねえ。弟さんにしか興味がないのかと思いましたが」
 ちくりと刺してくる胡蝶は相変わらずである。不死川が稽古をつけていた相手のことも知っていての嫌味だ。伊黒も不死川の鍛錬相手を知ってはいたものの、まさか拾壱ノ型を扱えるような隊士だったとは思っていなかったらしい。まあ、それはそうだろう。性格を知らない、もとい一度目の性格を知らない伊黒ならば、実績だけを見た冨岡への感情など悪いものにはなり得なかった。後釜を指名しない産屋敷が原因なのもあるだろうが、むしろ水柱冨岡義勇を随分買っているのである。それを知るたび不死川は笑ってしまいそうになっていた。
「おはようございます!」
 遊郭の任務からしばらく経ち、まだ前線に戻れるわけではないが、動けるようになってからの柱合会議である。一度目にはいなかったはずの人間がその場に現れ、場の空気は割れた。
 隊士が噂したという不死川の熾烈な鍛錬。それについてきたのがこの子供、竈門炭治郎である。上弦の参との戦闘についてきたのも竈門だった。
 稽古には途中から嘴平伊之助も殴り込んできたが、それはともかく。竈門を見て宇髄や甘露寺、そして煉獄、奴に対して悪感情を持っていない連中の空気は柔らかかった。対して非常に敵意を剥き出しにしているのが伊黒。別に伊黒ほど厳しい目を向けるわけではないが、率先して助けることもないというのが胡蝶と悲鳴嶼だ。悲鳴嶼はともかく胡蝶は姉が生きているからか、一度目よりも怒りが全面に出るようになっている。まあ胡蝶の竈門への対応は不死川のせいもあるので申し訳ないとは思っている。とはいえ私情を置いて仕事はきっちりするのだからまだいいが。
 時透に関してはもはや仕方がない。不死川はこの子供がどうやって記憶を失くしたのかを深く知らなかったし、家族共々助けることはできなかった。おかげで今はまだ一度目と変わりのない忘れやすさである。まあ、竈門がいればどうにかなりそうな気もするが。一度目はなんか懐いていたし。

「このたび日柱を拝命いたしました、竈門炭治郎です!」
 この場の皆様の隣に並ぶにはまだ全然足りないと自覚している。しかし、恩人に報いるには自分自身がもっと経験を積まないといけない。そのために柱を拝命することに決めた。ご指導ご鞭撻のほど賜りたく。
 柱合会議が終わった後にもこうして畏まった挨拶をした竈門炭治郎は、名乗り上げたとおり日柱になることとなった。
 鈍った身体を叩き直してやる。そう口にして蝶屋敷で療養していた竈門を連れ去ったおかげか、二人して胡蝶には随分絞られた。おかげで胡蝶は竈門にもちくちくと言葉で刺してくることが増えてしまい、悪かったとは思っている。
 不死川は自ら稽古をつけるなどということは今までもしてこなかった。しかし那田蜘蛛山の一件から、竈門炭治郎を限界までしごくことに決めたのだった。
 冨岡がいなくなってから、不死川は竈門炭治郎が鬼殺隊に来るのを待っていたのである。こいつには強くなってもらわなければならない理由があった。とてもではないが人にはうまく伝えられない、不死川にとっては重要な理由だ。
 風柱邸で熾烈と称される稽古をつけている間、煉獄に日の呼吸について聞いてやったりもした。父が知っているかも、という内容の文を手に竈門を連れて煉獄家に顔を出しもした。癇癪を起こす馬鹿親父をどうするのかは竈門に任せたが、かつて不死川が喰らった頭突きをお見舞いしていていい気味だとも思ったりした。強行させたようにも思えるが、結果的に煉獄家も協力したのだから助かった。
 風柱邸に住み着くようになった竈門とその妹は、隠になっている弟ともしれっといつの間にか仲良くなっていたりもした。日の呼吸の極意を煉獄家から聞かされた竈門は、痣を濃くしながら日々身体に叩き込んできた。
 額の痣は寿命の終わり。本当なら出さずに済むのが理想ではあるが。
 この子供には、柱になってもらわなければ困るのだ。
 柱だなんてと自信なさげにした竈門には、凪を扱うくせにと鼻で笑ってやりもした。
 型なんてものはきっと、編み出した当人であるかどうかなど関係ない。水の呼吸を極められなかろうと、使えるものは全部使って足掻くしかないのだ。やることなどそれだけである。不死川とてそうするしかなかった。
 ただそれだけのことが、死ぬほど難しいだけだった。
 だが、それに耐え抜いて柱になったのだから、竈門は死ぬほど足掻けた結果が出たのである。これから先はもっと足掻くことになるが。
「……先代水柱の同門であり風柱の庇護下の隊士が、よくもまあここまで成り上がったものだ」
「ありがとうございます!」
「いや伊黒は褒めてねえぞ」
「お世話になった方々に恥じぬよう精進します!」
「相変わらず話聞かねェな……」
 まあこれは今に始まったことではないが、このカチコチの石頭はもはや治しようがない。冨岡がどうやってうまく関わっていたのかさっぱりわからなかった。
 とはいえ、ようやくここまで来た。
 ――てめェの弟弟子を守りてェのはわかるが、守られる側にいられ続けるのも困るんでなァ。
 頼まれたのだからどう使おうと不死川の勝手である。困るのなら死ななければよかっただけの話だ。
 生き続けるのが死ぬほど難しいことくらい不死川は嫌というほど知っているが、それでもあの男には文句を垂れてしまうのだった。

*

 話ができるからすっかり忘れていたけれど、死人なのだから供物が必要なのではないかと善逸は考えた。
 といっても、善逸が思いつくのは饅頭とか落雁とかそういったものくらいだ。好物でも聞いておけばよかったと思いつつ、自分が食べたいものへと目が探してしまう。
「何してるんだ?」
「あ、炭治郎……いやその、お供え物を」
 同期であり柱となった友――竈門炭治郎が通りがかった際に善逸へと声をかけてきた。階級が上がって上官となっても態度は改めないでほしいと言われていて、善逸自身はそんなことをするつもりはまったくなかったものの、特別な友人同士のような気がして少し嬉しかった。
「お墓参りか?」
「いやお墓の場所は知らないんだけど……お世話にはなってるから……」
「………? そっか」
 不思議そうに首を傾げた炭治郎は、迷っている善逸に向けてあれやこれやと指していく。菊の花、隊士ならば藤の花とか、それとも食べ物がいいか、何が好きなのか。もっぱら善逸が喋るだけの状況で、冨岡が話すことといえば鍛錬や鬼殺に関することくらいだった。なので好物も何も知らないと答えると、炭治郎はううんと唸ってからおはぎを指した。
 お下がり目当てで饅頭に目をつけていた善逸の心中を見透かされたような気分だったが、お彼岸の菓子だからという理由で炭治郎は選んだようだった。彼岸など関係ない時期ではあったが。
「どんなことで世話になったんだ?」
 一緒にお参りに行こう、と言われて断りきれず何故か炭治郎もついてくることになり、どんな関係の相手だったのかを問いかけられた。
「まあ、隊士としてのあれこれみたいな……」
「へえ。なんか変わった気がしたのはそのせいかな? 自信が出たように見える」
「自信なんか……」
 妙なことを言うものだ。善逸は相変わらず怖がりだし泣き叫ぶし、獪岳はそんな善逸に怒鳴り散らすことばかりである。冨岡が入っている時は静かだが、それは善逸もそうだったりするので結局冨岡が静かなだけだ。
「……ここ?」
「うん」
 門扉を眺めてやけに驚いた様子の炭治郎だったが、善逸が入っていくのに続いてついてくる。
 世話になった人が昔住んでいた家だと聞いている、と世間話のついでに話を振った。彼には姉がいるが嫁いでからここは空き家で、今は誰も住んでいない。まあユーレイはいるのだが、それも一時的なものだろうと冨岡は言っている。要するに用が済めば彼は成仏してしまうということなのだろうが、少し寂しいと思うくらいには仲良くなってしまっていた。
「……あのさ、今からちょっと独り言言うけど……気にするなよ?」
 やはり炭治郎を止めればよかった。独り言にも関わらず話しかけるような内容は気味悪がられても仕方ない。いやまあ気味悪がられること自体はもう慣れてしまっているが、それでもやはり嫌なものは嫌である。不審というよりは訝しんでいるような顔をして頷いた炭治郎が馬鹿にするつもりはないだろうとも思うけれど。
「こんにちはあ」
「ちょっと待て。何を連れてきてる」
「え? 同期の奴ですよ、柱ですけど……」
「答えるんじゃない。変な奴だと思われるぞ」
「変な奴とはもう思われてますんで……」
 そういう問題じゃない、と頭を押さえた冨岡に善逸は首を傾げたが、もしかして炭治郎を連れてきては駄目だったのだろうか。獪岳を呼ぶなら誰が来ても気にしないのかと思ったが、そうではなかったか。悪いことをした。
「いや、炭治郎は悪い奴なんかじゃ」
「知ってる。狭霧山で稽古をつけたのはそいつだ」
「……えっ?」
 聞いてみればわかる、と一言の後、覚えていたらだが、となんとも自信なさげな言葉が続いた。稽古をつけた相手を炭治郎なら忘れないと思うが、相変わらずの訝しげな顔に恐る恐る振り向いた善逸は問いかけてみることにした。
「……あの、炭治郎。あっちのほう、何か……見えたりする?」
「……見えない」
「そっか……じゃあ、その、狭霧山で稽古つけた人って覚えてる?」
「凪がここにいるのか!?」
「ひいっ!」
 あんまりな勢いで両肩を掴まれ善逸はつい悲鳴を上げた。炭治郎の顔が非常に鬼気迫るというか、切羽詰まったような表情だったのもある。ちらりと冨岡へ視線を向けたが、こちらはこちらでなんか驚いていた。
「凪じゃない! 冨岡義勇さんがここにいるんだな!?」
「は、はいっ! います! ユーレイです!」
 一瞬泣きそうな顔をして、ようやく炭治郎は善逸の両肩から手を離した。
 表札がとても覚えのある名字だった時点で、なんともいえない気分だった。善逸が誰かに話しかけるような独り言を口にした時、そこに何かがいることは理解した。炭治郎自身も狭霧山で人ならざるものに出会ったからだ。善逸が問いかけたことでその存在が見えないことにひどくがっかりしたけれど、いるのが冨岡だとわかってつい取り乱した、のだとか。
 冨岡義勇は炭治郎の兄弟子で恩人。もしかして、だから善逸に色々世話を焼いてくれたのかもしれないと思い至った。
「あの! 俺、このたび柱を拝命しました! 水柱にはなれませんでしたけど、……水柱の席は、冨岡さんの型を使える人がいない……冨岡さん以上に呼吸を極めた人がいないという理由で未だに空席です。煉獄さんは残念そうでした」
 長い歴史の中で水と炎は途切れたことがなかったのだと聞く。俺が途切れさせたと小さく冨岡は呟いたけれど、聞こえていない炭治郎はなおも話を続けた。煉獄も今はリハビリをしていて、復帰に意欲的ではあっても現時点では空席の状態だ。
「俺は日柱を拝命しましたけど、これは凪を扱える剣士だからというのも理由だと言われました。まあ鼻を使わないと難しいんですけど。……始まりの呼吸とか日の呼吸とか、俺には未だにわからないことが多いです。煉獄さんたちが色々調べてくれて……。……でも、不死川さんと凪に稽古をつけてもらわなかったら、俺は柱にはなれませんでしたから。お二人には感謝しかありません。ありがとうございます! 本当に頑張ります!」
 実をいうと炭治郎が頭を下げた先と冨岡は少しずれた場所にいるのだが、突っ込まないほうがいいかなと善逸は空気を読んだ。冨岡はどこか満足げな顔をしているし、あまり気にしていないような気がしたので。

「それからこれ、お供え物……今更ですけど」
「……おはぎか」
「嫌いでした?」
 炭治郎の挨拶が終わって落ち着いた頃、善逸は購入してきたおはぎを冨岡へ差し出した。珍しく小さく笑った冨岡に問いかけると、おはぎが好物の知り合いを思い出したのだと教えてくれた。
 いつもより嬉しそうに見えるのは、炭治郎とおはぎのおかげかもしれない。
「冨岡さんは、俺が炭治郎の同期って知ってたんでしょ。だから俺たちに……色々教えてくれたんじゃないの?」
「稲玉は同期じゃないだろう。そこは関係ない」
 そういえばそうだった。しかも善逸より妙なことを言われていたっぽいのだ。では獪岳を目当てにして冨岡は留まっているのかもしれないな、と善逸は考えたのだが。
「誰でもいいわけじゃない。炭治郎だけでなく、……お前たちが柱にならなければ。良かったというべきか嘆くべきかは悩むところだが」
 柱の仕事量は多いという。ただでさえ死の危険は間近にある仕事なのに、柱になればそれは更に跳ね上がる。まだ成人前である善逸たちに頼むことが最善であることが、情けない限りだと冨岡は言った。
 それはそうだと思うのだが。そもそも冨岡だって善逸たちの年齢よりも先に柱になったと隠に聞いたし、歳下の霞柱がいるのが現状だ。天才すぎて遠い人だし、柱は皆そんなものだと聞いたことはあるが。まあとにかく、それでも善逸も柱になることが最善と言われたのはやはり嬉しかった。
「あの、善逸たちにしてる稽古? 俺にも受けさせてください!」
「冨岡さんこっちだよ」
 がばっと頭を下げた炭治郎に結局突っ込みを入れ、善逸が指した方向へと彼は頭を下げ直した。しかし冨岡は澄ました顔のまま炭治郎の旋毛を眺め、炭治郎に用がなくなったから認識できなくなったのではないかと持論を口にした。狭霧山では見えも触れもしたらしいので、確かにその可能性はあるのかもしれない。
「失礼します。今更だけどこの間鮭大根好きだって聞いて……来てやがったのかよカス……、あ、日柱……様」
「あ、あの炭治郎で大丈夫です!」
「どうも……」
 獪岳が現れて冨岡の目が輝いた。同じくお供え物を持ってきたことがまるで思考が同じだといわんばかりで少し複雑だが、善逸と違い獪岳は先に好物を聞き出していたらしい。いつの間に。まあ、声も姿も認識できないのだから乗り移られた時しかないか。
「炭治郎にも乗り移ってみたらいいんじゃないですか? 用はないと言ってもほら、一応来てくれたわけですし」
 ユーレイに教わるなんてとんでもなく有り得ないことだとは思っているが、稽古自体は大事なものだと善逸もわかっている。率先してやりたいわけではないが、死にたいわけでは決してない。教われる人というのは本当に大事なのだと理解してもいるのだ。
 宇髄は頼みを聞いてくれたが、片目片腕では限られることも出てくる。善逸の育手も現役の柱とはやはり違うと感じられた。そもそも現役は忙しくて時間もないし恐いし、内側から体の使い方を教えてくれるなんてことが人生であるとは思わなかった。やってみるのもありだと思うのだ。
「……まあ、試すくらいなら……」
「なあ、今からお前の中に冨岡さん入るけどいい?」
「え!? あ は、はいっ!」
 間髪入れずに頷いた炭治郎に、少しは考えろと冨岡から苦言が飛んだ。それを伝えると真面目くさった顔をして、判断は素早くと凪が言ったのだと炭治郎が言う。凪とは狭霧山に現れた冨岡の偽名だったらしいが、どこか疲れたような顔を晒した冨岡に、この人は生きていても炭治郎に勝てなそうだなあ、と善逸はぼんやり考えていた。
「んぐっ、」
 しかし、冨岡の判断は結局早いのである。早速炭治郎の中へ消えた瞬間、やっぱり耐えきれなかったのか片手でなんとか身体を支えていた。そのあたりは炭治郎もさすが柱というところなのかもしれない。なんだか少し遠く感じた。
「な、なんか……水の中にいるみたいだ。……息苦しいのか心地良いのか、よくわからない……。あ、はい……」
 独り言のように喋るのはいつものことだ。獪岳も善逸もこうして冨岡との対話を試みて身体の使い方を調べていく。冨岡が使う身体の動きは眠らなければ善逸も感じられて、倣うと動きの無駄を減らせているような気がするのである。冨岡本人は意味があるのかと訝しげだったが。


 落ち着け、と静かな声が頭の中で響いてくる。膜の内側から聞こえてくるような感覚だった。
 この声、聞き覚えがある。正確には似ている、だが、凪より低い大人の声が炭治郎の脳裏で響いているのだ。これが本来の、あの時家族を救けてくれた冨岡の声なのだろう。
 ――無茶をしてるな。
「……で、でも、俺は無茶をするしかできません。励めって凪も言ってくれました」
 そう答えると冨岡はしばし黙り込む。凪と名乗った時も思ったことだが、元来口数はそう多くないのだろうと思える寡黙さだった。それが心地良く感じられるくらいに、炭治郎を慮ってくれているとわかるのは何故だろうか。
 ――………。お前にしかできないことがある。そのためには無茶が必要にもなってくる。……だが、効率の良い鍛錬というものは、やはり師がいなければならない。
「はい」
 師という括りに入れていいのかはわからないが、炭治郎は鱗滝や凪以外にも教えを請う相手がいる。忙しい中を縫って炭治郎を殺す気で稽古をつけてくれ、更には呼吸のことまで気を配ってくれるのだから、そのおかげで今こうしているのだから感謝している相手だ。
 ――無理をするなとは俺には言えん。してもらわなければ勝てない相手だ。
「いいえ、当然のことです。俺はあなたの分まで鬼を斬らなければならない。報いなければならないので」
 ――お前たちに頼らざるを得ない己の不甲斐なさを恥じなければならないが、……頼もしくなった。
 水の奥で笑ったような気がして目を開けたけれど、心配そうな善逸と眺めているだけの獪岳が視界に映るだけだった。冨岡の姿は炭治郎には見えない。
「まだまだです、俺は」
 ――……不死川は荒々しいが、面倒見のいい男だ。俺の頼みも聞いてくれた。お前の頼みなら聞くだろう。
「はい、優しい人です。……もしかして彼が切腹を懸けてくれたこと知ってるんですか? ――ぐうっ!」
「炭治郎っ!?」
 突然感覚が変わり、炭治郎は驚いて呻き声を上げてしまった。聞こえていた冨岡の声は聞こえなくなり、水中のような感覚も消え去っていた。
「お、終わった? なんかすごい狼狽えてるんだけど、冨岡さん」
「えっ!? 俺何か悪いこと言いましたか!? すみません、もう一回」
「いや、もう落ち着いてる……もういいってさ」
 何に狼狽えたのかわからないが、冷静になるのが早すぎる。これが柱というものなのかもしれない。不死川は怒りも頻繁に表すのだが、柱としての在り方も人によって随分違いがあるのだろう。
「………。……励んでるのがよくわかったってさ」
 心配そうな善逸の眉尻が少し困ったように下がっていく。冨岡は一体どんな顔をしていたのだろう。労いの言葉を言ってくれたそうだが、それを伝えてから冨岡がいるらしき場所へ目を向けた時、善逸はぎょっと驚いて固まった。
「なんなんだよカス。早く伝えろ」
「………。……“お前たちには酷なことを頼んでると自覚してる。その手で悪鬼滅殺を果たしてほしい”。……あ、頭は、下げなくたって別に……」
 お前たちがいるこの時代で、必要なものが必ず揃う。揃わせなければならない。機を逃せば鬼舞辻無惨は逃げおおせ、二度と尻尾を出さないだろう。そのために利用できるものはなんでも使え。善逸らしくない口ぶりが、冨岡の言葉をそのまま伝えてくれているのだと理解できた。
 悪鬼滅殺を果たすために。そのために誰であろうと戦わせ、死ぬまで戦うのだこの人は。
 いや、それだけではない。死んでもともに戦ってくれているのだ。
「冨岡さんが見てるものって……」
「……“未来の夜明け”。……そういや前も、未来……」
 何を意味している言葉なのか、炭治郎にはわかる気がした。死んでも冨岡が見ているのは悪鬼滅殺。未来の夜明け。鬼のいない朝ということではないかと思い浮かぶ。
 それを果たせるのがこの時代。そう冨岡は言いたいのだろう。
「………、怖いけど……は、柱に……俺も……な、なれたらいいなあとは思うので……」
「善逸……」
「も、勿論俺だって、なってからが本番だってわかってるよ。爺ちゃんのためにも……なりたいと思うし……。ひ、一人が無理でも、……獪岳と二人なら、頑張れると思うし」
 冨岡の言葉に感化されたのか、唇を噛み締めながら善逸は呟いた。獪岳は眉を顰めて睨むように善逸を眺めているが、黙ったまま動かない。炭治郎は口を挟まず黙っていた。
「あんただって、周りを見返したいって思ってるんだろ」
「そんな考えでなれるほど簡単じゃねえよ」
「そうだけど! 気持ちは何より大事だって、爺ちゃんだって言ってたし。炭治郎だってそうだよ。……ほ、ほら冨岡さんだって、火事場の馬鹿力で粘れたことがあったって、」
「……あーもうわかったよ! けどな! 俺は一人で柱になるのは諦めてねえ! 壱ノ型は必ず習得しててめえなんか追い抜いてやるからな! 失礼しました!」
 奮い立たせて同じ気持ちになりたかったのだろうと思う。怒ったように音を立てて障子を閉めた獪岳は、律儀に冨岡と炭治郎には挨拶をして屋敷を出ていったようだった。
 来た時よりほんの少しだけ匂いが変わったようにも感じられた。
「……追い抜くだって。認められてることは確かだな」
「……うう……嬉しい……」
 炭治郎には不仲の兄弟子がいるとしか言わなかった善逸だが、善逸本人は別に不仲になりたくてなっているわけではない。獪岳が歩み寄ってくれるならきっと大丈夫だろう。
「……いや、もう今更驚かないですけど、知りすぎてて怖いよ……」
「冨岡さん何だって?」
 ふと何を言われたのか、善逸は非常に複雑な表情を浮かべてみせた。問いかけると渋々口を開く。
 なんの意味があるのかはわからないが自分が役に立つならと、この際のついでに炭治郎たちの同期も連れてくるよう言ってくれたそうだ。有難い話なのに何が怖いのかと問いかけると、同期の中に破天荒な奴とかがいるだろうと明らかに知っている様子を見せたとぼやいたのである。
 獪岳の本音のような言葉も、本来乗り気ではなかった冨岡の気持ちが変わったのも嬉しく感じてはいるというが、まあ、人ならざる者になってしまったら、知っていることもあるのだろうと炭治郎は寂しく感じながらも結論づけた。
 残りの同期は嘴平伊之助と栗花落カナヲだ。胡蝶の継子であるカナヲが来てくれるかはわからないが、伊之助ならば我先にと来るだろうという確信があった。恐らくは善逸もそう考えているだろうことも。