茨の先のひと夜草
ああ、挫けそうだ。
鱗滝は岩の修行を炭治郎に課してから何も教えてくれなくなったし、どれだけ鍛錬をしても答えに辿り着けなかった。錆兎に聞いてもお前の師は鱗滝だと言って、叱咤するだけに留められた。
錆兎は炭治郎の家族を救ってくれた冨岡義勇という人と同い年の、もう一人の兄弟子だ。刀を握れなくなったのだから兄弟子とは違うと来た初日に言われていたけれど、錆兎の精神は戦う剣士のものだと炭治郎にも感じられた。きっと冨岡もそんな人だったのだろう。
恩に報いなければならない。なのに、炭治郎は未だ岩を斬れていなかった。いつまでも足踏みしたまま妹も救えないまま、家族にも会えず終わってしまうのか。負けそうだった。
「蹲るな。お前がするのはそんなことじゃない」
「………!?」
静かな声が耳に聞こえ、見上げるといつの間に大岩に座っていたのか、狐面を被った人物がいた。
匂いがしない。ふわりと降りてきた姿は炭治郎とそう変わらない背丈で、顔は見えないが恐らく同じ年頃の少年だろうと予想した。手には刀。鮮やかな青い刀身で、刃元に悪鬼滅殺と文字が刻まれているのが見えた。
「そんなことでは妹もすぐに殺されるだろう」
「なっ! なんでそれを……きみは誰だ?」
「甘ったれに教える名前は持ち合わせていない。聞きたいなら俺に勝つことだ」
「………」
真っ正面から甘ったれなどと悪口を言われるとは思っておらず、炭治郎はつい口を噤んでしまった。
以前も人から揶揄されたことがあったが、炭治郎はその評価を覆すことができなかった。顔すら見せない誰かに、これ以上どうすればいいのかわからないのだと弱音をこぼしてしまった。
鱗滝に教えられたことを毎日必死に反芻していても、これ以上前に進めないのだ。
「鱗滝先生はお前にすべてを叩き込んでいる。進めなくても根性で進め」
「やってる! やってるけど!」
それができればどれほどいいか。会話もそこそこに刀を振るってくる少年の攻撃を必死になっていなしながら、どうしても駄目なのだと炭治郎は叫んだ。
呼吸法を教えられてもまだお前は身についていない。身体が理解していない、染みついていない。意識して使わなければならない状態だと言われた。それでは岩を斬ることなどできない。
散々駄目な部分を羅列されてなんとか耳に入れてはいたけれど、速すぎて受ける体勢すら取れなかった少年からの攻撃が一瞬にして炭治郎の意識を奪い、その場から身体が吹っ飛んだ。
峰打ちだから死なずに済んだね、と女の子は言った。
目が覚めるとそばにいた女の子だ。真菰だと名乗った少女は先ほどの少年の一撃について口にした。
まるで水の流れに翻弄されるようだった。目で捉えることも難しいほどの動きだった。あんなふうになりたい、なれるだろうか。起きたばかりで興奮のままに言い募った炭治郎に、真菰はにこりと笑って頷いた。
「炭治郎ならきっとなれるよ」
あの少年について、真菰は深くは教えてくれなかった。
名前も素性も本人から聞くといい。教えてくれるかはわからないけれど、炭治郎ならきっと大丈夫。よくわからないけれど、恐らく真菰も口止めされているのだろうと炭治郎は納得した。
聞きたいなら俺に勝てと彼は言っていた。誰かから教えてもらうのはズルをすることになってしまうから、炭治郎も聞かなかったことにしてほしいと言って話を切り上げた。
少年がいない間、真菰は炭治郎の悪いところを指摘してくれた。無駄な動きや癖を直して更に呼吸に身体を馴染ませて、少年に挑む手助けをしてくれる。鱗滝が大好きだという真菰を眺めながら、きっとあの少年もそうなのだろうと炭治郎は考えた。
けれど、何度挑んでも少年には勝てなかった。
せめてたった一撃、彼の身体に届かせることができれば。炭治郎には決して追いつけないのではないかと思えるような速さ、強さで地面に叩きつけてくる少年の狐面だけでも割ることができれば。真菰も似た面を着けていたから傷をつけてしまうのは忍びないが、そんなことを考えて勝てるような相手ではない。少年は本当に、もしかしたら鱗滝よりも強いのではないかと思えるような底知れなさを感じていた。匂いを感じられないのが更に掻き立てていた。
そうして半年間はずっと負けっぱなしだったけれど、真っ正面から挑んだこの日、炭治郎の刃はようやく一瞬の差で少年を捉えた。切っ先から斬った手応えが伝わり、狐面が真っ二つに割れた。目の前の少年の顔が初めて炭治郎の前に晒された。
どこか既視感のある顔が、深い青の目が炭治郎を見つめていた。刀身は彼に誂えたような色をしていた。
「及第点だ」
一歩近づいてきた少年にふと瞬いた炭治郎は、彼の後ろで岩が真っ二つになっているのを目の当たりにした。
少年の面を割ったら岩も斬っていた。なんだか狐につままれたような気分だったが、無事少年からの合格は貰えたらしい。これで炭治郎は最終選別に行けるはずだ。
「頑張ってね炭治郎」
声を聞いて振り向いた時、真菰はすでにいなくなっていた。刀を収めた少年は、二つに割れた狐面を拾い上げて懐へと仕舞いこんだ。
「ごめん、割ってしまって……直すから、」
「必要ない。それより、……お前に、ひとつ技を教えてやる。先生も使わない型だ」
「え。そ、そんなのが……あるのか? きみは、本当に一体……」
鱗滝から教わった水の呼吸は拾ノ型まで。どうやらその先の拾壱があるのだとか。炭治郎には使えないと判断されたから教えなかったわけではなく、鱗滝もその型を使わないから教えることがないのだそうだ。
それは間合いに入った攻撃を斬って無効化する技。内容を聞いてつい顔を顰めてしまったが、この少年は一体誰から型を習ったのだろう。
「すぐに覚えろとは言ってない。俺もそこまで暇じゃないから見せるだけだが」
「え。そうなんだ……一緒には行かないのか。きみほど強ければすぐに隊士になれるだろうに」
「………。お前はそれを、大事な局面で使えるようになればいい。投げてこい」
鱗滝が設置していた罠の一部を取ってきていたらしく、そんなに入っていたのかと驚くほど懐から両手にあふれるくらいに渡された。刃物や鏃、その他諸々を一気に投げろということらしい。そんなことをして怪我を、まあ彼はしないのだろうなと炭治郎は思い直し、この際だからと勢い良くすべてを少年に投げつけた。
「うわっ!」
投げた罠は少年に当たる前に地面に落ち、すべて叩き斬られていた。彼がやったのだろうことは理解できたが、手元が速すぎて何をしたのかよく見えなかった。もう一度と懇願すると、もう一度だけだと見せてくれた。優しい。
結局目で見るのは追いつかないことがわかり、少年は鼻を使えと勧めてきた。確かに炭治郎は鼻が利くので見るよりも嗅ぐことを優先したりもするが、はて、彼に教えたことがあっただろうか。不思議に思いながらも頷いて、もう一度だけ見せてほしいと頭を下げた。溜息を吐いた少年は、無言で炭治郎から距離を取って三度目も披露してくれた。
「こんなにすごい型なのに、どうして鱗滝さんは使わないのかな」
干天の慈雨は頸を差し出した鬼のためにある型だと聞いた。使わずに終わることもあるらしいというが、拾壱ノ型はそうではない。素人に毛が生えた程度の炭治郎でも、使えればいくらでも窮地で助かるだろうと思える型だった。呼吸のことはまだよく知らないが、使う派とか使わない派とか、派閥のようなものでもあったりするのだろうか。少年は無言のままだった。
「ところで、あの……そろそろ名前を知りたいんだけど」
「……凪」
教えてくれた。
言葉数は極端に少なくても彼は優しい。足踏みしていた炭治郎に発破をかけて稽古をつけ、鱗滝が教えなかった拾壱ノ型を教えてくれた。彼と真菰がいなければ、炭治郎は今もきっと岩の前で項垂れて、果ては本当に諦めていたかもしれない。
「ありがとう! きみたちがいなかったらこんなに強くなれなかった!」
「……さっさと行け。岩を斬ったと報告して選別に向かえ」
「うん、本当にありがとう!」
「………。励めよ」
柔らかな声音と柔らかな表情が炭治郎に届き、ああ、笑ってくれたと嬉しくなった。同い年くらいに見えたのに、随分年上のようにも思えるほどの穏やかな笑みだったけれど。
及第点とは言われたものの、少年――凪は炭治郎に太鼓判を押してくれたのではないかと感じられるような笑みだった。
「行ってきます! 凪と真菰によろしく!」
最終選別へと向かった日、炭治郎は背を向けずに走り出したから気づいていなかった。
「……凪と、真菰だと?」
「あいつ、なんで……義勇の型の名を……」
本来型の名前であったはずの言葉を人の名のように呼び、それが鱗滝も錆兎も知っているのに知らない名前だったせいで、非常に困惑したまま七日間をはらはらと過ごしていたのだとか。
*
「てめェ、その型どこで知ったァ」
誰にも伝授しそうにないと思っていたし、事実奴以外に扱えない技であると不死川も思っていたし噂もあったが、指令先の那田蜘蛛山で見たものは未熟であれど同じものだった。
水の呼吸の拾壱ノ型。すべてを凪ぐ冨岡の型を目の前の子供が扱ったのである。
不死川が遭ったのは二年前だ。未だ子供であることは間違いないが、あの頃よりはましな面をしているようだった。とはいえ弱っちいのは相変わらずで、下弦程度の鬼に手こずり疲弊していた。大掛かりな血鬼術を使われそうになったところへ不死川は飛び込んだが、庇う前に子供自ら攻撃を無効化した。
完璧に防げたわけではないから怪我は負ったが、動けなくなった子供に逆上した鬼が襲いかかろうとしたところを不死川は始末した。そして疲れ果てている子供に向き直り問いかけたのである。
水の呼吸使いの中でも冨岡義勇しか使わなかった技。使えなかった技だ。確かに弟弟子であるこいつならば使うこともあるかもしれないが、それは一度目であればこそ有り得たことだろう。
「え……凪に、……あの、狭霧山にいた俺と同じくらいの子が教えてくれて……」
「………!」
「あの、あなたはあの時の……」
今は不死川の素性などどうでもよかろうが。
衝撃に絶句してしまった不死川はなんと言葉を発するべきかわからなくなり、意味のない呻き声を漏らすに留まった。苦しそうに呼吸をする竈門炭治郎が妹のもとへと身体を引きずっていく。生きていることを確認して力が抜けたようで、妹を抱えて座り込んだまま礼を告げた。
「あの時はありがとうございました。凪は……選別に向かう直前から姿を見なくなって、狭霧山を出てからはどこに行ったのかわかりません。鱗滝さんたちも妙な顔をしてたし」
「……あんの野郎!」
びくりと肩を震わせた竈門炭治郎は不死川を不審そうに見つめた。
弟弟子に凪を習得させるためか知らないが、随分手厚い支援ではないかと不死川は苛ついた。同じくらいの年齢に見えるのにとても強くて驚いた。不死川も知っているのかと竈門炭治郎が呑気に問いかけてくる。どうやら見た目を変えてまで化けて出やがったようだ。
「なんでもねェ。で、てめェはそいつを使いこなせんだよなァ?」
「えっと。今は駄目です。……でも、大事な局面までに使えるようになります。凪との約束ですから」
「………。拾壱ノ型の名前は凪だァ」
「え?」
人の名前のように口にしているが、きょとんとした顔から本人は言わなかったらしいことが察せられた。相変わらずの秘密主義だ。まあ、目の前の竈門炭治郎も奴の名は把握しているので、本名を教えれば驚かれるかもしれないから言わなかったのだろうが。
「じゃあ、あの子は……水の呼吸の精とか……?」
「ぶっ」
予想外の言葉に不死川はつい吹き出した。
我慢できず肩を震わせてしまったが、なんとか声を出すことを堪えようとした。
水の呼吸の精などというわけのわからない言葉があの偏屈な水柱を指していると考えたら、どうにも笑いのツボを刺激されてしまったようだ。
そんなものになるくらいなら、もっと他にあるだろうに。
「くくっ……あっはっはっは! 馬鹿だなてめェは、んなのいるわけねェ!」
結果的には我慢できず、暗い夜の山中で不死川の笑い声が響いた。一瞬ぽかんとした竈門はやがて頬を染めて顔を顰め、そんなに笑わなくてもとぼやきながら、件の子供から教えられた名前が同じだったからと言い訳していた。
「馬ァ鹿、そいつは凪の生みの親だよ。志半ばでおっ死んだてめェの兄弟子だァ。弟弟子が不甲斐ねェんで正体隠して化けて出やがったなァ」
本来奴がやるはずだったことを代わりにしてやっているというのに、先にこちらへ挨拶に来るのが筋というものだろうが、まったく相変わらず不死川には雑な扱いをしているらしい。それとも奴も師のもとへ還りたかったのかもしれないが。
「なんで泣くんだよ。泣いてる暇あんのかァ」
「……いえ」
妹を抱えながら涙をこぼした竈門は、不死川の指摘で乱暴に袖口で目元を拭った。
「なんで、そこまでしてくれるんだろうと思って。……俺は冨岡さんのことを何ひとつ知らなくて、なのに」
「だから、てめェの不甲斐なさに呆れたんだろ」
「……はい。ありがとうございます!」
こちらは呆れているというのに、無理やり泣き止んだ竈門が声だけは元気よく礼を叫んだ。不死川も彼と同じだと嬉しそうに言うものだから、面倒になって顔を顰めた。
「知らねェよお前のことなんざ」
「ありがとうございます!」
「話聞かねェな本当に……」
一度目の自分は竈門炭治郎と非常に折り合いが悪く、かつての未来でも深く関わろうとはしなかった。聞き分けのない我儘な弟妹たちより厄介な奴だ。溜息が出た。
大体。
弟弟子のもとに化けて出るなら、こちらにも一言礼や謝罪があって然るべきだろう。不死川はもう一度それを考えた。
任せっきりにしやがって。
「………」
いや、弟弟子のことは任せずに化けて出たのだった。そこでやっぱり苛ついた不死川は地面を蹴って悪態をついた。
相変わらず人を苛つかせる天才だ、あいつは。
そこまで頭を巡らせて、何を考えているのかとふいに我にかえった。
違う、そもそもあいつは死んでいるのだ。守りたいものを守るだけ守ってさっさと死んだのである。この世に現れるなんてことが本当なら有り得ない話なのだ。
引きずりすぎて馬鹿みたいだった。
不甲斐ないのは不死川だ。いつまでも死んだ人間に固執していないで、不死川の守りたいものを守らなければならないというのに。
だが。
――俺が代わりに逃がしちまったんだよなァ。
二人を助けてくれと言って消えた冨岡は、どこまでしろとは言わなかった。尻拭いまでやると決めたのも、腹だって懸けてやると決めたのも不死川だ。
「……仕方ねェからな。死んだら絶対文句言ってやるからなァ。せいぜい指咥えて見てやがれ」
退場すべきではなかったと後悔すればいい。この手で無理矢理にでもあの未来より良いものを引っ張り込んでやると、不死川はひっそりもう一度覚悟を決めた。