茨の先は断崖絶壁・二
鬼を匿う育手など、あの男の師以外に誰がいるというのだろう。
何かを悟っていたのか、今までの中で前回と違うことがあったことに冨岡も不穏さを覚えたのか。冨岡は今回あの兄妹に遭う前に師へ連絡をしていたらしい。
ある二人の子供の面倒を頼むことになるだろう。己を信じて見守ってくれていることを感謝し、これを最後とするから我儘をひとつ聞いてほしいと綴っていたらしい。己が誰かを狭霧山に向かわせることになった時、恐らく師ですら許容できないことを頼むかもしれない。それでも許して受け入れてほしい。そして呼吸を伝授してやってほしい。見守ってやってほしい。
なんと身勝手な奴だ。
そんな我儘を伝えてきた本人は現れず、代わりに来るのは不死川だ。
あの日事後処理に現れた隠に冨岡の羽織と竈門家の家族を任せ、不死川は前回書き方を教わった文字で文を書き、狭霧山へと飛ばしてから元水柱のもとへ足を向けていた。
「……申し訳ありません。私がひと足早く間に合っていれば」
「……いや、鬼殺とはそういうものだ。鬼舞辻無惨と対峙して犠牲が義勇のみというのは……間違いなく素晴らしい功績だ」
間に合ったところで相手は鬼舞辻無惨、忌々しいが不死川もろともやられていた可能性のほうが高かった。二人揃って鬼にされていた可能性も確実にあったはずだ。それでも。
本当に、何故間に合わなかったのだろうか。こんな気分になるのは初めてではないが。
聞き分けの良い言葉を不死川に浴びせても心は拒否しているのだろう。天狗面をずらして目元を覆い、嗚咽を漏らして弟子の死を悼んだ。
優しい、優しすぎる人だと一等優しいはずの冨岡はかつて口にしていた。弟子が死んでいくのを見ていられないはずなのに、それでも請われれば呼吸法を教える。生き残る術を教えてくれる。何度辞めていいと言われたかしれないと、師のもとに帰ってこられて本当に良かったと。
「……義勇が死んだというのは、本当だったようですね」
「下がっていなさい、錆兎」
鱗滝の背後の戸を開けた男を呼ぶ名に覚えがあり、不死川は顔を上げた。鱗滝の言葉を無視して割り込んできた男は、どこか怒りを孕んでいるような顔をしていた。
兄弟弟子がいた。最終選別で死んでしまった。友の形見を背負って己を奮い立たせていた。
これもかつての冨岡がちらりと話していたことだ。
竈門兄妹の家族だけでなく友も救っていたのか。不死川も同じく兄弟子の命を救うことができているわけだが。
冨岡の羽織はかつてと同じだ。てっきり家族も友も助からなかったのだと思っていたが、剣士にはなれずとも生きてはいたらしい。ともに戦いたいからとか、案外そういった思いで冨岡は背負っていたのだろうと予想できた。境遇が全く不死川と同じというわけではなく、もしかすると家族も生きている可能性があるのかもしれない。救いたい者を救ったのだ、奴は己の命を引き換えにして。
ああ、そうか。運良く生き延びているのは今回も同じだ。不死川はもしかしたら、家族を救えなかった代わりにまだ生き延びていて、無惨に辿り着く前に戦死するのかもしれない。死は元々覚悟してはいるが。
志半ばで命が尽きるのは駄目だ。奴は不死川に後を託すという暴挙に出たが、冨岡以外に二度目を生きている奴がいるなどと思えなかった。冨岡が死んだ以上、不死川まで死ぬわけにはいかないのだ。
「……先生。今からでも私は鬼殺隊に」
「駄目だ、お前は最終選別で肺をやられた。隊士たちの足手まといとなるだろう。義勇が必死に救い上げた命を粗末にするな」
同じ顔をしてるなァ、と不死川は兄弟子の姿を思い浮かべた。
見る気はなかった。命が助かっても剣士として戦えなくなったことに打ちひしがれている姿を、たまたま見かけてしまったのだ。昼行灯が沈んでいる様子は見るに耐えなかった。殴って張り倒してやれればよかったが、匡近は不死川の前ではいつもどおりの笑みしか向けなかった。
唇を戦慄かせて錆兎は俯いていた。そうだ。こいつも生きているのに戦えないのだ。筋肉の付き具合から、恐らく鍛錬もできないのだろう。
「風柱殿。義勇の頼みごとを詳しくご存じですかな」
錆兎に向けていた視線を戻し、落ち着いた鱗滝へと向き直った。
知っているのは不死川が二度目を生きているからで、本人から詳しく聞かされたわけではない。手短に頼むと伝えられただけだ。不死川にはそれで充分すぎるほど伝わったが。
「……恐らく、大体のことは。その兄妹のもとから直接参りました」
他の家族は本部を通して藤の家紋の家に避難させたから、竈門家の長男に鬼狩りになるための修行をつけてほしい。そして、鬼となった長女を匿ってほしい。
荒唐無稽なことを話していると思うだろう。かつての冨岡が一体どうやって説得したのかはわからないが、不死川は言うべきことを余すところなく鱗滝へ伝えた。
「それはあなた自身の考えでもあるのですか」
「……俺、は」
目上への言葉遣いを間違えたけれど、不死川は気づいていなかった。問いかけられたことに驚いて取り繕うこともなく、不死川は脳裏にこびりついて離れない冨岡の最期に意識を取られた。
「俺は、納得はしていません。師であるあなたに頼むことなんざ、弟子のあいつが最後まで自分でやるべきだった。……だが、それでもあの二人が何か違うことはわかっています。来たるべき時まであれを生かさなければならない。忌々しくてもやらなければならないことです。……あなた以外に鬼を匿ってくれるような方はいないが、耐えきれねェなら、頸を撥ねても俺は納得する」
それでは鬼は滅ぼせないけれど、人の気持ちを変えることがどれほど難しいかを不死川は身をもって知っている。自分自身の気持ちも、きっと弟の気持ちもどうにもならないままだ。
ただ、冨岡が信じた師の優しさを、不死川も少し期待したのは間違いない。一度があったのだから今回も。相手は弟子ではなくただの同僚だが、鬼舞辻無惨から竈門家を守り通した弟子に免じてほしいと期待していた。
だって弟は、歩み寄った不死川の説得で隊士にならずに助けようとしてくれているのだ。
「……わかりました、引き受けましょう。もとよりそのつもりでいた。義勇の最初で最後の我儘だ」
一等優しい水柱の師もまた、優しすぎる人である。
諾の返答に感謝しつつ、あいつ我儘言ったことねェのか、とぼんやり考えた。かつての自分が気を許されていたのか師を大事に思うこそなのか、今となってはわからない。良い友を持ったと少し笑った鱗滝に、なんともいえない気分になって黙り込んだ。
「あの子は本来刃を向けることが好きではなかった。優しい子でした」
「……知ってますよ」
「鬼殺隊であなたのような友ができて安らぎを感じていたのなら、儂からも礼を言わねばなるまい。ありがとう」
鬼がいなくなった後の冨岡を知っていても、今回の冨岡が安らぎを感じていたかなど不死川にはわからなかった。ただ、最期ばかりは安堵して逝ったことだけが確かだった。
*
柱合会議の前に産屋敷へ顛末を報告した不死川は、ひっそりと彼の様子を観察した。
穏やかな表情も気配も変わりなく、わかっていたようだった。ただ、他ならぬ不死川が鬼を逃がしたという事実には少し驚いていた。
柱とは鬼を殲滅するための兵だ。誰であっても鬼を見逃す輩がいるはずがない。ただ、そのようなことが起きた時は、柔軟な思考を持ち合わせている者だと考えていたらしい。不死川にはその柔軟な思考はないと暗に言われてしまったが、誰が鬼を匿うかまでは見えなかったようだ。
「義勇からの頼みだね。ありがとう実弥、殺さないでくれて」
やっぱおかしいわあいつ、と何度考えても一度目の冨岡の思考を理解できなかったが、それを認めてくれる師と産屋敷の存在がどれほど有難かったか、不死川は身をもって感じていた。
「けれど……義勇は鬼になってしまったかい」
「………。冨岡は……気配が鬼になっていても、理性がありました。しかし、抗っていたのは間違いありません」
竈門禰豆子が特別ならば、冨岡義勇も特別な鬼にはなれなかったか。珍しい産屋敷の言葉だと感じた。彼ならば先見の明でいくらでもわかるだろうに、それとも冨岡が鬼になる未来は読めなかったのだろうか。
不死川は頸元で刃を止めた。絶命させたのは冨岡本人だ、いずれ人を襲う衝動に駆られてしまうと悟ったのかもしれない。得意の鉄仮面で素知らぬふりをしていれば、本当に人の血肉など見向きもしない鬼になったかもしれないのに。
そんな馬鹿しか考えつきそうもないことを思いつくなど、不死川もまた少し思考が毒されているようだった。
雲取山に出没した鬼舞辻無惨と相対し、一般人を逃がした代わりに血を送り込まれたらしく鬼化しようとしていた。不死川が辿り着いた時、すでに気配は鬼のものと化していた。意識はあったが一言呟いて腹を斬り裂き、それでは足りないと察した水柱は頸を落としてひとり死んだ。襲撃を受けた家族は藤の家紋の家に保護し、そろそろ落ち着いた頃である。
柱にはそう報告し、静まり返った部屋の中で宇髄が言葉を発した。
「お前、今際の際に冨岡と話したのか? 鬼舞辻無惨とは?」
「ああ、頼みごとして死にやがった。奴とは遭ってねェ、着いた時には逃げてやがった」
「冨岡が頼みごと……何を?」
「襲撃を受けた家族の保護です。それについては隠から聞くほうが確実だァ」
頼まれたのは兄妹の処遇だが、産屋敷から直々に黙っておくように命が下れば話すわけにはいかない。悲鳴嶼はいつもより泣いていたが、そもそも柱合会議は毎回顔ぶれが変わるものだ。年単位で柱を務めていようと、死ぬ時は死ぬのだ。不死川はそれを冨岡に当て嵌めていなかったが。
「柱が鬼になられちゃ手を焼くぜ。柱として当然とはいえ、よくやったよ冨岡は」
「……そうだなァ」
腹を切ることに恐怖して死から逃れようとする姿だって、人間ならば有り得た姿なのだろう。元鬼狩りの剣士が鬼化した上弦の壱は馬鹿みたいに強かったのを覚えている。あんなのが増えたらたまったものではない。
人を殺す前に己の手で殺したのだ。宇髄の称賛は率直なものだった。
柱合会議はしんみりしていた。一度目ならいざ知らず、二度目の冨岡は案外不死川以外ともそれなりに言葉を交わしていたようだった。とはいえ不死川の比較対象は一度目の冨岡だ。他人と比べると無口の部類に入っていたようだが、それでも頭ごなしに煽り倒すなんてことはなかったらしい。二度目ならではといったところか。
「後継はまだ決まらず。しばらくは水柱不在かもな」
「……うむ! 彼以上とは言わんが、納得できる者がいないなら致し方あるまい」
炎柱に就任して早々に水柱が消えたのは、煉獄にとっても衝撃だったのだろう。
炎と水の歴史を延々語っていたこともある煉獄だ、並々ならぬ思いがあったのかもしれない。余計に次期水柱を厳しい目で見ていそうな気がした。