茨の先は断崖絶壁・一

 出来事を大きく変えることで、その後の未来が変わっていくことになるのではないか。
 ずっと奥底でひっそり燻っていた疑問だ。
 とはいえ、そんなことは己自身がこうして生きていることですでに起こった後であり今更だ。たった一度のはずの人生を、不死川は二度経験しているのだから。
 何故かなど不死川にはわからない。だが殺してしまった母親を目の前にした瞬間、気づけば今の自分の意識が切り替わったような状況で、混乱のままに泣き叫ぶ弟を引っ張って寺に詰め込んでから今後を考えた。己の記憶と身体がちぐはぐであることに腹を括った不死川は、生き残った弟と助けたかった奴らを掬うつもりで鬼殺隊へと入ったのだ。
 もとより学のない人間だ。どんなずれが生じるかなど、具体的なことは考えずにただ己が身体を張ればいいと考えた。それが今こうして最悪の結果を招いてしまった。

 かつての未来で教わった文字の書き方で玄弥と文をやり取りした後、昼行灯の兄弟子を助けた後、世話になった花柱を背に童磨を退けた後も、確かに不死川はしばらく不穏さを抱えて過ごしていた。けれど少し大きくなった弟とも繋がりを持てるようになり、助けたかった人たちは剣を持てずとも息をしていて、それを見られて満足してしまっていた。決して彼らを助けたことが間違いであったと思いたくはなかった。
「雲取山ァ! 鬼舞辻無惨出現! 水柱応戦!」
 花柱を助けたのが二年前の出来事だった。童磨を殺してから多少鬼の動きが活発化したことはあるが、上弦の鬼からの襲撃は以前から変わることはなかった。童磨と花柱の戦いに割り込んで以降も相変わらず不死川は上弦の鬼と鉢合わなかったし、鉢合わせた隊士たちは喰われて死んでいった。いつもどおりだった。
 束の間であることを疑っていたのは不死川自身だった。
 そうだ、鬼狩りにしてやられて鬼が引き下がるわけがない。そんなことはわかりきっていたことだ。
 だからって、まさかそこ・・にまわってくるなんて思っていなかった。
 この身体が十九になっていることを思い出し、鎹鴉の叫ぶ場所に血が滲むほど歯を食いしばった。
 雲取山。
 その名はある兄妹の出身地だった。
 鬼を作り出せるのは首魁である鬼舞辻無惨のみ。奴は今日竈門家を襲撃している。そしてあの男は、間に合ってしまったのだ。
「……くそがァ! 鬼にされようが最終的に生き残らせるってのによォ!」
 悪態をついたところで、そんな未来を知っているのは不死川だけだ。
 間に合わずみすみす家族を死なせてしまったと、かつて奴は一度だけ言っていたことを思い出した。
 あの時、間に合っていれば。何度後悔したことか。だが結果的に鬼を殲滅できた事実は、間に合わなかったからこそ手繰り寄せられた未来だろうに。
 間に合っていれば。奴が間に合った今、不死川にはあの男が生き延びる未来が見えなかった。何をおいても奴は兄妹を守り通すし、そのための命はいくらでも張る。今現在同門ではない見ず知らずの二人だったとしても、柱とはそういうものだ。
「―――!」
「うわあっ!」
 全速で山を駆けていたら視界の隅から現れた子供にぶつかった。謝る時間すら惜しいと思いながらも身体を支えてやると、見覚えのある顔が息を切らせて不死川を見上げていた。
 なんでこんなところに一人で。奴の弟弟子になるはずの子供が怯えた顔を見せ、ごめんなさいと謝った。急いでいるからと走り出そうとする首根っこを捕まえ、不死川はここで待っていろと一言口にした。
「な、なんでですか? すごい、血の匂いがするんです。何かあったんだ、早く帰らないと。あなた誰ですか?」
 一人だけ家にいなかったのか。だから死ぬことも鬼になることもなく生き残って育手の元へと向かえたらしい。焦る頭の片隅でひっそり納得した。
「この先に鬼がいる。邪魔だ、ここにいろォ」
「鬼……? 鬼、なんて……で、でも、家族が心配で」
 血の匂いがすると子供は言った。
 奴が間に合ったならば子供の家族はまだ生きている可能性もあるが、もし間に合わずに鉢合わせただけだった場合は最悪の結果になってしまう。耳飾りをつけたこの子供だけは鬼舞辻無惨のもとに行かせてはならない。対峙するなら、もっと後だ。
「おい来んなっつったろォ!」
「知らない人の言うことなんか利かない! 俺の家族が危険かもしれないのに待ってられないんだ!」
「うるせェからそこで動くなァ!」
 腹に一発拳を叩き込み、崩折れて蹲る子供を尻目に不死川は走り出した。
 相変わらずの頭の固さだ。問答すら時間がないというのに余計な手間をかけさせやがる。
 そうしてしばらく駆けたところで血の匂いが濃くなっていき、不死川にも感じられるほどになってきた。だが鬼舞辻無惨は去った後なのか鬼の気配は感じなかった。雪の中、先にある気配めがけて全速で駆けた。
 鬼舞辻無惨が消えたという事実が、不死川の意識をひどく焦らせていた。

 駆ける最中、泣いている親子の姿を見た。
 木々に紛れるように身を隠しており、幼子を抱え込む母親にまとわりつくように三人の子供が怯えた目を向ける。目を見ればすぐにわかるほど、家族はあの子供にそっくりだった。
 怪我をしているが命に別状はなさそうだと瞬時に判断した不死川は、家族を一瞥してから妹がいないことに気づいて更に速度を上げた。
「―――っ、」
 呼吸を躊躇するほど血の匂いが鼻についた。
 速度を緩めた不死川は警戒を更に強めたが、進んできた先の視界に映った赤の塊ふたつに一瞬意識を持っていかれた。
 掻っ捌こうとしたのだろう刀が腹に突き立てられ、咳き込む音と同時に雪の上を血が飛び散っていく。
 生きている、と駆け寄った瞬間、そいつがひどく苦しんでいたことに気がついた。
 腹の青い刀は自らの手で突き立てられたらしいことも。
「――冨岡」
「………」
 呼びかけに苦しげな呼吸をしていた男が不死川へと目を向けた。
 これはなんだ。
 目の前にいる男は二度目においても涼しげな顔を晒していたはずが、今は見る影もない。血の匂いがひどく鼻につく。違う、血の匂いだけではない。忌々しい鬼の気配が目の前の男から滲んでいるのだ。何故。それは少し離れた場所で倒れている妹から発されているものではないのか。鬼舞辻無惨の姿がない今、何故ふたつも鬼の気配があるのか。
 血まみれの鋭利な爪の手が不死川へと伸ばされ、隊服を掴んで引き寄せられる。
 人を、殺す前に殺さなければ。もはや反射となった動きで鞘から刀を引き抜き、頸へと向かわせた。
「……そこの、鬼は無害だ。狭霧山で、先生が……炭治郎と禰豆子を助けてくれ」
 掠れた声が、ひどく苦しげな声が不死川の耳へと届き、頸に刃を当てたところで動きを止めた。
 人から鬼に変わる時、想像を絶する苦痛に見舞われるらしいというのをかつての未来で聞いたことがある。一度目の鬼のいない世界で、そんな話を誰かが言っていた。鬼舞辻無惨の血を流し込まれるなど不死川たちにとっても屈辱でしかないし、考えるまでもなく死んだほうがましだと思えるほどの精神的、肉体的苦痛だとわかる。
 どれほどひどい目に遭っても涙を見せなかった母が、どれほど苦しんだかを不死川は地獄の狭間で見たのである。
「てめェの弟弟子なんざ知るかァ! てめェが身をもって助けやがれ!」
 狂うでもなく、のたうちまわるでもなく、ただ理性を留まらせて腹を掻っ捌いた水柱。今の一言は、不死川にとって察するきっかけになってしまった。この男が己と同じだったことを悟ってしまったのである。
 叫んだ不死川の隊服を掴んでいた男は、小さく笑みを見せて謝った。
「……すまない。頼んだ」
 男は腹の刀に力を込めてはらわたを引き裂き、ごぼりと口から血を溢れさせた。それでも死ねないのはすでに鬼化が進んだからだろうか。借りると一言呟いて、不死川が踏み止まった刃を自らの手で頸にめり込ませていった。何故か穏やかな顔を見せ、刃はしかと頸と胴を切り離した。
 こと切れる直前のこの男は、雪の上に転がった頸は苦痛も見せず満足げに目を瞑っていた。これで大丈夫だとでもいうように。
 今度こそ、鬼のいない世に連れていこうと思っていたのに。
 当然こいつは自分で来るものと思っていた。なんだかんだと強い男だから、前も生きていたから、どれだけ変化があろうと勝手に生き残ると思っていた。
 どこから間違えたかと考え始めてから、やはり最初から間違っていたのだろうかとふいに考えてしまった。
「禰豆子!」
 駆け寄ってくる子供は家族を引き連れ、血溜まりの惨状に怯えながらもまだ息のある妹へ手を伸ばした。
 これ以上出ないだろうと思えるほどの血を流している同僚の身体を抱えていたはずが、ぼろぼろと崩れて手からこぼれ落ちていく。ふいにこちらを見た子供の目が驚愕に染まるのをただ眺めていた。
 血にまみれて死んだのは一人だけだった。怪我をしていても子供の家族は生きていて、男が文字どおり命を懸けて守っただろうことが理解できる。子を抱きながら母親が不死川を窺っていることもわかったが、言葉を発するのに時間がかかりそうだった。
「ひ、人が……なんで……こんな、ことに」
 たったひと晩、留守にしただけで家族が襲われ、人が死んで灰となって消えた。何が起きたかもわからないまま混乱している子供の姿はふいに己の弟を思い出させた。妹を抱きしめる様子をただ視界に入れていた時、抱え込まれたその妹が動くのを見た。
 不死川は人を喰わない妹しか知らない。ゆらりと兄の腕の中から起き出し大きく口を開く様子を見つめていて、つい反応が遅れてしまった。
「ガアァァァ!」
「うわあっ! 禰豆子!」
「炭治郎!」
 鬼の雄叫びが聞こえた瞬間羽織を放り投げ、手荒だが兄妹から家族を引き剥がして背に庇った時、噛まれる既のところで子供は斧の柄で妹の牙を止めた。
 ふざけんな、襲うじゃねェか。そう悪態をつくことすら忘れ、身内を襲おうとする鬼へと刃を向けようとした。
 なのに兄に止められたまま涙を流す妹が視界に映り、そのまま斧を振り払って妹から距離を取る子供をただ眺めた。
 振り払われた妹が不死川たちへと標的を変え、獣のように唸り声を上げて襲いかかってくる。鬼になりたての覚束ない身体なのか、いとも簡単に腕を掴んで捻り上げることができた。こんな姿を晒していたとは。理性も何もない、ただの鬼だ。なのに、兄を見て泣いていた。
「姉ちゃん、」
「動くなァ。こいつは鬼だ」
「待って、待ってください。妹を殺さないでください」
「……俺は鬼狩りだァ。人を襲う鬼は殺す」
 泣いたからなんだというのだ。鬼狩りならば言葉に耳など傾けず即座に頸を斬っている。完全な鬼になっている妹へ抜いた刀の切っ先を向けた不死川に、子供は必死になって許しを請うた。
 お願いします、殺さないで、禰豆子は違う、人を襲ったりしない。今まさに襲われそうになっていたというのにどの口が言うのだろう。親子揃って雪に頭を擦りつけて、前から後ろから不死川へと頼み込む。母親の姿が視界に映らなくて良かった。己の母が過ぎってしまって仕方がなかった。鬼にされた時、母は泣いていただろうか。そんなどうしようもないことを片隅で思い出していた。
 どうしようもなく懇願するしかできない子供、家族の必死の祈りだ。そんなことをしたって聞く耳を持つのはあの男しかいない。不死川は冨岡義勇ではないのだ。一度目を知っているから不死川は口を利いただけだった。
「……んなもん俺には見えねェなァ。証明するしかねェ」
 身体を限界まで縮こまらせて許しを請う子供の肩が揺れた。恐る恐る顔を上げた子供へ言い聞かせるように不死川は口を開く。
「さっきの……消えたあいつは俺と同じ鬼狩りだった。てめェの家族はあいつに助けられたわけだが、代わりにこの先あいつが救うはずだった奴らが救えなくなった。……泣いてんじゃねェよ甘ったれ野郎。てめェは家族を守る側だろォ」
 一般人相手なら、隊士が死のうと柱が死のうと恨み言のようなものを言ったりしない。相手が竈門炭治郎だから、竈門禰豆子とともに戦う隊士だから不死川は口にした。お前はすでに家族ともう一人分の命を背負わされているのだと。見ず知らずの言葉も交わしたことのない、顔すら満足に見られなかっただろう兄弟子の命だ。
 ぼろりとまた大きな目から涙がこぼれ落ちる。震える唇を必死に噛みしめていた。

 家族が生きていようと、竈門炭治郎が選べるのは二択だけだ。
 鬼になった妹を殺してひっそり生きていくか、他の鬼とは違うと証明するために家族と離れて鬼殺隊に入るか。一度目にその二択があったのは今でもおかしいと思うほどだ。顛末を知るからこそ不死川が出せた二択は、灰になった冨岡が出したはずのものだった。
「鬼殺隊……?」
「鬼狩りだっつったろォ、その組織だ。――まァ、二択と言ったが実質てめェに選択肢はねェし、逃げるってんなら容赦はしねェ。俺はそこの妹の頸を斬り落として、てめェは寺にでもぶち込んでやらァ。家族と一緒にいられると思うな」
「は、入ります! 俺が、禰豆子の無害を証明する!」
「待ちなさい炭治郎! お願いします、まだ子供なんです。この子は、」
「てめェがしたところでなんも意味ねェよ、こいつ自身に証明させろォ。……子供だろうが何だろうが、鬼狩りから鬼を匿うってのは命懸けだァ。あんたが俺から娘を守りきれるってんなら話は別だがなァ」
「俺が入ります!」
 本当なら俺だっててめェのことなんざ助けるはずじゃなかった。母親が子を守ろうとする様子を眺めながらそう突っぱねてやりたくとも、不死川は二度目の人生を一度目よりうまく手繰り寄せようとしていたのだ。竈門兄妹がいなければあの夜明けは有り得なかったのだから、助けない選択肢は存在しない。そしてこの兄妹と一緒にいて危険なのは他の家族。
 きっと、何を犠牲にしてもこの二人だけは、必ず鬼殺隊に所属しなければならない二人だ。
 そうはいっても。
「……まさか、同じだったとはなァ……」
 知った途端にひとりかよ。
 ぼんやり呟いた言葉は雪の中へと消えていく。別に元々ひとりなのだ、冨岡がどうだったかなど関係ない。そう思おうとしても、もっと早く知っていれば何か変わっただろうか、と考えてしまうのは止められなかった。
 それとも、不死川が事象を変えてきたことで、冨岡が代わりに報いを受けたのだろうか。だとしたら。
「……二人で狭霧山の鱗滝左近次を訪ねろ。てめェがやるべきことはまず強くなることだァ。死ぬ気で鍛えてもらうよう頼めや。さっさと行け、家族は鬼殺隊が保護してやる」
「炭治郎……」
「大丈夫! 行ってくる、うわっ、禰豆子……!?」
 不死川はずんずんと竈門炭治郎に近づいて胸ぐらを掴み立ち上がらせ、引き留めようとする母親の言葉を遮って無理やりその場から動かそうと乱暴に扱った。そうしたら妹は思いきり不死川に牙を向いて腕を振り払い、不死川から兄を守るように立ちふさがった。
 きっとこれが冨岡の見た兄妹の姿なのだと思い至った。二度目だからこそそれに安堵した不死川だが、やはり冨岡の思考はおかしいと再認識する羽目になってしまった。
 柱でありながら、鬼を憎んでいながら、こんな仕草ひとつで判断する冨岡がおかしいのだ。
「禰豆子、駄目だ!」
 兄の制止は間に合わず、不死川へと襲いかかってくる妹の項に手刀を食らわせて大人しくさせた。ふらりと雪の上に尻餅をついた子供に駆け寄る家族を眺め、不死川はひとつ溜息を吐いた。

「鬼は陽の光で死ぬからなァ、気をつけるこった」
「は、……はい。じゃあ、あの、家族のこと、よろしくお願いします。本当に」
「安心しろ、住む先が決まったら狭霧山に伝えてやる」
 手短に鬼殺隊の説明をし、子供の家族には安全を保証する旨を何度も確認され、母親からは子供の安全が大丈夫なのかと何度も何度も問い質された。げんなりしつつも気持ちはよくわかる、と考えながら不死川は鬼狩りに安全の保証などないと素っ気なく答え、顔色をなくした彼らを無理やり落ち着かせて行動するよう促した。
 さっさとここから去ってもらわないと、不死川も狭霧山の天狗に話をつけることができないのである。どこぞの誰かがよりによって不死川に託したおかげでだ。
 さっさと行けよと兄妹に呟いてから、不死川は冨岡の遺していった羽織の隣に座り込んでその柄を眺めた。その人の墓を、とおずおず提案する母親に否を突きつけ、隠の到着を待つことにした。
「……冨岡よォ。てめェはあの戦いを覚えてたんだよなァ」
 出立の準備を手早く済ませて去っていった兄妹の背中をずっと見送り続ける家族の姿を視界に入れながら、己の家族を思いながら小さく呟いた。
「俺は最後役立たずだったことも知ってたんだろ。てめェがいなくて無惨を倒しきれると本気で思ってんのかよ? 誰が尻拭いすんだよ……。………、……俺かァ……」
 頼まれたのはどこまでだろう。狭霧山への手引きまでか、それともあの戦いの最後までか。後者っぽいよなァ、とげんなりしながら満足げに消えていった冨岡を想った。
 恐らく向こうも不死川が同じであることを悟ったのだろう。そうでなければ死んでも死にきれなかったかもしれない。
 二度目の人生で、冨岡と顔を合わせることは柱合会議以外ではほぼなかった。けれど稀に話しかけた時、一度目よりも柔和な態度を不死川へと向けていた。
 同じ境遇であるなど思いもしなかったから、その変化は一体何のせいなのか図りかねていた。すべてが終わった後の奴の変化を知っていた不死川だから見方が変わったせいなのか、不死川の目がただ好意を通して見ていただけなのか、なんてぼんやり考えていただけだった。
 もっと早く気づいていたら。
 相変わらず黙り癖は治んねェんだなァ、と羽織を恨めしく睨みつけた。