これより先は八方塞がり

 居心地の良かった職場が地獄に様変わりした。
 通勤時に使用しているイヤホンのノイズキャンセリング機能を駆使して、伊黒はできるだけ職員室で話す内容を耳に入れないようにしたかった。しかし人の少なくなった残業中の現在も、雑談混じりとはいえ定期的に仕事の話は振られるわけなので、やはり耳は空けておかねばならないと溜息を吐いたのだった。
 そういうわけで、現在伊黒の耳は地獄のような断末魔にも近い耳障りな会話が繰り広げられるのを聞いているのである。
「なあ冨岡、俺と温泉一泊旅行行かねえ? 天国見してやるぜ、もうすっげえの」
「温泉が? 行きたい」
「だろ? ふぐ刺しにも舌鼓を打つ最高の旅行だ。不死川にはできねえプラン」
「できるわ殺すぞォ……」
「いやいや、できねえことは俺この前聞いたばっかだし。ふぐ刺し堪能委員会とでも名付けるか」
「何するつもりだてめェ……んな会員数一人のとこよりおはぎ堪能委員会に入れよ。全国のおはぎを堪能しに連れてってやるわァ」
「一人じゃねえから。すでに二人だからな」
「なんだ、委員会作りが今は流行りなのか? なら俺はさつまいも布教委員会を作ろうと思う! 入ってくれるか?」
「入る」
「ありがとう!」
 地獄に仏とはこのことだと伊黒は安堵した。
 断末魔のような雑談中、ちょうど教室に戻ってきた煉獄が輪に加わり、冨岡へ問いかけると奴は二つ返事で快諾した。颯爽と現れて早速冨岡の了承を得られたことが面白くないのはわかったが、もはや見るだけで人を殺せそうな勢いの表情を不死川がしている。
 しかし煉獄とのやり取りに機嫌を悪くしたような顔を見せたのは不死川だけではない。宇髄までもがぴくりと反応し、煉獄を眺めた。
 前言撤回。駄目だ、仏ではない可能性がある。
「さつまいもは別に布教しなくたっていいだろォ、それならおはぎ……」
「おはぎもいらねえだろ。どこにでも売ってんだからいつでも食えるだろうが」
「てめェ今おはぎ馬鹿にしたなァ」
 殺人級の顔で言っていることは馬鹿みたいだが、なんかずっとギスギスしている。普段なら冨岡が絡まなかろうと不死川と宇髄は仲良くしていたが、今日はやけに空気が悪かった。
 距離を取りたい。巻き込まれていいことなど何ひとつないからだ。
 しかし、伊黒は発端が何なのかを恐らく知っている。というより、そこしか理由が思いつかなかった。
「入っても何をすればいいかわからないが」
「いいんだよ、お前はそこでうんこしてるだけで」
「酔ってるのか? トイレくらい行く」
「冨岡にうんことか言うなって言ってんだろうがァ……」
 伊黒は歪んでいた自身の顔からすっと表情が消えたことを自覚した。
 いや、それはそうだろう。だってなんか、宇髄がめちゃくちゃ気持ち悪くなっている。というか不死川もだいぶ変なことになっている。元々二人ともおかしかったが、普段に輪をかけておかしい。伊黒は頭を押さえた。今生徒があいつらに近づこうとしたらさすがの伊黒でも止めるレベルだ。それほど教育に悪い気がする。
 手早く付箋にメモを書き、そっと立ち上がった伊黒は二人の目を盗み冨岡のデスクに貼り付けてそのまま廊下に出た。危険性はあるが一刻も早く現状を把握し、そしてうまい具合に逃げなければならない。無理そうな気配がひしひしとしていても、その努力を怠ってはならないのである。
 職員室と同じ階層にある職員用トイレに辿り着いた伊黒は、深呼吸をしてから深い深い溜息を吐いた。

「なんだあいつら。今まで以上に気持ち悪いぞ」
「うん。……外で済ませたことはないんだが……」
「トイレの話を引きずるな!」
 しばらくして付箋での呼び出し先であるトイレへやってきた冨岡は、納得がいかない不満げな顔をして伊黒を見た。残業中の冨岡の表情は案外に雄弁だ。恐らく疲れると表情筋も緩んでくるのだろう、切れ長なはずの目尻がぼんやりしている。言いたいことがわかるようになってきていると気づいてしまったのも本当に嫌だ。
「違う、トイレの話をするためにトイレに呼び出したんじゃない。あいつらの気持ち悪さに磨きがかかってるという話だ!」
「まあ、うん。なんでだろう」
「お前、どんな話をした?」
 いやまあ、並々ならぬ独占欲のようなものを発揮していた二人だ。冨岡次第でいくらでも拍車をかけておかしくなることはあり得ることではあった。
「いや、普通に……金曜に不死川がうちに来た時は風邪気味のようだったが、土日はそうでもなかったし……」
 やはり当たり前のように入り浸っているらしい。後学のために(何に役立つのかはわからないが)問いかけてみると、週の半分は二人がかりで泊まっていくのだとか。本人たちに入り浸っている自覚があるのかないのか知らないが、半分で済むとは案外まともかもしれないと思いかけたあたり伊黒も大概毒されてきている。体格の良い二人だから狭い部屋では非常に邪魔だという。伝えてもはいはいと流されるらしいが、とりあえず泊まる時は大抵が雑魚寝になるそうだ。人によっては嫌がらせでしかない。
「家賃とか光熱費とか大丈夫なのか? 二人分余計に使われてるんだろう」
「ああ……まあ、勝手に三等分されてる。泊まらなくても来るし……」
「お前本当によく嫌じゃないとかのたまえたな。常軌を逸してるぞ」
「……正直、口に出してみるとだいぶまずいと本当に思ってる」
 勝手に三等分ということは、諸費用も完全に把握されているのだろう。単身者としての賃貸契約なのだろうにそこも大丈夫なのか。ここまでされて何故流されたままでいられるのか謎だが、まあ、現状を打破したいとは思っているのだ。危機感もある。環境に甘える馬鹿ではないらしいこともわかる。そのやり口はのんびりしすぎているとは思うが。というかあいつらも押しかけていないでルームシェアとかすればいいのに。
「煉獄のことは喜んでくれたし……酒を見た時はえげつない顔になってたが」
「酒?」
「煉獄の酒を部屋に置いてる。奥に追いやられてしまった」
「いや原因それだろ絶対」
「何してんのォ?」
 突然の第三者の声に伊黒は飛び上がるほど驚いたが、声の主が誰なのかを知っているからか、それとも慣れているからか冨岡はさほど驚いていなかった。それはそれで若干の腹立たしさと羞恥が伊黒を襲ってくるが、現れた人物の顔に比べれば大したことはなかった。
 トイレのドアを開けて覗き込んできたのは、悪人面とか凶悪面なんてものでは収まらない凶器のような顔面をした不死川だったからだ。
「駄弁ってるだけかい、休憩くらい職員室ですりゃいいだろ。さっさと終わらせて帰るぞォ」
 あ、終わった。伊黒は悟った。
 向けられた視線で目をつけられてしまったと理解するのに時間はかからなかった。伊黒は別に冨岡と仲良くしたくて呼び出したわけではないのに、この顔面凶器の不死川から要らぬ恨みを買ってしまったわけである。
 冨岡の手首を掴んでずんずん職員室までの廊下を歩いていく不死川の背中を眺めながら、伊黒は項垂れたまま無言でついていくほかなかった。
「なんだお前ら、俺ら抜いて冨岡と交友を深めるたあ見逃せねえな」
 職員室には宇髄と煉獄がデスクに座っており、職員用トイレから戻った伊黒たち三人が席に戻れば合計五人が残っていた。様子のおかしい連中に混じるのは嫌だが、何も知らない教員がいなくて本当に良かった。周りからこの連中と同類扱いされるのだけは避けたかった。
「なに、許可がいったのか?」
 自分は二人の許可を得ず仲良くなりましたと煉獄の顔に書いてある。それは単なる親離れの如く彼らから自立するために仕掛けたはずの案なのだが、どうにも煉獄自身を見ているとそれだけではないような気がしてならなかった。これもう巻き込み事故じゃないかと伊黒としては思ってしまうわけだが、本人は楽しそうだ。伊黒の考えすぎかもしれない。
「煉獄の許可は取ってあるだろ」
「そうだったあ……でも伊黒はやめとけっつったろ」
「良い奴だ。好き」
「おい巻き込みに来るな。本当にやめろ」
 煉獄と仲良くなる許可とかいう頭のおかしな話もあれだが、それが自分にも降り注いでくるのだから最悪だ。しかも好意を思いきり口に出されて不死川はおろか宇髄の顔まで凶器化し始めているだろうが。
「ところで今日はもう終わるのか? 時間も時間だし、夕飯でも食べに行かないか!」
 近づいてきた煉獄が冨岡の肩を軽く叩く。その直後、不死川の手が思いきり煉獄の手首を掴み上げた。
「なに、勝手に、肩触ってやがる」
 同僚同士の軽いスキンシップの範疇だと伊黒の目には見えたわけだが、不死川の濁ったフィルター越しにはどう見えたのだろうか。冨岡との距離感がおかしい不死川は更に顔面が凶器化しているが、なんかもう見慣れてきたような気もしている。
「これも許可がいるのか?」
「いるに決まってんだろォ! 次触ったらその手ェバキバキにしてやるからなァ!」
「次でいいのか、有情だな!」
「殺す」
「断る!」
 今日はひと際殺したがるな。
 不死川は相変わらず物騒だが、煉獄の意に介さないやり取りになんだか少し安心してしまった。この不死川とやり合える相手は確かに限られるので、冨岡が煉獄に頼んだのは正解だったのだろう。
 呆れつつデスクの片付けを始めようとしたところで、こっそり冨岡を手招きする宇髄が視界に映った。ヒートアップした不死川は煉獄しか見えていないらしい。
「……ところで、俺もそろそろ引っ越そうかと思ってよ。俺はこういう部屋がいいんだけどどう思う? こことか」
 宇髄は煉獄を不死川に任せたようだ。ひっそりとした会話は別に聞きたいわけではないのだが、絶妙にデスクが近いので聞こえてきてしまう。手招きされた冨岡が宇髄に近づくと、そのまま肩を組まれて近くの椅子へ座りスマートフォンを覗き込んだ。今日の不死川ならこれも怒りそうだが。
「一人にしては広いな」
「お前んとこ狭えし、いい加減広めのとこにしようと思ってな。好きなとこ選べよ、内見行こうぜ」
「別に入り浸ったりしないぞ、お前たちと違って」
「嫌味ったらしく言うんじゃねえ、入り浸るなんて思っちゃいねえよ。――そろそろ同棲ルームシェアしようぜ。お前いっつも狭い狭いってうるせえしさ」
 伊黒は溜息を吐いた。確かになんで一緒に住まないのかと疑問だったが、今ここでルームシェアの話が出てくるとは。三人で住むことになったら今まで以上に世話を焼かれることになるのは確定的に明らかである。まさか了承するつもりではなかろうなと疑いを向けた。
「事実だろ」
「まあなー、俺様の存在がでかすぎて? 大家が親戚のアパートだから安くて融通利くのはわかるけどよ、セキュリティもしっかりしたマンションなら姉さんも許してくれるだろ? ほら、オートロック」
「オートロック……確かに……」
 すでに言いくるめられかけている気がするが、伊黒は身動ぎすらせず聞き耳を立てていた。この馬鹿、不死川と宇髄から離れる計画で煉獄を巻き込んだというのに、何故ルームシェアに乗り気になりかけているのか。こういう流されやすいところがつけ入られる原因になるのだろうがと一時間ほど説教したくなった。
「不死川と煉獄にも聞いてみたら、」
「だってあいつら実家じゃん。お前は独り暮らしの先輩だろ? 相談乗ってくれよ。ついでに旅行の話も進めようぜ」
「……相談……宇髄が俺に……。わかった、乗る」
「よし来た」
 おいおい、なに目を輝かせているのかと思わず突っ込みを入れそうになったところで冨岡と宇髄がさっさとデスクを片付け始め、帰る準備を整えた二人は同時に立ち上がった。それに気づいた不死川と煉獄が驚いたように声を漏らす。
「じゃ、お前らは仲良く飯でも食ってきな」
「はっ?」
「何故だ!?」
「宇髄の相談に乗るからだ、夕飯は今度行こう煉獄。不死川も伊黒も早く帰るといい」
 宇髄はにこやかに手を振り、冨岡は残業中にも関わらず目尻に力を篭もらせ、お疲れ様と挨拶をしてぴしゃりとドアを閉めた。二人分の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、伊黒はもはや項垂れていた。
「………。は、はァァァ? 置いて帰りやがったぞあいつら」
「よもや、すっかり油断してたな! 一枚岩ではなかったんだった! どこへ行く不死川先生!」
 盛大に舌打ちしながら荒々しくデスクを片付け鞄を引っ掴んだ不死川に煉獄が問いかける。
 聞かずともわかりそうなものだが、伊黒からは素なのかわざとなのかいまいち判別し難かった。まあ、煉獄の性格的に八対二程度の割合で素なのだろうとは思っているが。
「追うんだよォ、あのデカブツ冨岡に何するかわかんねえからなァ。俺置いて先帰りやがってェ……」
 じんわり子供みたいな本音が見え隠れした気がしたが、どうやら冨岡の貞操の次に除け者にされたのも気になるようだった。観察したくてしているわけではないのに、伊黒はこの馬鹿三人の気持ちがだんだん理解できるようになってきていた。全然嬉しくない。
「俺も行こう!」
「あ? 来なくていいわ」
「人手は多いほうが邪魔しやすいぞ! なあ伊黒先生!」
 気配を消していたはずが、突然名前を呼ばれて伊黒は大いに飛び上がって驚いた。本日二度目の吃驚である。にこやかな煉獄の後ろからガンを飛ばしてくる不死川がいた。
 やばい。そういえば目をつけられていたのだった。
「いや……俺は、帰るが?」
「人手か、確かに……いや、伊黒にも説明してもらわねえとなんねェことがあったしなァ」
「いやいやいやいや。そんなの今日でなくともいいだろ? 俺はもう疲れたんだ、帰らせてくれ」
「そうはいくかァ。ぶっちゃけ煉獄と同じくらい怪しいんだてめェは」
 勘弁してくれ、頼むから本当に。こんな馬鹿共の内輪に入り込むのも巻き込まれるのもまっぴら御免だというのに、冨岡に苦言を呈したばかりにわけのわからない因縁をつけられ最悪だ。こちらは本当に構う暇も気もないというのに、疲労と頭痛で腹まで立ってきた。
「ふざけるなよ、俺をお前らみたいな馬鹿の集まりと一緒にするな。こっちは冨岡なんぞに構う暇は一分たりともない!」
「さっきトイレでなんか話してやがったし、そのへん含めて詳しく聞くぜェ。大体おかしいんだよ、あいつが好きなのは悲鳴嶼先生と胡蝶と煉獄だったじゃねェか。あー、もちろん同僚としての好意だがなァ。なんで伊黒も好き認定してんだよ。何しやがった本当に」
「何かするわけないだろ、止めてくれ煉獄!」
「なんだ、行きたかったわけじゃなかったのか!」
「俺は帰りたいんだ!」
 煉獄のこれが天然でなければぶん殴っているところだが、不死川がもはや伊黒を敵認定しているせいで真っ直ぐ家に帰れる可能性がゼロに近くなっている。なんであいつらはこんな厄介な不死川を放置して帰ったんだ、最悪すぎる。明日会ったら絶対に殴ると伊黒は決意した。
「この際だ、不死川を味方につける努力をしようと思う」
 鍵をかけるからさっさと出ろと脅してくる不死川が空気清浄機のスイッチを切っている隙に、伊黒の耳元で煉獄がこっそり口にした。冨岡の好きな人という設定の煉獄の味方に不死川がなるかといわれれば何より高くそびえ立つハードルだとは思うが、まあ、挑戦してみるくらいは好きにすればいい。伊黒には関係のない話だ。
 好きな人という設定が煉獄にとってもただの設定であるかどうかは、伊黒から見ても正直怪しいところだが。
「そうかよかったな頑張れ好きにしろ。俺には関係ないだろ?」
「伊黒の意見も聞きたい。是非協力してくれ、行こう!」
「嫌だ!」
 前言撤回する。不死川とやり合える煉獄を選んだのは正解だった、なんてことを伊黒は考えていたわけだが。今日は撤回してばかりだ。悪気なく伊黒を巻き込もうとしてくるあたり、果てしなくはた迷惑である。
 時間を遡って冨岡に口を出す前のあの時に戻りたい。冨岡の好きな人という設定のはずなのだから、もう少しそれを守って気持ちを隠せというのだ。
 結局何度後悔したところで、煉獄の無駄に力強い腕から抜け出すことなどできないわけなのだが。