前日譚

「疲れたな! せっかくだし飲みにいかないか?」
 時刻は九時前。あとは帰るだけ、明日は休み、煉獄からの誘いなので断る理由がない。伊黒が頷くと煉獄は背後の冨岡へ視線を向け、冨岡はぼんやりと時計を眺めた。
「不死川たちが迎えに来る」
「そうか。なら彼らも誘おう!」
「………」
 新たな提案をした煉獄を見て、伊黒は常々思っていたことを聞くために口を開いた。珍しく冨岡単体でここにいることも今しかないのではないかと思うくらいだったが。
「前々から思ってたが……あいつらの距離感おかしいぞ」
 デスクに向けていた視線が伊黒へと向けられる。いつも目尻をつり上げて生徒を追い回しているが、今は疲れて気でも抜けているのか下がり気味だ。
「この際だから言っておくがな。二人で朝晩送り迎えしてるの本当におかしいからな。不死川なんか遠回りしてるだろ、あいつらが残業ある日なんか一旦お前を送って戻ってくるんだぞ。仲が良いのは勝手だが、あまりに度が過ぎると生徒たちにも示しがつかん。なんなんだ、今から迎えに来るって」
「何の示しだ?」
「煉獄はちょっと黙ってろ」
 言いたいことを一先ず言い終わりたかったので、口を挟んできた煉獄を少々雑に制止した。若干しょんぼりさせてしまったがとりあえずは後まわしである。今はとにかく吐き出すのが先だ。
「飯時だってお前、階段に三人密集してるから暑苦しくてかなわん。誰も近寄れんだろあんなとこ」
 いつからか階段で昼食を摂るようになった冨岡だったが、気づけば昼休みは三人階段に集まるようになっていた。野菜を食えだのパンだけを食べるなだのと持ってきた弁当から分け与え、小姑のように口うるさく言い聞かせているところを見た。ただでさえ教員の中でも目立つのだから、生徒たちにばれるのも時間の問題である。むしろ一部の界隈にはばれている可能性もあった。
「………、……本当は迎えも、来なくていいと言ったんだが……何かあったらどうすると」
「何があると言うんだ……。な、なんだ」
 デスクに肘をついて口元を隠すように両手を組む。どこぞで見た覚えのあるポーズだったせいか、つい伊黒も何事かと構えてしまう。煉獄も背後から身を乗り出して冨岡を見ていた。
「高校の頃から知ってる」
「ああ……三人そうらしいな」
「俺には……妙に変質者に絡まれやすいという消せない事実がある。だから鱗滝さんにいろんな武道を仕込まれた」
「大変だったんだな!」
 それで鱗滝と仲が良いのかと伊黒は納得した。不死川と宇髄、あの二人以外でよく話しているのが鱗滝だ。中等部あたりにも昔からの知り合いがいるらしいが、学校ではあまり個別に話しているところを見なかったので伊黒は知らない。
「別に。中学くらいからはすでに自分でなんとかしてたんだが」
「いや待て、子供の頃だけの話ではないのか」
「……まあ」
 くらいからってなんだそれはと突っ込みかけたが、どこか気まずそうに視線を伏せたまま冨岡は頷いた。
 この無愛想からはいまいち想像できないが、まあ確かに、変な輩を惹きつける人間というのは一定数いるらしいというのは聞いたことがあるのを思い出した。
「とにかく……あいつらずっと過保護なんだ。さすがに成人したんだからどうかと思うが、こっちの話をきかない。俺は口が上手くないし……。まあ、別に……嫌ではないから仕方ないかと……」
「お前、あれ嫌じゃないのか……」
 四六時中纏わりつかれて伊黒なら発狂するのではないかと思ったが、もう慣れたのだと冨岡は頷いた。そもそも構われること自体は嫌ではなく、むしろ嬉しいのだとか。いつも完全なる無の表情であいつらに構われているからわからなかった。
「あんな同性にいたれりつくせりされて嫌じゃないとは変わってるな」
 理解に苦しむ。伊黒は別に世話されたいとも思わないし度を超えた過干渉は普通に嫌だが、それを受け入れる者がいるとはちょっと引く。まあ意外と自分たちがおかしいことは気づいているようなので少し安心した。どちらかといえば向こうがやばいらしい。もしかして二人から離れるために一人階段で食べていたのだろうか。すぐ見つかっていたようだが。
「……でも、このままだとあいつらに恋人ができなくなると思う。歳の近い男の世話を焼くのがルーティーンに組み込まれてる男なんか女からすれば嫌だろう」
「女じゃなくても嫌だが?」
「俺はそれほど気にしないな!」
「黙ってろと言っただろう」
 組み込むどころかそれを中心に生活を成り立たせているような気配すら感じるが、まあいい。話題に入ろうとする煉獄を制し、しょんぼりするのも無視して伊黒は頭を悩ませた。いや別にこんな面倒なことに首を突っ込むのも嫌なのだが、口火を切ってしまったのは伊黒なのだ。己の生真面目さが嫌になる。最悪だ。
「購買の……あの三人」
「くのいちさんたちのことだな!」
「くのいちなのか?」
「名乗ってるならくのいちだろう!」
「誰も名乗ってないぞ、呼ばれてるだけだ。いいから煉獄は口を挟むな……」
 煉獄はすこぶる良い奴だが、話題に入ろうとするあまりか面倒な奴になってきている。話とまったく関係のないところで突っ込むのがこれほど疲れるとは知らなかった。
「宇髄と話してみたいと言ってたから。こんな実情が知れたら引くだろう。噂もまわるかもしれない」
「お前、本当に案外まともな感性してるな」
「心外すぎるんだが」
 噂はもう手遅れな気もするが、あの過干渉はむしろ引かれるためにやっているような気にもなってくる。物好きならそれでもいいと縋りつくかもしれないが、女というのは厄介な生き物なので、いつまでも一番になれないとわかれば爆発する恐れもある。
「きみが恋人でも作って彼らから離れるようにしてみては?」
「ま、待て待て。それは俺も賛成だが、いきなりそこに飛躍したらあいつら何するかわからんぞ」
 端から見ているだけでもなかなかの執着具合である。寛容なのか鷹揚なのかわからない冨岡だからさらりと流しているだけで、普通の人間からしたらとんでもない束縛野郎かもしれない。というか伊黒が見えている部分だけでも冨岡に恋人などできたらえらいことになるだろうと容易に想像がつくのだから、とにかく慎重にいかなければならないだろう。
「ふむ。ならまずは好きな人ができたと言うのはどうだろうか!」
 ジャブとして軽めのものから伝えてみるというわけか。なんだろう、恋人から好きな人にグレードダウンしても何も好転しなそうなこの感覚。伊黒は特に勘が鋭いなんてこともないはずだが、現在この話題を振ったことをとてつもなく後悔していた。
「煉獄のことか?」
「俺か? きみのことは俺も好きだが」
「なんでだ。別に女でいいだろ、胡蝶先生とかならあいつらも文句はないんじゃないか」
 なにせ老若男女絶大な支持を誇る教員である。さすがに彼女に何かをするなんてことはないと信じたいし、むしろ胡蝶が駄目ならもう諦めろと言うしかないだろう。
「しかし、こんなしょうもないことに付き合わせるのも悪い……」
「自覚あるんだな」
「俺はいいのか!?」
「提案したのは煉獄だし」
 煉獄は成程と何故か納得していたが、では実際に煉獄を好きな人としてあいつらは納得するのかと伊黒は考えた。大体男同士だし、逆に仲を裂かれることにならないだろうか。
 それを口にしてみるとまた冨岡は悩み始め、腕を組んで椅子の背凭れへ重心を預けた。
「そもそもきみが男同士に嫌悪があると説得力の欠片も出ないと思うが、どうなんだそこは?」
「男に世話焼かれてる時点で今更感はあるがな……」
「まあ、特に気にしたことはないな」
 なにやらストーカーも告白してくる輩も男女問わずだったらしく、性差など気にしたことがなく、そういうものだと刷り込まれているらしい。この国も昔のほうが寛容だったといえばそうなので、そこは大丈夫なのだろう。問題は。
「お前なら俺も好きだ」
 残業の疲れか、冨岡の目尻は普段よりも穏やかだった。言葉とともにふにゃりと緩められた表情に煉獄だけでなく伊黒まで目を瞠ったのは間違いない。今まで仏頂面しか見せなかった変な同僚が、今初めて表情を緩めて笑みを浮かべたのである。
「――そうか、わかった。ならそうしよう」
「………! ありがとう。よろしく頼む」
 冨岡の両手を丸ごと包み込むように掴んだ煉獄がついに提案を飲み、それを聞いた冨岡は満面の笑みを見せて礼を告げた。横から見ていた伊黒は悟った。ああそう、そういうことなのか、と。
「……あいつらが過保護になった理由を察してしまったのが本当に嫌だ……」
「伊黒も好きだぞ」
「俺に話しかけるな……」
 頭を抱えて言葉を絞り出したが、少々整理するのに時間を費やした。そろそろ二人がここに来ることが決まっているのだから、早くこいつを通常どおりにしておかないと無駄に怪しまれてしまうだろう。
「まあ、なんだ……刺されないようにしろよ」
「そうだな、彼らから逃げきるためにも鍛錬は必要だ!」
「とにかく、今度二人で飯に行くとでも言っておけ」
 煉獄の好物であるさつまいも料理がある店を知っている。その和食店は味も良く、急なオーダーにも応えられる範囲で応えてくれる有難い店だ。
 あいつらを引き剥がす計画は当人に任せる。
 煉獄と冨岡があの二人から逃げきった後どうなるかなど、今考えるのはやめておいた。もうこれ以上巻き込まれたくないが、好き認定を受けてしまった故に逃げられないだろうこともなんとなく察していた。伊黒の勘は鋭くないが、当たりそうな予感がひしひしとしている。全力で外していきたい所存である。