そこより先は悪戦苦闘

「好きな人ができた」
 何かを落とす音、何かが割れる音、倒れる音、とにかく盛大に鳴り響いた室内で、爆弾発言をかました者が大丈夫かと声をかけた。
「顔がえぐいぞ。怪我もしてる」
 地顔だ。
 なんだえぐいって。言いすぎだろうさすがに。普段なら小突いて悪態をつくところだが今はそれどころではなく、湯呑みを握り潰した手を処置しようと取られたまま放心し、代わりにもう一人のデカブツが肩を掴んで向き合わせた。
「誰だよ?」
 その言葉にようやく不死川の脳が覚醒した。
 そうだ、冨岡が好きになった相手がどんな奴なのかを確認しなければ。
 これは使命である。不死川とデカブツ――宇髄の二人で勝手に決めた使命だが。
 三人が出会ったのは高校の入学式だったが、その頃から冨岡は天然だったり騙されやすかったりとはらはらするような奴だった。自分たちがしっかり見ていてやらねばならぬと決意したのは隣の席に座って数日経ってからだった。それが今も続いている腐れ縁であるだけの関係だが。
「お前たちも知ってる奴だ」
「は、はァァァ? 聞いてねェけどォ……?」
「今言った」
 小賢しいこと言いやがって。
 こいつの交友関係は熟知している。面倒見の良い悲鳴嶼や胡蝶、誰に対しても気さくな煉獄は冨岡によく話しかけている。不死川たちも知っているというならば教員である可能性が高く、中でもその三人には冨岡も自ら話をしにいくから絶対その内の誰かだ、間違いない。
 絶妙に唆られる姿かたちをしているために、今も昔も男女問わず無駄に好意を向けられることがよくあった。痴漢なんてのも日常茶飯事だったし、ストーカーなんてのも男女問わず現れた。そのたび不死川は宇髄とともに変質者どもを撃退し、冨岡を用心棒の如く送り迎えしてやっていた。不死川たちが放っておいても冨岡自身で勝手に撃退することくらい知っているのだが、とにかく当時から不死川たちの心配を掻っ攫っていくものだから仕方なかった。世話を焼くことに意義を見出していたともいえる。
 要するに、冨岡の恋人などというふざけた輩は、その変質者をぶち殺せる人間でなければならないのである。
 誰ひとりとしてそんなことを口にしていないのに、冨岡の恋人などという言葉を考えただけで不死川は吐きそうになったが。
「で、誰なんだよ」
「ふふん、当ててみろ」
 腹立つ。可愛い。相反する感想が一斉に脳内を占拠するが、軍配は結局可愛いに上がることはすでに知り尽くしている。なにせ高校の頃からこれなので、不死川の脳内は勝てた試しのない苛立ちが霧散していくことばかりだった。
「この間伊黒先生と」
「はあーっ!? 伊黒!? 伊黒なの!? あそこは無理だ諦めろ悪いことは言わねえ!」
「話を聞け」
 宇髄が愕然としたまま騒いだが、冨岡は違うとかぶりを振った。少し安堵したが不死川もまた宇髄のように叫びそうだったのはいうまでもない。大穴すぎるところにいったのかと思っただろうが。
「煉獄先生と三人で残業した時に好物を出してくれる店を見つけた話をしてて」
「伊黒の? そんな話してたんかよ」
「伊黒のもあるけど、鮭大根とさつまいも料理。今度二人で行くことになった」
 棍棒で頭を思いきり殴られたような衝撃が不死川を襲った。
 教員の中でさつまいもが好物だと公言しているのは一人。あの、派手で、良い奴で、伊黒ですら悪口を言わないあの男。
「煉獄先生と」
「へ、へェ……いいんじゃねえかァ」
「……そうか? そうか、良かった」
 全くもってよかねェよぶっ殺してやる。でもこいつの前でそんなん言ったら止められるもんなァ……と、不死川は衝撃を受けた頭にも関わらずそこだけは理性が働き、なんとか建前を口にした。安堵したような笑みを見せた冨岡を見てから記憶がなくなっていて、気づいた時には外だった。おかげでいつの間に解散したのかさっぱりわからなかった。
 先程まで中にいたはずの、週の半分入り浸る冨岡のアパートを見上げた。今日も酒を土産に飲んでいた部屋の窓。風呂はもう入ったからあとは寝るだけだ。電気が消えるのを確認し、不死川はとぼとぼと宇髄の後を追うように歩き出した。

「お前いいの?」
「なっ、……何がだよォ」
 百八十度ひっくり返ったような声を上げた不死川をちらりと振り返りつつ、宇髄は溜息を吐いた。
 この男の奥手具合は今に始まったことではない。知り合ってからもうかれこれ八年以上経つわけで。なにせ学生時代を知る宇髄が見ている限り普段は箸が転げてもキレるような短気具合だというのに、奴に対してだけは異常に気が長い。どんな化学反応が起きたらそうなるのだろうかと常々不思議だった。
「わざわざ肯定しちゃってまあ……どうすんの何かあったら」
「知るかァ。好きだってんだから仕方ねェだろォ」
「ふーん。そうやって敵に塩を送るわけか」
 むぐ、と黙り込んだ不死川に宇髄は溜息を贈った。
 あの見た目から有象無象に良からぬ目を向けられる冨岡だが、隣のこの男は奴の普段見せない部分に高校時代からころりとやられている。
 スパルタに隠れて気づいていない者が多いが、冨岡の性格は非常におっとりしている。
 それにやられたのが不死川である。
 高校の頃などそちらが表に出てきていて、当時は今と違うファン層が確立されていた。変な輩も惹き寄せるものだから、こいつ危ねえな、から始まった世話焼き係だ。入学から三日程度しか経っていなかった。
 それはともかく、そのままさっさと自分のものにしておけば良かったのに、世話焼き係のままずるずるとオトモダチ関係を続けているのが不死川という男である。気合いが入っているのは見た目だけだ。
 まあそれでも、教師になってから屈託なく笑うのは宇髄と不死川の前くらいだった。なので特別扱いも感じられて満足していたのだろう。そんなことで満足するものなのかとも思うが、そこはそれ、宇髄も人のことは言えない。
「はあ。本当さあ、お前一回くらいは頑張ってみろって。このままだと普通に恋人できちまうぞ」
 いい加減宇髄のためにも。
 ぎくりと肩が揺れ、不死川はまたも押し黙った。冨岡かよ、と思いつつ苦悶の表情を浮かべる不死川を眺める。通りすがりのサラリーマンが不死川の顔を見て小さく悲鳴を上げた。
「煉獄なあ……良い奴だからなあ。気づいた時には俺たち付き合いました、なんて報告がもしかしたら……」
「うがァァァ!」
 雄叫びのような叫び声を上げた不死川は肩で息を整え始め、呼吸が落ち着いた頃にようやく意味のある言葉を口にした。
「………、……聞きたくねェ……」
「おう。それならどうにかしろっての」
「うぐ」
 まあ、わかるけれども。高校から知っている男の友人から何を言われてもそんな目で見ることはできないと返答されてしまいそうだし、今の関係を壊したくないというのはある。男心とは繊細なものだ。フラれて立ち直る時間はかかるし、その後奴と一緒にいられないというのも嫌なのだろう。宇髄とてそこは理解している。
 奴が誰かのものになっても構わないというのなら放っておけばいいのだが、地味にそういうわけでもないのだ。非常に面倒なことに。

*

 付きまといストーカーの如く。
 いや別に、本当に付きまとっていたわけではない。あの衝撃から土日を挟んだというのに月曜は授業も殆ど手につかなかったが、金曜ともなるとさすがに意識ははっきりしていた。見覚えしかないアパートの部屋の前で一人佇む姿はストーカーにしか見えないだろうとは思うが、断じてストーカーではない。
 無駄に煽られたせいだ。今までどうするつもりも行動も起こしていなかったはずなのに、宇髄の馬鹿に乗せられまんまとここまで来てしまった。普段は宇髄と二人で押しかけることばかりだから、一人で来るのは初めてかもしれないと無駄に緊張している。
 ――気づいた時には俺たち付き合いました、なんて報告がもしかしたら。
 まかり間違って煉獄が頷いたらもう終わり。
 言いたいことはわかる。煉獄が男相手もいけるのかどうかは知らないが、不死川が動かなければそうなる可能性もあると普通に思っている。だがしかし、俺が冨岡の恋人に。ぐるぐる考えて悩んでいた。
 殆ど反射のようにインターホンを押したところでやべェと一つ焦る。しかしやってしまったものは元に戻らない。ぴんぽん、と無機質な高い音が部屋で鳴っているのが聞こえ、今ダッシュで逃げればばれないかも、とぼんやり考えた。だが出てきた彼が誰もいないことで途方に暮れそうでそれもよろしくない。そうこうしていると足音が聞こえ、鉄製のドアが開かれた。
「不死川」
 最高。出てきて顔を見た瞬間に花でも咲いたかのような笑顔を向けてくれた。そう、これだよこれ。職場では決して見せないこいつの素の部分。俺の顔見ただけで見せるこれが好きなんだよなァ……、と噛み締めるように不死川は目を瞑った。
「なんだ、戻ってきたのか」
「おう。買い物しねェと閉まっちまうからなァ」
 嘘ではない。どうするべきかと悩みついでに高級おはぎを買いに行っていたので出戻る羽目になっただけだ。咎めるように食べすぎるなよ、とちくりとしてくる。糖尿病とか何だとか色々と不安になる言葉を刺してくるが、心配してくれているのだろうことはまあわかる。口数が少ないはずの冨岡が、宇髄や不死川にだけはこうして喋るのだ。可愛くないわけがない。
「お前は放っといたら甘いもので食事を済ませるからな。宇髄と一緒じゃないのか」
「んだよ、いたほうが良いのかよォ」
 不死川の後ろを確認して誰もいないことに気づいた冨岡が疑問を投げかけてくる。
 毎度二人で押しかけていればそうなることもわかるのだが、暗に不死川一人ではつまらないと言われたようで気分も落ちる。舌打ちしそうになって我慢した。
「いや、珍しいだろう一人で来るのは。初めてじゃないか」
「そうだっけかァ。……楽しかったのかよォ。煉獄とわざわざド平日に」
「ああ、楽しかった。平日だから安かった。来たかったか?」
「別にィ」
 わざわざ水曜日に食事に行くらしいという情報を知らされた時は持っていたペンを真っ二つにしてしまったが、冨岡には見られていなかったので問題はない。
 どうにかしたい気持ちはある。
 あるのだが、どうにも、不死川の中でも整理がついていない部分があった。宇髄に見えているのは手をこまねいている部分だけだったのだろう。どうにかしたいとは自分でも思っているのだ。
「元気ないな、どうした? 風邪でも引いたか、不死川なのに」
「どういう意味だコラ」
 冨岡の手のひらが額に触れるなど、非常においしい場面であることはわかっているが、相変わらず言葉選びが駄目駄目だ。それはそれで有りだと不死川は思っているが。
「熱はないな。季節の変わり目だ、気をつけろ」
「別に、風邪くらいどうってことねェだろ」
 こいつは意外と世話を焼きたがる。不死川も宇髄も長男である故に弟妹の世話を焼き慣れており、冨岡周りに色々とあったせいもありこいつを構うことに慣れてしまっているのだが、本人はそれをやめろと言っていたこともあったことを思い出した。もちろん不死川も宇髄も聞き入れていない。
 姉からされてきたことを誰かに還元したいらしいというのはなんとなくわかったのだが、その還元の仕方が完全に姉仕様なわけで、結構な割合で不死川は照れるのである。成人した頃くらいに仕様がましになった。たぶん本当は額とかぶつけるのだろうな、とぼんやり考えて、ちょっとやってほしかった、とまたぼんやり考えた。
「なんか酒増えてんなァ。一人で晩酌でもしてんのかァ?」
「それは煉獄専用だ」
 ぴたり。腹の底から煮え滾るようにふつふつと感情が湧いてくる。
 ほほう、冨岡の部屋に煉獄専用の酒があるだと。店に食事に行っただけだと思っていたがちょっと展開が早ェんじゃねェか? 快活で嫌う要素のない男だと好印象だったが、手が早いのかもしれねェなァ、と考える。
「顔がえげつない」
「悪口だろそれ」
「冗談だ。案外可愛い顔をしてる」
「案外ってなんだァ」
 表情に対しての感想だったらしい。
 可愛いなどこいつに言われても説得力はない。というよりむしろふふんと笑う冨岡が可愛い。いや可愛いなおい、本当に。知ってたけどよ。がっしりした体育教師にそんな言葉が飛び出てくるはずがないのに、どうしてもそう浮かんでしまうのだ。
 顔を見ると嬉しい。話がしたい。頼られると舞い上がる。絡まれないよう守ってやりたくなる。そんな相手は冨岡だけだった。
 間違いなく不死川は冨岡が好きだ。これは揺るぎない事実である。
 しかし。
 今までも散々考えてきたことだった。宇髄にすら言えなかったその想い。己の気持ちがばれていても言うことのできなかったそれ。
 一人ではどうにもならないことを嫌というほど自覚した。宇髄に相談するのだと、もう腹を括るしかなかった。
 俺は冨岡の恋人になりたいのか、と。人知れずずっと自問していることを。

「俺の恋人になった冨岡とかなんか違くねェかって」
「ええ……」
 冨岡家からはしごして宇髄家へと立ち寄り燻らせていた悩みをようやく吐き出した時、宇髄は形容し難い表情を見せた。
「お前……せっかく二人の時間を作らせてやったのに……何年も引きずったせいで、派手に拗らせたんだな」
「世話は焼きてェ。頼られてェ。特別でもありてェが、恋人になりてェわけじゃねェ」
「お前のそれどういう性癖なわけ? 明らかに好きだよな? 自覚してんだよな?」
「おう」
 宇髄の疑問も最もだと理解している。不死川自身もそう思っているからだ。だがそれでも、自分が冨岡と恋人になって甘い時間を過ごす想像がつかないのだ。
 冨岡のことは好きだ。隣同士だった席から始まった関係ではある。あいつの口下手ばかりはどうにかしろと言いたいが、別に擦れているわけでも性格が悪いわけでもない。むしろあれが良い。許容できてこそ冨岡との関わりを育めるわけである。今やそう思えるほどに骨抜きに――絆されていたのである。
「でもやっぱなんか違ェんだよなァ……」
「本当に意味わからん。それなら隠しきれってんだよ。お前はさ、冨岡が誰かに奪われていいわけ? 相手が煉獄や俺でもいいのかよ?」
「よくねェよ全力で叩き潰してやるわァ」
 なんで宇髄が引き合いに出されるのかわからないが、不死川の気持ちは冨岡に近づく不届き者など殲滅一択だ。なにせ高校の頃から変な輩を惹き寄せてきた冨岡で、あれを任せられる人間などいないに等しい。煉獄は好きだが任せられるかと言われるとノーだ。煉獄がどうという話ではない。冨岡は誰にも渡したくないのである。
「そう、よくねェけど……俺と付き合う冨岡も違ェ……」
「いつからそこまで拗らせたんだよ……ただの奥手かと思ったらわけわからん性癖だったなんて……」
 繊細な、極めて繊細な男心というものではなかろうか。不死川自身はそう考えた。親気分なら任せられる相手が出てきたら血反吐を吐いて子を明け渡すだろう。だが不死川は冨岡の恋人として誰かが現れたとしたら、まず間違いなく殺そうとする。恋人未満の輩が現れたら絶対に邪魔をする。あれは純粋無垢でなければならないものだ。煉獄との飲みを許容したのは冨岡が物凄い楽しみにしてたからだ。クソが。
「ああ、そういう。お前が冨岡を神聖視してるのはわかったわ」
「そういうのでもねェと思うが」
「ならアイドル扱いだな。現実見ろよ不死川。あいつはアイドルでも神でもない、ただの男だ。うんこだってするしエロ本見て抜いたりする」
「ぶっ殺すぞてめェ!」
「これで怒るのは拗らせすぎだって」
 うんことか抜くとか、そんな言葉はあいつから最もかけ離れた言葉である。いやさすがに冨岡がうんこをしないなどとは思っていないが、それでも言葉にするのは違う。聞きたくない。
「ええー、まじかよ。俺別に隠さなくてよかったじゃん」
「何がだよォ」
「何がってお前、冨岡のこと好きなの自分だけだと思ってんの? お前が好きだから俺は手引こうとしたんだけど?」
「――はァ?」
「だからあ、俺はお前と違ってうんこする冨岡の恋人になるのは吝かではねえんだよ!」
 掴んでいたグラスが滑り落ち思いきり膝に酒がかかった。店員を呼んでおしぼりを投げ渡してくる宇髄の顔を眺めたまま不死川は固まった。
 寝耳に水だ。そんな話は一度として聞いたことがない。一体いつから。
「くっついたら離れようと思って見守っててやってたんだよ、邪魔だなあって思わなかったわけ? お前がそんなんなら俺も本気出しちまうぜ」
「かかってこいよぶっ殺してやるわァ」
「いや、そこは友として応援とかしろよ……」
 できるわけがない。冨岡の恋人になりたいわけではない不死川だが、冨岡に相手がいるのは我慢ならないのである。それがたとえ宇髄だとしても。