夜雨の君―定例会といたしましょう―
水と聞いた時、アオイの頭には二人の隊士が思い浮かんでしまう。
自分自身も水の呼吸を扱ったけれど、その頂点にいた人だ。アオイの上官と比較的仲が良かった。アオイにとっては雲の上の存在だった人。
それからもうひとり。
水の呼吸もそうだけれど、雨を連想して思い浮かぶ人だ。
夜雨の君。雨とともに現れては流れていく、隊士がしている噂を聞いては水のような人だと思ったことがある。アオイがどう足掻こうと近づくことのできない柱に最も近いと言われ続けてきた人。アオイも一度だけ見たことがあった。
たった一度でも目に焼きついている。夜に出歩くことになってしまったアオイが鬼と鉢合わせて何もできずに動けなかったところを、代わりに頸を撥ねて颯爽と去っていった女隊士。あんなふうになれたらと何度思ったかしれない。
鬼舞辻無惨との戦いの後、蝶屋敷に運ばれてきた隊士たちの中に彼女の姿はなかった。
けれど亡骸も見つからなかったから、それより前に亡くなっていたのだと思っていた。柱ですら死んでしまう仕事なのだ、あれほどの体捌きをもってしても死は訪れるのだと思い知らされた気分になった。そんなふうに考えたことがあったのをアオイは思い出していた。
「いい加減にしろ禰豆子、なんで婦女子の集まりに俺が入ることになるんだ」
「いいじゃないですか、ここまでされたんですし。もう隠さないとも聞きましたよ」
「それは必要最小限で」
「蝶屋敷は必要最小限ですよ! それにこんなに着飾って綺麗なのに見せないの勿体ないです!」
「……輝利哉様たちが見たいというから着させられただけだ……」
「そのついでです!」
「とっても綺麗だよ、自信持って。それに僕一人だとちょっと肩身が狭いよ」
「うう……」
めちゃくちゃ元気そうである。
神出鬼没の女剣士であった夜雨の君が、雨の夜にのみ現れるといわれていた彼女が青空の下、禰豆子と輝利哉たちに纏わりつかれて大層困り果てていた。輝利哉は彼女の背中を励ますように叩き、それにつられてかなたとくいなも頷いている。
今も輝利哉が褒めたように、アオイの前には美しく着飾った夜雨の君がいた。普通の町娘のような鮮やかな小袖を着て、誰もが振り返りそうな様相をしているのである。だというのに、崇拝していた隊士すらいたというのに容姿に自信がないのだろうか。だとしたら鏡を見ては如何かと言ってしまいそうだった。
「ええと、夜雨の……ご無事と言っていいのかは、すみません、わかりませんが」
死んだと思っていたのだからこうして顔を見るのは喜ばしいことである。しかし片腕がないところを見るに、怪我の療養で最後の戦闘から遠ざかっていたのかもしれないな、とアオイは考えた。
輝利哉たちがここにいるのは茶会と称した集まりに参加するためであり、アオイたちはその出迎えのために玄関先に顔を出した。隊士だった夜雨の君には輝利哉たちと禰豆子をものともせず引きずる力が確実にあるのだろうが、彼らに気を遣ってか無理に逃げようとはしていない。
一連のやり取りを見ているだけだったが、なんというか、思っていたより普通の人のように見える。
一部の隊士が神聖視していただけで、本来は柱もそんなものだった。鬼に襲われてすべてが変わってしまった。彼女もアオイと同じなのだと今ならわかる気がした。
「いや……充分無事だ」
「綺麗ですよねえ、羨ましい」
「茶化すな」
夜雨の君が蝶屋敷で治療したことがあるかといえば、アオイが知る限りはなかったはずだ。しのぶも彼女とは知り合いではなかったと記憶している。片腕を失くすほどの怪我を負ったのがいつなのか、問いかけていいのか少し悩んだ。禰豆子たちと仲が良いようだが、アオイ自身は距離感を掴めなかったからである。
それにしても、随分男らしい喋り方をするものだ。
意外なような、そうでないような。水柱であった冨岡に似ているからだろうか。おかしいとはあまり思わなかったけれど。
「禰豆子。お前、俺に我妻とのあれこれを聞かれたいのか? 娘同士で喋るようなことを俺が聞いていいと思うのか」
「うっ」
「?」
何が駄目なのだろうかと、アオイは隣にいるカナヲへ目を向けた。カナヲもまた不思議そうな顔をしていたが、問いかけられた禰豆子は頬を染めてぎくりと固まってしまっている。どうやら彼女に聞かれるのはまずいらしい。
禰豆子はいつ知り合ったのだろう。炭治郎繋がりだったりするのだろうか。それにしたって随分仲が良いように見えるが、鬼だった頃から知り合っていたらこんな距離感になるのだろうか。人見知りなんてものも無縁そうだものなあ、とアオイはぼんやり考えながら口を開いた。
「……カナヲは知ってるの?」
静かにおろおろしているカナヲへこっそり問いかけてみると、ひとつ瞬いてこくりと頷いた。
「任務で見たことある。一度だけ……」
雨の夜にしか噂は聞こえてこなかったけれど、カナヲが見た時も雨の夜だったらしい。アオイもそうだったが。
隊士なのだから雨の日以外も任務には出ていたのだろうが、ものの見事に雨の夜にしか姿を見ないのはどういう理屈なのだろうか。それとも本当に雨の夜にしか任務に出ていなかったとかもあるのだろうか。
「女が集まればそういう話をすると聞く。俺がいてはまずいだろうに」
「いやあ、でも綺麗だからすぐ着替えちゃうの勿体なくて……じゃあ正体ばらして皆が一緒にと言ったら……」
「そこまでして参加する必要あるか。それに今ここで俺が冨岡義勇だと言って信じる奴がいると思うのか」
「はっ?」
「それはまあ……そうですよねえ。でもとっても綺麗なのにお風呂になんて入ったら二度と着てくれないかもしれないですから……」
「かもしれないんじゃない、着ないんだ」
「義勇は優しいから頼んだら着てくれるよ」
「あ、あの、……ちょっと……待ってくださいませんか」
いくら輝利哉様の頼みでもこれを何度も着るのはちょっと。そう言わず、また見せてほしいなあ。そうそう、次も宇髄さんたちの奥さん方に頼みましょう。そんなふうに進んでいく会話をなんとか必死に押し留め、アオイは額を押さえて脳内の整理に全力を注いだ。カナヲもこれまたしっかり混乱していたらしい。
「………、………。あの……。と、……冨岡、様なんですか?」
「えっ、凄い、アオイさんわかっちゃったんですか!?」
「いや、めちゃくちゃ言ってたよ……」
とぼけたことを宣った禰豆子へついにカナヲが一言突っ込みを入れ、慌てて口を押さえながらちらりと夜雨の君へ目を向けた。思いっきり言ってたよ、と輝利哉たちの言葉が追い打ちのように肯定する。
「義勇はわざと言ったの?」
「……言葉で信じるならと……」
言ってみた。信じなければそれでいいとも考えて夜雨の君は正体を口にしてみたそうだ。目の前の麗しい町娘のような出で立ちの彼女の正体が冨岡義勇だと。あまりにするりと口にされたせいか、禰豆子もするりとつられてしまったらしい。いや、正体って何。
そう問い質したくなっても、禰豆子も輝利哉もかなたもくいなも、嘘を吐くような人たちではないことくらいアオイはよくよく知っていた。
目の前の娘が元水柱の冨岡義勇であると教えられて、周りは訳知り顔で笑みを見せたりしている中、嘘ではないのだろうなとアオイはぼんやり考えはしたけれど。
「正直理解が追いつかなくて、い、一体どういう……明らかに別人なんですが……」
「嘘じゃないですよ! ちゃんとしっかり女の人なんです! 水被ると女の人になっちゃうんですよね」
「ああ……まあ、そういうことだ」
「全然わかりません……」
水を被った男が女になるという原理がさっぱり理解できず、しかしアオイはだから雨の夜だったのかとふと頭の隅で納得した。
水から連想する人はアオイの中で二人浮かんでいたけれど、それは結局一人だけだった。すぐには受け止められないが、そういうことらしい。
「義勇が参加しないなら僕もお暇しようと思ってたんだけど……」
「ええー、せっかく呼んでくれたのに。今日は義勇さんのお話を聞く会にしましょう!」
「きよちゃんたちも驚きますね」
「え……何人参加するんだ……?」
詳しく茶会の内容を聞いていなかったのか、夜雨の君――冨岡は口元を歪ませて禰豆子に問いかけている。なほ、きよ、すみも今日の茶会を楽しみにしており、本来は禰豆子と産屋敷家を招待して九人で過ごす予定であった。
元々それだけ大人数なのだから一人くらい増えたところで問題はない。ないのだが。
「見せてほしいです、姿が変わるところを」
ぽつりと口にしたカナヲの言葉はアオイも考えていたことだったが、すんと表情を失くした冨岡の両脇を固めた禰豆子と輝利哉は彼女――彼、を引っ張って蝶屋敷へと足を踏み入れた。
「ごめんね義勇、すぐ拭くからね」
「いや、着替えないと変態になりませんか……」
「あっ、大丈夫ですよ! 義勇さんはそのままでも充分なので!」
「何が」
茶会の前、皆が見守るなか輝利哉は化粧が落ちないよう夜雨の君へそっと湯をかけ、体格の変化により苦しそうな小袖を着た元水柱の冨岡義勇が現れた時、興奮して喜んだのはなほ、きよ、すみの三人娘だけではなかった。かなたとくいなも見るのはまだ二度目だと言い、楽しそうに纏わりつく彼女たちに女装した状態の冨岡は大層困り果てた顔をしていた。
「早く水を……いや女になりたいわけではないけども……」
「はい、でもお似合いですよ」
「……視力は戻らないんだったか」
「少しは見えてます」
ひっそり褒めたカナヲの言葉に不満そうに例の妙な口下手を発揮したようだが、水をかけるとまた夜雨の君が現れたことでまたも周りが騒がしくなった。げんなりしたような顔をしたものの、皆が無邪気に楽しそうだからか夜雨の君はようやく笑みを見せてくれたのだった。