夜雨の君―本性違わず・弐―
ある日を境に囁かれるようになった噂。
雨の夜に現れる剣士の噂だ。
隊内では時期水柱と謳われているにも関わらず、未だ誰ひとりとしてその素性を知らない。調査をしても埃ひとつ出てこない女だという。
出てくるとすれば隊士たちの不確定な噂ばかり。やれ水柱に似ているから血縁だとか、いやいや天涯孤独だろうから妻だとか、はたまた実在しないあの世の者だとか。
伊黒からすれば心底どうでもいい話だ。
女であるというだけで避けて通るほどだというのに、それが冨岡に関係しているなど耳障りなことこの上ない。いい加減女一人に固執するのはやめて鬼殺に集中しろと説教してやりたいくらいだった。
そもそも元忍の宇髄が嗅ぎまわって埃ひとつ出てこないというのだから、産屋敷の差し金で秘匿していると考えるのが妥当だ。当主が隠しているものを暴こうとするなと伊黒は思っている。
そう。思っていたのだ、本心から。
「……そう……。小芭内も落ちてしまったんだね……」
「………、……面目次第もございません……」
産屋敷邸の通された部屋で平身低頭跪いて額を畳に擦りつけた伊黒の報告を聞いた産屋敷は、少しばかり困ったような声音で呟いた。
常日ごろ着ている羽織は普段からも少しばかり丈が余っていたが、現在の伊黒にとっては身体全体が隠れるほど大きい。あまりの醜態に顔を上げられず、伊黒は平伏したまま自身を呪った。
ある秘境の泉には、言い伝えがあったという。
入ると姿が変わるといういわくつきの泉が大小いくつも存在しており、その秘境を呪泉郷というらしい。名を聞いていればもっと警戒していたはずだと今更ながら考える。本当に今更だが。
情けなくもその忌々しい泉の一つに落ちた伊黒は姿が変わり、幼い子供の姿に変わってしまっていた。
本当に最悪だ。産屋敷が言うには呪泉郷は人ではない動物に変わる泉もあるという話だったので、人型であるだけ不幸中の幸いだ。そう思わなければやっていけないほど落ち込んでいた。
「………。あの、お館様。も、とは一体……」
ふと産屋敷の口にした言葉に違和感を覚え、伊黒はようやく顔を上げて問いかけた。なにやら嫌な予感というかなんというか、妙なものを感じてしまったが。
「うん、実はね。おいで」
「……失礼いたします」
襖が開くと同時に隊士が挨拶をする。顔を上げた時、既視感のある涼しげな顔をした女が伊黒を見つめた。
反射的に顔を歪めた理由はいくつかある。
まず、見知らぬ女である点。一部の女性以外には近づきたくもない伊黒としては、同じ部屋に女がいるだけで気分が悪くなる。
次に、女隊士の羽織っているものがひどく見覚えのある物だった点だ。伊黒の嫌いな男を思い起こさせる、珍しい片身替りの羽織を見知らぬ女が着ているからだった。
それから最後に。
その片身替りの羽織を女隊士が着ている理由に思い当たってしまったからである。
「呪泉郷に落ちたのはこの子もなんだよ。きみもよく知ってる、彼女は義勇だよ」
「………っ、夜雨の女とは貴様か!」
産屋敷の前であっても、伊黒はつい声を荒げて畳を殴った。
「貴様と同じ轍を踏んだことが人生の汚点だ」
正体を隠していたのはやはり産屋敷の命だったようだが、夜雨の女の正体を知っていれば呪泉郷のことも聞くことができたというのに、と伊黒は溜息を吐いた。それはそれとして己の失態は後悔してもし足りなかったが。
産屋敷邸からの帰り、伊黒と冨岡は雨の中を傘も差さずに歩いていた。産屋敷への報告として湯や水を被った後であり、外も雨が降っている。任務の時点で元々濡れていたし傘など持ち歩いていない。産屋敷は風呂と傘を貸そうとしてくれたが、丁重に辞退して帰路についた。正体を隠したい二人は揃って羽織だけは脱いで歩いていたが、これからどうしよう、と伊黒は絶望していた。
「貴様はいいな、性別が変わるくらいで筋力差もさほどないだろう。俺なんかそこまで小さくなるか? と言いたくなるほど幼子にまで戻っている。は、笑いたければ笑え。下手を踏んだ己が情けなくて涙が出る」
「………」
子供の頃など忌々しい思い出しかないが、その頃の姿にさせられるなど最悪以外の言葉もない。というか本当に任務とかどうしよう。隣の男――今は女だが、冨岡は伊黒が口にしたとおり、忌々しくとも女であろうとこいつの能力なら難なく戦える範囲のはずだ。今の伊黒の手はあまりに小さく、刀を抱えるのもやっとだった。
「貴様、縫製係に外套とか頼まなかったのか? 俺はさすがに濡れたままでは無理だ。得物を変えなければろくに動けん」
「………」
「何か言え。一人で話してる俺が馬鹿みたいだろうが」
忌々しい相手とこうして話してやっているというのに、返事くらいはしろよと苛々を募らせた。同じ鬼狩りなのだ。悪い奴ではないことくらい知ってはいるが、嫌いになる理由も山ほどある。そういう奴だった。
「あっ」
前方からなにやら聞き覚えのある声が聞こえて顔を上げた時、伊黒はつい後退りしてしまいそうになった。傘を差した恋柱――甘露寺がこちらを見ていたからである。よりによって一番見られたくない相手に姿を見られてしまった。
「夜雨さんこんにちは! 良かった、怪我もなさそう! 昼間に会うのは初めてだし久しぶりね! すごく濡れてるけど傘持ってなかったの? あ、そちらはもしかして……弟さん? なのかな」
なんで彼女が仲良さげに話しかけてくるのか、近寄ってくるのか、仕方ないとしても冨岡の弟に間違われた衝撃とか怒りとかで一瞬にしてぐちゃぐちゃになった心中に伊黒は固まった。好奇心に満ちた目が伊黒に向けられたが、応えることができなかった。
自分にも弟がいる、可愛いわよねえ、と返事をしない冨岡なんぞにも楽しげに喋りかけていた甘露寺から話題がふと途切れた時、どこか期待しているようにも見える笑みを彼女は冨岡へ向けた。
「ねえ、雨が降ってるね」
「………?」
ぱちくりと音でも鳴りそうな瞬きを一つした冨岡はその直後に目を丸くしたが、それを恨めしく見ていた伊黒は疑問符を浮かべた。
「雨の日なら友達になっていいって言ってくれたわ。よかったらこれからうちに来てお話ししませんか? 弟さんも一緒に。風邪引いちゃうもの」
甘露寺と友達になっただと。俺のいないところで。勝手に。いつの間にか。
冨岡にだけ向けた怒気に気づいたのか、冨岡はちらりと伊黒へ視線を向けたが特に何かをしようとする素振りはなかった。甘露寺に誘われている不届き者は黙り続けて断るつもりなのか、それとも頷くつもりか。どちらにしろ制裁を加えるしかない。
そんなふうに考えていると、甘露寺に問いかけられているというのに冨岡はふいに手を伸ばしてきて、伊黒の首根っこを掴んでずいと甘露寺へ差し出した。
「はっ?」
「こいつを預かってほしい」
「え。ええ、構わないけど、夜雨さんはどうするの?」
「結構だ」
「……そっかあ」
忙しいなら無理には誘えない、と甘露寺は寂しげに笑みを見せた。普段伊黒に向けてくれる笑みとは違う。
望まれているのだから甘露寺を悲しませるなよ。どちらを選んでも伊黒は冨岡を恨んだだろうが、どうせどちらかしかないのなら甘露寺が喜ぶほうを選ぶのが当然だ。掴まれた首根っこから腕を振りほどき、甘露寺には聞こえないよう冨岡へ文句を向けた。
「おい、甘露寺が悲しんでるだろうが。行け」
「……いいのか」
「………。仕方あるまい」
たった一言だったというのに、伊黒は冨岡がこちらの気持ちを考えていたらしいということに気がついてしまった。
気づくんじゃなかった、と伊黒は額を押さえて非常に複雑な気分になったが、一先ず押し込めて甘露寺の意向に添わせろと口にした。再び甘露寺へと向き直った冨岡の口は多少まごついたが。
「あまり、話すのは得意じゃない。聞くだけでいいなら」
「……もちろん!」
大輪の花が咲いた。周りまで明るくなるような満面の笑みを見せてくれた甘露寺に目眩がしたが、これほど喜んでくれるなら冨岡くらいいくらでも差し出そうと伊黒は決意した。もちろん男ではなく女のほうだ。
「それから、誰にも言わないと約束してほしい」
「えっと……招待したこと?」
「全部」
「全部って……えっと、弟さんのこととか、雨の日の友達ってことも?」
甘露寺の言葉を冨岡は肯定した。今は甘んじて聞いているが、伊黒は断じて冨岡の弟ではない。黙っていてほしいことを頼んでいる冨岡に神妙な顔をした甘露寺は、そんなことでいいならとすぐさま頷いた。
「じゃあ、早いとこ行きましょう! 熱でも出たら大変! ……あ、あら、ごめんなさい、駄目だった……?」
冨岡の手を握ろうとしたのを逃げるように避けたせいで甘露寺の手が空振った。またも甘露寺が寂しそうに笑ったものだから、冨岡への苛々は増えていく一方である。もう少しいい感じに断ることとかできないのか。
「……こっちと」
「!?」
「あ、弟さんと? じゃあそうしよっか!」
剣だこがあろうと柔らかい甘露寺の手が伊黒の手を握り、嬉しそうに引っ張っていく。言葉も発せぬまま伊黒はなすがままになっていた。
「何はともあれ、まずはお風呂よね! 準備しといてもらうよう言伝したからすぐ入れるわ、大丈夫よ!」
甘露寺邸に到着した三人は、土間で少し水分を拭き取り脱衣所へと通された。そしてかけられた言葉に二人揃ってぎくりと肩を震わせた。
「……何故」
「え? 皆濡れてるもの、風邪引いちゃうわ」
伊黒と手を繋いでいた甘露寺は持っていた傘に三人入るよう促していたのだが、冨岡は不要であると首を横に振った。甘露寺の提案を断るなと普通なら言うところだが、普通の傘に三人も入れるはずがなく、そして彼女が雨に濡れてしまうのは避けなければならなかった。しかし甘露寺からすれば幼子である伊黒を雨ざらしにするわけにいかなかったようで、冨岡に謝り伊黒へ傘を傾けて雨を弾くようにしていた。おかげで甘露寺まで濡れてしまっているのである。なんとも不甲斐ない限りだった。
「女同士だし一緒に入っちゃえば距離も縮まるし……。下の子たちのお風呂も私がよく入れるのよ。慣れてるから大丈夫。弟さんも一緒に」
「……それは、ちょっと」
「温まりながら話をしましょう! 大丈夫、見ないようにするから」
きっと綺麗だと思うけど、なんて楽しげな声が響く。
どうする。過去にも類を見ない危機である。ちらりと冨岡に目を向けると、明らかに困り果てているのがわかった。
ここまで来てしまったのだ、この際だからばらしてしまうか。産屋敷も信頼できる協力者を作ることは推奨していた。
しかし、こんな情けない姿を晒して甘露寺は幻滅しないだろうか。頭に浮かんだその考えが、伊黒に迷いを持たせてしまった。
「………。一緒に入れない理由がある」
「え?」
脱衣所の奥に風呂場がある。足を踏み入れた冨岡は湯気の立つ湯船から湯を掬い、ばしゃんと被って男の姿でこちらを振り向いた。様子を見ていた甘露寺の目が驚愕に染まっていく。
「………。はあぁぁ、まったく……」
この判断の早さは確かに戦いでは悪くないものだ。別に褒めているわけでも羨ましいわけでもないが、こいつは自分に好きな人ができた時も逡巡を一瞬で終わらせて正体をばらすのだろうか。
兎にも角にも、冨岡がばらしたのだから伊黒もばらさないわけにはいかない。誤魔化そうと思えばできるだろうけれど、冨岡に遅れを取るのは不愉快だったので。
「すまない甘露寺。期待したような女子供でなくて……」
「………っ!? い、伊黒さん!?」
動きやすいようにと産屋敷から子供用の衣服を借りていたから、とりあえず隠していた羽織を羽織って湯を被った。この際泉に落ちたことは仕方ないと諦めても、正体をばらすこの瞬間は言葉にできないほど情けない。というか恥ずかしい。今すぐ逃げ出したい気分だったが。
「………、……あ、えっと……期待、というか、二人ともに、似てるなって思ってて……すごく納得しちゃった。すごい、素敵……で、でも……わ、私殿方を二人も連れ込んでしまったのね!? やだ恥ずかしい!」
「………」
真っ赤になった頬を両手で押さえ、甘露寺もまた涙目になりながら叫んだ。平然としているように見えるが、恐らく冨岡の内心も非常に驚いているのだろうとわかってしまった。
とはいえ、そんなに恥ずかしそうにされてはどうにかしてやらねばならぬと伊黒は桶に水を掬い、被るついでに冨岡にも顔面からぶっかけてやった。鼻にでも入ったのか一人噎せているが。
「きみは男など連れ込んでない。このとおり子供だ」
「………っ、雨の日だからな」
今は子供で、女である。咳き込みながらも一言呟いた冨岡と伊黒を見つめた後、甘露寺は照れながらもまた嬉しそうな笑みを見せた。
正体を晒して最初に出てくる言葉が甘露寺の人となりを表しているようで、伊黒は胸が締めつけられる想いだった。ここに冨岡もいるのが果てしなく邪魔ではあるが、そもそも甘露寺は夜雨の女を誘ったのだから伊黒が冨岡を邪魔扱いするのはお門違いというものだ。不満があろうとそれくらいはわかっている。
「でもごめんなさい……隠そうとしてたのよね。私ったら寒いだろうと思って……。ありがとう二人とも、教えてくれて。絶対に誰にも言わないからね」
「ああ……ありがとう」
「せっかくだしお風呂で温まってね。パンケーキ用意するから!」
脱衣所にいたままの甘露寺が風呂場の戸を閉めようとするのに慌てたが、客人だからと先に入らせることを譲らなかった。冨岡と入るのも嫌だが、楽しそうな甘露寺に断るのも申し訳なかった。
「……まあ、お言葉に甘えるか。貴様もだぞ」
「ああ……」
どこか放心したような、安堵したような様子の冨岡に、伊黒はぼんやり冨岡の考えていることがわかってしまったような気がした。
*
「くそ腹立つぜェ、あの澄まし面ァ……」
先の任務で相変わらずの言葉足らずと口下手を発揮した冨岡はこれまた相変わらずの澄まし面を張りつけていたようで、おかげで不死川の怒りを増幅させたらしい。
いつものことだが懲りないものだ。動きの見せない表情筋がもう少し働けば不死川の苛立ちも多少緩和したかもしれないが、そこはもうどうしようもなかった。
「本当改善しねえな、煽り癖も協調性も」
宇髄もまた恨み言のように口にしたので呆れているのだろう。苛立ちのあまり頭を抱えた不死川に伊黒も声をかけてやることにした。
「まあ……落ち着け不死川。あいつも別に見下してるわけじゃないし、悪気はない」
「――はァっ!?」
「人付き合いが苦手で口下手なだけだ……そう、壊滅的に」
それはもう、仲間内で支障が出るほどに。伊黒はそこではなく不幸面の部分で嫌っていたわけだが、不死川は放たれた言葉を額面通り受け取って嫌っている。任務での指示だけは的確なくせに、個人的に伝えたいことが何ひとつ伝わらないことをもう理解してしまっていた。
「どうした伊黒……」
「別に……」
冨岡を擁護するような言葉を伊黒が発したことで二人とも驚愕したらしく、悪いものでも食べたのか、それとも体調が悪い、槍でも降るのではと頓珍漢な心配をしてくる。別に、本当に何もない。ただ、そう、関わる頻度が増えてしまったから、一応の付き合いとして頭ごなしに嫌うことをしなくなっただけである。
「あ、伊黒さーん! これから冨岡さん家に遊びに行くんだけど、伊黒さんもどうかしら」
「………!?」
「ああ……そうだな、お供しよう。ちょうど俺も用がある。ではな二人とも」
「っ!?」
置いていた荷物を抱え上げ、駆け寄ってきた甘露寺を立ち上がって出迎え、揃って不死川と宇髄へ別れを告げた。放心から戻ってきた二人に後々さぞ問い詰められるような気がするが、伊黒はもう仕方ないと諦めていた。
「それ、頼んでた外套かしら? できたのね!」
「ああ、縫製係を脅し……無理を言って急いでもらったものだ」
水柱邸へ到着し家主の出迎えを門扉で待っている間、荷物が気になっていたらしい甘露寺は伊黒へ問いかけてきた。
隊服と同じ素材で、隊服よりも更にしっかり水を弾くよう撥水加工も施してある雨外套だ。頭巾を被れば雨に当たる心配もない。縫製係の前田は悪名高いが腕だけは確かなので、女物しか作りたくないと泣くのを脅して作らせたことに間違いはなかった。
「……ま、これで夜雨の女とは会えなくなってしまうだろうがね」
突然の雨に怯えるくらいなら外套を常時着続けることを選択した伊黒だが、女になりたいわけではないのだから冨岡もそうするだろう。うっかりで着忘れるということがなければ、夜雨の女が隊士たちの前に現れることはなくなるはずだ。
「……たまには会いたいんだけど、雨の日に頼むのはいいかしら?」
「もちろん甘露寺は別だ。嫌だと言っても俺が責任を持って水をぶっかける」
「ご、強引だわ、素敵……えっと……夜雨さんもだけど……小芭内くんにも会いたいなあって――い、伊黒さん!?」
「何してる」
ばたんと伊黒が背中から地面へ勢い良く倒れ込んだのと同時に戸が開き家主が顔を出したが、あまりの衝撃に立ち上がることは不可能だった。
だって甘露寺が、あの甘露寺が伊黒の名を呼んだのである。名前。下の名前だ。意識はあっても返事ができず、慌てる甘露寺に申し訳ないと思いつつ動けなかった。
「冨岡さん! 伊黒さんが倒れちゃって」
「………。満足そうだから大丈夫だと思う」
「え……そ、そう? かな」
上から覗き込んできた冨岡は伊黒の表情を見て口にしたのだろうが、この男に察されるのは正直複雑だった。残念ながら間違っていなかったので、立ち上がって否定することもできそうになかった。