夜雨の君―しのぶ―

「しのぶ様、出てきてくださいませんか。せめて食事はきちんと……」
 無理だ。
 被った布団の中で頭を抱えたしのぶの顔は苦悶に満ちていた。もちろん見ている者がいないのだから誰も指摘はできないが。
 アオイには悪いが、隊士の治療に関しても彼女が対応できる範囲でどうにかしてほしい。夜には任務に出るからとにかく今は勘弁してほしい。柱としてあるまじき行動であろうと、今は本当に無理である。結局のところしのぶはまだ歳若い小娘だったので、心を波立たせるものがあれば反応してしまうのであった。
 あの衝撃の事実を見せた雨の日からしばらく、しのぶは水柱邸へと通うことが増えた。
 面妖な身体を調べることはすでに了承済みであったので、人目の少ない水柱邸を選んだ。ただそれだけのことだった。もちろん持ち込める機材ばかりではないので、蝶屋敷でできることはすでにこっそり済ませた後だ。ひと通りの身体検査を終わらせて特に異常は見つからなかったが、そこは想定の範囲内でもあった。結局水柱邸では身体検査もそこそこに、頂戴した菓子やら茶やらをお裾分けしてもはや二人の茶会になってしまっていたことは、今更ながら気づいてしまった事実である。
 まあ、そのように何故か頭のねじが飛んでしまっていたものだから、妙な噂が出回っていることにしのぶはまったく気づかなかった。
 やけに機嫌の良い蟲柱様が水柱邸へと足繁く通っている、などという妙な噂に。
 いや別に、頻繁だとしても同僚の屋敷に足を向けること自体はさほどおかしなことではないだろう。それだけなら柱同士の任務の打ち合わせでもあるのだろうと考えた者もいるはずだ。実際いたかは知らないが、絶対いたはずである。そうでなければ困る。それはそれとして、機嫌の良し悪しを察されるなど未熟以外の何ものでもないということは間違いなかった。
 まあとにかく、その後のしのぶの行動と冨岡のうっかりが噂を加速させたに違いないのだ。
 あの天然ドジっ子め。自分自身を棚に上げて澄まし顔を思い浮かべたというのに、狼狽しているせいか何故か怒りが全然脳裏に過ぎった顔へ向かわなかった。何故。潜り込んだまま悔しさに任せて敷布団を拳で殴った。
 火のないところに煙は立たぬ。そこからまた、ちょっとした事実からとんでもない噂に変貌していくのを目の当たりにしてしまったしのぶは、あまりに混乱して足早にその場を離れ、私室へと閉じこもってしまったのである。

 身体検査を始めて少しした頃だったか、しのぶは戯れに女性の姿の冨岡に蝶の髪飾りをあしらってやったことがある。癖のありすぎる髪が湿気でぼわぼわしているのを根気良く梳かして艶やかさを出せたことに喜べば、可愛げなく冨岡はむすりとしたまま黙り込んだ。仕返しとばかりに余っていた蝶の髪飾りをつけてやり、大層顔を顰めた冨岡は男に戻る暇もなく雨のなか任務へと向かったのだった。
 蝶屋敷付けの夜雨の君が現れたという噂が広まっていたらしいというのは昨日の朝に知ったばかりだ。
 しかしまあ、それだけなら許容できる範囲、むしろ率先して流してもいいのでは? と思うくらいだった。
 蟲柱のいる蝶屋敷付けの隊士と思わせておけば、無理に正体を暴こうとする者はいなくなるかもしれない。柱などはむしろ聞いてくるかもしれないが。
 夜雨の君が現れた頃からすでに水柱と関係があると囁かれていたことを、この時点でしのぶの頭からはすっかり抜け落ちていた。だから本当にねじが飛んでいたとしかいいようがなかった。うっかりすぎる、どうした胡蝶しのぶ。自問自答しながら頭を抱えた。
 その翌日。そう、今日の朝だ。治療に来た隊士たちが噂しているのを聞いたのは。
「……だから、水柱が髪飾り持ってたんだって」
「そりゃ好い人に贈り物くらいするだろ」
「それがさあ……」
 見舞い人と怪我人がその部屋にはいて、丁度しのぶが通りがかった時の会話だった。漏れ聞こえてきた言葉にしのぶはふと足を止めてしまった。
 柱の噂話は多い。特に蝶屋敷には怪我人たちが多く、任務でのあれこれを話す者がたくさんいる。やれ鬼が強かっただの死ぬかと思っただの、そんな任務で柱が現れて助かっただの恐かっただの。自分の噂まで聞こえてくるのだからうんざりしたこともあった。
 しかし、あの冨岡に髪飾りを贈る相手がいる。そう考えると非常にもやもやとしたが、立ち去ろうとしたしのぶの足はまたも止まることとなった。
「……いや、蝶の髪飾りだったから、蟲柱のものじゃねえかって」
「えっ。……ほ、本当に……? それってさあ……」
「うわ、まじか。そういう仲なの? いや……まあ柱同士でお似合いかもしんないけど」
 は? なにそれ。
 その会話を耳にして一気に熱が上がってくるのを感じ、握り込んだ拳がぶるぶると震えて止まらなかった。
 なんてことを噂しているのかとしのぶは説教したくなったが、蝶飾りという言葉にふと身に覚えがありまたも戸の前で立ち竦んでしまった。
「もう馬鹿、それだけじゃないわよ。確かに元は胡蝶様の物っぽかったけど、あれは……夜雨の君がつけてたものと色が同じだったわ」
 しのぶははっと気がついた。昨日の朝に知ったばかりのこの噂。雨の日に一度だけ蝶飾りをつけたまま冨岡は任務に向かってしまったから湧いた噂だったが、今考えるとしのぶのねじはあの時から飛んでいたらしい。
「蝶屋敷付けになったなんて噂があったけど、今更おかしな話だと思ったのよね」
「まあ確かに。元々水柱の継子とか姉妹とか散々言われてたし、そこらの隊士より強い人だもんなあ。どっちかっていうと水柱の継子になってるほうが納得できる。似てるし」
「ていうか妹じゃなかった? そんな噂聞いたぞ」
「いや、だからね!?」
 興奮した女隊士の声が漏れ聞こえてくる。噂がどう転んでいくのかしのぶはつい気になってしまった。野次馬根性を出してその場に留まったのがいけなかったのである。
「水柱様と蟲柱様が婚約したから妹の夜雨の君に髪飾りをあげたのよ!」

 青天の霹靂であった。そんな邪推が飛び出てくると思わなかった。
 妹確定かあ。噂あるし、似てるし、剣技も。だよなあ。今まで隠してたのかなあ。婚約したから隠さなくなったのよ! どういう理屈なんだよそれ。いずれ蝶屋敷に挨拶に来て、夜雨の君はここで医療隊士として働くのよ。蟲柱が嫁いで引退したら夜雨の君が継ぐとか。むしろ水柱様がこちらに住むのかも。
 しのぶを置いて勝手にどんどん付け足されていく噂の尾ひれにようやく意識を取り戻し、足早にその場を逃げ去り布団に篭もることになったのだ。耐えきれなくなったからという理由が大半を占めていた。
「最悪です……なんなのあの噂、私を晒し上げてどうしようというのよ」
 定期的にかけられるアオイの声も朝から夕まで無視し続け、ひたすら布団に包まり羞恥を治めようとしていたが、ちょうど窓にこつんと小石が当たる音がした。
 この気配。近づくまで気づかないほど狼狽えるとはやはり未熟者である。
 間が良いのか悪いのかよくわからない人だ。わざとなわけはないだろうと思うのに、わざとなのかと問い質したくなる。溜息を吐いたしのぶはむくりと起き上がり、なんとか平静を装ってどうぞと窓へ声をかけた。
「……寝てたのか」
「いいえ」
 そろりと開けられた窓から湿度のある風が入り込んでくる。落ち着いた涼やかな声はそろそろしのぶも聞き慣れてきたものだ。窓の縁に重心を預けた夜雨の君が、布団に座り込むしのぶを見て少し表情を変えた。
 天然ドジっ子の冨岡がいつぼろを出すとも知れないというしのぶの偏見により、正体を隠したい夜雨の君はこっそり勝手口から迎え入れることにしていた。しのぶが一緒にいない時はこうして気配を探り私室の窓を叩いてくる。わざわざ水を被ってくるのは、嫁入り前のうら若き娘の私室に入り込む男なんぞ外聞が悪すぎる、という理由である。しのぶが水柱邸に十度通ってようやく蝶屋敷へ一度寄りつく、なんて頻度のくせにそういうところは律儀だった。いや別に私用で蝶屋敷に来なければならない決まりもないが、冨岡なのだし別にそこまで気にしなくても、というのがしのぶの本心である。否、本心であった。
 蝶飾りを持った冨岡を見かけられただけであそこまでとんでもない噂が出来上がるのだから、しのぶの私室から出てくる冨岡など見られては言い逃れもできないだろう。噂になっている相手が冨岡だからこうして引き篭もるまでで治まったが、他の者だったら先程の隊士たちを殴ってでも記憶を消しただろう案件だ。
「何かありました? 用がないならちょっと今はお控えくださると助かるんですが」
 平静を装おうとしたところで表面上なだけであり、内心落ち着かないままでは本人の前でどんな醜態を晒すかわかったものではない。感情の制御ができない己など未熟も未熟、柱ではなくただの小娘に成り下がっている状況だ。
「すぐ帰る」
 なんだ、帰るのか。早く帰れと思っておきながら、いざそう言われると少しばかりつまらなくなった。濡れている髪を見ながら手拭いでも渡そうかとしのぶが考えた時、ずいと何かを差し出された。
 袖口から見えるのは白魚のような手である。男である冨岡とは似ても似つかない線の細い手だった。まあ、手のひらを見れば剣だこはしっかり残っているのだが。
「何ですこれは?」
「……礼だ」
 差し出されたのは桐箱。さすがに空箱を渡すような嫌がらせを冨岡はしないから、中に何かが入っているのは間違いないだろう。その中身を入れ忘れたとかならあるかもしれないが。
 桐箱に目をやっていたしのぶが顔を上げた時、ぷいと冨岡は首ごと顔を逸らした。
 その様子をしのぶはまじまじと見つめた。男の時は特に気にしたことはなかったが、女になっている時の肌は白さが特に際立っている。美しかったしのぶの姉と同じくらいだとひっそり思っていた。本人には言わないが。
 その白いはずの頬がごく薄っすらと赤みを帯びていることに気づいたのは、恐らく視線を逸らしたかったのだろう冨岡が横顔を晒したせいだった。
 照れている。
 冨岡が。
 なんで。
 疑問符を浮かべたまま受け取った桐箱を開けると、予想もしていなかったものが視界に飛び込んできた。
 蝶をあしらった櫛と簪が桐箱の中に収められているのを目の当たりにした瞬間、ぶわりと抑え込んでいた感情が思いきり表面に出てきた。首から上が発熱しているかのような熱さだった。
「………、……これは、また……良い物ですねえ……」
 先程噂に尾ひれを付け加えていた隊士がこれを見たら、どんなことになるのか想像しきれなかった。
 今は違う物を贈る習慣があるらしいというのは聞いたことがあるが、しのぶにとってもこれは顔色を変えてしまうほどのものである。
 昔はこれを持ってして求婚していたこと、冨岡は知っているのだろうか。しのぶの両親はまさしくこれが決め手であったとよく聞かされていたことがあった。
 しかしたとえ中身を見られなくとも、贈り物を渡されるところを見られでもしたらとんでもない噂があちこち飛び交いそうだった。男の姿でなくて良かったと感じたのは初めてだった。
「店主に……呼び止められて」
「……断りきれずに買ってしまったと」
 なんだ、照れ損ではないか。む、と眉間に皺が寄るのを自覚しながら、一気に上がった熱が急激に冷めていく感覚に頭の中まで冷えていくようだった。こんな意味深長なことをされて本当は無理やり買わされましたなどと宣っては、しのぶでなければ確実に引っ叩かれていたのではないかと思うような所業である。己の自意識過剰さも相まって苛々が募り始めていた。
「礼の品を探してたのは本当だ。何が良いかわからなかったから……店主に聞いた」
「………」
「似合いそうなものがそれだった。……嫌なら返せ」
「渡しといて返せはちょっとどうかと思いますよ」
 贈った物を取り返してなかったことにできるなんて虫が良すぎるだろうに、むすりとしたまま冨岡は差し出した剣だこのある手のひらを引っ込めなかった。
 しかし、しのぶもまた返すつもりは更々なかった。いくら照れ損といえど、苛々しようと、受け取ったものを返す気にはまったくならなかったからだ。嬉しさは半減してしまっても、失くなったわけではなかった。
 しかも本当は、無理やり買わされたわけではなかったのだ。半減したものが回復してしまう現金さも持ち合わせてしまっていた。
「ありがたく頂きますよ。ありがとうございます」
「……そうか」
 感情の制御ができないのは未熟者の証だ。
 那田蜘蛛山でも苛々して冨岡の言い分を遮ったことがあったが、早とちりはしのぶの悪い癖かもしれないと少し反省した。
 しのぶの言葉でほんの少し驚いたように目を丸くしたが、満足したのか冨岡はすぐに窓の縁から身体を離した。
「でも呼び止められたからなんて先に言ったら、他の人だと勘違いして怒らせてしまいますからね。注意してくださいよ」
「胡蝶以外に渡す必要がない」
 一言口にしてさっさと立ち去っていった夜雨の君を見送って、しのぶは歪みまくる口元を覆い隠した。急激に冷えたはずの頬にも熱が戻ってきているのがわかり、のろのろと布団へ逆戻りした。
 わかっている。冨岡のあれは礼をする相手がしのぶ以外にいないから出てきた言葉だ。そう、冨岡に他意はない。わかってはいるが。
「……あー……。そうなの……これは……」
 桐箱を抱えたまま布団に潜り込んだしのぶは、この瞬間気がついた自分の感情で真っ赤になるほど照れてしまったが、それでも混乱することはなかった。なんとなく、そういうことかと納得できたような気分だった。いや、なんでそうなったのかはよくわからないのだが。
「し、しのぶ様……」
「ああ、はい。ごめんなさいねアオイ。行きますよ、大丈夫」
 廊下に待たせたままだったアオイを思い出し、失礼しますと襖を開けた彼女に頬の赤みを無理やり落ち着かせたしのぶも布団から這い出て笑みを向けた。私室まで誰か来たのかと不思議そうに問いかけてくるアオイにしのぶは頷いた。
「そうですねえ。水に縁のある人がね」
 放っておけない理由、憎めない理由、頭のねじが飛んでいた理由。それが全部わかってしまった。感情の制御ができないのは未熟者だからではなく、言動にいちいち一喜一憂しているだけ。まさか自分がこんな感情を抱くなど考えたこともなかった。
 甘露寺の言う恋というものが、しのぶの心にそっと息づいていたなどと。
「……なんで照れたのかなあ……」
「え?」
「なんでもありませんよ」
 布団を片付けながら呟いた声が聞こえたらしいアオイが反応したが、誤魔化しながらもしのぶは考え続けた。
 あちらが照れなければしのぶももしかしたら自覚しないままだったかもしれないのに。照れずに渡しなさいよ、と責任転嫁して心中で毒づいた。
「もしかしてって思うじゃない、もう……」
 頬を染めたあんな様子、女のまろい横顔であってもどきりとしたのだ。男のままで見せられたらしのぶの心中がどうなるかわかったものではない。とはいえ、こうなっては死ぬまでに一度くらいは見てみたいとも思ってしまうのだ。
 けれど。
 たった一度だとしても。それを望んでいいのかどうか、今のしのぶには判断しかねた。ねじが飛んでいようとしのぶは鬼殺隊の蟲柱であり、悲願を果たすために我が身を殺すつもりの人間だ。やがてアオイに見つからないよう、そっと桐箱を鏡台の引き出しへと仕舞い込んだ。