夜雨の君―ひそか―

 ――冨岡義勇さんは女性ではないんですか?
 裁判から蝶屋敷へ身柄を移動させた後に治療をしてようやくひと息ついた頃、異端の隊士からそれは問いかけられた。
「……検診結果は常に男性だったと認識してますが。どういう意味です?」
「あ、いえ……ちょっと気になっただけで……」
 曰く、鬼の妹を見逃した日に出会った人は女性だったから、てっきりその女性が冨岡なのだと思っていた。顔つきも雰囲気も似ていたし、匂いも同じだった。しのぶはその話を聞きながら噂を思い出していた。
 姉が生きていた頃からまことしやかに囁かれている噂。
 雨の夜にのみ現れる、柱に匹敵するほどの剣技を持った女隊士の存在のことだ。そのひとを見た者は惚けてしまい、一部では崇拝までしている者もいるとか。
 夜雨の君。彼女に助けられた者は多く、冨岡の後継は彼女であると隊士の中でもそう噂されていた。
「なんだかよくわかりませんけど、冨岡さんは裁判にいた彼しかいませんよ。さすがに可哀想ですからね、お間違えなきよう」
 いまいち納得しきれないままに一応頷いたのが目に見えてわかるほど、隊士の表情は芳しくなかった。

「冨岡さんは女性ではなかったかと聞かれたんです」
 街中の店の軒下で雨宿りをしていたしのぶが見かけたのは、傘を差して通りすがった冨岡だった。
 呼び止めてみたのは気紛れだったが、彼の弟弟子であるはずの隊士の話も聞かせておくことにしたのである。傘を持っていないしのぶに気がついてでもいたのか、珍しくひと声で足を止めた冨岡は軒下にいるしのぶの隣まで近づき差していた傘を閉じた。
「噂がありましたね、いつからか現れるようになった夜雨の君は水柱様に似ていると。炭治郎くんが会ったという女性は顔つきも雰囲気もあなたに似ていたと言いますし……彼が会ったのはあの方なのではないかと予想がつけられます。あなたは、彼女から顛末を聞いて尻拭いをした。違いますか?」
 冨岡も危なかったところだが、一般隊士では裁判すらかけられずに処分を下された可能性は高い。
 隊士を辞められては困る人。処分を受けさせるにはまずいと思う人。冨岡が尻拭いするくらい大事な人ということだ。黙ったままの冨岡の表情に変化はなかった。
 しのぶも見たことがある。
 美しいひとだった。しのぶの姉も美しかったが、姉とは違う種類の美しさを持っていた。しのぶが初めて見たのは雨の中、特徴的な羽織を着てずぶ濡れのまま刀を振るう凛とした姿だった。鬼の頸を斬った後、彼女は羽織を脱いで隠そうとしたように思う。その様子を見かけたしのぶに気づいて目を丸くしたものの、彼女は何も言わずにすぐさまその場を後にしたことを思い出した。特徴的な片身替りの羽織は、今目の前にいる冨岡のものだったと当時から知っていた。
 辺りに隊士はしのぶしかおらず、それを見た者はしのぶだけだった。二度目に見かけた時は羽織を着ていなかったし、あの日に冨岡が貸したのだろうとしのぶは察したのだ。
 姉がいた、と。かつて口を割ったことがあった。
 身寄りは狭霧山の師のみであるということも。ならば似ていると噂されている夜雨の君は彼にとって何なのか。
 夫婦は似てくるとも聞いたことがある。
 羽織を貸すほどの仲で、肉親ではない可能性があるなら、残るは深い仲の可能性だ。行きずりの可能性もあっただろうが、なにせ似ていると噂されていた二人である。関係があると考えてしまうのは仕方ないことにも思えた。
 羽織を纏うあの女性を見てからしのぶはどうにも胸が落ち着かず、かといって寡黙過ぎる冨岡に聞いても答えはないだろうとも思うと、確かめることなくそのまま月日は経ってしまっていた。
 しかし、今なら問いかけても不自然はないように思えた。答えるかどうかは冨岡にかかっているが、眉間に寄りそうな眉根を必死に堪えながらしのぶは意を決して聞くことにしたのである。なんで冨岡相手に緊張しなければならないのかと思いながら。
「あの人はあなたではないと言っても、同じ匂いがすると言うんです。……もしかして、移るほどの関係ですか?」
「………」
「………。言えないなら言えないで構いませんけれど。厄介事は御免被りたいですし」
 逡巡するような気配を感じたから教えてくれるのかと少し思ったが、しかし聞いたら聞いたでしのぶもどう反応すべきかを悩んだかもしれない。問いかけておいて妙な不安だ。何故悩む羽目にならなければならないのか、理由はいまいちわからなかった。
「止みませんねえ。冨岡さん、傘をお持ちならお帰りになっては? 話してくださいませんし、もう用はありませんから。呼び止めてすみませんね」
「………」
 話しはしないくせに帰れという意味の言葉には素直だ。持っていた傘を広げた冨岡が軒下から一歩出たところで、しのぶは大きな溜息を吐いた。雨音でかき消されてしまったが。
「入れ」
「………、相合傘ですかあ……」
 突然の提案にしのぶは少しばかり狼狽え、要らぬ反応を返してしまった。
 一つの傘に二人入るなんて、しかも男女でなど、彼女が見たらどう思うか気にならないのだろうか。というかこちらも慣れていないのだから恥ずかしいのだが。
「濡れるよりましだ」
「……はいはい。じゃあお邪魔します」
 平気そうな顔をして、向こうは慣れているのかもしれない。夜雨の君以外にも、まさか。上背のある冨岡からは見えないのをいいことに、しのぶは俯かせた顔に不満を乗せた。本降りになった雨のせいで、地面には水溜りがそこかしこにある。水溜りに映る自分の顔にしのぶは眉を顰めた。
「わっ、まあ運が悪いですね」
 前から来た人力車が水溜りを踏んで飛沫が上がったのに気づいた時、冨岡が差していた傘が大きくしのぶ側へと傾けられた。ばしゃんと上がった飛沫は足元にかかりはしたものの、傘のおかげでしのぶの上半身は濡れなかった。
 こういうところが憎めない原因である。一先ず礼を告げようと隣へ顔を上げた時、しのぶの目に映る姿に意味のある言葉を紡げなくなった。
「は?」
 髪から雫をぽたぽたと落としていて、しっかり水飛沫を被ったらしいことが察せられたが。
 今の今まで隣にいたはずの冨岡は消え失せて、しのぶの横には水に濡れて大層不本意そうな顔をした夜雨の君がそこにいたのである。

 裏口から忍び込むように蝶屋敷へと戻ってきたしのぶの片手は手首を掴んでいる。閉じさせた傘は適当に壁に立て掛け、屋敷内へと女性を連れ込んだ。ずんずん歩いて辿り着いたのはしのぶの私室だ。ぴしゃりと障子を閉めて彼女へ向き直った。
 羽織と隊服の詰襟を脱いだ彼女は、無言のまま両手を上げた。降伏の合図のようであった。
「……し、失礼します」
 言葉とともに手を伸ばす。白いシャツの上からしのぶの両手で触れたそれは、むにゅんと覚えのある柔らかさを伴ってシャツの下で形を変えた。しばし固まった後、今度は釦を外して肌を顕にし始める。現れたのはこれまた覚えのある膨らみのある胸で、しのぶは取り繕うこともできずに表情を歪めた。
「し、……下は……」
「紛れもなく女の身体だと思うが……」
 音を立ててベルトの金具を外し、重さに負けてすとんと袴が落ちる。男性のものではないしなやかな脚が現れた。
 目の前にはあられもない格好をした美しい女が立っている。急にいけないことをしているような気分になったしのぶは慌てて片身替りの羽織を拾おうとして、濡れていることに気がついて自分の羽織を脱ぎ、女性に押しつけて身体を隠した。
「血鬼術……」
「違う。呪いだ」
 曰く、長期に渡る任務の最中、秘境の泉にうっかり落ちて体質が変わってしまった。産屋敷に報告は済ませており、混乱を抑えるためにも隊内には隠しておこうということになった。
「ドジっ子過ぎません?」
 しのぶの指摘にむ、と眉根を寄せた女性――冨岡に、しのぶは小さく溜息を吐きながら頭を押さえた。
「……その。……も、元はどちらなんです」
「男だ」
「そ、そうですか」
 ちょっと安心した。ではどうすればいつものあなたに戻るのか、と問いかけてみれば、沸かした湯を被れば普段の冨岡が帰ってくるのだそうだ。そして水を被れば女になってしまう。
「隊服の上からならさほど問題ないが、頭や顔にかかればこのざまだ」
「あー……。だから雨の日にだけ現れる……。……はああ……もう、なんなんですかそのあり得ざる体質は……」
「俺だって聞きたい」
 小さな文句の声にしのぶはふと動きを止めた。
 そうだ。隠しておくことになっても、今までのように任務中は雨に降られることもある。雨宿りが間に合わず、鬼を斬っている最中であれば雨宿りなどしている隙などないはずだ。羽織を脱ごうとしたのはばれないようにするためだったのだろう。事前にわかっていれば脱いでから任務に向かうこともできるだろうが、突然降られては確かにどうしようもない。特徴的な片身替りの羽織は思い入れのあるものに見えるわけで、できれば置いておかずに身に着けていたいと思うようなものなのだろうし。
 冨岡なりに苦労していたのだろう。ドジを踏んだのは冨岡だが、少しばかり不憫に思ってしまった。
「……雨にはひと際注意しないと。私を庇うより正体を隠すのが先ではないんですか。結局ばれてるし……」
「こんなにかかると思わなかった。……それに、濡れさせるわけにも……」
 危険を避けることが大事だと思うが、そんなことをぽつりと言われてはしのぶの説教が止まってしまって困る。
「はあ……。……仕方ないですねえ、協力してあげますよ。……私にばれたのは私のためだったようですし」
 本当に仕方ない人だ。
 とはいえ夜雨の君との関係性も、その理由もすべて判明した今、何故か弾んでしまいそうになる声音を落ち着かせるのに必死だった。
「……助かる」
 ほんの小さく綻んだ口元に、不覚にもしのぶは一瞬目を奪われてしまった。
 美しいひとだと思ったことがある。頬が緩んだだけで目を奪ってくる夜雨の君は、中身が冨岡だと知ったというのにしのぶすら見惚れさせた。
 欲を言うなら冨岡の時も見せてくれればいいけれど。
 まあ、今のところはこの笑みもしのぶだけのものだ。何故そんなことを考えたのかよくわからないまま、一先ずしのぶは口を開いた。
「隠しておくのは賛成です、お館様のご意向ですし。とりあえず、これからを考えていきましょう」
 今はさほど表立って正体を暴こうとする者はいないようだが、注意するに越したことはない。
 散々似ていると噂されていたわけだから、やはり兄妹扱いで問題ないと思う。冨岡本人なのだから面影があるのは当然でもあった。
「あなたの家族構成知ってる人とかいます?」
「師の他は胡蝶だけだ」
「……そうですかそうですか。では本当の家族構成は私が覚えておくとして、他の方には聞かれたら妹だとかそういうことにしておきましょう。炭治郎くんに言うかは冨岡さんが決めてくださいな」
「………。わかった」
「なんですか?」
「……機嫌が良くなったか」
「………」
 なんだかんだと噂の真相を気にしていたのは事実で、夜雨の君の正体がわかった今、安堵してしまっていたのは間違いない。
「そうですねえ。面白かったので」
「面白がるな」
「ええ、ええ。大丈夫ですよ、内緒にしておいてあげます。その代わり少し調べたいですねえ、その身体。検診ではおかしなところはなかったはずですが」
「まだ調べるのか」
「いえ、さっきのは調べたというか……確認のためですし。とはいえ無体を強いてしまったと反省してます」
「いや。………、……少しなら」
「ありがとうございます」
 終わりの見えない鬼狩り稼業の中、楽しみが一つ増えた。顔を見る頻度が増えるのではないかと考えて浮足立ったことにふと気がついたしのぶは、はてと首を傾げてしまった。
 何故頻度が増えると嬉しいのか。
 今日は理由がわからない思考に行き着くことが多い。深く考えれば気がついたかもしれないが、この時しのぶはそういう日なのだろうと考え、まあいいかと流すことにした。
「楽しみですねえ! あ、体質は治せないかも調べてみましょうか」
「……頼む」
 本当にもう、もっと早く言ってくれればよかったのに。姉とは違う美しいひとはこれからを楽しもうとしているしのぶの言葉で少々顔を歪めたものの、やがて小さく頭を下げた。