夜雨の君―花顔雪膚のあのひとは―

 炭治郎は困惑していた。
 立派な屋敷の庭に連れてこられ、ひと悶着あった後に運ばれた蝶屋敷で思い返していた。
 当初からあれ? と思ったものだが己の処遇と他人の命の話でそれどころではなく、口を挟む隙も余裕もなくあれよという間に手当を受けて今に至るが、やはり気になって眠れなかった。
 困惑の原因は冨岡義勇という人物にある。
 師とともに命を懸けてくれた炭治郎の兄弟子だという人だ。優しい恩人であることは間違いない。
 冨岡義勇。
 その名を炭治郎に教えてくれた人は本人ではなかったということが本日判明した。
 あの雪の日、炭治郎と禰豆子の前に現れたのは女性だった。確かに炭治郎は鱗滝にきちんと確認をしたわけではなかったものの、てっきりあの女性の名前が冨岡義勇というのだと炭治郎は考えていたが、そうではなかったということだ。
 しかし、それでも疑問は残っている。むしろこれが炭治郎を困惑させる原因となっていた。
 あの雪の日に会った女性と同じ匂いが、庭で会った冨岡と呼ばれた男からしていたのだ。
 ううんと唸りかけてふと両親の匂いを思い出し、炭治郎は気がついた。
 夫婦は長年連れ添うからか、似た匂いをしていることがよくある。ということは、雪の日に出会ったあの女性は冨岡義勇の伴侶ということなのだろうか。
 ああ、そうか。炭治郎を最初に見つけてくれたあの人は、冨岡の。
「あー……そうかあ……」
 じわりと心臓が鈍い痛みを発して、炭治郎はしばし両手で顔を覆ってぼやいた。
 たった一度会っただけの自分より強かった女性に、炭治郎は憧れてしまっていたらしい。
 しかも気づくと同時に失恋である。冨岡の妻でなくとも炭治郎が相手にされるなどとは考えられないが(なにせ綺麗な人だった。そして恐らく歳上だ)、これはこれで飲み込むのに少々堪える。冨岡は同性の炭治郎から見ても目を惹く容姿をしていたし、似合いの二人であることは間違いない。せめてもう少し情報を小出しにしてくれれば、とどうにもならないことを考えた。
 しかし。
 父と母は長年連れ添ったおかげか似た匂いを醸していたことは確かだが、だからといって全く同じではなかった。兄弟でも親子でも、完全に同じ匂いの人なんて炭治郎は会ったことがなかった。
 同じ匂いを醸すほど長く一緒にいるのかもしれないが。
 そんなこともあるんだなあ、と無意識にぼんやり気にしながら、一先ず事実を受け入れるために深呼吸をした。

*

「――あっ!?」
 目の前に立つのは冨岡が着ていた羽織を纏った女性。目を丸くして炭治郎を見る姿は、二年前の雪の日に出会った時と変わらなかった。雨宿り先を探していた炭治郎は、予想外の人物を突然見つけることができて驚いていた。
「あっ、待ってください!」
 身を翻した女性はそのまま炭治郎の向かっていた方角へと駆け出した。冨岡の屋敷がある方角へ。
 今まで鬼殺隊にいても影も形も見なかったのに、彼女は突然炭治郎の前に姿を現した。
 戸惑うような匂いを出していたように思う。ただ、やはり今回も冨岡と同じ匂いだったことは変わらなかった。
「えっと、冨岡さんの奥さん!」
 かなり距離を取られていたにも関わらず、炭治郎の声が聞こえたらしい女性はぴたりと足を止めた。聞いていた冨岡の屋敷はすぐそこまで迫っていたが、理由はわからないが我慢ならなかったのか、果てしなく不本意そうな顔を見せて振り向いた。
「違う」
「え……そうなんですか? あの、じゃあお名前は?」
「………」
「あ、あの!」
「雨宿りはしていいが入ってくるな」
 一度は止まった足がまた進み始め、彼女は音を立てて戸を開け、そしてぴしゃりと閉めた。松葉杖をつきながら追いかけていた炭治郎の目の前で、一人冨岡の屋敷に入っていったのである。
「あの、でも俺、」
「風呂だ」
「あ、……えっと。すみません、出直します……」
 戸を隔てて返ってきた答えに少々照れてしまった炭治郎は、仕方なく後日出直すことにした。一応雨宿りはしていいとお言葉を貰ったので、軒下だけを借りて雨が止むまで佇むことにした。
 大丈夫だ。返事はしてくれたし、拒絶のように鼻先で戸を閉められたのは雨に濡れたから仕方ないのだ。今日が駄目なら明日である。足が治るまでの間、炭治郎には水柱邸へと足繁く通う時間が有り余っていた。

「お前さあ、夜雨の君の尻追っかけまわしてたってまじ?」
 恩人を見つけてから数日後、蝶屋敷へ顔を出した炭治郎に顔見知りの隊士は問いかけてきた。
 よさめ。はて、一体誰のことだろうか。炭治郎より長く隊士を務めている彼はどこか苛立ちのような匂いを発していて、悔しげに口元が歪むのを見た。
「数日前に見かけた奴がいるんだよ! 柱すら素性知らない人なのに、なんでお前が仲良くなってんだよ!?」
「えっと……」
 数日前か。最近会った人といえば義勇とその妻だ。いや正確には妻ではないらしいが、正しい関係を炭治郎は知らない上に名前も知らないからどうしようもない。彼が言っているのは恐らくあの女性のことだと思うが、どうやら有名な人だったようだ。
「なんなんだよ! 悔しいよ! いや俺じゃお近づきになるのも無理だけどさ! 名前知ってんのかよ!?」
「いやあ……教えてくれなくて」
「本当に追っかけてたのかよ!?」
 尻を追う炭治郎の噂はこの返答で瞬く間に広まったらしい。
 あながち間違ってもいない気がするのがまた否定し辛く、だから広まったともいえるのだが。
 女性を見かけて追い払われた翌日の炭治郎は義勇に会うために再び屋敷へと足を向けていた。
 そもそも本来は産屋敷から頼まれて義勇と話をするつもりだった。そのついでにでも女性とのことを教えてもらえたらいいと思っていたけれど、水柱にならないことを怒っていると言った義勇は、それから三日間見事に黙りのままだった。
 義勇のことも話してもらえないのは、女性から何かを聞いて警戒されてしまったのかもしれない。
 けれど、炭治郎は産屋敷から頼まれたのである。なんとしても義勇と話をしなければならないのである。
 それに、教えてほしいのだ。あの女性が禰豆子を斬らないでくれたから、義勇も命を懸けてくれたはずだ。二人にはきちんと礼を受け取ってほしいし、いつまでも恩人の名を知らぬままなのもどうかと思うし。決して他意はないと信じてくれるまで、炭治郎は諦めるつもりは毛頭なかった。

 四日目、どうやら絆されてくれた義勇から錆兎の話を教えてもらい、蕎麦の早食い対決をして、やがて炭治郎たちは水柱邸へと戻ってきた。
 ちらりと涼しげな横顔を見上げ、負の感情が篭もった匂いがないことを確認した。
 聞いていいだろうか。恐らく炭治郎に心を開いてくれたのだと思うし、今なら教えてくれるかも。それとも今こそ駄目かもしれない。どちらの想像もあり得そうで二の足を踏んだ。
 錆兎のことを思い出して心も弱っているかもしれない。しかし柱稽古には出てくれるとも言っていたし、前向きになってくれているような気もする。少なくとも匂いは怒ってもいないし悲しんでもいない。そばにいると落ち着く匂いが静かに漂ってくる。意を決して口を開いた時、義勇は玄関戸を開けずに庭へと向かった。
「あれ、義勇さん? どこへ……」
「名を知りたがってただろう」
 ここ最近で、炭治郎が名を知りたいと口にしたのはあの女性のことだけだ。義勇が名前の話をするということは、もしやあの女性の話を聞かせてくれるのか。慌てて炭治郎は返事をすると、井戸のそばまで歩いてきた義勇は縄を掴んで持ち上げた釣瓶を手にして目を伏せた。
「お前が数日前からずっと呼んでる名だ」
「え?」
「知ってるだろう」
 何を言いたいのかを炭治郎は考え込んだ。
 炭治郎が数日前から呼んでいるのは義勇の名だ。女性の名前は知らないし、他の人物の話題は出しても呼ぶことはなかった。
 義勇の名は知っている。当たり前だ。恩人の名を間違えることなど許されないことでもあるが。
 なんだか、妙なことを言われていると炭治郎は眉根を寄せた。
 あの女性の名前の話をするつもりだと理解したけれど、知っているとはどういうことだろう。数日前から。義勇のところに来てからだろうか。炭治郎はすでに知っている。
 けれど、女性はあの雨の日に鉢合わせたきり会うことはなかった。二人が揃っているところを見たことがないけれど、義勇が会わせないようにしているのかと思っていた。屋敷は義勇の匂いしかしなかったし、よく考えれば他に人が住んでいるような形跡も匂いもなかった。彼女は手慣れたように玄関を開けて炭治郎を締め出したから、てっきり住んでいるのだと思っていた。
 同じ匂い。
 無意識に引っかかっていたらしい言葉がふと脳裏に過ぎり、同時に思い至ったことに炭治郎はかぶりを振った。
 いやいやまさか、そんなこと。しかし義勇は冗談など言わない性格だ。向き直って名を教えてくれる気になったらしい義勇を眺め、炭治郎は困り果てた。判断が遅いと怒られそうだった。
 そうだ、血鬼術。あり得ないこともあり得る可能性があるのが血鬼術だ。炭治郎の頭にふと浮かんだ仮説がまかり通るなら原因は。
「判断が遅い」
「わあっ、すみません! 名前ですね! もしかして、義勇さん……ですか?」
「そうだ」
 やっぱり怒られた。嘘や誤魔化しの匂いがしないことが余計に炭治郎の困惑を生んだものの、血鬼術ならば治療はどうなっているのか気になった。問いかける前に義勇は持ち上げていた釣瓶に入っていた水を頭から被った。瞬いた瞬間、釣瓶を井戸へと戻した目の前の人物の変貌に、炭治郎は声も出せぬまま唖然として固まった。
「………!」
 そこにいたのは、炭治郎がずっと会いたいと思っていた人だったから。
「以前の任務中に、いわくつきの呪われた泉に不覚にも落ちることがあった。水を被ると女になる呪いだ」
 錆兎の話も聞いた後だと、この世ならざるものの存在自体は信じるほかなかったわけだが。
 予想した血鬼術ですらなく、泉に残る呪いによって体質が変わるようになった。
 そういえばあの雪の日も、よくよく思い返せば彼女の髪は少し濡れていたかもしれない。二度目に会った時、雨宿り先を目指して炭治郎は松葉杖をついていた。彼女もまた雨に降られていたようだった。奥さんと呼んで不本意そうな顔を見せた。義勇と同じ匂い。
「あ〜……そうかあ……それでかあー!」
 ようやく引っかかっていた理由を理解した炭治郎は、安堵のような息を大きく吐いてその場にしゃがみ込んだ。

「おかしいなって思ってたんです。鱗滝さんは義勇さんのことしか言わなかったし、俺たちのことはきっと話でしか知らないのに、命まで懸けてくれて……ようやく繋がりました」
 風呂を沸かして義勇に入ってもらい、一先ず落ち着きを取り戻したところで二人は膝を突き合わせていた。
 鱗滝には体質のことを文で伝えてはいたものの、隊士になってから狭霧山に戻っていなかった義勇がどんなふうに変わるかまでは知らなかったようだ。実際に見ればまた何か反応も変わっていたのかもしれないが、懐の深い鱗滝なら、案外にそうかで済ませてしまうような気もした。
「そっかあ……あの人は義勇さんだったのか……。………、……あれ? じゃあ俺失恋してないんじゃ?」
「………!? なんの話だ」
「いや俺、雪の日に会った義勇さんに一目惚れして」
 ぎょっとした義勇が狼狽えたように炭治郎を凝視したので、素直に想いを口にした。
 打ちのめされていたあの日に導いてくれた人に、炭治郎はずっと感謝とともに憧れも抱いていたわけで。
「同じ匂いだったし、あの人はずっと義勇さんの奥さんだと思ってたんで、そんな気持ちを持つのは駄目だと思ってて。でも義勇さんは独り身ってことですよね! じゃあ失恋というわけではないですね!」
「………、……いや……それとこれとは違う……」
「いや、勿論そう簡単に振り向いてもらえるとは思ってませんけど!」
「おい」
「はい!」
 雑に呼ばれた炭治郎は義勇へ向けて顔を上げ、しっかり目を合わせて返事をした。苦虫を噛み潰したような顔をした義勇が、額を押さえながら絞り出すような声で一言口にした。
「……俺は男だ」
「はい。………、……あっ! そうですね!?」
 すっかり失念していた。睨むような義勇の視線に謝りつつ、ううむとまた腕を組んで悩み始める。そうだ、義勇は男なのだった。
「そうかあ、そこがあるんだった。うーん……。………、あのー、想うのはいいですか?」
「……あの女は俺だと言ってるだろう。男だ」
「それはそうなんですけど。なんというか……あの人の正体が義勇さんで安心したというか。……だから、同じ人だったんだって納得したら、なんかこう……義勇さんのことが好きだったんだって気づいちゃって」
「それは気づきとは違う。混乱してるだけだ」
「そんなことないです!」
 義勇の肩が揺れた。
 彼の言いたいことも理解はしているつもりだ。自分がもし義勇のような体質になって好きだと宣う者が現れても、やっぱり義勇のように窘めようとすると思う。
 しかし、自分がいざ宣う側に立ってしまった今、この感情をただの気の迷いで済ませてしまうのも違う気がした。届かなかったとしても、せめて自分の想いは誤解なく伝えておきたかった。
「あの女の人に一目惚れしたのは事実ですけど、同じくらい義勇さんも素敵な人だと思ってるので! なので正体が義勇さんで良かったなって思います」
 そうだ。義勇の匂いは義勇しか出せないはずだ。静謐で水底を思わせる静かな匂いは義勇しか持ち得ないものだった。胸の片隅に引っかかっていた疑問は正しかったのだ。
「俺は義勇さんの匂いが好きです。この匂いを持つ人のそばにいたいです」
「………」
 驚かせてしまったようだ。それに果てしなく困惑しているようでもある。しかし、炭治郎としてはようやくしっくりくる答えに辿り着いたので、おかしなことを口にしたつもりはなかった。頸を斬らずに導いてくれたのはあの雪の日に見た女の人ではあったけれど、それは紛うことなく目の前の義勇だった。見ず知らずの人などではなく、義勇自身が命を懸けて見逃してくれたのだ。
「頭を冷やせ」
「いえ、俺は冷静で……いや義勇さんほどではないですけども……」
「……柱稽古はもうすぐ参加するんだったな」
「あ、はい……」
 しのぶからの諾が得られればすぐにでも始められる。
 宇髄の稽古から始まり義勇のところにまで辿り着いた時、ああこれは叩きのめされるやつだ、と炭治郎は察した。今は足の怪我が治っていないから猶予をくれている。稽古をつけてもらえるのは嬉しいのだが、考えを改めろとでも言われたら、そこだけは頷くことはできない。どれだけ扱かれても絶対に。
 炭治郎の恩人である。相手をどう想おうと本来なら炭治郎の自由であるはずだ。できれば本人公認で想っていたかったから思わず問うてしまったけれど、人の気持ちは他人にはどうすることもできないはずだ。炭治郎自身もどうにもならないものであるのだし。