夜雨の君―及ばぬ鯉ではなくなったらしい―

「おう……こいつは知らんかったわ。お前らそういう仲だったんか」
「ご、ご、誤解です宇髄さんっ! まだそんなっ!」
「“まだ”だァ?」
 ずぶ濡れの身体を必死にシーツで包みながら、炭治郎は必死に言い訳をした。
 部屋を覗いて散歩に誘えば二つ返事で了承してくれたものだから、そのまま連れ立って庭へ繰り出した。気も緩んでいたのだろう、まだ片目での歩行に慣れきっていない炭治郎がふらつき、庭の池へと転がり落ちそうになった。そうしたら落ちる前に腕を引っ張られ、代わりに池へ落ちたのがシーツで包んだ相手だった。
 慌てて引き上げた炭治郎の前には、なんともいえない表情をして髪を掻き上げながら、白い患者衣が身体にへばりつくのを鬱陶しそうにする若い女性の姿があった。あまりにも刺激が過ぎる姿につい吸い寄せられてしまう視線を必死に引き剥がしつつ、誰にも見られないように部屋へと戻ってきたはずだったのだ。
 そう、そのはずなのだが、見舞いに来ていた宇髄と不死川にどうやら見つかっていたらしい。誰が池に落ちたかまでは気づかなかったようだが、ずぶ濡れの炭治郎たちへ拭くものを持ってきてくれたのだ。ありがたい。ありがたいが。
「つうかお前いつ知り合ったんだよ、夜雨の女と……いや、尻追っかけまわしてるって噂があったか」
「は、ええ……? てめ、人畜無害そうな面しておいてよォ……」
「誤解っ……、いや完全に誤解かと聞かれると違うような気もしますが!」
 炭治郎の後ろにいる、黙ったまま会話に混ざらない人物へと二対の目が向けられる。炭治郎はひっそりそれを遮りたくてじりじりと立ちふさがってみた。炭治郎の心情を察したのかは定かではないが、話題を変えるように宇髄が問いかけてくる。
「まあそれは一先ず置いといてやるけど、お前いつからここで療養してた? 俺が知る限り夜雨の女は担ぎ込まれてなかったはずだが」
 しかし宇髄は炭治郎の頭を思いきり鷲掴んで壁際へと押し退け、己の背中にいたはずの人物が二人の面前に晒されることとなった。シーツを被らせているとはいえ、ずぶ濡れの夜雨の君――炭治郎の兄弟子である義勇のもうひとつの姿が。
「……ま、聞きてえことは山ほどあるが、生きててなによりだ。先風呂でも借りたらどうよ、今更逃げはしねえだろうしな」
 当初の義勇は炭治郎からも逃げ続けていたわけなので、当然のごとく宇髄たちからも逃げていたようだ。炭治郎が知らない頃から知っていたのだろうし、宇髄たちとしても気になっているのだろう。小さく息を吐いたのを聞きつけた炭治郎は思わず手を伸ばして相手の片腕を掴み、宇髄たちへ背を向けてひっそりと問いかけた。
「あのっ! ……い、言うんですか……?」
「この状況で隠し通すつもりもない」
「そうですよねでも、でもですね、こういうのは慎重にしないと。いえ、お二人がどうとかではなく」
「………?」
 しっとりと濡れた髪から拭ききれていなかった雫が落ちるのを視界に入れながら、早くしないと風邪を引いてしまうと冷静な部分で考えた。不審そうにしている顔を見せられて、なんとも複雑な気分になってしまったが。
「なにか困ることがあるのか」
「というか……ええと」
「いや、本当なんの話?」
 痺れを切らした宇髄が口を挟むが、その隣でひどく不機嫌そうな匂いを発する不死川もいた。自分の考えていることが大層子供っぽいことだと感じてしまい恥ずかしくなったが、言わなければ説得できるはずもなかったので。
「すみません、困るというか嫌です! 俺だけが知ってる秘密というのがすごく嬉しかったので!」
 ぱちくりと瞬いた眼前のかんばせが普段より幼げに見える。
 まあ、そもそも性別が普段と違い全体的にまろみを帯びているのだが、そういうことではなく。きっと普段の義勇であろうときょとんとした表情を晒しただろう炭治郎の言葉だ、驚かせるだろうという自覚くらいはあった。厳密にいえば炭治郎だけが知る秘密ではないし、“隊士の中で”という言葉がつくことは理解している。それでも我慢ならなかったのだ、長男なのに。予想どおり困惑したような表情を見せてからやっぱり困惑したように額を押さえた義勇は、急にシーツを寝台へ放り出し炭治郎の手首を掴んで窓枠へと足をかけた。
「おい、」
「席を外す」
 引っ張られてつい炭治郎も窓枠に足をかけたところで、濡れた服を晒してしまうのは嫌だったので慌てて寝台にかけられていた己の羽織を引っ掴んで地面へ足をつけた。驚いた顔を晒した宇髄はやがて早めに戻れよ、と見送ってくれるようで、不死川もまたなにかを言いたげにしていたが追ってくる様子もなかった。

「……あの、義勇さん」
 自分の言動で部屋を抜け出すことになったことはわかったが、炭治郎はいまいち理解が追いついていなかった。とにかく冷え対策と身体の線を隠してほしくて羽織を肩にかけてみたが、己の鼻は義勇が怒っていないことがわかるくらいで、相手が考えていることの詳細までは大してわからない。けれど、義勇ならきっと炭治郎のことを想ってしてくれたのだと感じられる。子供のような炭治郎のわがままを聞いて、色々考えてくれているはずなのだ。
「すみません。その、さっき言ったことは」
「お前がいじらしいことを言うから、つい勢いで出てきてしまった」
「は、え、あ、すみません……」
 ほら、やっぱり炭治郎のことを考えて行動していた。
 女性の姿であっても本質は何も変わらない。手首に触れる手は炭治郎より柔らかいのに、その中に刀を握り続けた分の硬さがある。これだって炭治郎を守ってくれた義勇の手だ。
「誤魔化しはきかないから、正体自体は二人にばらすしかないが」
「はい」
「……だからせめて、少しでもお前が納得できるようにしたい」
「え……」
「大事な弟弟子だからな。お前がどうしたいか決めてくれ」
 義勇が炭治郎の想いを慮ってくれるたび、炭治郎は言葉にできないほど胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
 一等優しい人だから、誰相手でもこんなふうに心を砕くだろうけれど。それでも弟弟子だからと言ってくれるのだから、今回ばかりは炭治郎にだけだ。けれど。
「………、……弟弟子では嫌です……」
 それでも炭治郎はこう言うしかなかった。
 義勇が想像していた内容とは違ったかもしれない。笑んでいたかんばせが眉を顰めて炭治郎を見つめ、本当に酔狂な奴だと呆れたような声音が呟いた。己を酔狂だとは思わないが、わがままを吐いていることは重々承知の上で、それでもこれは長男だろうと譲れない部分だったのだ。
「これから女として生きろということか?」
「えっ? いいえ。俺は義勇さん自身を好きになったので、そこに男も女もありません」
 炭治郎の気持ちをすでに知っているはずの義勇から予想外のことを問いかけられて驚きつつも、自分自身がずっと考えていたことを口にした。
「どっちだっていいんです。俺はどんな義勇さんだろうと好きになった自信がありますから」
 そりゃあもちろん最初に惹かれたのは女性だった義勇だったし、同じ匂いを持つ二人がどういう関係なのかと悩んだことは間違いない。
 けれど結局は穏やかで静謐な匂いを持つ義勇が好きなのだ。ほかならぬ義勇が炭治郎を気にかけてくれることがなにより嬉しい。あの日に出会った女性が義勇だったと知った時の衝撃は記憶に新しいが、きっと隠し通すつもりだった秘密を炭治郎に曝してくれた。それがどれほどの信頼を向けられているのか、炭治郎は恐らくきちんと理解できていると思う。
 だからこそ、義勇に甘えてこの先を望んでしまうわけだが。
「あらら、義勇さんお顔が赤いですけど、」
 もしかして俺の気持ちが響いてくれたんでしょうか?
 そう問いかけてみたかったのに、その先を発することができなかった。驚きすぎて言葉が出なかったのと、物理的に口を塞がれてしまったからだ。
 そう、塞がれてしまっていた。目の前にあるのは分厚い睫毛に覆われた水底で、塞がれていた口が解放されたあともすぐそこにある。己の口を目の前にいる義勇の口が塞いだのだ。
「はっ? いや、えっ! な、な、なにを!?」
「吸いたくなった」
 どこを取っても綺麗なひとだと感動する間もなく、炭治郎は激しく狼狽えて挙動不審になった。
 鼻血が出そうだったけれど、あまりに判断の早い義勇の様子に炭治郎はなんともいえない気分になった。今の見た目は女性の姿ではあるものの、やっぱり中身は義勇である。義勇は他人を揶揄うような性格をしていないから、本当に吸いたくなったから口を吸われたことはわかったが。
「いえ、ありがとうございます……もう一回いいですか、お風呂に入った後に……、あ、いや、なんでもなくて」
 これは想いが通じたとみていいのだろうか。そう問いかける前に炭治郎はぽろりと本音がまろび出てしまっていた。男の姿でも口づけしたいという欲にまみれた本音である。取り消しのきかないやらかしに焦って顔を上げると、切れ長の目をぱちくりと丸くさせた義勇がそこにいた。驚かせたようだが、やがて小さく肩を震わせながら堪えきれないらしい笑いを漏らし始めた。まったく炭治郎は義勇の前だと自制が利かないようで、今度こそ笑われてしまった。呆れられているわけではないようだが。
「本当に物好きだな」
「そんなことはないと思いますけど……」
「いいよ。いつでもしてやる、お前にだけ」
「えっ。あ、は、はい!」
 言ってみるものだ。
 これは炭治郎が特別だという証ではないだろうか。だってお前にだけだと言った。炭治郎にだけだ。こんなことはきっと弟弟子だからというだけではできないことのはずである。なにより義勇からは好意の匂いがずっとしている。
「しかし、いくらお前が良くても元が男というのは世間体が悪すぎる」
「そうでしょうか……?」
 義勇の言うことに炭治郎はいまいち同意しきれなかったが、元というのが駄目なのだろうか。呪いなのだから仕方のないことだと炭治郎は思うが、性別がふたつあるのが駄目なのかもしれない。確かにどっちつかずだといわれる可能性もある気がする。面と向かって言われるような状況は思いつかなかったが。
「なら男に戻る方法を探しましょう!」
 そうだ。そもそも呪いを解くすべを見つければ義勇も女性の姿にならなくて済むし、元の身体に戻ることができる。鬼を狩る必要はもうなくなったのだし、快復すればあとは普通の生活をして生きていくのだ。だったらその間に泉を調べるのが良い。恩人である義勇が困っているのなら、炭治郎に是非とも手助けをさせてほしい。
 そう伝えようと口を開こうとしたところで、胸ぐらを掴まれた炭治郎はまたも義勇に口を吸われることとなった。
「な、な、なぜまた!?」
「感極まった」
 一体何に。いや炭治郎としてはとても嬉しいことなので全然かまわないけれど、それはそれとして義勇の反応箇所がさっぱりわからなかった。
「お前の……心根に」
「え、ええ……? そ、そうですか」
「……俺も好きだよ」
 嬉しそうにも泣きそうにも見えてしまうような笑みを浮かべた義勇がひとつ呟いた。心根なんてものは炭治郎こそが義勇へ惹かれている理由そのものなのだが、なにより欲しかった言葉をほかでもない義勇から引き出せたことで、炭治郎こそ感極まってしまった。
 涙腺が緩いのは自覚がある。情けない姿は晒したくなかったけれど、炭治郎こそ嬉しいのだから仕方ない。
「へへ、嬉しいです」
 部屋に戻ったら宇髄と不死川に体質を説明しなければならないけれど、場合によっては禰豆子たちや蝶屋敷の面々、輝利哉たちにも伝わるのかもしれないけれど。炭治郎は胸がいっぱいで今はあまりほかのことに思考が使えなかった。
「ばらしにいくか」
 炭治郎より柔らかく小さな手に触れる。そうだ、羽織を着てもらってはいるが、結局濡れたまま外に出てしまったから冷えで傷が痛み出すかもしれない。先に風呂へ入ってもらったほうがいいかもしれないなあと炭治郎は考えた。それとも実際に見たほうがきっと信じやすいから、二人の目の前で風呂の湯を被ってもらうのがいいかもしれない。服の上からとか、身体の線も見えないようにすればきっと大丈夫だ。正体を見せたあとは出ていくよう促して、ゆっくり温まってもらってから話をすればいい。うん、そうしよう。
「そうですね。早速行きましょう!」
 部屋で感じていた不満など吹き飛んでしまうのだから、義勇の言動は炭治郎にとってたいへんに心揺さぶられるものだった。出逢った時からそうなのだから、きっとこれからも炭治郎にとって大事な存在であることは揺るがない。
 揺るがないのだから、秘密のひとつくらいばらしたところで痛くも痒くもなくなってしまったのだった。


「呪いの解き方が見つかるかはわからんが……女になれるうちにしてほしいことがあるなら言っておけ。できる限りきく」
「えっ。……義勇さん。そういうのは軽々しく言っちゃ駄目ですよ」
 蝶屋敷の庭で夜雨の君を真剣に窘める炭治郎がいたと噂がまわっていたとかいないとか。