夜雨の君―明かした真情―

 夜雨の君と呼ばれている隊士がいるらしいという噂は、煉獄が乙に上がるか上がらないかの頃に聞こえ始めてきた。
 煉獄はその者を見たことはなかったが、噂になるほどに素晴らしい剣技の持ち主だという。柱に匹敵するほどだとか、次の水柱は彼女で間違いないとか、むしろ現水柱の秘蔵っ子ではないかなど。
 見た目も水柱と似通う部分があるらしく、血縁ではないかと考える隊士もいるようだった。
 今の水柱である冨岡義勇は静けさを絵に描いたような男だった。
 煉獄が十の言葉を口にして、ようやく一が返ってくるような男。静けさに紛れて鬼を斬る、言葉ではなく行動で示す寡黙な男だ。水の呼吸は炎と常にともにあったものだから、藤の家紋の家で一緒になった時は煉獄が一方的に語り明かして無言で去られたことがある。そんなわけで、彼に話したことはあっても込み入った事情などを聞くことはなく、噂以上のことを煉獄は知らなかった。柱になった後でもやはり冨岡は個人的なことを口にはしなかったし、煉獄も無理に聞こうとはしなかった。

 任務終わりに見えた朝焼けが厚い雲に覆われ始め、ぽつぽつと降り出した時のことだ。本降りになる前に家に帰ると決めたものの、間に合わず辿り着いた頃には随分濡れてしまっていた。辺りは少し薄暗く、前方から来る誰かに気づくのが少し遅れた。
 片身替りの特徴的な羽織の裾が視界に映り、相手が同僚だとわかった煉獄は笑みを浮かべて顔を上げた。
 我が家で雨宿りをしては如何か。そう提案しようとした煉獄は、思い描いていた人物とは違う人間が目の前にいることに気がついた。
 冨岡だと思ったのだが、あの特徴的な羽織を着ていたのは女であった。雨の中目を丸くして煉獄を見上げてからきょろりと辺りを見渡し、やがて我が家の表札に気がついたのか視線を留めた。
「きみ、風邪を引くぞ」
「……問題ない」
 小さな声が煉獄の言葉に応える。
 人の気配は一つのみ。目の前の女性以外に近くにはいないようだった。冷えるから、雨が降っているから、どんな理由にせよ婦女子に羽織を貸してやるとは冨岡も色男である。貸してやりたい相手だったということかもしれない。
「婦女子が体を冷やして何かあってはどうする。うちで温まっていくといい」
 踵を返した女性の肩を掴み、門を開けた煉獄は敷地内へと連れ込んだ。戸を開けて弟の名を呼ぶと軽い足音が玄関まで駆け寄ってきて、驚いたように女性を眺める。あまりにずぶ濡れで目に余ったから引き止めたのだと言えば、弟は納得したように風呂へと促してくれた。
 弟に会釈をしたものの、彼女の表情は晴れなかった。
 一先ず水分を拭おうとする彼女の横顔が冨岡に似ている。さてはこの女性が件の夜雨の君なのだろうと煉獄は当たりをつけた。

 女性を風呂に促してしばらく経った頃、その風呂場付近から弟の悲鳴のようなものが聞こえてきた。
 尻すぼみになった悲鳴だった。何ごとかと廊下を駆け出し現場と思われる風呂場へ向かったが、脱衣所の戸を開けることを煉獄は躊躇した。中にいるのは婦女子、浴室にいるとしてもおいそれと戸を開けるわけにはいかない。
 のだが、戸を隔てた向こう側から困惑したような弟の声が聞こえ、煉獄が躊躇した戸を彼は勢い良く開け放した。眼前に立つ兄を驚愕の目で仰ぎ見た弟の奥に、見知った顔が目を丸くして煉獄を見ていた。
「………!? 冨岡! 来てたのか?」
 浴室の戸を開けて顔を出していたのは冨岡だ。手拭いを腰に巻きながらこれ以上ないほど顔を歪めて黙り込んだ後、額を押さえて溜息を吐いた。
 煉獄が帰宅する前にいたのだろうか。弟が風呂場へと案内したあの女性はもしや帰ったのだろうか。先に冨岡が入っていたのに案内してしまい鉢合わせたのか。よもや一緒に入っていたのか。煉獄が疑問符をいくつも浮かべたのがわかったのか、苦虫を噛み潰したような顔を晒した冨岡は、不安げな弟の視線を受けてまたも溜息を吐いた。
「……お前に連れてこられた」
「んっ!? 俺が連れてきたのは女性だったが」
「お前が見たのはこの女だろう」
 桶を掴んだ冨岡は溜まっていた湯か水をばしゃんと頭から被った。
 疑問に思う隙もなく、煉獄は目の前の状況に理解が追いつかず混乱した。先程まで寡黙な同僚がいたと思ったら、今目の前には先刻外で会った女性へと変貌していたのである。
 腰に巻きつけていたはずの手拭いが、水を被った拍子にはらりと床へ舞い落ちた。
「………っ!」
「は、早く隠してくださいっ! 兄う、……あ、兄上っ! 鼻血が出てます!」
 鼻の下に違和感があると思ったら鼻血が垂れていたらしい。
 真っ赤になりながら浴室を見ないようにしていた弟が煉獄の異変に気づき慌て始めた。必死に血を止めようと奮闘しているところに、浴室から何も着ずに出てきた女性にまたも慌てる羽目になった。

「すまなかった」
 本来弟は脱衣所へ着替えを置こうとして足を踏み入れたらしい。
 兄の鼻血にも出てきた女性にも慌てた弟は脱衣所の籠に置いていた着替えを必死に投げ渡していた。女性はとりあえず身体を隠すよう着替えを乱雑に身に着けてから、鼻に詰物をして座り込んでいる煉獄に向き直り頭を下げた。
「いや、俺こそすまなかった。責任は取る」
「なんの責任だ」
 煉獄もまた姿勢を正し、女性に向かって頭を下げる。訝しむような顔を見せた彼女はわかっていないようだった。煉獄からすれば一番大事なことなのではないかと思ったのだが。
「嫁入り前の婦女子の裸を余すところなく見てしまった! きみは大層美しいのだから、さすがにあんなあられもない姿は良からぬ者がいたらただでは済まない。今後はしないでくれ」
「え……いや、俺は……。まあ、見苦しいものを見せたのは……」
「そんなことはない、ありがとう。良いものを見せてもらっ、いや違うな! なんでもない」
「………」
 それとも淑やかそうに見えて、案外奔放だったりするのだろうか。さすがにそれは少し改めてもらわねば困るなあ、いや婦女子に対してこの憶測は失礼だったか、と考え込み始めた煉獄に彼女は呆れた目を向けた。
「……責任云々は必要ない」
「しかし、」
「責任なんか取られたらこっちが困る。鬼を狩る以外のことは必要ない」
「それは……そうかもしれないが」
 鬼狩りの家系ではない隊士ならば、所帯を持つことを自ら捨てている者もいるのだろうと思う。しかし、煉獄家の跡継ぎとしてを考えれば父は今の煉獄の年齢ですでに母と結婚していたし、煉獄は所帯を持つのが遅過ぎている。先人である父がああだからその手のことは滞っているのが理由としてあるのだが、煉獄は今日会ったばかりの彼女に意識を取られて仕方がないのである。
 要するに、今まで身近に考えることのなかった婚姻というものを意識して、彼女の責任を取りたいと煉獄自身が考えてしまったわけで。
「というか、風呂場で見たものを思い出せ」
「それはちょっと……また鼻血が出る!」
「いや女の裸じゃなくて……俺は冨岡だ。男だと見たはずだ」
「うん? ……ああ、そうだった。いや、特異体質のようなものだろう! 男になろうと俺は気にしないぞ!」
「気にしろ。本来男だ」
 ぱちりと瞬いた煉獄の視界には、相変わらず女性が佇んでいるが。
 先程見た同僚の姿を思い出し、そうなのかと一言呟いた。頷く冨岡を目の前に、その体質は元々のものなのかと問いかける。
 生まれつきのものではなく、任務中の悲劇に見舞われたらしい。水を被ると女になり、湯を被ると男に戻る。成程、だから雨の日にしか見ない隊士が女性だったのか。夜雨の君とはきみのことかと問いかけると、恐らくそうだと冨岡は答えた。ちなみに今回の騒動は弟が着替えを脱衣所に持ってきた際に起こった悲劇だ。脱衣所に入ると同時に戸を開けた冨岡に慌てた弟はつい悲鳴を上げたのだが、出てきた相手が男性であることに気がついて困惑したまま声は尻すぼみになったのだとか。
「できるだけ隠したい」
「そうだろうな! 俺も黙っておこう」
「……助かる」
 医療に携わる胡蝶にくらいは言ってもいいのではと思わないでもないが、煉獄しか知らぬ秘密があるというのも悪くはない。
 落ち着いた弟が再び風呂を勧め、上がってきた男の冨岡に朝餉を運び込んでともに腹を満たし、ついでとばかりに一室貸し与えてひと眠りさせ、やがて起きた冨岡は煉獄家を発つ時間となった。
「嫁ぐ気になったらいつでも来てくれ!」
 見送りついでに一言声をかけると、冨岡はまた顔を歪めて溜息を吐いた。弟は驚いたように煉獄を見上げたが、何かを思い出しでもしたのか頬を染めながら様子を眺めていた。
「よく女として見られるな」
「何を言う、体質とはいえ紛れもなく女性だったんだから当然だろう」
 元は男だから精神も男であるということは一先ず情報として理解はしたのだが、かといって水を被った身体は完全な女であったことも事実である。煉獄にとってはあまり見ることもなかった、耐性の低い女の身体だ。鼻血を出すなどという醜態を晒したのは未熟の一言に尽きるが。
「彼女がきみの好い人ではなかったことは良かった」
 冨岡の恋仲の相手ならば、俺が責任を取るわけにもいかなかったから。煉獄がそう口にした時の冨岡の顔はなんとも言い表し難い表情になり。
「………。……そうか」
「きみごと嫁ぎに来ることも考えておいてくれ!」
 諦めでもしたのか聞き流すことにでもしたのか、冨岡はそれ以上何も言わずに煉獄家を後にした。