夜雨の君―したたかなひと―
柔らかいものが触れている。
何だっけ、これ。大福のような柔らかさと手のひらに収まりのいい大きさ。似たようなものを大昔に触ったことがあるような。そう、あれはまだ弟妹もおらず、一人母に寝かしつけられていた頃。
掴んでいる手のひらが気持ち良い。もう一つ大福があることに気づいた不死川がつい擦り寄ってしまった時、それはひとりでに身じろいだ。
なんで大福が動くんだよ、と不審に思い、まだ眠り足りずに持ち上がらない瞼を無理やり起こした。視界には白。どちらかというと少し黄色のような肌色のような白があって、花びらのように赤がそこかしこに散ってあった。視線を上へと持ち上げていくと、赤く色づいた唇があることに気づき、形の良い鼻があり、黒く分厚い睫毛が鎮座しているのを見た。息をしているので紛うことなく人である。しかも。
「―――っ!?」
不死川の手が寝ている女の肌蹴た乳房を鷲掴みにしている。なんなら寝惚けつつ擦り寄ったのが乳房だったことに気づいて驚愕した。
よく知っているのにそうではない、恋い焦がれた思い出のある女の姿がそこにあった。
「な、な、なんでてめェ夜雨になってんだよォ!? うおっ!?」
肌蹴た浴衣は何ひとつ寝間着として機能しておらず、細い肩も胸の形も丸見えの状態で不死川へと抱きついてきた。あれ、これ据え膳かァ……? と寝起きの混乱した頭が良いように解釈し始めた。よく見たら体勢もくんずほぐれつしていたかと誤解を招きそうなほど脚は絡まっているし、本能で考えれば間違いなく据え膳であるが。
理性は思い留まった。それはもう必死の思いで留まった。
ここ最近冨岡を見ても心臓が落ち着かなかったというのに、なんの準備もないまま夜雨が現れるのは心臓に悪過ぎる。このままでは普通に襲ってしまう、としがみつく夜雨から名残惜しくも抜け出そうとした時だった。
分厚い睫毛が震えて普段よりも幾分柔らかな双眸がぼやりと開き、水底が不死川を捉えたのである。
「………、……おはよう」
「お、おォ」
絡まっていた脚を外し、男らしく頭を掻きながら寝惚け眼の夜雨はむくりと起き上がった。肌蹴た浴衣はそのままなので、目のやり場に非常に困る。まじまじと見てしまいそうになる視線をできるだけ向かわせないために顔を背けながら、不死川もようやく身体を起き上がらせた。
「満足したか?」
「――え、」
「昨夜は飲み過ぎたな。酒には気をつけろ」
緩い笑みを見せて不死川の頭を撫でた夜雨は立ち上がり、欠伸をしながら部屋を出ていった。
なに頭撫でてんだ馬鹿野郎、最高だわお前、どこで覚えやがったそんなこと、なんて言葉も出せずに不死川は蒼白になった。
「………、……満足って何がァ……?」
昨夜のことなどまったく、何ひとつ、さっぱりと覚えていなかったので。
しかしまあ、その、ぐちゃぐちゃになった布団とか、下穿きらしきものとか、よくよく見ればほぼ裸であった自分自身とか、そこかしこに散らかったものを目の当たりにしてしまえば、何があったかは自ずと理解できてくる。
まさかそんな、本当に、なんて思いはあれど、状況証拠はしかと不死川へ叩きつけてくるのである。
だがもしかしたら、本当に既のところで止まっていたかもしれないので、覚えているらしい本人の口から聞かなければ現実とは思えない。非常に残念なことに、無責任なことに、不死川は何も覚えていないのだから。
着替えと部屋の片付けをとりあえず終えて項垂れているところで、風呂上がりの冨岡が部屋に戻ってきた。
「……あの、昨夜は」
まずは事実確認だ。昨夜は珍しい酒を手に入れたから土産にして冨岡家を訪れていた。ちょうどいい月夜であったから、月見酒と洒落込んで二人でのんびり飲んでいたはずだった。
しかしその酒は不死川には強過ぎたのと身体に合わなかったらしく、気づけば酩酊して飲み過ぎていたらしい。あまり強くないのだから飲む量は控えなければならないぞ、と呆れたような冨岡の声が不死川へとかけられた。
昨夜の残ったつまみに手を伸ばして話を切り上げた冨岡の肩を掴み、地を這うような声で不死川は、覚悟を決めて問いかけた。
「……どこまでやった?」
「は?」
「昨夜だよ。……覚えてねェ」
「………。最低だな」
「うるせェ自覚してる。でもまじで覚えてねェよ勿体ねェ……。いやでも覚えてねェってことは最後までは……っ、」
不死川の具合を気にしてくれていたはずの柔らかかった冨岡の空気が少しひりついた。じとりと睨むような目が不死川を射竦めて、つい姿勢を正して座り直した。
冨岡が怒るという行為を苦手としていることは、和解してからの短い期間でもよく知るところだ。今はその苦手な感情を不死川へと惜しみなく向けている。己からすればどう考えても控えめ過ぎる怒りだが、普段怒らない相手からの冷えた視線は胸にくる。現役だった頃は怒り返すくらいだったのに、腑抜けた今は駄目だった。冨岡を見る目が変わったせいもあるのだろうが。
「……さ、……最後まで……したん、かァ? 本当に……」
本当にしていたらなんと勿体ない、ではなく冨岡の言葉を否定などまったくできない。不死川は最低過ぎるし、冨岡に同意も得ず無体を働いたなら完全に犯罪者ではないか。忌み嫌う父親と同じ穴の狢になろうとは。
「安心しろ、出しただけだ」
「出し……」
「ちょっと手伝った」
「………! ま、まじかァ……ちくしょう……」
「なんで悔しがってるんだ」
出しただけ。手伝った。それは恐らく、勃ち上がったあれを扱いて出させたということなのだろう。どう手伝ったのだろう。手か、それとも。最悪だ、何も覚えていないなんて。
「当たり前だろやっぱ据え膳じゃねェか……」
「………。据え膳というなら覚えてるはずだろ……」
当然ではあるが機嫌は最悪のようだ。むすりとしたまま冨岡がぼそりと呟いた言葉にぐうの音も出なかった不死川は、項垂れたまま深く謝った。その表情は不死川を許すと思えなかったが、謝罪を受け取りはしたようだった。
「まあ、なんだ。思いがけず不死川に経験がないということを知ってしまったのが……」
「あああっ!? んでそれっ……、言うんじゃねえっ! てめェには女と遊ぶ時間があったってのかよォ!?」
そんなことまで話したのか俺は、とまたも焦る羽目になった。
柱だった時期も長く、そもそも鬼殺に人生を捧げていたのだから女遊びなどしている隙もなく、またそのような考えすらもなかったのだ。女房のいる宇髄ならいざ知らず、適当に自分で抜いて終わりだろうに。
「………」
「……え、あったのかよ?」
「遊んではない、付き合いで一度だけ。……そんなに悔しいか」
があん、と呆然と衝撃を受けた不死川がよほど意外だったのか、冨岡は不機嫌な表情を少々崩して目を向けた。聞けばなにやら玄人の女と一夜を過ごさなければならないことがあったのだとか。それは要するに女を買ったということではないのか。付き合いなんて言葉で誤魔化しやがって。
「そりゃなァ……相手の記憶引き抜きてェ……。お前、まさか……男相手もあるんじゃねェだろうな!?」
「………」
不機嫌が戻りまたじとりと不死川を睨んでくる。あるのかないのかを聞いているのに黙ったまま。突っ込んだのか突っ込まれたのかと問いかけると、下世話だと冨岡は心底嫌そうな顔をした。その顔もまた少し心が痛くなった。
「なんでそこまで気にする。同い年の同僚だったからとはいえ、そこまで敵対心を――」
「んなんじゃねェよ」
今度はなんだと冨岡の視線が訴えてくる。言葉にしろと散々言ってきたというのに、今ですら冨岡は言葉よりも目で何かを伝えてくる。それが姉譲りの仕草だったとわかった時は、なんともいえない気分になったが。
「忘れといて何言ってんだってなるだろうがな。俺は……お前が誰かに身体を許したってのが一等気に入らねェ。男相手はあんのかないのか、せめて合意の上なんだろうなァ」
「………。お前だよ」
「は?」
「だから、不死川」
大袈裟な溜息を吐いた後、冨岡は静かに人差し指を不死川へと向けた。
女になる体質とはいえさすがに襲われることもなかったし、襲われたところで切り抜ける術くらいあったし、最後まで致すようなことなどなかったとはっきり冨岡は口にした。昨夜に至るまでは、と付け足して。
「だから俺もな、さすがに初めてだったんだ。男だからな、突っ込むしかしたことはなかったし」
「突っ込むとか言うなァ」
「お前が言ったんだろう。でも、なかなかない経験だったぞ。女の気分は味わえた」
不機嫌が緩み少しだけ笑みが浮かんだ。出したのを手伝ったなどと言っていたが、それは曖昧に濁した言葉だったということらしい。要するに、本当の本当に不死川は夜雨の女を抱いた、のだとか。何ひとつ覚えていないのに。
「やり直しさせろ」
「はあ?」
「頼む。覚えてねェんだぞ、本当に。そんな美味しいことが起きてたとかずるすぎねェか昨夜の俺。何が起こってそうなったんだよ」
がしりと冨岡の肩を掴んで不死川は呟いた。それはもう真剣に口にしたのだが、眉を顰めた冨岡はいっそ哀れむような目を向けてくる。
わかっている。最低最悪なことを口にしていることも自覚しているが、それでもずるいものはずるい。この冨岡に女の気分を味わわせて、この腕がばっちり抱いたというのだ。天国だろう、もはや。
「残念ながら俺はもう風呂に入ったから――」
「このままでいいだろ。なんの問題もねェわ」
「だからあり過ぎるだろ!」
目の前にいるのは片腕を失くし現役よりも少し痩せた短髪の冨岡。柱を辞した男の冨岡だ。それがなんの問題になるのか不死川にはわからなかった。
「ねェよ、女の初めて俺にくれたんだろ? じゃあ男の初めても寄越せよ。突っ込まれる側は諦めるからよォ……」
「なんでお前はそうっ……、……え? 俺に突っ込まれたいのか……?」
「なわけねェだろ。めちゃくちゃ突っ込みてェわ」
「ええ……」
まだ酔っていると思われたらしく水を飲むことを勧められたが、酔いがまわっていることもわからないほどの馬鹿ではない。確かに昨夜は飲み過ぎたのだろうが、現在の不死川は至って素面である。
「酔ってねェが、惜しいとは思ってる。思い出してェ。けどまァいいわ、覚えてなくてもよ。これからわかるもんな」
「いやっ、昨夜俺は女だったぞ!」
「おう、今から男の初めてくれるんだよな」
「いいとは言ってない!」
そんな馬鹿な話があるかと慌てているが、不死川はきちんと要望を冨岡へ伝えたはずだ。冗談だとでも思ったのかは知らないが、こちらは真剣である。
かつて焦がれたのは確かに夜雨の女だったが、その中身は冨岡だ。男だろうが女だろうが、不死川は冨岡が良いのだ。ようやくしっくりくる言葉が頭に浮かんできた。
「おはようござ、……ギャーッ! 義勇さんっ!」
勝手知ったるとでもいうように玄関から来ず縁側を覗いた冨岡の弟弟子が悲鳴を上げ、ともに来ていた宇髄と村田も一緒に冨岡を組み敷く不死川へと飛びかかってきた。傍目から見れば単に喧嘩だとでも思えただろうに、どうやら焦る冨岡の匂いに竈門も焦ったらしい。それから明らかに着物を脱がそうとしていた不死川の手が不埒だったとかなんとか。まあ、間違ってはいない。
「お前さあ、女になるなら誰でもいいのかよ。最低だぞ、そんな溜まってんなら言えよな。犯罪者になる前に女あてがってやったわ」
「しかも女じゃないし今……無理やりは駄目ですよ本当、誰でもいいからって……」
冨岡の体質を知らされたのは近しい面々だけだ。
それこそ兄弟弟子だったり同僚だったり同期だったり、とにかく知られて支障がないような相手ならひと通りは知っているので、冨岡を女扱いしながら事情も知らずに不死川を責めに責めてくる奴がいる。それを止めろと言うつもりはない。中身がどうあれ水を被れば間違いなく女であるし、覚えていないが不死川は夜雨の女の身体を明け渡されたのだから。まあ、それは一先ず置いておいて。
「うるせェ! 誰でもいいわけねェだろが、願ったり叶ったりだわ! 乳があろうがなかろうが股に同じモンぶら下がってようが筋肉質だろうが俺はなァ! 冨岡ならなんだって良いんだよ!」
寝起きの衝撃と邪魔が入って苛ついた勢いのまま叫んだ不死川に、遊びに来た三人はこぞってあんぐりと大口を開けた。宇髄も竈門も村田も、不死川の魂の叫びに何も言えないようだった。こちらとしては突っ立っていないでさっさと帰ってほしいところだが。
「やべえ、まだ寝惚けてんの? 宣言すんのは勝手だが後悔するなよ?」
「……冨岡、こんだけ性癖歪ませたんだから責任取れよ……」
「………、」
普段の不死川を知る連中からすれば、こんな叫びは予想外だったのだろうと考えられる。宇髄が心配しているのはこの後のことだが、今は構っている隙はない。
村田が引き攣った笑みを浮かべて責任云々の話をし始めたことに冨岡は何も言えなかったのか、ただ額を押さえて俯いた。
「ま、そういうことだァ。だから帰れ。そんでもっぺんな」
「いや、突っ込むのは女の身体だけにしてほしいんだが……」
「なんで?」
「お前がなんでだ。……尻はちょっと……怖いだろ」
「ちょっとちょっと待て待ておい。え、え、致した後なの? お前も不死川が好きだったの? 炭治郎が白目剥いてるから言葉には気をつけろよ?」
「今そんな話するのが間違ってると思うんですけど……聞きたくないし……」
「ええと……」
色気がなさ過ぎる冨岡の言葉を遮った宇髄に早く帰れと手を振り払っても、気になって仕方ないらしく縁側に陣取って座り込んだ。村田は耳を塞いでいるし、竈門は白目を剥いて倒れている。そんな二人を無視して一体いつから、どういう流れで、なんて宇髄は問いかけてくるが、正直不死川も聞きたいところである。何故覚えていないのかと何度目かの後悔をしているところだった。
「――まあ、昨夜は合意の上ではあるから安心しろ」
結局己に好意があるのかないのかもわからないまま、呆れた後に笑って答えた冨岡がやけに艶かしくて不死川は目眩がした。