夜雨の君―夜すがらの雨―
「惚れた相手がいたのか」
死ぬまでに女を抱いておきたい。そういう男の雑談を隊士時代に聞いたことがあったと言った。
誰でもいいとそいつは言ったが、惚れた奴となら確かに寝てェ、とふと考えたのだという。春を売る女を馬鹿にする意図はない、と一応付け足して、不義理の嫌いな不死川らしい答えである気がして微笑ましかった。
このような話をまさか不死川とすることになるとは思わなかったが、それも仲良くなれた証のようで楽しくもあった。
「おォ……まァ相手は厄介極まりない体質の奴だ」
「ふうん? 大変そうだな」
「わかんねェか?」
「なに……っ、」
間近に迫った顔に一瞬遅れを取り、冨岡は不死川を止め損ねた。口に当たる感触が何か、視界に映る不死川の目でじわじわと理解したが、その瞬間の思考は一気に奪い去られたように働かなかった。
「………っ! いや待て不死川! 酔い過ぎだお前っ、……そうか、お前が惚れたのは夜雨の女だな。俺は、」
「うるせェ、知るか」
確かにあれは冨岡ではあるが、別人のように性別が変わるのだからもはや他人のようなものだ。
夜雨の女は水を被った冨岡の姿である。あれに惚れるという現象は正直理解し難いことだが、見た目は女なのだから確かに惚れる男がいてもおかしくはないと思うようになった。だから不死川が会いたいと思うのも、そういうことかと思い至ったのだ。混乱している不死川の様子を見るのは珍しかったし、話したい奴に話せばいいと背中を押してくれたし、この体質も含めて付き合いを続けてくれることが嬉しかったのもある。
けれど現在、冨岡は夜雨の女とは似ても似つかない男の姿だ。男の冨岡の口を吸うなど、ここまで判別不可能になるほど酔っていたとは気づかなかった。
「てめェはてめェだろ」
「………、」
至近距離で見た不死川の目は酔っているはずなのにはっきりしていて、放たれた言葉に冨岡は頬が熱くなっていくのを自覚した。
なんだその言葉は。いまいち受け止めきれずに固まったが、不死川はまったく意に介さず冨岡の浴衣をまさぐってきた。
「いやだから待て、本当に。………、……み、水を、被ってくるから。それからなら、触っても、」
女に変わるこの体質を疎ましく思い続けてきたというのに、なんとか早く水を被らなければと冨岡はあたりを見渡した。すでに腰へ乗り上げられた状態まで許してしまったのは不覚である。本当に酔っているのか少しばかり疑ってしまったが。
「お前さァ。惚れたとわかってる奴の前でそういうこと言うなよ」
「………っ! だから、待てと言ってる」
「待たねェ」
「ちょ、くっ」
手を伸ばした先にある湯呑みに水を汲んできていたことを思い出して組み敷いてくる不死川をなんとか引き止めつつ、冨岡は指先に触れたそれを火事場のなんとやらで無理やり宙へと放り投げた。土壇場とは本当になんでもできるかもしれない、と落っこちてきた湯呑みを頭にぶつけながら感心した。痛みはあれど水を被れたのだから目標は達成したのである。
「痛……よし、もういいぞ不死川、」
「てめェなに水被ってんだァ」
「ええ……」
触りたい。女と寝たい。普通の町娘にこんな要望を出せば確実に引っ叩かれる案件だ。冨岡であれば男ならば仕方あるまいと許してやれるから、せめてもの情けで焦がれた女の身体を触らせてやるために水を被ったというのに。なんで怒られなければならないのだろう。理不尽だ、意味がわからない。
「お前が惚れたのはこいつだろう」
「だからァ……、……あーでも、やっぱ触ってみてェ……いいんだよなァ? 言ったもんなァ」
「返事を待つつもりはないように見受けられるな」
まだうんとも駄目とも言っていないのに、不死川の手は浴衣の上から胸の膨らみに乗っかった。さすがは元柱、行動が早い。恐る恐るというような手つきで力を込めてくるあたり、一応気を遣っているのかもしれない。気を遣うところが全然違うな。やはり男とは助平な生き物だとしみじみ考えてしまった。己が据え膳などとは今でも思えないが。
「あーすげェ柔っけェ……女の身体ってのは凄ェなァ……」
「複雑だ俺は……」
同僚の、尊敬していた元柱が冨岡の胸を触って至極嬉しそうにしている。なんだこの光景。さすがにこんなこと、不死川以外には絶対にできないししたくもない。中身が冨岡とわかって頼んでくる奴などこいつ以外にいないだろうが。
「俺はさァ……気づいたら惚れてたわけだよ。惚れた奴にしか触りたくねェから、そのまま死ぬもんだと思ってたわァ」
「………」
「……なに? もっと触っていいんかァ?」
胸が苦しい。不死川が触っているから物理的に苦しいのではなく、内側が締めつけられて息がし難かった。だから胸の上にある不死川の頭を抱き込んでしまった。おかしな勘違いをしたらしい不死川が馬鹿になったまま問いかけてきたが、冨岡は突っ込むのも面倒だった。
「いいぞ。……好きにしろ」
「………、……まじでェ……? お前、自分大事にしろよ……」
「大事にしてる。要らないんならいい」
あまりに驚いたらしく不死川は驚愕のまま冨岡を見上げてきたが、その反応にむっとした冨岡が抱き込んでいた腕を放すと狼狽えたようだった。どこまでも目を泳がせて黒目が飛んでいきそうで笑いがこみ上げてきたのだが、やがて素直になったらしい不死川が小さな声で要る、と呟いた。おかしくて笑うと不貞腐れたのか、胸の上で力尽きたように身体を預けて腰を抱き込まれた。重い。
「……すげえいい夢見てるみてェ」
「飲み過ぎてるから勃たないかもしれんな」
「勃つとか言うなやァ……てめェ相手ならいくらでも勃つわ」
「………、……そうか……」
こうも不死川の言葉で心臓が反応を示すのでなんだか落ち着かないのだが、あまりに熱烈だからつい絆された、と言い訳しておくことにした。