夜雨の君―駆け引きはしないに限る―

 雨に濡れた屋根を駆けている同僚を見つけた。
 任務の終わりに突然雨が降り出し、煉獄もすでに濡れ鼠である。ここしばらく雨の予報もなかったものだから油断していたのは煉獄もだが、同僚もまた羽織を着たままずぶ濡れだった。濡れているということは、男であったはずの同僚が女に成り代わっているということだ。初めてその姿を見た時と同じ状況だった。
 声をかけると冨岡は煉獄へ目を向け、足を止めて地面へと降りてきた。正体隠しのために特徴的な羽織を脱ごうとするよりも先に、冷えるからという理由もこめて同僚の肩へ煉獄の羽織を被せてやった。
「これまで誰かに見つかったか?」
 かぶりを振る。見られていないはずだと答えが返ってきたが、どこで誰が見聞きしているともしれないのだからさっさと退散するに限るだろう。家人にばれてしまう可能性を考えると藤の花の家紋の家に立ち寄るのは冨岡も落ち着かないかと考えたが、目と鼻の先に家紋を掲げた家が見えていた。冨岡も頷いたから立ち寄ることにしたわけだが。
「あっ、え、炎柱様! と……」
「えっ!? あっ、お、お疲れ様です!?」
 藤の花の家紋の家は鬼狩りに休息を与えてくれる場所だ。そんなところに足を向ければ、隊士たちと鉢合わせることくらい少し考えればわかったことである。実際煉獄も冨岡も考えたはずだったが、部屋に入りさえすればどうとでもなるだろうと思っていた。
 開けた引き戸の先、土間に隊士が立ち往生しているとは思わなかったのである。
「………。戻る」
「! いや待て、とみっ……、邪魔をした! 俺も失礼する!」
 煉獄の後ろにいたはずの冨岡が逃げるように屋敷から離れてしまったので、煉獄もまた追いかけるために踵を返した。何故追ってきたのかと追いついた時に恨めしく睨まれたが、煉獄自身もついとしか言えないのだから仕方ない。
 そんな短慮なやらかしをした煉獄と夜雨の君についての噂がたった一日で隊内に広まったと知ったのは、その翌週に開催された柱合会議の後であった。

「お前、冨岡の女に横恋慕してるってまじなの?」
 相も変わらず会議が終われば颯爽と帰ろうとした冨岡は、宇髄が煉獄へ問いかけた言葉で木の幹に思いきり額を打ちつけていた。
 かくいう煉獄自身も宇髄を見上げて驚愕に目を見開いていたわけだが、それは宇髄には伝わらなかったらしい。
 冨岡自身に嫁いでこないかと言ったことはあっても、冨岡の好い人を奪うなどしたことがない。というか彼にそういう相手がいたことも知らなかったが結局いたのか? と一瞬悩みつつ、一体何がどうなってそんな質問が出たのか理解できなかった。
「いやな、隊士が藤の花の家紋の家で煉獄と夜雨の女を見たって話をしててよお。そん時羽織を着てたって言ったんだよな。お前の羽織の下にあの二つの柄の羽織をさ」
 少し離れた位置で額を押さえている冨岡を指し、宇髄はある噂を口にした。
 特徴的な、冨岡義勇を象徴するものといっても過言ではない片身替りの羽織は、彼の性格とは似ても似つかないほど目立つものだ。鬼殺隊の関係者ならば誰が見ても冨岡を連想するだろう。だから煉獄も羽織を被せて隠そうと考えたのだ。
 あの日逃げた拍子、身を翻した時にでも見えてしまったのだろうか。それにしたってよく見ているものだ。おかげで二人にとって謂れのない噂が出回っているらしい。
「雨の中羽織ってた冨岡の羽織が気に入らなくて貸した?」
「そんなわけがない!」
「やっぱり? でも三角関係の噂まわってんぜ、冨岡と煉獄が夜雨の女を取り合ってるってな」
「………、」
 手をついた木の幹がみしみしと音を立てている気がしたが、鬼殺隊本部の庭であったことを思い出したのか冨岡はふと手を離して溜息を吐いた。周りの柱たちは興味があるのかないのか、割り込まずに様子を窺っているようだった。
「……あれは、……従妹だ」
 静かな声で冨岡は呟いた。
 言うのか。いや確かに、似ている水柱の血縁だと言えば納得する者は多いだろう。今まで言わなかったというのも、寡黙な冨岡だから言いそびれたとでも言っておけばさほどおかしなことではない気がする。本人がそう詐称したのだ、煉獄も乗ることにした。
「そう! 彼女は冨岡の血縁でな!」
「ふうん、従兄妹ってあんな似るんだな。まあそりゃ納得するけどよ、じゃあ別に取り合ってるわけじゃねえのか?」
「取り合ってはないな! 俺の想い人ではあるが」
 木の近くにいたはずの冨岡が消え、煉獄と宇髄の間に瞬間移動の如く現れ煉獄の襟首を引っ掴み、引きずられるように宇髄から距離を取らされた。
「何考えてる。なんで得体の知れない女に恋慕する嘘を自ら広めようとするんだ。正気か」
「嘘ではないからなあ」
 女の姿だけではなく冨岡も込みの言葉なのだが、そのあたりは伝わっていないようだった。
「なんだよ、冨岡は従妹の恋愛に反対なわけか? 水柱の血縁となればそりゃ生半な奴じゃ願い下げだろうが、相手が煉獄なら申し分ねえだろ。……あ、そうか。お前嫁にやりたくねえから素性隠してたのか、この過保護野郎」
「あれを女扱いするな」
 夜雨の君が冨岡本人なのだから言いたくなるのはわからないでもないが、見た目は紛うことなく女である彼女を女扱いするなとはなかなかに難しい。煉獄ですら難しいのだから、正体を知らない者であれば尚更である。
「まあ、鬼狩りとして女扱いされるのが嫌なのはわかりますがね。彼女も随分お強い方のようですから」
 黙っていた胡蝶は少し違った捉え方をしたらしい。冨岡が水柱でなければ彼女がなっていたといわれるくらいには素晴らしい剣技を持っている。まあ中身が冨岡なので当然なのだが、同じ女(見た目だけだが)として胡蝶は少し思うところがあるのかもしれない。
「大体男女の色恋なんざ身内でも口挟むもんじゃねえだろ、夜雨自身に決めさせろっての。ていうかあの女の名前なんていうんだよ」
 冨岡従妹などという呼び方をさせるつもりかと宇髄が突っ込むが、冨岡はこれ以上ここで口を開く気がなくなったらしい。煉獄の発した言葉が気に触ったらしいが、己の気持ちとしては嘘ではないので難しいところだ。まあ確かに、わざわざ話す必要はなかったかもしれないが。
「うーん、名前か。俺としてもそっとしといてほしいところだ! この話はこれで終いにしよう。ではな!」
 損ねた機嫌を窺いたいので、煉獄は冨岡の腕を掴んでその場の彼らに手を挙げて別れの挨拶をした。素早さでは勝てやしないが不意をつけば宇髄からも逃げることは可能だ。うまく隙をつけたようで、鬼殺隊本部から消えた煉獄と冨岡を追ってくることはなかった。
「おい、どうしてくれるんだ」
「すまないな! しかし俺は嘘を吐いてない」
 想い人などという妙な取り繕い方をして、要らぬ不信感を持たれたのではないか。余計に拗れたりしてしまったらどう対処するつもりなのか。珍しく語気を荒げて文句を伝えてくるあたり、本気で苛立っているのだろう。
「あれとの噂を肯定したら良い縁談も入ってこなくなるぞ」
「きみが縁談相手になってくれればいい」
「………」
 煉獄が提案すると冨岡の珍しく動かしていた口が止まった。顔を歪めて煉獄を睨んでくるが、こちらとしてもすでに伝えていることだ。いくら当時は混乱していたとはいえ撤回するつもりは更々ないし、女の姿にしか価値はないと勘違いされても困るのだ。
「俺は前に言ったはずだぞ。きみ共々嫁いできてほしいと」
「だから、」
「まあ、それは追々考えてくれればいい。とりあえず、冨岡がうちで堂々と休む理由ができただろう。助からないか?」
「……それは、……助かる」
 彼に素直なところがあるということを煉獄は知っている。口数は少なくとも、問いかけたことには静かに事実を答えてくれることもわかっているのである。
「だろう! 良かった良かった。これで助からなければ想い人に要らぬ心労をかけただけになってしまうからな」
 煉獄としてはもっと頼ってほしいところだが、人に頼ることを良しとしないのだろうことも理解している。根気良く付き合ってみれば彼は普通の青年だ。不死川が言うほど他者を見下しているような人ではないし、単に言葉が足りず口下手なだけである。それに、煉獄にあの煽るような口下手を向けられたことはなかった。
「しかし、隊士に見られたのは一瞬だったのに、これほどの速度で広まるとはなあ」
「お前のせいだ」
「いや、きみが目立つからだぞ。そもそも夜雨の君自体は以前から噂があっただろう」
 姿を見たことのなかった頃から煉獄の耳にも届いていたし、夜雨の君という剣士の噂は隊内でずっと囁かれていたものだ。誰も素性を知らぬから余計にそうなっていたかもしれないが、冨岡義勇という人物が人目を惹きやすいのだろうとも思う。彼の人となりは宇髄からすれば地味、煉獄の目から見ても静かでひっそりしているというのに。
「まあ、せっかくだからうちに寄るといい。千寿郎も心配していたからな」
「………」
 帰ろうとした冨岡の腕を離さないまま、煉獄は我が家へと連れ込むことにした。

*

 さてこの冨岡義勇、冷徹な印象を受けるがその実好意的な相手にはわりと絆されやすく流されやすいことを煉獄は知ることとなった。
 正体を知ってから、従妹と詐称してからもそれなりの時間を過ごしてきたのは間違いない。気にせず休める場所として我が家を提供したり匿ったりと甲斐甲斐しく世話をしていたことが功を奏したのであれば、煉獄もその甲斐あったと喜べる。煉獄自身を好いてくれているならばもっと喜ばしいのだが。
「――縁談?」
「ああ、代々うちの仲人を務めたと親族の婆様が現れてな」
 世間話代わりに最近の事情を話すことも増えてきた。
 今回の世話焼き婆のことを父に聞こうにも会話らしい会話はできずである。分家筋との集まりでは見たことがあったと思い出したので、その老婆が親族ではないと疑っているわけでもない。鬼狩り稼業にも関わらず未だ独り身である煉獄を分家が心配しているということも理解している。
「仲人はうちを心配していてどうにも引かない。このままでは父に直談判にも行きそうだ。好い人がいるなら連れてこいとは言われたが……」
 そもそも煉獄としては縁談を組まれるのは困るので、想い人がいるという話は老婆にもしている。そのせいあってやれめでたいから連れてこいなどと勇み気味になっているのだ。まだ想いも通じていないと窘めても、天下の煉獄家嫡男に見初められて喜ばぬ娘がいるものかと憤慨する。いるから手をこまねいているのだと言っても意気地なしだと蔑まれるわけである。さっさと手篭めにして囲ってしまえとまで言う始末だ。煉獄が真に受けたらどう責任を取るつもりなのだろう、あの老婆は。
 嫁いできてくれないかなあ、と思ってはいるし伝えてもいるが、それを強制だとか脅迫のように思われたくはない。そもそも水柱である冨岡に煉獄の脅迫など通用するわけがない。馬鹿にしてもらっては困る。
「きみが会ってくれるなら収まると思うがな。無理強いはできん」
「構わない」
「しかしあの婆様に口で勝てるかは……何!?」
 遅れた反応に少し驚いたらしい冨岡が肩を揺らしたが、構わず煉獄は冨岡へと詰め寄った。
「えっ! どうした!? 嫁いできてくれるのか!?」
「嫁ぎはしないが、困ってるんだろう」
 追い払うのを手伝う。縁談を心配するようなことを以前言っていたはずだったのに煉獄の親族をまるで邪魔者扱いしたが、そんなことより煉獄は冨岡の返答に驚くばかりであった。煉獄の想い人の噂など耳にするたび不機嫌そうな顔をして黙り込んでいたというのに。正体を隠したい、女として見るな、自分は男だとさんざっぱら口にしていたというのに、煉獄が困っていれば女の身を使って助けてくれるらしい。
「いや……俺としては嬉しいが、冨岡は女装することになるぞ。大丈夫なのか」
 水を被ってくれるのだろうから厳密には女装ではないが、冨岡自身からすれば女装であろう。本当に抵抗はないのかと問いかけると、あるに決まっていると眉を顰めた冨岡は口にした。だろうなと頷いた。
「……胡蝶の真似をすればなんとかなる」
 抵抗があろうと手助けに必要ならば、一度くらいならと彼は受け入れるらしい。
 あまり人と話すことのない冨岡だが、比較的仲の良い胡蝶とはわりと話すから口調や仕草を真似ればどうにかなるだろうと言う。そこまで考えてくれるのは素直に嬉しいが、無理をさせたいわけではないのは本心だった。
「誰の真似もしなくていい。来てくれるのならきみのままで臨んでくれ、俺の想い人は女らしさなど欠片もないひとだ」
「………。それだと男のまま臨むことになる」
「ああそうか! まあ俺はそれでもいいんだが、あの婆様は納得せんだろうからなあ。すまない、見た目だけは女になってくれるか」
「………、」
 何かを言いたげに冨岡はもごもごと口を動かしたが、待っても言葉を発することはなく溜息を吐くだけに留まった。
「では早速伝えておこう! ありがとう冨岡。その調子で嫁入りも考えてくれないか」
「帰る」
「そうか、今日も降るらしいから任務に羽織は置いていくことだ!」
「………。お前と話してると頷きそうになる。世話になった」
「ああ、また来てくれ……。………っ、冨岡!」
 首を傾げた煉獄が言葉の真意に気づいた時には去った後だった。
 さすがは水柱、素晴らしい身のこなしと速度である。呆けたとはいえ曲がりなりにも炎柱である煉獄を撒くのだからやはり伊達ではない。いや彼を褒めるのは一先ず置いておくが。
 頷きそうになる。
 この言葉が煉獄に絆され流されているだけなのか、それとも想い人として応えてくれそうなのかはわからないが、少なくとも暖簾に腕押しだったはずの頃より一段と、勢いで頷かせそうになるほどいつの間にか進展してしまっているではないか。なんということだ、そのまま頷いてくれれば良かったのに。しかし。
「………、押せばいける……」
 まるでなかったはずの手応えを見つけてしまった煉獄は、今度こそ頷かせようと決意を新たにするのだった。