夜雨の君―泡沫のひと―

 雨の中に見えた姿に不死川は目を奪われていた。
 先程までの土砂降りは少し落ち着きを取り戻し、視界は多少見えやすくなっていた。任務先にはすでに隊士らしき者がいたが、先の土砂降りで濡れ鼠になったまま刀を振ったのが見えた。
 土砂降りよりはましだが、雨脚は未だ強い。その中で鮮やかな水が夜を舞った。
 綺麗な女だった。だが不死川はずぶ濡れでなお凛とした姿と、さらに女の細腕から繰り出された剣技に目を奪われ言葉を失っていた。
 水の呼吸を操った。あれは柱だ。あの軽やかさ、静けさ、そして剣技。下級隊士のはずがない。
 不死川が引き止める前に女はその場を後にした。
 次の任務は不死川にも入り、鎹鴉が指令を叫ぶ。結局その夜、追いかけることはかなわず見送ることとなった。不死川が柱を拝命する半年ほど前のことだった。

「……そういやァ、鬼殺隊ン中で探してる奴がいんだが」
「ん?」
 鬼殺隊の当主に無礼な口を利いたことで散々説教を受けた不死川は、反省して疲れきった頭のまま思い出したことをぽろりと目の前の大男に問いかけた。
「なんかこう……冷てェ印象の女で……水の呼吸の隊士で、凄ェ綺麗な剣技の……」
「……あいつ?」
 ちらりと視線を向けた宇髄が親指を向けた先には、片身替りの羽織に長髪を一つに纏めた男が立っている。その隣で花柱がにこやかに話しかけていた。
「いや男じゃなくてェ……。……まァ、似てる……かもしんねェけど」
 もしや兄妹とかあり得るのだろうか。兄妹で鬼殺隊、とは、そんな奴らもいるのか。そういえば蝶屋敷も姉妹でやっていたことを思い出して、よくあることなのかとふと考えた。
「水柱の名前って確か……」
「冨岡な。冨岡義勇」
 明らかに男の名前だし、隣に立つ胡蝶より上背も厚みもあって女には到底見えない。不死川が初めて訪れたこの柱合会議、場にいた女はたった一人。不死川も以前からの顔見知りだが、蝶屋敷の主人はあの土砂降りの夜に会った隊士とは似ても似つかない花のような女だ。刀の切っ先のような、真冬の凍える水のような女ではなかった。水柱は確かに似ている。しかし似ているが男だ。
 おかしい。そんなはずはないと思うのだが。あの剣技が柱以外にあり得るはずがない、そう思ってしまうほどに圧倒されるものだったのに。
 ならばこの男はあの女の更に上を行く腕を持っているのだろう。それはそれで興味はある。似ているとも感じるし、何か知ってるかも、と考えた不死川は声をかけようとしたのだが。
「あ、おい!」
「あー、行っちまったな。あいつと付き合うの苦労するから頑張れよ」
「どうしたの?」
 水柱を見送っていた胡蝶が振り向き、不死川たちのそばへと寄ってくる。意中の女がいるらしい、と宇髄が揶揄い混じりに口にした。勝手に。しかも違うし、と弁解する前に、あらあらと嬉しそうに胡蝶が笑った。
「剣技の美しい水の呼吸の隊士だと。顔も?」
「………」
 一目惚れかと問いかけてくる声音が楽しんでいるようで居心地が悪く、つい黙りのまま睨みつけてしまった。何故か岩柱も近寄ってきて更に溜息が出る。
「雨の中鬼を斬る姿に見惚れたと」
「雨? へえ、噂の人かしら」
「噂?」
「ええ。療養してる子が話してたんだけど、特定の日にだけ現れるっていう隊士」
 ここ最近、まことしやかに囁かれているらしい。深い雨の夜に現れる水の呼吸の隊士。洗練された剣技で静かに鬼の頸を斬るさまは、まるで水柱の剣技のようである。極めれば自ずとああなるのかもしれない、ああなれた人が柱になるのかもしれない。次の水柱は間違いなく彼の人であると。
 誰も彼女の名を、声すら聞いたことのない、夜雨よさめの君。ただ強く美しい、それだけの。それだけの者である女の涼やかなかんばせがあまりに神々しく見えて、もはや人ではないのかもしれない、などと崇拝する隊士もいるのだとか。
 そのうち空を飛んでいたなんて噂も出てきそうだ。
 そんな噂は以前の不死川ならば歯牙にもかけなかったところだが。剣技を見たからとか、助けられたからとかというような理由で憧れたからなのだろうが、しかし不死川はすでに納得のいく者を見ていたのである。
 この噂は正しくあの女以外にいないと思える。
 不死川は女子供が剣を持つことを良しとしているわけではないが、彼らにも譲れぬものがあることは承知しているつもりだ。そして蝶屋敷を必要とするように、たった一度見ただけのあの剣技が、鬼殺隊になくてはならないだろうことも理解してしまっていた。
「雨の日に現れるなんて幻想的よねえ。一度会ってみたいわ」
 そんな声を聞きながら、不死川は去っていった水柱に話を聞く機会を探すことにした。

 とはいえ、水柱と顔を合わせるというだけのことがひどく至難の業だった。
 避けられているのではないかと思うほどに。蝶屋敷に来たら伝えておいてあげる、という胡蝶の言葉をお節介だと思ったのに、それに頼るしかないほどに姿を見なかった。宇髄から聞き出した屋敷に行ってみたりもしたが、出迎えた隠から今はいないとおどおどしながら答えられた。どうやら不満が顔面に表れて凶悪になっていたらしいが、自前の顔はこれ以上どうしようもない。舌打ちを我慢してすごすごと屋敷を後にしたことがあった。まあ人の気配は一つしかなかったので、居留守ではなく本当にいなかったのはわかるのだが。
 次の柱合会議まで待つかと半ば諦めかけた頃だ。季節ゆえか雨が降り続く日が多く、鬼殺に励むには鬱々とした大気が充満していた。視界を奪うわ動きも多少鈍るわで雨が好きではない不死川も鬱々とした気分で鬼を狩りまわっていた。
「………っ、待てェ!」
 その鬱々とした気分が吹っ飛んだのは、水柱を探し続けていた原因を見つけたからだ。
 鴉の救援要請があった先には、いつかの不死川が見たあの女がいた。鬼の頸を斬り落とした後はそれこそ疾風の如く瞬速で近づき、殆ど無意識に手を伸ばして女の手首を掴み足を止めさせることに成功した。驚いた女が不死川を見上げた時、不死川の頭から言葉が吹っ飛んだ。
 何を言おうとしていたのだったか。
 あの雨の夜と同じように、今もしとしとと降り続いている。夜雨の君。近くで見ると成程やべえ、美しさは間違いなかった。ではなく!
「………っ、名前と階級はァ」
「………、」
 女は口を開いたものの、何を言うこともなく噤んで目を逸らした。一度は名を伝えようとしたのか、言おうとしてやめたように見えた。言えないのだろうか。不死川は訝しんだ。
 理由はわからない。だが黙りを選択した女は掴まれた手首に目を向けながら佇んでいて、まるで不死川が無理やり引き止めているように思えてきてなんとも良心を刺激した。いやまあ事実ではあるのだが。
「……あー、言えねェなら……いいけどよ。せめてその、」
「あっ! 夜雨の君だ!」
 指示を仰ぎにでも来たらしい隊士が女に気づき、興奮したように駆け寄ろうとしてくる。邪魔が入ったことに不死川は内心舌打ちをしたが、声を上げた隊士へと向かった女の視線が不死川へと戻った時、再び口が開くのを見た。
「……よさめで」
「あ?」
「名前。夜雨」
 腕を掴む手が緩んだ一瞬を突かれ、女は不死川の手を振り払って颯爽と雨の夜に消えた。ぽかんとしたまま見送った不死川の耳を隊士の声が通り過ぎる。
「うわー行っちゃった」
「風柱様振り払うとか凄え……。あ、あの〜か、風柱様も気にしてらしたんですね。夜雨の君」
「初めて間近で見たけど……てか初めて捕まってるとこ見た気がする」
「………」
 夜雨“で”?
 一体どういうつもりで妥協のような言い方をしたのか。しかもタメ口で。しかも勝手に振り払っていきやがった。
 ひくりと片側の口角が引き攣るのを自覚した。
 名乗れない事情がどんなものかによっては、不死川も納得するつもりは一応あったが。
 上官相手にいい度胸だ。階級が何かを不死川は聞き出せなかったが、柱ではないのだから部下で間違いないはずだ。数人の隊士が顔に怯えて悲鳴を上げたようだが、不死川はその時己の顔などどうでもよく、夜雨の女のことばかりを考え込んでいた。
 しかし、名前と階級を言い淀んだのは口止めされてでもいるのか。どこぞのご令嬢がお忍びの命懸けで鬼狩り……そんなわけがあるかとさすがに不死川はかぶりを振った。
「おい、さっきの女……隊士の素性知ってる奴いねェのか」
「ひっ、あ、いや……鬼を斬るだけ斬って去っていくので……どんな声なのかも知らなくて……」
「階級の低い隊士じゃ捕まえることもできなかったんで」
 当代の水柱がいるのだから、どれほど腕に覚えがあろうと階級は甲で打ち止めになる。あれほどの身のこなしができる隊士は甲にもなかなかいないが。
「でも水柱様に似ていらっしゃるから縁者なのかなって思ってるんですよね。剣技も彷彿とさせるし、妹、双子、娘……は年齢が合わないけど、はたまたご本人だとか」
「んだその与太話はァ」
「じょ、冗談ですよぉ……」
 隊内で素性を隠し通せるとは思えないが、実際あの女のことを知っている隊士は皆無だ。不思議なものだが、鬼を狩っている隊士である以上、敵ではないことは間違いないのだ。
 仕方がない。この際だ、ご希望どおり夜雨よさめと呼んでやることにしよう。本人がそれでと言ったのだから。
 鎹鴉が不死川を呼び、次の指令先へと向かうために雨の夜を駆け出した。

*

 問いかけても知らぬとにべもなく言い放ち、冨岡は夜雨の女について何一つ口にすることはなかった。
 女にうつつを抜かすとは軟弱千万、などと言われては頭に血が上っても仕方がないだろう。誰よりいけ好かない男だと冨岡を毛嫌いするようになってからも、噂はずっと水面下で揺蕩っていた。時間が経てば確かに表立って口にする者はいなくなったけれど、それはそういうものだと隊士たちが受け入れたからで、気にしている者は変わらず素性を暴こうとする者もいたという。階級の低い隊士たちでは夜雨を捕まえることはかなわず、また隊律違反を犯しているわけでもないから柱も基本は放置である。結局暴けず終いであった。
 不死川は不死川で、任務の合間や街中で女の影を無意識に探していた節がある。あの触れた手首の細さや熱がいつまでも忘れられなかった――と、すべてが終わってからようやく自覚する羽目になった。
 体温があったのだ。幽霊ではなかったし、きちんと生きている人間だった。あの手首を初めて掴んだ時、揺らいだ女の目が綺麗だったことを思い出した。
 最後の戦いでもあの女を見つけることはなかった。誰が死んでもおかしくなかったあの戦いで、夜雨も知らぬところでひっそりとこの世を去ってしまったのかもしれない。
 名も知らぬ雨夜に現れる女。冨岡と同様、水底のような目をしていた。他人の空似を疑ったこともあったけれど、それでは説明がつかないほど彷彿とさせる類似点が多かった。もはや身内であることは疑いようもなかった。あの女が生きていれば答えてくれたかもしれないが、死んだとはっきり言われるのもなんだか嫌だった。
 あれは正しく、不死川にとって初めての女だったから。

 本降りになった雨を眺め、不死川は一つ溜息を吐いた。
 呼びつけておいて客を待たせるとは随分な所業ではないか。冨岡の屋敷に立ち寄った不死川は、軒下で暗い空を見上げながら家主の帰りを待っていた。
 突然の雨がこんなに降るとは思わなかったので、不死川も傘を持ってきていなかった。案外に抜けている冨岡では絶対に持っていないだろうなと予想しつつ、まだかと足を苛々させた。
 雨は好きではない。一時は嫌いではなかったが、今はもう降ったところで会いたい人間は現れないのだ。
「おい、おっせェぞ、」
 人を呼びつけておいてほっつき歩くその図太さは、隠居してから不死川相手に容赦がない。雨の中近寄ってくる気配に気づいた不死川は、声をかけながら音の方向へと顔を向けた。
「すまん、降られてしまった」
 軒下から不死川はぽかんと大口を開けた。
 それはもう間抜け面を盛大に晒した。だってそうだろう、不死川の視界の中、雨の中に佇んでいるのは。
「………、……えっ!?」
「なんだ、覚えてないのか? 会いたかったんじゃなかったのか」
 隊服ではなく袴を着て、短くなった髪の先から雫をいくつも落として笑みを向ける夜雨の女がそこにいたからである。
 死んだと思っていた女の長かった髪が短くなり、軒下で雨宿りをしようとしたらしい女が不死川の隣へ立つと、頭一つ下に旋毛が見えた。ちらりと向けられたのはまた笑顔だ。しかも楽しそうに。
 たった一人が目の前に現れただけなのに、情報の勢いに倒れそうだった。寒くないかと問いかけながら、軒下から屋敷内へと女は不死川を促した。
「風呂に入るか、沸かしておくべきだった。手伝ってくれ」
 勝手知ったるというように冨岡邸を進んでいく背中を思考停止したまま追いながら、なんとか女を観察する。
 髪は短く、右手は見えない。よく見たら何故か男物の着物を着ている。更に冨岡のよく着ている袴と同じ色であることにぼんやり気づいた不死川は、失くなった腕まで冨岡と同じとは不思議なこともあるものだと頭の隅で考えた。あまりに突然過ぎてそれどころではなかったせいでもある。
 以前は取り付く島もなかったくせに、今はにこやかに話しかけてくるところもそっくりだ。身内どころか本当に双子なのかもしれない、と不死川は問いかけるために口を開いたのだが。
「沸いたら入れ」
「………っ、濡れ鼠の女より先に入れるかァ!」
「そうか。なら一緒に入ろう」
「は、ア゙ァ!?」
「火を」
「お、おォ」
 火吹き竹を押しつけられた不死川は、思考が追いつかぬまま一先ず頼まれたことを済ませようとした。
 恐らく通常どおり時間はかかっていたはずだったのだが、不死川の体感ではあれよという間に風呂の準備ができてしまっていた。
 混乱している間に風呂が沸いた。沸いてしまった。女の爆弾発言に不死川は混乱したままだったが、浴室へと背を押して向かわせる手の感触が更に混乱を招いていた。
 いや一緒に入るって何だ。距離感がおかしいだろう。そんな夫婦くらいしかしないだろう提案を顔見知り程度の女が口にした。あばずれ女め、慣れていやがるのか。尻が軽過ぎる女など御免被りたいが、己の助平心には抗えなかった。
 脱衣所で立ち尽くした不死川を無視して女は戸を開け放ち、湯気の立ち上る浴室へと着の身着のままで足を踏み入れた。桶を掴んで湯舟から湯を掬い、不死川が止める間もなく頭からそれをばしゃんと被った。水分を拭いたとはいえ寒かったのか、服を着たまま湯を被るのはおかしいだろう、それなら名残惜しかろうと不死川が出ていけばいい話だと、考えを口にする隙もなく不死川は目を剥いた。
 目の前にいた女はいつのまにか冨岡に成り代わっていたので。
「期待させて悪いが、男同士だ。入るぞ」
「―――、はァっ!?」
 死ぬまでの数年の間に、今日ほど驚くことは今後ないだろうと不死川は思う。
 思考が追いついていないまま狼狽えた不死川を見て何を思ったか、冨岡はまたも浴室を出て未だ止まぬ雨の中へと飛び出した。
 ずっと濡れ鼠のまま冨岡とあの女が行き来している。不死川が待ち望んだ女の姿と、いけ好かなかった男の姿は同じ場所にあるのに、どちらか一方しか不死川の視界には現れなかった。
「………、……よ、嫁入り前の女が体冷やすんじゃねェわ」
「嫁入りする予定は今後もないんだが」
「あるかもしんねェだろ!」
「あるわけないだろ、何をとち狂ってる。夜雨の女、だったか? 見せたとおり正体は俺だぞ」
「………っ、」
 思考が理解を拒否している、というか。見せられた事実があまりに現実離れし過ぎていて許容範囲を超えていた。
 だがしかし、そもそも不死川は鬼狩りだ。鬼を知らぬ連中からすれば、あり得ないことをしていたのは不死川たちこそでもあった。
「はァァァ……、……まじでェ……?」
 そんなことがあるのかと恨み節を愚痴りたくもなったが、見せられたものが真実である。いくら信じ難く現実離れしていようと、不死川が見たものがすべてだった。
「ああ、聞きにくるくらい探してたんだろう?」
「そりゃだって……、………。……あ〜……お前……ああくそ! そりゃ随一の剣技だわなァ!」
 蹲って頭を抱えて唸り、やがて顔を上げて恨み全開で吠えた。
 俺の初恋が。
 よりによって冨岡。
 似ているとも、身内だろうとも考えてはいたけれど、いつかの妙なことを宣った隊士が正解だったとは。目印のような片身替りの羽織をしっかり着込んでくれていれば、妙な感情を抱くこともなかったかもしれないのに。
 本降りの雨の中で、悪戯が成功したみたいな笑みを浮かべている夜雨の女があまりに可愛い。中身は冨岡だと知らされた今でさえ。いや待て、知ったはずなのに。
「会いたいならまた連れてきてやる」
「中身てめェなんだから会うも何もねェ……。………、……た、たまには連れてこい」
「ふふっ……いいぞ」
 吹き出しかけた女が楽しそうに頷いた。
 風呂から上がった後の冨岡はやっぱりいつもの冨岡に戻ってしまったわけだが、未だに不死川の反応が面白かったのか楽しげに笑ったままだ。
 男に戻ってなおその顔が可愛く見えるのは、初恋の正体を知ってしまったからか、単に衝撃が残っているからか。
 そりゃ名乗るわけにはいかねェわなァ、と、今更ながら納得してしまったのであった。