泉下の客になる前に

「まさかお前が来るとは思わなかった……」
「ああ、俺は迎えではない。少しばかり時間を融通してもらっただけだ」
 かつての同僚がかつての笑みを浮かべて義勇を覗き込んでくる。
 なんだ、迎えではないのか。ほんの少しばかりがっかりしたような気分を抱き、やがて咳き込んで丸まっていた背筋を伸ばしてみせた。
「きみには言いたいことがあった。よくも二人にばらしてくれたな」
 彼岸に渡る前に文句を言いに来るくらいには怒っていたらしい。怒られることを想定してはいたものの、いざ指摘されると何だか懐が狭いのではないかとこちらも文句を言いたくなった。まあしかし、話したことは義勇も悪かったので。
「すまない。威厳ある炎柱が恥ずかしがってるのが可愛かったから、誰かに教えてやりたかった」
 素直に本音を伝えることにした。貫禄ある炎柱が恥ずかしがって顔を隠しているのが、耳を赤く染めているのがあまりに可愛かったのだと。眩しく雲の上の存在である炎柱の年相応な姿を見られたことが嬉しかったのだと、目の前の存在がこの世からいなくなってから気づいたのである。
 むむむと唸って腕を組む煉獄はお気に召さなかったようだが。
「……そうか、きみは可愛いのが好みだったか?」
「別に好みというわけじゃないが」
 炭治郎や禰豆子を見ていると愛らしいとも思うし、人並みの感覚を持っているとは思う。だが義勇は別に特別可愛いものに心惹かれるというようなことはない。
「俺が憧れた煉獄だから、……お前の知らぬ顔を見るのは楽しかった」
 眩しく貫禄のある炎柱よりも、ただの煉獄杏寿郎という年下の少年に惹かれたのかもしれない。当時から話しかけてくれていた彼には嫌う要素など何一つないが。まあ、辟易することもありはしたが、それも煉獄という男の要素でしかない。
「なんだそれは。……生きているうちに聞きたかったものだな!」
「言うわけないな」
 鬼がのさばっているうちにそのような浮かれたことを口にしようなどと、まして柱相手にそのようなことを吐露するはずがない。そもそも何の好意であるかを気づいたのはすべてが終わってからだし、炭治郎のおかげでようやく義勇は柱としての意識を持ったくらいだ。
「そうか。……しかし教えてくれていたら、生前のうちにきみの珍しい顔も見られたかもしれないだろう」
「………」
「実は初盆に帰ってきてたんだが、不死川たちと笑うきみを見てやはり驚いたものだ。――鬼がいなくなった後の冨岡がこれほど穏やかに笑うとは。しかも鱗を俺以外に見せただろう。狡いぞ!」
「……俺の友だ。炭治郎は不可抗力だが」
「それだ! 俺が見たのも不可抗力だった。少しばかり――いや、非常に羨ましいと思ったんだ。きみに友と呼ばれたいわけではないが悔しいぞ。……冨岡?」
 不思議そうな声音が義勇を呼んだがそれどころではなかった。起き上がっていたはずの上半身は布団の上にごろんとうつ伏せに寝転がり、まるで水の中を仰ぐように足をばたつかせた。
「………、……お前、……やっぱりそういうことなのか」
 耳が熱い。布団に顔を押しつけて悶えていると、気配など感じやしないのに小さく笑ったであろうことが何故か伝わってきた。
「もう少し鈍いのかと思ってたな! うん、今更だが俺はきみに懸想していた。でなければいくら何でも人払いしてる風呂に無理やり押し入ったりなどしないぞ。誰とも親しくしないと聞いていたが、裸の付き合いなら冨岡も話せるのではないかと……、きみはそんなふうに照れるんだなあ」
 掛け布団を巻き込んでごろんとまた一つ寝返りを打つ。
 言っておくがこんなに悶えるほど照れたのは初めてである。義勇自身ももんどり打ってしまうことがあるなど思ってもいなかった。
 死してなお義勇に残すものがあるとは。羞恥が治まりかけた頃、肺に鈍い痛みが走った。
「……痛むか」
 巻き込んだ掛け布団で顔は見えなくなったはずだが、呼吸の違いに煉獄は気づいたらしい。ちらりと目を向けると身体を一周する掛け布団の上から、背中を擦ろうと手を伸ばしたのが見えた。
 その手が義勇に触れることなどあり得るはずがないのに、ただのふりをする手から温もりが感じられるようだった。
「……生きていたら、また馬鹿にさせてやれたのに」
 呼吸が落ち着いた義勇は布団から顔を出し、未だそこにいる煉獄へと目を向けた。瞬いた瞬間消えてしまいそうな存在のはずなのに、彼は生前と同じ笑みを向けて佇んでいる。
「きみの次の人生にも遺伝してくれたらまた馬鹿になれる気がするな!」
「……その頃はもう出ない気がする。直系の男児全員に鱗が現れるわけじゃない」
「そうなのか」
 父は祖父の鱗を継いで生まれてこなかったし、その前はもっと昔だったとも聞いたことがあった。そもそももうこの先に受け継がれるかもわからないものだ。
「どこに遺伝するかなど誰にもわからん。それに、俺がどこの誰になるかも……」
「……そうか。では一つ頼みがある。無理をさせてすまないが、――今見せてもらえないか」
 窺うようにこちらを見て、だが好奇心は目から伝わってくる。死んでいるのにおかしな話だ。これほどに生気に溢れているのに、実体はそこにはない。傍から見れば義勇は今、一人でもんどり打って一人で苦しんでいる妙ちきりんな男でしかないのである。
「……聞かずともお前はいつも割と強引だろう……」
「そうだったかな!」
「ああ。でも、……俺はそれが嬉しかった」
 重い身体を持ち上げる。よろよろと障子に凭れ、庭先へと足を投げ出すように腰掛けた。枕元に置かれた桶を引っ張って足へと撒けば鱗は視界に現れる。広がっていく蒼の鱗は、初めて、綺麗だと煉獄に言われたものだ。
「お前のことが好きだったよ」
 死者からの頼みにこうして応えるくらいには。
 普通は老い先短い己の頼みを利いてくれるものではないのかと少し思ったりもするが、それは生きている者に頼むしかあるまい。おかしな話だ。錆兎は死してなお炭治郎を導いてくれたらしいのに、炎柱ともあろう者が。
 それとももう、誰かを導いた後なのかもしれないが。
「冨岡。――次の世でまた会おう。必ず同じ時代に人として生まれ落ち、今度こそきみと想いを遂げられるよう」
「……来世など……会うかもわからん」
「俺は探すぞ。会えたらどんな手を使ってもきみを振り向かせるだろうな! 今生は少し俺の時間が足りなかったようだが、こうして好きになってくれていたわけだし!」
 強引過ぎないか。義勇が義勇のまま次へと生まれたら、これもまた慣れるまで時間を要しそうだった。もし会えたら煉獄を嫌うはずがないから、そこだけは安心していいが。
「俺はその鱗を忘れない。……きみの鱗は何より綺麗だ。あの時伝えた言葉は偽りのない本心だった。願わくば次も鱗を持っていてくれ、必ず見つけ出してみせよう」
 頬に伸ばされた手がやはり熱を帯びている気がして、義勇は一つ瞬いた後に目を瞑った。煉獄だから実体などなくとも熱すら伝わるのかもしれない、なんて馬鹿なことを考えてしまった。目を開けると笑みを浮かべた煉獄は陽炎のように消えようとしていた。なんだ、こちらは何も応えていないのに言い逃げする気のようだ。炎柱ともあろう者が。
「お、今日は起きてんの、………、――迎えか?」
 襖を開けたのは宇髄だった。足音が聞こえていたから誰かが来たことは理解していたが、宇髄と会うのを避けたのだろうか。陽炎が目の前で消え去った後だというのに、宇髄は何を読み取ったのだろう。それも仲が良ければできる芸当なのだろうか。
「違うよ。恨み言を……言いに来た。わざわざご苦労なことだ。……ふふ、可愛げがある」
 桶が庭先に音を立てて転がっていくのを眺め、義勇は一つ息を吐いた。宇髄に抱えられて布団の上まで戻されてしまい、脚を手拭いで拭われてしまった。更に庭に落ちた桶まで拾いに行かれた。何と情けない。
「恨み言ねえ……煉獄か?」
「うん、よくわかったな」
「冨岡に恨み言はいくらも言いたい奴がいるだろうが、わざわざ言いに来るのは誰かって考えるとな。あと――お前が嬉しそうだし。なあお前さ、煉獄のこと好きだったろ?」
「言わない。また恨み言を言われるかもしれん」
「言ったも同然じゃねえか? つうか恨み言は向こうのことをばらしたからだろ、聞いてんのは冨岡のことなんだからいいじゃん」
 確かに。納得してしまった義勇は口を開いたが、何だか言いくるめられたのが少々癪だった。どうせばれているのだから言ってもいいのだが、何となく。
「まあ……、あいつを嫌いになるわけがない」
「誤魔化しやがって。まあいいさ、お前まだこっちにいんだろ? 凄えのんびりしてから逝けよ、やきもきさせてやろうぜ」
 一方的に約束したのは彼岸でのことではなく、次の生のことである。なので義勇が今すぐ向かおうが年寄りになるまで待たせようが文句を言われる筋合いはなかった。待ちぼうけを喰らうことには寛容なのかもしれない。
「来るまで雲があったもんだが。見事な快晴だぜ、あいつのおかげかね。ちいと贔屓が過ぎるんじゃねえか」
「代わりにということかもしれん……」
 鱗を見せろと言ってきたのだ。その対価として青々とした空を見せてくれたのかもしれないと義勇は考えた。日の呼吸は炭治郎が使うのに、と何となく納得はいかないが、煉獄の人となりはまるで快晴の空のようでもあった。
「何の代わりだよ」
「……恨み言を言うから内密にしておく」
 義勇が義勇であるうちは黙っておいてやることにした。
 見つけ出してみせると言ったのだ。来世で義勇が喋る前に、せいぜい見つけてみせてくれると良い。それまではこの口から煉獄に纏わる話は、密やかに仕舞っておくことにした。