人魚の余胤・夜明け前

 滞在していた藤の家紋の家で湯を貰っていた時のことだった。温かさについ気を抜いていたら、脱衣所から音がして颯爽と入ってきたのが煉獄だった。水柱が滞在中と聞いて参ったと溌剌と笑い、浴場の扉を容赦なく開け放ってきたのである。
 当時の義勇と煉獄は大した関わりもなく、煉獄が柱に就任してからさほど経ってもいなかった。柱になる前に合同任務で顔を合わせたことはあったが、夜だというのにまるで昼日中のような眩しさがあった。義勇には直視することも難しいほどの熱だった。
 広い湯船に挨拶をしてから入ってきた煉獄に、義勇は逃げ損ねたと少し困っていた。こうなれば彼が先に出ることを期待してその場に留まることを決めたのだが、煉獄は只管に義勇へ話しかけては朗らかに笑っていた。自分に向けられる顔が久しぶりに屈託のないものだった気がして、そんな彼の話を聞いていたくて、義勇の警戒も緩んでいったのである。すでに湯に浸かってからしばらく経っていた義勇は、湯あたりして倒れるまでその場に留まっていた。
 ぐったりした義勇に慌てた煉獄が抱えて運ぼうとしたのを制し、さっさと出て行けと口にしても彼は譲らなかった。長話をしたのは自分だと煉獄が。聞きたくて聞いたのは己であると義勇が。先輩柱の矜持があるやもしれぬが甘んじてほしいと煉獄が告げて、何だそれはと文句を言う隙もなく義勇を担いで脱衣所へと出ていった。
「見苦しいものを見せた」
「いや、柱といえど人だ! そういうこともある。そもそも俺が引き止めたのだしな」
 義勇が言及したのは湯あたりのことではなかったが、煉獄は充てがわれた部屋へ運び込まれて義勇が体を起こすまで、何も言わずに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。とはいえ脱衣所で身体を拭かれて浴衣まで着させされたのだから見えていなかったはずがない。風呂上がりならばまずそこに目が向かうほどのものを義勇は持っていた。
「それも手間をかけた」
「問題ないから大丈夫だ」
 逡巡するような気配があった。
 言わせるべきか、言うべきか。恐らく気にはしているのだろう煉獄は聞き難いのかもしれぬ、しかし彼とは何の関係もない義勇の身体のことなど伝えたところでそうかとしか返せぬ。何より義勇は自ら口を開くのは不得手だった故に、どうするのが正解かわからず委ねることしかできなかった。
「………。……脚の、痣のようなものが見えた。怪我とは違うものだ」
 意を決したように息を吸う音が聞こえ、煉獄は口火を切った。義勇を気遣うような声音と空気が伝わってくる。だがそれと同時に、義勇の勘違いでなければ知りたいという好奇心も伝わってくるようだった。
「そのとおりだ。怪我とは違う」
 怪我ではない。それは間違いない。水分に濡れてさえいなければ浮き上がることもないものなので、蝶屋敷の主人も知らないものである。煉獄が見たのは浮き上がった状態と、消えていくところだっただろう。
「生まれついてのものだ。遠い祖先に由来する」
 しかし、荒唐無稽なことを伝えて果たして煉獄は信じるだろうか。義勇の口が言葉を紡ぐことをさぼるようになったのは元々の素質もありはするが、姉の死因にも関係する。他人が信ずるに値する言葉を紡げなかったからということも原因だったと自覚していた。
「お館様の呪いのようなものか?」
「あの方と同列に扱うな」
 恐れ多い。産屋敷の呪いは命を苛むものであり、義勇のこれは見た目が珍獣のようなだけでそれほど不便なものではない。ただ見た者からは驚いて気味悪がられるだけである。
「それは、聞いてもいいものか? きみが問題なければ聞かせてほしい」
 何故だろう。
 確かに義勇は煉獄に自ら話すべきなのかを悩んだが、おいそれと伝えたいと思ったわけでもない。今回のように偶然見られでもしなければ誰にも教えることのないものだった。
 ああ、しかし。手を煩わせた理由が必要なのであれば確かに伝えなければならぬだろうと義勇は思い至った。
「脚に現れたのは鱗だ。俺の祖先は人魚であるらしく、その名残だ」
「………、………」
 普段は口角の上がった口がぽかんと開いていた。煉獄といえど驚きはするようで、開いた口はいつまでも塞がらなかった。いつ閉じるのかと眺めていたが、普段どおりの口が現れるまで幾ばくかの時間を要した。
「………、……成程!」
「無理して理解したふりをしなくてもいい」
「いや納得した! 確かにそのような気配がある」
 どんな気配だ。
 遠い祖先に人魚と番った代があったと教えられたのは物心ついた頃だった。風呂や川から上がった時にだけ現れる、脚の全体を覆い隠すような淡い蒼の鱗。渇けば肌色の姉と変わりのない脚へと元通りになる。生まれた時からそうだった。代を跨いで発現するのは隔世遺伝というのだったか、血を絶やすことなく連綿と受け継がれてきた冨岡家に時折あったらしい。亡き父にはなかったが、義勇が生まれる前にこの世を去った祖父にはあったとも聞いたことがある。
 番った人魚は雄だという話だったから、女には現れないのだとも聞いた。女の脚にあってはきっと傷物のように扱われてしまうから、それで良かったと義勇も思っていたものだ。別に、気味悪がられるだけで身体に影響はないわけだし。とはいえ子供心に悲しかったものだから、母方の親戚には隠すようにしていたので祖先のことは知られていない。
「しかし、気になることもいくつかある! 聞いてもいいだろうか?」
「……好きにしろ」
「ありがとう! 人魚の言い伝えといえば俺もいくつか聞いたことがあるが、肉を食うと不老不死になるとかいうのだ。そういう力はあるのか?」
「ない。副作用だけが残っている」
 どこにでも残っている言い伝えだ。かつて義勇がばらした相手もそんな話を持ち出してきていたことを思い出して胃の腑が落ち込んだ。だがまあ、言い伝えも馬鹿にはできないものだと義勇は知っている。
「副作用?」
「………。不老不死や怪我を治す代わりに起こる副作用だ」
 言い伝えどおりの力は義勇にはない。だが受け継がれてきた書物を読めば、遠い祖先にはあったのだろうことが察せられた。かつて人と番った人魚に不思議な力はあったのだ。
 肉を食えば不老不死、血を浴びれば怪我が治る。人魚自身も生命力が強く、首と胴を切り離されてようやく絶命するらしい。まるで鬼のようにも思えるが、搾取ばかりの鬼と生をもたらす人魚を同列に扱いたくはなかった。
 人魚と交わったのは遥か昔の一代だけであり、その人魚の子も鱗を持ってはいたが、人であったと書かれていた。早い段階で血は薄れていたのだと義勇も理解しているし、血肉も男にしか受け継がれないものだったと知っている。そうでなければ、首を喰い千切られる前に姉が死ぬはずがないのだ。
「ちなみにどんなものなんだ?」
 興味津々だな。
 ここまで煉獄の好奇心を擽るのは人魚という未知の生き物の血筋を持っているからなのはわかるが、それほど興味が湧くものか。意外と煉獄もおとぎ話のようなものが好きなのかもしれない、と妙な親近感を抱いてしまったくらいだった。
「試せばわかる」
 傍らに置かれた刀を鞘から少しだけ抜き、刃に指の腹を当てて滑らせる。指から赤い血が滴りそうになり、畳に落とさぬよう上向けた。手の甲に見つけた掠り傷に塗りつけてやろうと義勇が手を動かした時、煉獄は手首を掴んでそのまま口元に持っていった。
「………っ!? 舐める必要はない!」
「む。すまない」
 赤い液体を煉獄にべろりと舐め取られた事実に義勇は狼狽え、思わず手を振り払って声を荒げた。
 普通舐めるか。煉獄ほどの男なら他人の指を舐めることにも抵抗がないものか。いや夫婦や恋仲のような相手ならばあるのかもしれないが、単なる鬼殺隊に所属する隊士、しかも男の指である。友好的な煉獄ならそれも仲良くなる手段なのだろうか。ああ驚いた、などとようやく落ち着きが戻った頃に義勇は口を開いた。
「経口摂取でなくとも傷口から入ればいい。とにかく体内に入れることで起こる」
「………」
 存在感の大きい煉獄が今は大人しくなっている。眉根を寄せて義勇を訝しげに眺めていたが、そうなった理由は義勇の血である。これが己に作用していなくて本当に良かったと、鬼狩りになった当初は思ったものだった。
「さんたすよんは」
「えっ!?」
「さんたすよんだ。答えろ」
「………、ええ、と」
 眉根を寄せたまま煉獄はしばし落ち着きをなくし、やがて意を決したかのような様子で指折り数え始めた。大層複雑そうな顔を晒してから、ようやく煉獄は口を開いた。
「………、……な、なな……?」
「正解だ」
 非常に不安そうな声音がまさか煉獄からまろび出たとは俄には信じられぬ者ばかりだろうが、これは紛れもない事実であったし煉獄は何一つ悪くなかった。わざわざ義勇の血を経口から取り込んだ副作用。そう、祖先の薄まった血が作用した結果、煉獄は馬鹿になっているのであった。
「……祖先の人魚は……馬鹿だったと伝えられている」
 経口摂取という言葉も理解できなかったのだろうと義勇は察していた。今義勇が口にした言葉はわかったようだが、何やら複雑そうな顔をまた晒していた。
 要するに、人魚の血や肉は不老不死や怪我を治す代わりに馬鹿になる副作用があり、冨岡家の子孫である義勇はその副作用だけが血肉に残っている。薄れた血のおかげか、隔世遺伝していても義勇自身の地頭は一先ず馬鹿ではなかったことだけが救いだった。ただでさえ足を引っ張ることの多い義勇が更に頭も馬鹿であっては目も当てられない。
「微量であれば治まりも早い」
「びりょう?」
「……凄い少ない量の血ならすぐ治る」
「そうか!」
 すでに笑みを浮かべて馴染んでいるような気がするが気のせいだろうか。指の血などは大した量ではなかったし、食事を終える頃には治まっているだろうと当たりをつけた。
「今まで困ったことはあったか?」
「……昔は怪我を負って血がついてしまうことが多くて、隊士に被害があることもあったが」
「ひがい」
「……隊士に血がかかって血鬼術だと言われたことがある」
 たまたますでに血鬼術にかかっていた隊士だったおかげでそう処理された。それはそれで非常に納得などできようはずもないのだが、義勇が口出しなどするという思考には至らずそのまま報告を進められたのである。ばれるよりは良かったと思い直すことにしたものだった。
 しかし、馬鹿になった煉獄は会話に苦労しているようだった。自分がやってしまった手前謝るくらいしかできないのだが、しばらく時間を置くかと提案した。
「しばらくとは何分だ?」
「………。食事の後だ」
 ちょうど廊下から家人の声がかかり、一先ず腹を満たすことに集中することにしたのである。

 馬鹿から覚めた煉獄は顔を覆って項垂れており、旋毛を見下ろすと晒されている耳が少し赤かった。煉獄でも馬鹿になるのは恥ずかしかったようだ。申し訳ないことをした。謝ると大丈夫だと声がかけられた。
「晒したくないものを晒させてしまっただろう。すまなかった。きみはずっと先に出て行けと言っていたし」
 気味悪がるような目を向けられなかっただけで義勇としては有難いので、煉獄が馬鹿になることを許容できるなら別に構わなかった。ああ、舐められたことはどうかと思うが。
「代わりとなるかはわからないが、きみの秘密は俺の胸の内に納めておこう」
「……恩に着る」
「礼を言うのはこちらだ。珍しい体験をさせてもらったし、きみの鱗は綺麗だと思うぞ! 目を奪われてしまった。正しく水を思わせるものだし、――俺は好きだ」
「―――、」
 誰にも見せぬよう張っていた気がその言葉でほわりと緩んだような気分だった。
 そんな言葉をかけられては、義勇にとっては思い出すまいとしていた懐かしい顔が浮かんできてしまう。
「他に知る者は?」
「師だけだ」
「成程、そうか!」
 今はもう。
 狭霧山にいた頃、同じく修行を受けていた兄弟弟子に見られて隠そうとした時、あの時の彼は胸を張れと言ってくれたのを思い出した。それは個性だ、気味悪がられようと放っておけばいい、そんなことを気にするのは男ではない、などと無理やり奮い立たされたことを思い出した。
 お前の脚は格好良いのだと、兄弟弟子はそう言ってくれたのを思い出していた。脳裏に浮かぶ顔も、目の前にある笑顔も、今ばかりは淡く柔らかい感情ばかりが渦巻いていた。

*

「義勇さん、その、脚は」
 松葉杖をついて付き纏ってきた弟弟子は、本当に義勇から片時も離れなかったので苦肉の策であった。義勇より先に風呂には入れないと断る炭治郎を無理やり脱衣所につれていき、焦るのを無視して無理やり隊服を剥ぎ風呂に突っ込んだのである。早く風呂に入って寝てほしかった。
 素っ裸にした炭治郎と違い義勇は脚絆を外し、隊服を着たまま裾を捲り上げてふくらはぎまでを晒していたが、すでに沸いた風呂は湯気が立ち込めていたし、素早く出ていけば見間違い程度で済ませられると判断したのだ。
 しかし、炭治郎はひと筋縄ではいかなかった。服を剥いて風呂に突っ込めば諦めて身体でも洗うだろうと思ったのだが、踵を返して風呂場から出ようとするとは。溜息を吐いて義勇は桶を掴み、湯船から湯を掬って目の前に立つ炭治郎へとぶっかけた。そこまですればいい加減諦めて風呂に入るだろうと信じて。
 まあ、そこで思いきり脚にかかってしまったのは不覚ではあった。
「遺伝だ。忘れろ」
「遺伝って? 怪我ではないんですか? その、淡い蒼で、肌の色には到底見えなくて……」
 炭治郎に見せればお節介を焼くことは想定できたはずだった。現に今義勇は神妙な顔をした弟弟子に質問攻めにされようとしている。致し方なかったとはいえ失敗だった。
「………。風呂に入れ。そしたら話してやる」
 この四日間、付き纏う炭治郎の恐ろしさを肌で感じていた義勇としては、素直に話すのが一番であると理解していた。それに弟弟子なのだ、炭治郎に話すことは義勇とて苦痛ではない。師だって知っていることだ。
 湯船に浸かった炭治郎を見届け、義勇は風呂の戸に背を預けて口を開いた。
「これは鱗だ。水に濡れると浮き上がってくる。かつて人魚と番った先祖がいた」
 その血は薄れても未だ残り続ける。姉も死に、義勇も血を残すなどと考えたことはないから、人魚の血は遠く離れた父方の親族から繋げられていくのだろう。驚愕に目を見開いた炭治郎は固まっていた。
「体内に血が入ると馬鹿になるから触れるなよ」
「えっ? どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。不老不死や治癒の能力が人魚にはあったらしい。俺にそんなものはないが、副作用だけが残ってる」
 かつて煉獄に話したことをまた誰かに話すことになるとは思わなかった。勢いに任せて距離を詰めるのが炭治郎にも通ずるところがあったから、必然だったのかもしれない。きっと義勇は、煉獄や炭治郎のような者に弱いのだ。
「血肉を摂取すると馬鹿になる。戦闘中にそれは避けなければならん」
 これからの戦いでいつまで生き残れるかはわからない上、義勇の血で味方の頭が使い物にならなくなるなんてことは絶対に避けなければならないのだ。つくづく面倒な体質だった。いやまあ、鬼相手に効くならそれはそれでありかもしれないが、果たして無惨に効くだろうか。
「……試したことがあるんですか?」
「煉獄に試した」
「えっ!?」
「あと隊士にかかったこともある。血鬼術扱いされた」
 未だ根に持っているそれは絶好の隠れ蓑ではあったが、やはり納得はいかなかった。神妙な顔で頷く炭治郎を眺め、義勇は溜息を吐いた。
「煉獄に鱗がばれて……試したいというから血を摂取させた。そしたら――、煉獄は馬鹿になった」
「馬鹿に」
「一桁の足し算を苦労していた。難しい字がわからなかった」
 本人は恥ずかしがっていたから伝えるのは駄目だったかもしれないと今更思い至り、煉獄の馬鹿になった話は内緒にしてほしいと炭治郎に頼んだ。曖昧な笑みを見せたのが何に対してのものなのかわからなかったが、頷いたので良しとした。
「必要のない体質だ」
「そうですか……」
 真っ直ぐな目がじっと義勇へ向けられた。曝け出されるかのような視線だ。義勇はこの四日間、炭治郎のこの目が居たたまれなかった。
「……でも、鱗は綺麗です」
 だが、炭治郎自身はただ義勇を慮ってくれる。義勇自身がその目に苦手意識を持っていただけなのだ。内の内まで陽の下に引きずり出されるような感覚も、義勇自身が己を認められなかったから、そんなふうに捉えてしまっていたというだけだ。
「蒼い鱗が義勇さんらしくて、似合ってて、最初は驚きましたけど――俺は好きです」
「……何だそれは」
 彷彿とさせるのはあの炎だ。
 いつも人払いをして入浴していたはずなのに、義勇が止める隙もなく距離を詰めてきた。見られたのが煉獄で良かったと、大層安堵したのを覚えている。
 ――これからも俺以外は人払いをしておくよう頼む。
 元々そのつもりであったから、わざわざ頼むと口に出されたことに驚いたものだ。偶然知ったたかだか同僚の男の秘密を慮ってくれた。お前以外に強行してくる奴などいなかったと言えば、楽しそうに大笑いしていた。
 そんなことを言われたのを思い出して、炭治郎にはばれてしまったなあと独りごちた。だがまあ、義勇の弟弟子なのだ。煉獄も許してくれるだろうと思い直した。