最期の挨拶

「何だよ、動けねえって聞いてたのに元気そうじゃねえか」
 縁側へ顔を出した男が笑みを見せた。
 同僚だった当時全く笑みを見せることのなかった冨岡は、鬼がいなくなった後不死川と笑い合う場面まで見ることとなり関係者をそれはもう驚かせたものだった。鬼殺がなければ大層穏やかな本質を見ることができたのは、その後を生きた者しかいない。
「お前には感謝している」
「湿っぽいのは好きじゃねえんだが。もっと派手に楽しい話をしろよ」
 情けなく眉尻を下げたものの口元は弧を描き、冨岡はすまないと一言呟いた。
 余命がはっきりしているというのは有難くもあり寂しくもある。余生を精一杯楽しく過ごさせてやろうと宇髄は冨岡と不死川に甲斐甲斐しく世話を焼いていた。二人には家族ができていたものの、思うところがあるのか二人の伴侶も宇髄のお節介を咎めることなく受け入れていた。
 最近は伏せっていることが多いと聞いていたので、さすがにもうどこかに連れ出してやることはできないだろうと考えていたが、今日は調子が良いのか冨岡は一人歩いて宇髄家へとやってきていた。
「だがやはり、一言伝えておきたいと思ってな」
「要らねえって。お前に感謝されても嬉しかねえし」
「そう言うな。俺は言葉が足りなかったから、せめて生きていく者には伝えたい」
 死期を悟ったのか、冨岡はこれが最後だとでもいうような言葉を紡ぐ。
 そんな話を聞きたくて世話を焼いていたわけではない。もう一度静止の言葉をかけたものの、冨岡の口は閉じられなかった。
「不死川にも挨拶をしてきた。あいつも少し調子が悪いらしい」
「……ああ、行くなら言えよ、俺も見舞いに行こうと思ってたんだから」
 伏せっていたくせに、いつの間に行ったのか。女房が連れて行ったのだろうか。宇髄ならば冨岡一人抱えるくらいわけはないが、女の腕でこいつを連れて行くのは骨が折れただろう。まあ、蝶屋敷で療養した後から体力は落ちている上、体も以前より随分薄っぺらくなってしまっている。女でも支えられるほどなのかもしれない。
「まあ結局追い出されてしまったんだが……この後は炭治郎のところに行く」
「おいおい、何したんだよ。今頃追い出されるってお前。つうか今日行ったのか」
 隊士だった頃ならいざ知らず、今は友人とも呼べそうなほど仲は良好だったはずだ。言葉足らずで機嫌の悪い不死川の逆鱗にでも触れてしまったのか、馬鹿だなあ、と宇髄は笑った。
「宇髄、お前が俺に構ってくるのは義務のようなものもあっただろう。それでも俺は嬉しかった」
 縁側に腰を下ろした冨岡の横顔を眺める。
 義務。宇髄は最初こそ鬼殺隊の同僚だからという義務感を持って生き残った二人の柱の面倒を見てやろうと考えていた。腕や内臓を潰し余命宣告されている者が、天涯孤独であろう者たちが生きる気力を持てるのかと心配になった。宇髄が闘えなかった鬼舞辻無惨との死闘に勝利した二人を、柱としてともに在った宇髄は労ってやりたかった。感謝を伝えたかったのだ。
「お前はずっと引け目のようなものを感じていたな。何故お前のような者がそんなことを考えるのかと不思議だった」
「引け目ねえ。俺様が?」
 いつから気づいていたのだろう。生き残った引け目というものは皆感じていたものだろうと思う。冨岡などそのせいで長年葬式のような暗い奴になっていたわけだ。宇髄の心境が理解できるのではないのかと思うが、こいつの自己否定は筋金入りでもある。自分以外の柱だった誰かが同じ思考に至るなど、思いもよらなかったのだろう。
「俺はずっと生きているのが申し訳なかった。だが俺が生きて喜んでいた人も確かにいた」
 冨岡の育手の元柱である鱗滝は、弟子となった者たちを我が子のように思ってくれていたという。それを思い出すのが随分遅くなったと表情を翳らせた。
「引け目を感じて悲しむ者がいるんだ。お前はそんな寂しいことはしないだろう。俺と違って甲斐性がある」
「……あっ、何、慰めてんの?」
「そう聞こえなかったか」
 わかりにくいわ。一言指摘して冨岡の頭を小突く。穏やかになっていた顔が不貞腐れた表情を映し出す。
「まさかお前に慰められるとは。別に引け目なんか感じてねえよ。鬼舞辻との闘いに行けなかったのは俺の力不足、お前らには感謝しかしてねえって」
 穏やかな笑みが寂しそうに翳る。どうやら本音を引き出したいらしい。
 宇髄にとって感謝しているのも本音だ。それ以外は自分の問題であり、誰かに話すなどあり得ないことだった。弱みを見せたくないという理由も少しはあるが、宇髄にとって全てを曝け出すなど人生でしたことがない。人に言うようなことではないと思っているだけである。
「そうか、なら良い。俺もお前に感謝している。生きていてくれてありがとう」
「――はあ?」
「お前がここで生きていてくれて俺は救われた。随分楽しい余生だった」
「お、前、そういうことは女房に言ってやれよ」
 何とか言葉を絞り出し、宇髄は心中に渦巻く感情を抑え込んだ。言った、と一言口にした冨岡は、どうやらすでに伝えることは伴侶に伝えてあるらしい。話すことを嫌っていたとは思えないほど成長しているではないか。
「不死川にも言った。割と喜んでいた」
「ぶっ。あいつも感情駄々漏れだな」
 目頭の熱を誤魔化すように大袈裟に吹き出して笑えば、冨岡は楽しそうに宇髄を眺めていた。
 追い出されたと言っていたが、その前までは和やかに会話をしていたらしい。何をやらかしたのやら、と宇髄は楽しげに想像した。
「そろそろ向かわなければ間に合わん。ではな」
「……おう。お前、炭治郎ん家って一人で行くのか? 大丈夫なのかよ」
「ああ、問題ない」
 縁側から立ち上がり冨岡は宇髄を振り向いた。柔らかい笑みが満面に乗り、つられるように宇髄の口元も緩む。そのまま背を向けて玄関へと向かっていった。送ってやるべきか、と宇髄が草履に足を下ろそうとした時、慌てふためく足音とともに須磨の声が響いた。
「天元さま! 冨岡さんが、」
「冨岡ならさっき、」
 文らしき半紙を持って涙で滲ませた顔を見た宇髄の喉が息を呑み、口元を戦慄かせる須磨を凝視した。縁側に置いてある草履を乱暴に突っかけて、冨岡が向かった玄関へと走った。
 今頃になって気づくとは。何故気づかなかったのだろう。伏せっている冨岡の見舞いに行ったこともあったはずなのに、歩けるはずがなかったのに。冨岡の体調に関してのみ深く考えるのをせき止められていたような、今になってどんどん疑問が湧いてきた。あいつ、何かしてやがったか、元忍を謀るとは恐れ知らずな奴だ。玄関を飛び出して早々に通行人とぶつかり、適当な謝罪を口にして宇髄は体勢を立て直して走ろうとした。
「宇髄!」
「おっ……不死川! 今急いでんだよ、冨岡ん家に、」
 言葉の途中で足を止め、調子が悪いと言っていた不死川の姿を振り返り近寄った。強面が忌々しげに歪むのを久しぶりに見た宇髄は、一旦不死川の頬を思いきり抓りあげた。
「何しやがる!」
「……いや、意味ねえな。さっき触れたもん」
 敷地内から須磨が慌てて追いかけてくる音がし、不審そうにしていた不死川の顔が翳るのが見えた。
「……追い出したんだって?」
「たりめェだろォ。何で冨岡なんざ家に入れなきゃなんねェんだよ。あんなしみったれた状態の奴……」
「しみったれた、ね……まあそうだよな。いやでもあんなん生身だと思うじゃん。生きてるうちに挨拶に来いよな。追い返してやったのに」
 溜息を吐いて砂利を蹴飛ばしながら足を動かした。不死川も冨岡の家に宇髄を連れていくために来たのだろう、調子の出ない体を動かして歩き始める。俯いた先にある地面が揺らめいていた。先程とは違う理由で目頭に熱が篭り始める。
 きっと生きているうちに別れの挨拶などされても突っぱねてしまうだろうから、冨岡は今頃言いに来たのだろう。そんな気遣いなどしていないで、一分でも長く生きるために体を使えというのだ。
「……あー、もう。お前、長生きしろよ……」
「……無茶言うなァ」
 蝶屋敷の連中と仲良くしとけよ、と呟いた不死川に、お前らに生きていてほしいんだよ、と宇髄は涙声で呟いた。

*

 鴉の足に括り付けられた文を握り締め、善逸の顔から色が消えた。
 禰豆子に対して色んな贈り物をしてくる男を好きにはなれなかったけれど、いなくなってほしいなんて思ったことはない。炭治郎と禰豆子の恩人であることは善逸だって良く知っていた。
 早く教えてやらなければ。そう思うのに足が動かなかった。数年前まで生死を賭けた闘いに身を投じていたし、仲間がどんどんいなくなることだってあった。二度と会えないと知ったこの感覚だけは、いつまで経っても慣れることがなかった。
 無理やり足を動かして竈門家へと向かう。己の口から伝えなければならない事実に胃の腑が重く感じる。何て重い足なのだろう。
「もう少し待ってくれないか」
 背後から聞こえた声に驚いて振り向くと、少年が一人立っていた。
 この辺りでは見ない顔だ。誰、と呟きながら眉を顰めるが、少年は問いには答えず文を指した。
「最後にきちんと挨拶をさせてやりたい」
 善逸の持つ文に何が書いてあるのかを知っているような口ぶりで少年は言う。
 見ず知らずの子供に引き止められて善逸はどうしていいか迷ってしまった。伝えるのは骨が折れるけれど、早く教えてやらなければならないというのに、少年は善逸が家に入るのを邪魔してくる。一体何だというのだ。
「挨拶って何だよ、わかんねえよ。冨岡さんがここにいるわけないだろ。あの人の音なんか聞こえない、」
 言葉の途中で善逸は息を呑んだ。己の耳に彼の音が聞こえないのは確かだが、目の前の少年からも音がしなかった。その事実は善逸の口から反射的にひ、と短く悲鳴を漏らしたものの、善逸は少年を怖いとは感じていなかった。
「お前誰なの。な、何者? 俺は耳が良いんだ。お前から音しないんだけど」
 成程、と一言口にして、少年の顔が少し柔らかく緩んだ。これほど近くにいるのに生きている音が聞こえない。認めたくはないけれど、善逸は今人ならざる者と対峙しているらしい。
「お前の考えているとおりの存在だ」
「ひいっ! や、やっぱりお化け!」
「鬼狩りの癖に何だその情けない悲鳴は」
「いや、いやいや! 鬼狩りなんてだいぶ前に辞めてるし、そもそも俺は怖がりなんだよ!」
 怯える善逸に呆れた顔をして、少年は溜息を吐いている。何とも人間味のあるお化けだ。音が聞こえないだけで話も通じるおかげか、お化けという存在に驚いたものの何とか逃げ出さずに済んでいる。
「挨拶って、やっぱり冨岡さん、いるの。ここに」
「ああ。今話している」
 炭治郎と禰豆子と、居合わせたもう一人の同居人に。今までの態度を考えると善逸にないのは仕方ないとも思うけれど、ほんの少しだけ寂しくなった。
「で、でも、炭治郎も伊之助もすぐ気づくよ。音がしないなら気配も匂いもないんだ」
「わかっている。それでも、言葉にさせてやりたいんだ。お前にも」
「へ。俺、は……ないんじゃないかな。今ここにいるし、冨岡さんとは別に……仲良くなかったし」
 善逸の頑なな態度が原因でもあったが、禰豆子のことがあり彼を全く好きになれなかった。礼だと言っては何くれと高価な贈り物をして禰豆子たちを困らせていた。こちらが礼を言う立場なのに、と炭治郎が言っていたのを覚えている。所帯を持った人であることも知っているし、禰豆子に対して邪な思いがないとは聞いていたものの、いつか恋敵になってしまうのではないかと不安になっていたのだ。
「そんなことはない。あいつはお前のことも好きだった」
 波紋の広がりすらない静穏な音は、鬼殺隊が解散した後は更に穏やかな音を鳴らしていた。炭治郎たちといる時は普段よりも嬉しそうな音を鳴らす。伊之助が騒いでも善逸が威嚇していても、彼の音は喜色を滲ませたまま変わらなかったことを思い出した。
「報せを受け取る前にお前にも言わせてやりたかったが」
「……入ったらどうなるの。消えちゃうのか」
「さあな。俺にはわからない」
 何せ此岸にまだ未練があるのだと少年は言った。彼を迎えに来たわけではないのかと善逸はぼんやりと不思議なことを考える。同時に彼には未練がないのかとも。
「できるだけ好きにさせてやりたい。あいつはずっと闘っていた。俺にできなかったことをしていたから」
 彼とどのような関係だったのか、善逸には推し量ることしかできない。肉体を持たず未練が他にありながら、少年は彼を気にかけている。少年の身に纏う着物の柄に見覚えがあった。鬼殺隊の柱であった彼がずっと纏っていたもの。禰豆子が繕い直した羽織。彼が禰豆子に贈り物をする理由になった、片身替わりの半分の柄。
「我妻」
 少年とは反対側から声がかかり、善逸は肩を震わせた。振り向いてしまったら消えてしまうのではないかと迷い、音のしない背後にいるはずの彼と目を合わせるのを躊躇した。
 少し視線を地面に落とした隙に、目の前にいたはずの少年の姿がなくなっている。
「世話になった。禰豆子と元気でいてくれ」
 唇を噛み締めて善逸は俯いた。こんな挨拶をされるような関係ではなかったはずだ。気に食わない男の穏やかな声がどうにも涙腺を刺激するが、癪に感じて善逸は涙を我慢した。
「い、言われなくても、仲良くします。凄え元気に長生きしますから」
「そうか」
 嬉しそうな声音で相槌を打つのが聞こえ、善逸は振り返った。良く見るようになった笑みを浮かべて善逸を眺めている彼の姿に、善逸の眉が情けなく下がる。
「……宍色の髪の、子供。知り合いですよね。今の今までいたんですけど」
 穏やかに細められた目が丸くなる。遠くの空へと馳せるように視線を向けながら、もう一度そうかと呟いた。
「まだ会えないようだ。きっと先生の元にいるのだろう」
 同じ存在になってもまだ会えないと言う。良いのか悪いのかわからないが、彼の表情は穏やかなままだった。
 先生というのは、彼と炭治郎の師である鱗滝のことだ。あの少年は鱗滝の知り合い、同門の弟子だったのだろうと推測した。
「まあ、仕方ない。俺は先に彼岸に行っている」
「……早すぎるんじゃないですか」
「そうでもない。充分謳歌したと思う」
 お前は曾孫までその目で見てからこちらへ来い。そう口にしてまた笑った。家の奥から啜り泣く声が聞こえてくる。一等優しい音が悲しみに暮れているのがわかった。視線を外した一瞬のうちに姿が消えていて、逃げるように消えた二人の様子に似た者同士かと心中で毒吐きながら、やはり好きになれないと善逸は感じていた。
 こんなに皆悲しんでいるのに、少しも待ってくれないのだから。

*

 姉の姿に以前ならばきっと泣いて縋っていただろう。此岸に心残りがないといえば嘘にはなるが、何の心配もしていないことは確かである。残してきた同じ痣者の元柱をほんの少しだけ脳裏に浮かべたが、伴侶が最期まで面倒を見るのだろうし、宇髄もいる。できるだけ遅い再会になると良い。
 笑みを浮かべて頬に添えられた姉の手に義勇の手を這わせ、唇に弧を描かせて目を瞑った。記憶の通りの優しい笑顔に何から話せば良いのかと考える。ちゃんと見ていたと笑う姉は、義勇が短い生を全うしたことを誇らしく思うと伝えてくれた。身を屈ませ額を合わせてお疲れ様と発した言葉に、義勇はただうん、と頷いた。
 随分穏やかになった、別人だ、謳歌したようで何より、と周囲から声が響いた。ふと顔を上げるとかつての同僚が微笑ましげに、あるいは顔を顰めて義勇と姉の周りに立っていた。
 自分の至らなさで迷惑ばかりをかけていたが、彼らは出迎えてもくれたようだ。感謝を伝えつつ笑みを向けると、彼らもそれなりに笑みを返してくれた。
 背中をつつく感触に義勇は姉から少し離れ背後へ視線を向けた。ひと際小さい影が義勇の視界に現れる。覚えのある行動に懐かしさを感じて先程から笑みが収まらなかった。
 ――随分表情筋が動くようになられて。
 義勇を見上げる目が優しげに細められた。そのあと視線を逸らしてつまらなそうに唇を尖らせた。
 ――楽しかったようですね、……夫婦生活は。
「……そうだな。宇髄にも良くしてもらった」
 もう一度視線を上げて義勇の顔を見つめ、良かったと一言呟いた。義勇の余生に死してなお気にかけてくれていたらしい。わざわざ待っていたと口にするので、さっさと輪廻の輪に戻るほうが良いのではないかと思ったが、確認することがあったのだと言う。
 ――先に来世に行ってしまっては、約束を守ってくれるかわかりませんから。
「……今の俺に聞くのか。家内がいるんだが」
 何かを察した姉の表情が驚いたように義勇を見つめ、後ろにいる影にも目を向けられた。
 少し翳った表情は俯きかけたがすぐに顔を上げ、義勇へと笑みを向ける。
 ――ええ。今回他の方にお譲りしましたから、今のうちに確認しておかないと安心して生まれ変われないでしょう。
 そういうものか、と呟くと、鸚鵡返しのようにそういうものです、と口にした。
 来世の話など鬼殺に身を置いていた時の未来の話よりも曖昧なものだ。
 ――ちゃんと来世で巡り合って、私と恋をしていただかないと。
 今ここで頷いて約束をしたとしても、果たされるかどうかなど義勇にはわからない。誰一人としてわからないことだった。約束を覚えている確証もなく、更には同じ時代に生を受けるかもわからない。それは会話をした当時からわかりきっていることだった。
「……努力する」
 ――ふふ、どうやってですか。まあ良いです、約束ですよ。ちゃんと見つけてくださいね。私も……頑張って探しますから。
 初めて恋をする相手は、貴方が良いですから。
 生きていた頃と同じようで初めて見るようにも思えた笑みは、義勇の動かないはずの心臓が揺らされたように感じられた。