瓜二つ

 ぐちゃぐちゃだ。
 数えるほどしか会うことのなかった友人の兄弟子は、心音は常に波紋すら起きない静けさを保っていたはずだった。彼のことなど友人を介してでしか知らないわけだが、それでも今の彼が発している音が異常であることはすぐにわかった。
 まるで何か見たくもないものを目の当たりにしたかのような。
 それでも表情はいつも通り何を考えているのかすら読めないまま、冨岡義勇は足早に善逸と逆方向へ去って行った。
 一体どうしたというのだろう。友人がにこやかに彼の話をしてくるおかげで、興味などなかったはずなのにどことなく心配するような感情が湧き上がってくる。何か感情を乱されるようなことがあった後は、善逸の友人とは会っていないのだろうと予想した。
 善逸の友人である竈門炭治郎はお節介である。鼻が良いからすぐに冨岡の異常にも気がつくだろうし、あの世話焼きが様子のおかしい兄弟子を放っておくはずがない。冨岡自身が炭治郎を拒絶することもあり得るかも知れないが、何せめげないやつだ。兄弟子を追いかける姿を目撃しても不思議はない。
 まあ、しかし。善逸がつらつらと考えているのも大きなお世話であろうと結論づけた。どれ程取り乱した音が聞こえようと、相手は善逸よりも歳上の、すでに成人した男性である。自分と似たところなどあるはずも無い鬼殺隊の柱の一角だ。私的なことを邪推するなど失礼だし、きっと自分でどうにかするのだろうと善逸は考えた。

*

「女の人と歩いているところを見かけたんです」
 蝶屋敷の三人娘の一人、すみがカステラを頬張りながら口にした。
 一緒に如何ですか、と声を掛けられたので大人しく卓を囲みカステラにかぶりついた時のことだった。
「誰のこと?」
「水柱様です」
 涼しげな目元の美丈夫だ。女の一人や二人囲っていたとしても不思議はない。歯軋りしたくなるほど羨ましい話だが、彼を知る弟弟子などは驚いたかも知れない。音柱などは所帯を持っているのだし、別段おかしなことはないはずだった。
「そういう相手なんじゃないの?」
 人となりを知っている友人から聞く話には、特定の女性がいるような素振りは善逸にもなかったように思えたが、静かで落ち着いた人だから、誰にもそんな話をしていなかっただけなのではないか、と善逸が言う。少女の表情が少しだけ曇る。
「女の人に冷たくしているような感じで」
「ふうん。冨岡さんって無口だっていう話だし、鬼殺隊なんてやってるとねえ……俺だったら喜んでお相手するけど」
「あ! そうか、それで冷たかったんだ」
 いつも無口であれど、礼はきちんと口にしてくれるのだと三人娘が揃って言葉にした。幼い子供には優しいのかも知れない。善逸には関係のない話ではあるが。
 納得したすみはすぐさま別のものへと話題が移ろっていく。どうやら世間話の一環として話を振ったようだった。
 ふと、少し前に耳にしたぐちゃぐちゃの心音を思い出す。
 もしかしたら、あの時の音と何か関係しているのかも知れない。どう繋がるのかはわからないけれど、善逸はぼんやりと考えていた。

*

 何度か話題を聞いていたせいか、はたまたただの偶然か、善逸は恐ろしく静かな男と任務を共にすることになってしまった。
 現場は小さな集落だった。住人が消え、捜索の為に近隣の林に行くと死体が放置されているのを見つけたらしい。人が手に掛けて殺したとは思えないような、何かに噛み千切られたような傷口。頭の部分は比較的無事だが、胴体や手足は付近にないこともあり、腹を空かせた熊でも出たのかと住人たちは怯えていた。集落の老人などは鬼に喰われたのだと言って憚らぬそうで、子供が怯えて生活もままならないのだと言った。帯刀している余所者二人を集落の若い男は不審そうに見つめて帰らせようとしたのだが、老人に止められ渋々迎え入れてくれた。
 集落へと足を踏み入れたは良いが、冨岡は若い男と老人のいる家に入ることはなかった。死体を作り出した原因を仕留めに来たのだと言い、踵を返して林へと足を向かわせた。柱を差し置いて一人厄介になるわけにもいかず、善逸は後ろ髪引かれる思いで冨岡の後を追った。
 話すらしたことのない男との共同任務。鬼に一人で立ち向かうよりはよほど良いとは思うが、善逸が一人喚いているとたった一言呟かれる。五月蝿い。静かではあるが良く通る声だった。怯えたように口元を手で覆い隠して黙り込んだ。一人の任務は嫌だがこの人も怖い。だが、彼の様子が少しだけいつもと違うような気がした。
 淀みなく動く足元を眺めながら、善逸はぼんやり気づいたことを口にした。
「道知ってるんですか?」
 そこかしこに浮き出る樹の根を跨ぎながら冨岡は進み続けた。枯れかけた葉を踏み鳴らす。問いかけたつもりだったのだが、冨岡に答えるつもりはないように感じた。せめて少しでも打ち解けられないかと思ったのだが、二人でいるのに一人ぼっちの気分だった。
「二度目だ」
 心中で溜息を吐いていたら男の声が聞こえてきた。前を歩く冨岡の声だ。驚いたものの善逸はまたも問いかける。
「え、二度目って、ここに来るのが? 鬼がいたんですか?」
「一度目は集落には寄らなかったが、鬼はこの林に潜んでいた」
 柱である冨岡が行ったのだから、一度目も鬼の頸は斬り落としていたはずだ。また別の鬼が住処とし出したのだろうが、狙われやすい場所というものがあるのだろうか。
「この林がおびき寄せるとか……ないですよね?」
 視線を善逸に向けたものの、冨岡は何も言わなかった。せめて何か言ってほしかったが、彼の言葉に余計に竦み上がるようなことになりそうだった。
「ヒッ」
 集落の方面から足音が聞こえた。冨岡にはまだ聞こえていないようで、少し善逸を気にしたかと思えばまた前を向いてしまった。
「だ、誰か林に入って来てる」
 足を止めて振り向き、冨岡は眉を顰めて善逸を見た。耳が良いことを伝えようと口を開きかけた時、納得したようにそうか、と呟いた。
 どうやら善逸の友人であり彼の弟弟子である炭治郎から聞いていたのだろう。善逸の耳を信用に足ると判断したのか、どんな足音だと問われる。
 大人の男ではない。子供か女性の足音だと伝えると、何やら少し考えたあとに、善逸に向かって口を開いた。
「先に行く。集落へ送って来い」
 侵入者を見つけて来いということだろう。夜の帳、消えるように移動した冨岡がいた場所を呆然と見つめて、人気のない林に一人残された善逸は弱々しい悲鳴を漏らした。
 曲がりなりにも鬼殺の隊士である善逸に、侵入者の保護を命じるのは当たり前のことだろう。これが炭治郎ならば元気良く返事をして言うことを聞いたのだろうが、生憎善逸は自他共に認める怖がりであった。暫くその場で立ち竦んだ後、とぼとぼと足音の方向へと歩いて行く。口からは恨み言が零れ落ちていた。

「きゃあ!」
 聞こえた足音が近くなった時、耳が悲鳴を拾った。女の声だった。思わず駆け出した善逸の目に、若い女性が頭に葉を複数乗せて肩を抱いていた。どうやら頭上の枝が揺れて葉が落ちてきたようだった。
「集落の人ですか?」
 先程までの恨み言など忘れたかのように善逸は笑顔を見せた。こちらを窺いながら女性が返事をした。
「はい。あなたは鬼狩り様ですか」
「そうです! あ、いや、熊退治に来ました」
 鬼の存在は周知されていない。言い伝えのように老人などは鬼がいるのだと口にすることもあるが、若い人間は鬼の存在など信じていない者が多かった。聞かれてつい肯定してしまったが、目の当たりにした者しか鬼を信じることはあまりなかった。
 女性は口元に手を当てて含み笑いをした。
「熊じゃないんでしょう? 以前鬼を退治してくれた方と似た服を着ているし」
 善逸よりも少し歳上の美しい女性だった。柔らかい笑みを見せた後、前にこの林で鬼に喰われかけたことがあるのだと言った。冨岡が言っていた一度目のことだろう。
「ならここが危険なことは知っていますよね。送りますから戻りましょう」
「はい。すみません……あの、ここへはあなただけが来られたんでしょうか」
 耳が捉えたのは何度も聞いたことのある音だった。善逸が幾度となく欲しがった音。誰かを淡く慕う音が女性から聞こえる。憧れの音にも似ていた。
 鈍感ではない善逸は理解した。
 一度目にこの林で鬼に襲われたこの女性を冨岡は助けたのだろう。見目の良い男が得体のしれぬ異形から自分を助けてくれたことは、乙女には言い表せぬほどの感情が渦巻いたのではないか。二度と会うこともないだろうと思っていたら、惨い死体が林に現れた。鬼の仕業かも知れないと集落の老人は言って憚らなかったそうだから、誰かから余所者の話を聞いて、居ても立っても居られずここまで追ってきた。そんな想像をしてみたが、あながち間違ってはいないのではないだろうか。
 だが恐らく冨岡は彼女から逃げた。慕う気持ちに気づいていたのだろうか。こんな綺麗な人を避けるなんて、善逸からすれば信じられないことだ。
 羽音と共に鴉の鳴き声が聞こえた。びくりと肩を震わせた女性を無事に送り届けるために、善逸は会話を切り上げて背中を押す。
「とにかく、ここは危険ですから家に帰りましょう」
「……はい」

 大きな布が地面へと広げられており、布は不自然に盛り上がっている箇所があった。音を立てて布を持ち上げると、死後数日経ち蝿が集り始めた死体が目に入った。
 腕や脚は噛み千切られ、はらわたは千切れた状態で飛び出ている。首だけは綺麗な切り口ではあったが、切り離された際に胴体から離れた位置まで転がったらしく、顔には砂利が付着していた。
 鬼が喰い荒らした後だった。手を合わせて布を被せ直した。
 任務を言い渡された時は、ここへはできれば別の人間に向かってほしかった。以前この林で女性を助けたことがあり、女性は己の心を存分にかき乱した。修行が足りないのだ。あのような姿に惑わされるなど、別人であるはずなのに。
 樹の根に腰を下ろし、鬼の気配を待つ。とっぷりと暗くなってから暫く経っているが、林の中は静かだった。共に任務に当たる我妻善逸も待たなければならない。女に滅法弱いのだと弟弟子は嘆いていたが、言い換えれば優しく、いざという時は頼りになるのだとも言っていた。恐らく善逸が聞いた足音はあの女だろうと確信して向かわせたのだが、ごねるようならばともに集落で待つよう伝えておくのを忘れていた。
 あの夜、鬼が人に喰らいつく既のところで頸を斬り落とし、背に匿った娘の顔を見た時、冨岡の表情は驚愕の色を乗せた。
 忘れられるはずのない、もう会えない者に良く似ていた。
 その顔に感謝以外の感情を滲ませていることに気づき、冨岡は苦しげに目を細めた。
 娘に落ち度はなく、すべて自分自身のせいだった。何年も前のことをずっと引き摺っている己には、到底耐えきれるものではなかった。
 護れなかった姉に似た顔が、己に思慕の感情を向けてくるなど。

 集落に着く頃には家の明かりも消え始めており、女性を送り届けて善逸が冨岡の元に戻った時には、既に足元に鬼の頸が転がっていた。集落を往復しているうちに鬼が出たことに気づいて、怖がりながらも音の方向へ急いで来たのだ。近づいた時には片が付いていたらしく、戦わなくて済んだ善逸は柱である冨岡の存在に大層感謝し、心の底から安堵の息を吐いた。
 鞘に収める刀の音が小さく鳴る。崩れ落ちて行く鬼を放置し、仕事は済んだとばかりに冨岡は歩き出した。
「集落に異変はなかったか」
「あ、はい、たぶん……」
 鬼の音も林から聴き取れた一体だけだったはずだ。夜の間に何処かからやって来る可能性はあるが、今はその気配もない。夜はまだ長く、陽が差してくるまでまだ林中を見回る必要はある。
 善逸の耳を信用してくれているらしい冨岡は、そうかと呟いて先を歩く。これが炭治郎であれば羽織の裾を掴んで怖さを和らげるところだが、何を考えているのかわからない冨岡の裾を掴むのは勇気がいる。怖い怖いと怯えながら善逸は後ろをついて歩く。女性が気にしていたことを思い出し、恐る恐る善逸は口を開いた。
「あの、さっき送った娘さんが、鬼殺隊の誰かを探してるみたいだったんですけど……他に鬼狩りは来ていないのかと」
 送り届ける道すがら、女性は以前鬼狩りに助けられたことを話した。それは善逸が予想したような内容で、鬼狩りの特徴は冨岡に当てはまっていた。伸ばした髪を一つに結び、片身替わりの羽織を纏っていたと言った。目の前の男以外に当てはまる者を善逸は知らない。
 冨岡が女性を避けていると予想した善逸は、お節介と自覚しながらも彼女のことを思うと伝える他に選択肢はなかった。世の女性はすべからく大事にすべき対象だと善逸は思っている。暫し冨岡は黙ったままだった。
「夜明けが来たらお前一人で集落へ戻れ」
「えっ、で、でも、娘さんは」
「俺には関係ない」
 にべもない言い草に善逸は憤る。これだから色男は嫌いだ。女性の気持ちを思いやるということがない。鬼殺隊なんて仕事をしていて、一般隊士よりも忙しい柱ともなれば、色事に現を抜かしている場合ではないのかも知れないが。
 好意はともかく、礼を言いたいだけなのかも知れないのに、話くらいしてやっても良いのではないだろうか。
 それとも女嫌いなのかも知れない、と善逸は考えた。己にとって天地がひっくり返っても理解できないが、女性を苦手とする者が一定数いることを以前学んだことがある。女を嫌うなど、この世の九割を損していると、善逸は同情の目を向けた者がいたことを思い出した。ひょっとしたら冨岡もそうなのかも知れない。

 林中をぐるりと一周し、集落のほど近くに戻って来た。耳を澄ませても異変はなさそうだと安堵した瞬間、善逸はびくりと肩を震わせた。同時に冨岡が刀に手をかける。
「見つけた、見つけた」
 耳障りな笑い声を上げ、人間の姿をした鬼がこちらへ引き寄せられるように現れた。お前だよ、と冨岡を指す。
「よくも兄弟を殺してくれたな」
 美味そうな女を捕まえて二人で喰うはずだったのに。忌々しげな声音で鬼は言う。先程冨岡が斬り崩れかかっていた鬼の胴体は、目の前の鬼とは姿も形も違っている。冨岡がここへ来た一度目に殺した鬼のことだろう。鬼の裾から尾のようなものが地面を擦り、引き摺るような音が響く。長い尾の先がとぐろを巻き、ずるりと目の前へ持ってきた。口元から上半身まで尾に拘束されて、先程集落へ送った女性が捕まっていた。
 じわりと冨岡の音が変わる。憤りのような困惑したような、諦観したような音が綯い交ぜになっている。何を思った音なのか、善逸は判別がつかなかった。
「お前が邪魔をしたせいで、俺の半身が死んでしまった」
 弔いに喰いそこねた女を喰いに来たのだと鬼が言う。小さな家の窓から女性が外を見ていたのが見え、女性を餌に冨岡をおびき寄せるつもりで待っていたのだと続けた。
「ちゃんと死にに来てくれて時間を無駄にせずに済んだ。惨たらしく殺してやる。妙な動きは見せるなよ」
 にやにやと笑う鬼は女性へ手を伸ばし、髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。苦しそうに顔を歪めた女性の目から涙が溢れる。
「お、女の子に乱暴するなよ!」
「教えてやろうな。脳に恐怖を与えると美味くなるんだよ」
 善逸の顔色が青く染まる。恐怖を刻み込めば刻み込むほど喰った時の味が変わる。それ以外口にできなくなるほどの美味さだと。聞きたくもない言葉を楽しそうに続けた。逃げ出したくなるほど詳細に語る人の喰い方。善逸は吐き気を覚えた。
「動くなと言っただろう!」
 黙っていた冨岡が右手を動かした時、鬼は即座に反応した。隠していたらしいもう一本の尾が飛び出して来て、二人に向かって振り下ろされる。言葉にならない叫びを上げながら善逸の意識が飛びそうになった時、鬼の短い悲鳴とともに大きな物が地面へ叩きつけられる音がした。攻撃を仕掛けてきたはずの尾が綺麗に斬り離され蠢いている。下ろした右手には刀が抜かれていた。
「貴様ァ!」
 怒っている音がする。涼し気な顔は普段見かける時と変わらないけれど、音は静かに怒りを滲ませていた。静かな人は怒りも静かなんだなあ。逃避するかのように善逸は考えた。
 型を使うまでもなく、冨岡は平然と二本目の尾を斬り離した。鬼の叫び声が木霊し、木々が風に揺れた。
「鬼狩り風情が……!」
 尾に締め付けられて苦しげに顔を顰めている女性を何とか抱えて助け出し、蠢く尾から女性を庇うように距離を取った。
「殺し、」
 鬼が言葉を言い切る前に冨岡は刀を一閃し、地面へ勢い良く頸が叩きつけられる。悍ましい断末魔が響き、共鳴するかのように木々が大きく揺れた。
「……五月蝿い」
 見下してきた冨岡の視線は、鬼にとって言い知れぬほどの恐怖だったのではないだろうか。音など聞こえずとも少し離れた位置から背中を眺めているだけで、腹のうちが煮えくり返りそうな怒りを孕んでいることがわかったのだから。
 砂のように崩れていく鬼の頸が、最後の足掻きとばかりに喚き始めた。
「呪ってやる……! 貴様の気配を覚えたぞ、末代まで呪ってやる! よくもよくも」
「鬼の呪いなど瑣末なものだ」
「何だと……目にもの見せてやる! どれほどかかろうと必ず貴様を殺してやる」
 放っておけば灰になる鬼の転がる頸を脳天から串刺しにした。
「手当てをしてやれ」
 刀を腰に戻し冨岡は善逸へ指示をした。引き摺られたせいか小袖が破れ右腕が露出し、痛々しい怪我が見えていた。女性の柔らかそうな腕と痛そうな怪我に善逸は複雑な表情をしながら、懐から水と軟膏を取り出した。
「じき夜が明ける。朝日が見えるまで集落にいろ」
「あ、あの! ありがとうございます、二度も助けてくださって」
 背中を見せ林へと戻ろうとした足が止まった。
 怒りしかなかった冨岡の音はいつの間にか安堵した音が鳴っている。女性が生きていることに安心したようだが、相変わらず避けようとする素振りを見せる。何なのだろうか、この複雑な音は。何を考えてこんなに雁字搦めになっているのだろう。
「二度とお会い出来ないかと思っていました。どうかお礼をさせてください」
「仕事ですから必要ありません」
 泣きそうな表情のまま唇を噛んで俯いた女性の申し出に、冨岡は振り返ることすらせず断った。善逸は思わず口を挟みたい気分になったが、冨岡の音を聞いていると何も言えなくなってしまった。雁字搦めから落ち着き始めたいつもの静かな音の中に、深い悲しみの音が聞こえた。
「そう、ですか……すみません、ご無理を言って引き留めてしまい」
「……いえ」
「ではせめて、お名前を教えていただけませんか」
 諦めたのか冨岡は少しだけ女性へと体を振り向かせ、愛想の欠片もない口元を少し歪ませた。やがて冨岡の口が声を発する。
「……冨岡義勇」
「冨岡、義勇……さん」
 女性が名前を反芻した時、冨岡はまた違う音を鳴らした。今まで一度も聞かなかった、嬉しさを感じた時の音。深い悲しみの中にほんの薄っすらと滲んだその音には、善逸には計り知れない感情が渦巻いているのだろう。
「ありがとうございました。この御恩は一生忘れません」
「……忘れたほうがいい。どうか幸多からんことを」
 朝日がすぐそこにある。夜が明けて任務は終了した。
 結局この友人の兄弟子が、どんな人間なのかはさっぱりわからなかった。何を思ってあんな音を鳴らしていたのかも、どうしてあの女性を拒否したのかもわからない。別に善逸には雲の上の人、関係など今後もないのだろうけれど、涙を滲ませながら善逸に礼を言った女性の姿を思い浮かべる。やはり女性が泣くのはよろしくない。
 集落からの帰り、大した怪我も負わなかったおかげで林の中のように冨岡の後をせっせと善逸は追う。この後蝶屋敷に行って三人娘に顔を出し、しのぶに軟膏の予備を貰っておきたい。冨岡は行くのだろうか。
「やっぱり柱ともなると一般の人とは所帯を持てないんですか」
 冨岡の足は止まらない。普段の静かな音に小さく波紋が拡がる。音だけが普段と違う様子を表していた。
 柱にこんな話をするのは失礼にあたるのかもしれないが、善逸は女性の味方である。冨岡が幸せを祈った時、彼女の音は寂しそうな悲しそうな、そして諦めの音を鳴らせていた。ただの妬みからではあるが、この男の真意を知りたくなった。
 歩き続ける冨岡の背中を眺めるものの、答える様子はなかった。溜息を吐きかけた時、静かに通る声が善逸の耳へと届いた。
「……姉に良く似ていた」
 己の好奇心や嫉妬を思わず恨みたくなるような、静かで寂しい声だった。
 善逸には理解しきることは不可能なその感情は、冨岡にとって耐え難いものだったのだろう。
「す、すみません……不躾で最低なこと言いました」
「良い。蝶屋敷へ向かうか」
「あ、はい……」
「胡蝶に渡しておいてくれ。俺は屋敷へ戻る」
 研究用にと頼まれていたらしいものが入った巾着を渡され、冨岡は消えるように去っていった。謝ったものの、怒ってはいなかったものの、善逸は申し訳なさでしばし足が動かなかった。

*

「お前冨岡さんに四日間付きまとってたんだってな。あの人話とかしてくれたの?」
「ああ、色々教えてくれた。家族のこととか」
 庭で薬草を採取していると、二人の歳若い隊士の声が聞こえてきた。
 四日間あの冨岡に付きまとい話をした。思わずしのぶは笑いそうになるのを我慢して耳をそばだてた。炭治郎は相変わらず怖いもの知らずである。
「へえ、家族の……」
「お姉さんがいたそうだ。祝言の前日にその……亡くなったそうだけど」
 薬草にあてがった鋏を動かす右手が止まり、しのぶは冨岡の涼しげな横顔を思い浮かべた。
 姉の門出は鬼の手によって絶たれ、冨岡は独りになったのだろう。鬼殺隊に入る者は大抵身内を鬼に殺されている。例に漏れず冨岡もそうだったようだ。
「そうなんだ……俺は孤児だからわからないけどさ、炭治郎」
 言い淀んだ善逸の声が聞こえる。例えばの話、と強調して続けた。
「兄弟に似た顔の女の子から言い寄られるってどんな気分になると思う?」
「どうした善逸。何があったんだ」
「いや、ちょっとした質問だって。炭治郎ならどう思う」
「うーん。言い寄られたことがないから難しいけど……凄く複雑な気分になりそうだ」
「そうだよな……俺も想像してみると凄く複雑……」
「どなたの噂話かは知りませんが、誰が聞いているかもわからないですよ」
 庭から顔を出すと驚いたようにこちらを向く二人の隊士に、気づいていたのだろうと一応問いかける。
「まあ、一応。潜めてたと思ったんですけど……」
「普段どおりの声量でしたよ。不思議な質問ですね、善逸くん」
 から笑いを漏らした善逸に炭治郎は不思議そうに彼を見た。炭治郎には善逸の心の内が多少なりとわかるだろうが、しのぶは何故あのような質問に至ったのかはわからない。大方そういった出来事を目の当たりにしたのだろうが、あまり遭遇したくない出来事だ。
 ふとしのぶは先程の二人の話題を思い出した。彼らは冨岡の話をしていたが。
「……冨岡さんが言い寄られているところを見でもしたんですか?」
「えっ、あ、いや、そのお……」
 嘘の吐けない素直さは時折罪である。その反応では肯定しているようなものだった。
 しのぶも冨岡が女性に声をかけられているところは、不本意だが見たことがある。無愛想ではあるものの、見た目は美丈夫といってもいいくらい造型が整っていることはしのぶも認めている。姉が生きていた頃から目にしていたほどだ。
「……あの、他の人には」
「言いませんよ。ただの噂話ですから」
 困ったような顔がしのぶを見つめ、やがて善逸の口が開いた。
「ちょっと前に冨岡さんと同じ任務についた時のことです。集落にいた娘さんが冨岡さんに惚れてたようなんですけど、けんもほろろな態度だったので」
 想像に難くない。鬼殺一筋といえば聞こえは良いかもしれないが、冨岡の対人能力は群を抜いて酷いのだ。どんな女性が相手でも手酷くあしらっていそうである。それがしのぶにはひっそりと安堵を感じさせていた。
「腹立ったから聞いちゃって。そしたら、姉に良く似ていたって言われて申し訳ないこと聞いたなって思ったんですけど。名前を教えて呼ばれた時の音とか、それで少しだけ嬉しそうな音が鳴ったのかって理解して」
 どうあがいても会いたい人に会えない思いが、冨岡に複雑な感情をもたらしたのだろう。例え言い寄られるようなことがなくとも家族と似た顔が目の前に現れたら、しのぶだって狼狽してしまうと思う。
 良く似た別人と理解していても、似た顔が再び名を呼んだことに対して、冨岡は嬉しさを感じた。少しでも救いになったのならば良いけれど。
「前に音がぐちゃぐちゃだった時があったから、これのせいだったのかなって思って」
「前?」
「二回目だったらしいんだ、その集落に行くの。だから娘さんに会ったのも二回目」
「……そうですか。二度あることは三度あるにならないと良いですけどね」
「そうですね。三回目とか冨岡さんの音が死んじゃいそう」
 どんな音だったのか、しのぶには全くわからないけれど。
 これ以上あの凪いだ水面を負の感情で波打たせるのはやめてほしい。顔も知らない冨岡の姉に似た女性に、押し込んだ心の奥底で封をしたしのぶの感情が叫んでいた。