接触にまつわる二人の話
帰国してから変わったことがある。
卒業式と入学式を終えたあたりから、進は自宅へ瀬那を招くようになった。
交換日記をしている時、進はひとり暮らしだと教えてくれたことがあった。進の生活スペースに足を踏み入れるということにひどく緊張はしたけれど、そうして懐に瀬那を入れようとしてくれるのが嬉しかった。きっちりしている人だから、部屋も綺麗なのだろうと瀬那は来る前まで想像していたものだ。嗜好品を口にしない進に手土産は何がいいかを確認した時は、身一つで充分だ、などと言われてひどく狼狽えてしまったが。
実際目にした部屋は確かに整然としていた。机と椅子、寝起きしているベッド、トレーニングのためのダンベルが置かれているのが進らしい。そして何より、生活必需品のはずの冷蔵庫と電子レンジがないのも、筋金入りだと苦笑いする他なかった。買い置きや作り置きをせずアイスのような嗜好品も摂取しないから。何故かクーラーボックスはあったが、見かねたチームメイトが冷やせるよう置いていったものだと言った。冷やすための保冷剤がなければボックスだけあっても使えないのだが、よく凍らせた状態の保冷剤を持ち込んできてくれるのだという。本人はさほど気にならないらしいが、相変わらず機械に関してだけは、何というか、周りが苦労しているようだ。
機械音痴に関して瀬那は特に何かを言うつもりはない。そういう欠点が進にもあるという事実が、身近に感じられる理由のような気がするのだ。
そして、瀬那を部屋に呼んだ時の進は、以前よりも瀬那に触れることが多くなった。
対面ではなく隣に座ったり、ふと会話が途切れた時にキスしてきたり。最近接触が増えた、と心臓に悪くてつい恨めしげに言ってしまったことがあった。そうしたら進は悪びれずに一言発したのである。
「触ってほしいと言ったのは小早川だが、」
「えっ!?」
「栗田良寛の家で誤って酒を飲んだ時の話だ」
夢だと思って色々と口走ったことを、現実だったと認識したあの早朝の衝撃たるや酷いものだった。世の中には飲み過ぎて記憶を失くす人もいるらしいのに、しっかりはっきり瀬那にはあった。まあ瀬那だけの記憶がすっぽ抜けても意味はないが、ありありと思い出した瀬那は真っ赤になって悲鳴を上げた。
「ひーっ! あ、あ、あれは! 酔っ払って夢だと思ってて!」
「本物に言うのだから詰めが甘いな。俺もお前に触れたいと思うからそうした。……嫌なら控える」
あの帰国した日のことを引き合いに出し、楽しそうに笑うのだ。
決してやめると言わないのは、瀬那が本心から嫌がっているわけではないとばれているからだろう。項垂れた瀬那はごく小さな声で嫌ではないと呟いたが、しっかりと進の耳には届いていたようだった。
そうして茹だりかけた頭をどうにかしたくて、天気を確認しようとカーテン越しにベランダを覗いた時に気がついた。
部屋の中には洗濯機はなく、ベランダを見ても置いていなかった。
「……そういえば洗濯機もないんですね」
「ああ。洗濯は……」
機械だから置いていない。それは予想できるが、まさか全部手洗いだったりするのだろうか。高一の時の王城戦の後、瀬那はユニフォームを手洗いしたけれど。
「大学にランドリーがある。監督から私物を洗う許可を得て、桜庭がボタンを押してくれる」
「ぶふっ」
機械音痴だから私物を洗わせてほしいと監督に許可を得る進も、呆れながらボタンを押す桜庭も想像して堪えきれず瀬那は吹き出した。悪いと思いつつ我慢ができていなかった。
「………。あとは手洗いだが、……お前は、機械の話をすると笑うな」
「ご、ごめんなさい」
気を悪くさせてしまった。当然だ、馬鹿にしているようにも思われてしまったかもしれない。瀬那が顔を上げると、特に不機嫌そうには見えないままの進がいる。
「いや。……何が面白いのか俺にはわからん。ただ情けないだけの話だと思うが、」
百年前ならいざ知らず、この現代において機械に触れずに生活するのは難しい。現にシャワーだけは進も使えているらしいが、これが給湯器なんてものがついていると途端に壊してしまうらしい。蛇口をひねるだけはどうにかできているのだと桜庭が教えてくれたことがある。
話の合間で一拍置いた進が小さく笑みを見せた。
「俺は、桜庭ほど気も利かず面白みのない男だ。話もそううまくない。……俺の話で笑うのは小早川くらいだ」
それが嬉しいのだと、進はそう言った。人を笑わせることなどできた試しがなかったから、新鮮だと感じるのだという。
アメフトを始めるまで、誰かを笑わせたことがなかったのは瀬那もだった。進と瀬那ではそこに至るまでの過程がまるで正反対だが、それでも。
「……楽しいですよ。ぼくもうまくないから……一緒ですね」
瀬那の話は日常で起きた変わり映えのない話ばかりだ。退屈そうな顔もせず、進は律儀に相槌を打ってくれる。それが嬉しいからついつまらない話をしてしまう。過程は違っても同じ部分があることが嬉しくて瀬那が笑みを向けると、急に腕を取られ引っ張られた拍子にキスをされた。
「な、なんでですか!?」
「したくなった」
どの部分でしたくなったのかさっぱりわからなかった。
もっと、興味がない人だと思っていたのだが。瀬那自身恥ずかしくて目を逸らすこともあったその手のことを、進も考えているとわかって恥ずかしい。まあ、そうでなければ最初から瀬那を受け入れたりはしないだろう。触れたいと思って触れてくれるのだから、喜んでおけばいいのかもしれないが。
それはそれとして、突然触れられて平然としていられるほど、瀬那は経験値も足りていないし性格的にも無理である。
瀬那があわあわと照れて恥ずかしがることをわかっていて、それを狙ってやっているのでは。そんな器用な人ではないともわかっているのにそう考えてしまうほど、ぐさぐさと心臓を刺し続けてくるのだ。あれだ、三叉の鉾で。
いい加減瀬那限定のたらしも引っ込めてほしいと思っているし、そろそろ逆襲とかしてもいいはずだ。まあ、できるかどうかは置いておいて、少しくらい進の屈強な心臓を揺さぶってみたいのである。
*
来たる七月九日。
大学生となった瀬那は小遣いの金額も増えたことだし、以前からこのために溜め込んでいた分も足して今年こそはもっと良いものを贈ろうと決めていた。さすがに一ヶ月五百円時代は高一時点で改善されてはいたものの、それでも瀬那の小遣いはさほど多くはなかった。どうにかやりくりしてささやかな誕生日プレゼントを渡せはしたが、申し訳ないという気持ちが強かったのである。
しかし、もう大学生である。付き合いもあるのだろうと、瀬那からすれば驚くような金額を母から提示されて不安にすらなったものだ。それでも平均よりは少ないらしいが、貯めていたへそくりを使う時が来たのである。
進の欲しいもの。前回瀬那は自分が買える範囲のもので、ケーキや菓子といった嗜好品ではないもので、進の生活の邪魔にならないもので、日常的に使ってくれるものとしてタオルをプレゼントした。鈴音には相当驚かれたが、進がプレゼントしたタオルを使っているところを見るのは非常に嬉しいものだった。
ただまあ、それは瀬那が使ってほしいと思って選んだものだったので、進自身が欲しいものを渡せたかどうかはわからなかった。邪魔にならない使えるものだし、進だから言葉どおり本当に有難いと思ってくれたのだとは思うのだが、鈴音の言うとおり、彼氏に渡す誕生日プレゼントとしては面白みがない、のだろうと思ったのだ。
なので今回は、進の欲しいものをリサーチすることに決めたのである。
気づかれないよう回りくどく聞くことは恐らく瀬那には無理だ。それならもう真正面から聞いてしまえばいいだろうか。サプライズというのもあまり得意ではないのだから、失敗するよりはそちらのほうがいいだろうと瀬那は考えた。
そんなわけで、瀬那は進に誕生日に欲しいものを問いかけた。あくまで形に残る物や食べ物を聞いたはずだった。
「小早川」
「え、はい」
「小早川だ」
「………? ………、」
しばらく意味がわからず瀬那は困惑しながら進を見つめて考え込んだ。
疑問符を抱えながら進が瀬那を呼んだ意味を考える。
誕生日に欲しいものを問いかけて、返ってきたのは瀬那の名字。進が瀬那を呼ぶ時の名前だ。何故呼ばれたのだろう。目の前にいて、会話をしていて、話の流れで呼ばれることは確かにあるけれど、今は欲しいプレゼントの話をしていたのだが。プレゼント。
「差し出していいと思うなら泊まりに来てくれ。それ以外は特に欲しいものはない」
「………、………っ!」
瀬那の脳内で合点がいったのと進の言葉が聞こえたのは同時だった。
唖然としたまま瀬那は目の前が真っ赤になり、口元を覆って悲鳴を何とかせき止めた。羞恥のままに逃げ出すところである。
泊まりだなんてそんな、何が起こるかなどいくら瀬那でもこの歳でわからないと嘯くつもりはない。どきどきしながら鈴音とその手の特集を読んだこともある程度には、人並みに気になる年頃でもあった。
差し出すって。瀬那は物ではないけれど、この言い方はそういうことだよね。接触も増えたし触りたいと思われていることも聞いたことがある。そういう意味だと想像できる。相変わらず進の言うことは瀬那の顔色を変えさせるものばかりだった。
だって、欲しいと思っているのだ、進は。瀬那が欲しいと言っているのだ。恥ずかし過ぎて涙が出そうだった。
しかし、その要望は瀬那も本心では嬉しく思えるものではあったので。
「………、と、……泊まります。泊まり、たいです。ちょっと、……ええと、その、………、あの、な、何か、ほ、他には……」
付き合いを考えると突然でもないのだろうけれど、瀬那にとっては緊張が一気に襲ってきた言葉だ。浮かれて早まったような気がしないでもないが、どうせ瀬那とて触られたいと思っていることはばれているのだ。
「小早川以外は必要ない」
「ひいい……」
その言い方も何かちょっと。
瀬那限定のたらしは今発揮しなくてももう充分なのだが。
しかし、瀬那が答えてからどことなく漂っていた緊張が緩んだような気がした。瀬那だけが緊張していたのかと思っていたが、もしかしたら進も緊張していたのだろうか。ふとしたところで同じ部分がある気がして、瀬那はほんの少しだけ落ち着きが戻ってきた。
*
「こ、こ、今度、進さん家にと、……泊まる、んだけど、何準備したらよかったかなっ?」
驚愕。正に言葉どおりの表情を晒したと自覚できた。目の前の瀬那は真っ赤なまま焦りながら必死に言葉を紡ぎ、羞恥に泣きそうになりながらも知りたいことを鈴音へ問いかける。鈴音のほうが経験はないのに何ということだ。応えなければ友の名が廃るというもの。
「勝負下着でしょ」
「ひい……」
瀬那と読んだ特集にもあった大事なものだ。これがなければ服など脱げないし、泊まりなど以ての外である、たぶん。上下セットの可愛いやつ。きちんと瀬那に似合うものでなければならない。
「でででも、ぼく貧相だから……」
「大丈夫! てか勝負下着に貧相とか関係ないし。というかそもそもね、セナに胸の大きさを求めてないと思うの」
「ぐうう」
潰れた鳴き声のような声を漏らした瀬那はテーブルに突っ伏したが、ここは現実を知らしめてやるのも友の役目だ。そう、貧相だとか何だとか、そんなことは今更どうしようもないのである。
「悔しいけど私も。だからね、私たちと付き合う人はペチャパイなことくらい理解してるはずだよ!」
「そ、そうかもしんないけど……。な、何か、ほら、がっかりさせちゃうのは……」
「しないよ」
もしかしたら貧乳好きだとかはあるかもしれないが。
進のことは瀬那から聞くばかりで、鈴音が直に見るのは試合の時くらいのものだ。試合中のあの恐ろしさすら感じるプレーヤーが瀬那の前ではどんな人なのか、鈴音はちらりと聞くだけだけれど。そんな関わりのない鈴音でもわかることはある。
「それだけはわかるよ。あの人はセナにがっかりなんてしない」
瀬那が見ている進は瀬那を好きだということが鈴音にすら伝わってくるのだ。絶対に大丈夫だと確信すらある。本人がそれを感じ取れないのは、まあ、当事者だからかもしれないけれど。
「もししたら私がインラインスケートでギャリギャリしてやるから!」
「ひいい……。……で、……できるのかな……?」
「そこは考えなくてよろしい! とにかく!」
ずいと前のめりに顔を近づけると、瀬那は逆に身を引いて距離を取る。引き攣った笑みを浮かべて鈴音を窺うように見つめた。
「勝負下着と肌のお手入れだよね?」
「………、」
真っ赤になるのがまた初心な反応である。
今から見に行こうと鈴音は立ち上がり、瀬那の手を掴んでそのまま食堂を出ていく。引っ張られるままに瀬那も走り出した。
「めちゃくちゃ似合うやつ選んであげる!」
「う、ううーん……その、お、お手柔らかに……」
柔らかくしてどうするのだ。悩殺するくらいの気概でいけばきっと進などイチコロにしてやれる。だってあちらは瀬那に心底惚れているのだし。まあ瀬那も瀬那で惚れきっているのでどっちもどっちなのだが。