全部ばれちゃった

「ありゃー、やっぱり試合出るんだな」
「そのために来ただろう」
「そりゃそうだけど、少しくらいさあ」
 せっかく半年ぶりに会うのに。進自身もそわそわと落ち着かないくせに、聞き分けの良い言い方をして試合開始を待っていた。アメフト馬鹿である進が彼女のプレーを見たがるのも理解しているが、近寄ればきっと瀬那は駆け寄ってくれただろうに。邪魔をしたくないのか我慢しているのか。

 長くも短くも感じられる一時間を、まだ合格発表に来たばかりの受験生を有して炎馬大ファイアーズは試合を制した。これでまた最京大学に食らいつくチームが強さを孕ませて立ちはだかる。
 フィールドそばのベンチにいた瀬那の背中を叩いた瀧鈴音にヘルメットを渡し、髪を撫でつけてから彼女が一目散に走り出したことに桜庭は気がついた。
 向かう先がどこかなど考えなくてもわかる。桜庭はこちらへ走ってくる姿に笑みを浮かべた。
「進さん!」
 試合が終わったユニフォーム姿のまま、半年ぶりに光速で駆け寄ってきた瀬那は今日一番の嬉しそうな顔をしたのではないかと思う。
「強くなって帰ってきたな」
「えへへ、クリフォードさんたちの練習、すっごいスパルタで……でもそっちのがたぶん、ぼくは合ってる気がします」
「だろうな。……おかえり」
 進の言葉でどきっとした心臓が、更に笑みを向けられて鷲掴まれたのだと桜庭は瀬那の表情を見て察した。頬を染めたままうろうろと視線を彷徨わせた後、嬉しそうに瀬那も笑みを見せた。いや可愛いな。恋する乙女って凄いな。というか進もそんな顔できたんだな。
「……カップルの会話としては足りないけどね。らしいとは思うけど」
「は!?」
「はあ!?」
「はあああ!?」
 泥門三兄弟の悲鳴にも似た声に驚き、更にがちゃんと銃口をこちらへ向けた蛭魔が視界の端に映ったところで桜庭は青褪めた。明らかにいくつかの血管が切れたような怒り具合の蛭魔を、驚いたまま姉崎がどうにか引き止めようとしている。
「へえ。セナくんと進氏が……」
「フー……まあ、気持ちは別にしても、納得はできる人物だ」
「確かに、諦めつく奴は多いだろうな」
「おうよ、何よりセナが進先輩を好きなんだからな!」
 大和と赤羽と番場の会話に応えるようなモン太の言葉で、その場に留まっていた一部の面々がこちらへと駆け出していた。話を聞きたいとか問い質したいとか色々あるのだろうが、一先ず桜庭は身の危険を感じつつ瀬那へと問いかけた。
「あのさ……せ、セナちゃんもしかして言ってないの?」
 確かに進は何も言わなかったし、別にいいかと桜庭もわざわざ公表させるようなことはないと思いはしたが。明らかに動揺しているのは泥門であり、こちらへ鬼気迫る様子で駆けてくるのも泥門なのである。いや、色々混じってはいるけれども。
「聞かれるまで言わなくていいかなと……だ、駄目でしたかね。鈴音とモン太は知ってますよ」
「構わないだろう。俺も桜庭にしか知られてない」
「まあね……でもさあ、言わなかったからこうして皆突っ込んでくるわけで……いや全部返り討ちにしそうだけどお前なら」
 ゴキゴキと右手の骨を鳴らし、進は向かってくる多勢に迎え討つ。桜庭にとって不動のエースは進であり、どれほどの人間が相手でも負ける姿など想像がつかない。ああ、いや、一人だけはスピードで出し抜かれてしまったことがあるが。
 この多勢が進に向かって来ている理由もよく理解しているのだろう。瀬那を後ろに下がらせた進は、泥門の面々を抜いて一番速かった甲斐谷陸を既のところで押し留め地面に膝をつかせた。
「くっそ……っ!」
「何やってんの陸!?」
「何って決まってるだろ! 妹分に相応しい相手か見極めに来たんだよ!」
「えええ……いやいや……」
 相手は進なのだから陸もよく知っているはずだが、どうしても我慢できなかった、ということだろうか。口にした妹分というものが本当なのかどうか、桜庭には判断がつかない。それ以上の感情があったとしても、結局は全部今更でもあるのだ。
 陸の突撃を皮切りにこぞってブリッツしにきた幾人ものアメフト選手を、進は千切っては投げを繰り返し屍を積み上げていた。不敵に笑いながら突っ込んできた大和と、便乗して進自身を潰しに来たらしい阿含の二人は積み上げ損ねてしまったようだが。
「いややり過ぎだろ!」
「叩き潰したほうがいいのではないのか?」
「ここまでやれとは……お前闇討ちに気をつけろよ。まあ心配ないみたいだけど」
 目の前で叩き潰す様を見せられたこちらとしては、何も心配なさそうで少し引く。積み上がる屍をおろおろと見上げた瀬那は、困り果てた様子で進の心配を一応していた。
「な、なんで急にこんなことに?」
「いや、セナちゃんと進が付き合ってるってばれたからだよ」
 突っ込んできた彼らはそういう理由が大半だと桜庭は思っている。最後に蛭魔が銃を乱射しながら近寄って来た時は焦ったが、ヒル魔さん! と瀬那が困惑を滲ませた声で呼び止め、背後から姉崎が蛭魔を引き止めて何とか止まったのだった。
「悪ノリがいき過ぎた感じですかね。泥門は昔からそんな感じなので……普段止める人も混じってたけど……」
 悪ふざけでブリッツしに来た泥門につられて皆突っ込んできたと思っているらしい。そういう者もいたにはいたようだが、座り込んでいた陸が非常に複雑そうな顔で瀬那を眺めた。
 本当にわかっていないのが凄い。
 全国を探してようやく女子選手が二人といった少数派で、泥門の選手内でも当然紅一点の存在で。恐らくだが、泥門アメフト部の暗黙のルールで、瀬那は手を出してはならない神域のような存在になっていたのかもしれない。進にしたって自覚しなければただの選手間でのやり取りしかしなかっただろう。
 きっと、瀬那が好きにならなければ。
 だが瀬那は進を好きになったし、外野が騒いでもどうにもならないところまできていた。それもきっと周りはわかっている。
「まあ、正直進さんなら文句なんか出ませんけどね。それでも言いたいことくらいはある」
 立ち上がった陸が進へ向き直り、真っ直ぐに見据える。
「泣かさないでくださいよ。もし泣かせたらその時は――」
「ちょっと陸っ、」
 最後の言葉は進にだけ聞こえるように小さく口にしたが、桜庭はその続きを予想できていた。
 止めようと陸に近づいた瀬那の顔を伸ばした手で食い止めて、陸は黙ってひたすらに進を見上げた。ちらりと進の視線が顔を覆われた瀬那へと向かい、やがて口を開く。
「……肝に銘じよう」
 その返事に陸の空気はふと緩み、笑みを浮かべて瀬那の顔から手を放した時、困り果てているらしい表情が現れた。
「こういうことは早く言えよな!」
「わっ、ご、ごめん」
「セナ! もう、言ってくれればいいのに! 陸っくんもびっくりしたんでしょ!」
「だから陸っくんはもう勘弁してってまも姉!」
 瀬那の首に腕をまわした陸は、彼女の首をホールドした上で頭に拳をぐりぐりと当てた。舌打ちをして落ち着いたらしい蛭魔を置いて姉崎が瀬那に駆け寄り二人に抱きついた。
 進ならば。文句もない。諦めもつく。そうは言っても素直に引き下がれるような者はどれほどいるのだろうか。我慢ならなかったからこうして突っ込んできて屍になっているのだ。
 それは恐らく、体裁を取り繕った蛭魔もなのだろう。

「合格祝いしよー! うちにおいで皆! そのまま泊まってもいいし」
 その言葉に甘えて押しかけたのは炎馬大学を受験した面々だけではなかった。
 瀬那から一緒にと誘われ桜庭にも腕を取られては断る選択肢を捨てる他ない。帰ってきたばかりだ、今日くらいはまだ見ていたいと思うのも当然と自分を納得させつつ、進は促されるまま栗田の実家である寺へと向かうことになった。
「で? どこまで進んでんだ」
 早々に女子たちに連れていかれた瀬那とは対角線にある席に座らされ、進は隣に座る桜庭から視線を感じながら周りの者たちへと目を向けた。
 桜庭がよく質問攻めにされている光景を思い出し、これは特定の者たちに行う通過儀礼であるとチームの先輩が言っていたことも連鎖して思い出した。成程。要するに、男女交際をしている者への質問事項なのだろう。王城以外にも共通していることとは知らなかったが。
「それは答えなければならないことなのか?」
 顔の筋肉が怒りによって固まっているようだが、進が答えたとしても更に怒りを増幅するのではないかと思う。瀬那を憎からず想っているのなら、進ならば聞こうなどと思いもしない質問だ。
「他の奴らは知らないが、俺はちょっと確認する義務があると思うんだ。だってお前……その、私生活は色々とアレだろう。小早川に迷惑かけてないか?」
 高見が不安そうな様子で進へと問いかける。
 迷惑をかけたかかけていないかでいえば、進は恐らくかけている。主に機械関連で要らぬ手を煩わせていたし、心労もあっただろうと思うが、それでも瀬那は笑っていたので甘えてしまったところがあった。
「何だよ、だらしねえとかそういうのか? セナもわりかしだらしねえから増長するとかだと困るぜ」
「ばらしてやるなよ女の子のそういうことは……」
「進はきっちり過ぎるほどきっちりしてるよ。ちなみに桜庭、今日駅ではどうだったんだ?」
 敵意とも取れる空気を発していた十文字が問いかけたことに、高見はまさかと首を振った。どこか口元をにやつかせた桜庭が口を開いたが、それより先に大田原が言葉を発した。
「今日は壊しとらんなあ」
「そ、そう! セナちゃん帰って来るから壊さなかったんですよ」
 正確には瀬那がいる炎馬大学へ向かうから。
 桜庭はそう言い直し、進は不覚にも周りの視線に居心地が悪くなった。炎馬ファイアーズのホームページに更新された練習試合の予定日が、瀬那が合格発表を見に行くと教えてくれた日程と同じだったので、試合に出る可能性があることを察して向かったのだ。あわよくば話ができればとも考えたことは間違いない。逸る感情は自動改札機を素通りしたくなるほどだったが、それをして壊すと逆に遅れてしまうことを進は知っている。それで練習に出られなかった日があるからだ。
「そうか……、お前、成長したんだな……」
「いやまあ、セナちゃん関連以外は変わらず壊すんですけどね」
「いや……ていうか壊すとかなんとかって何だよ。駅で何を壊すんだよ」
「あー……進は機械音痴でね、基本的に触ったものは片っ端から壊してたんだよ。これもセナちゃんがいないと自覚してなかったんだけど……いや凄いんですよ。携帯で電話もできるし、改札機も壊さない」
「そうか……」
 進が口を挟む隙もなく桜庭が説明していき、高見はしみじみと何度も頷きながら良かったと進の肩を叩く。十文字や黒木たちは顔を歪め、手を震わせて瀬那側へと振り向いた。直後に高見も立ち上がり瀬那の元へと寄っていく。
「おいセナァ! お前こんなんが本当に良いのか!? 化けモンかと思ったらただのポンコツじゃねえか!」
「小早川、本当にありがとう。これからも進のそばに居てやってくれ、切実に」
「!?!?」
 十文字を無視して高見が頭を下げたことで瀬那が焦って困惑しているが、進も焦って立ち上がって近づいた。まさか自分の個人的なことで元のつく先輩である高見に頭を下げさせるなどあってはならない。進の不甲斐ない部分についてのことだから尚更だ。
「高見さん。自分のことで頭を下げていただくようなことは、」
「いや、違うんだ。嬉しくてな……機械音痴治らないと思ってたし……進についていける女子なんか、それこそ小早川くらいしかいないだろうし。まあ、なんだ。困りごとは相談してくれ」
 情けない。卒業してなお気にかけてくれていたこともそうだが、異性とのことを心配されていたことも。恐らく高見は後輩皆を気にかけているだろうとは思うが、それでもだ。
 ぽかんとしていた瀬那がふと瞬き、慌てて立ち上がって高見へ顔を向けた。
「こ、困りごとなんてそんな……、進さんは、本当に何でもできるから……、……ちょっと、嬉しいんです。役に立てることがあって」
「……そうか。これからも頼むよ」
 照れたように頬を染め、俯いた瀬那の前に座る栗田の隣へと高見は座った。高見が手招きして進を呼びつけ、瀬那のいるテーブルへと腰を下ろす。何か、言わなければならないような気がしたが、進は何を伝えたいのか整理できていなかった。
 高見の言葉に恐縮した瀬那は近くにあったグラスへと手を伸ばし、ぐいと勢い良く飲み干そうとしたところで突然正面の栗田へ中身を吹き出した。
「ぐふっ、お、お酒……っ!」
「えっ、あれ? も、もしかして間違えて開けてる?」
 謝りながらタオルを栗田に差し出した瀬那は、噎せながらグラスの中身を伝えてきた。ふと振り返ると一つのテーブルでやけに騒がしくしているが、どうやら酒がそこにも混じっていたようだ。
「やー、セナ大丈夫?」
「………、まず……」
 飲んだのか。水の入ったグラスを差し出して飲むよう促すが、テーブルに突っ伏した瀬那は唸っているばかりだ。はらはらと栗田が心配そうにしている。
「昔にも間違えてお酒飲んだことあったよね。あの時は確か……」
「うーん……。………、……走り込みしなきゃ……」
 唸りながらも上体を起こした瀬那は、据わった目のまま立ち上がって外へと向かい、そのまま飛び出して行ってしまった。
「小早川!」
「そうだよ確か走っていっちゃって! セナくんお酒弱いんだよー!」
 酔っ払いの千鳥足のように見えたが、一歩遅れた進が外へ出た時はすでに遠く離れていた。夜であろうと交通量の多い高速道路が近い。何より一人で放っておくのは危険だと判断した進は、追ってこい、と高見が発した声を聞く前に走り出していた。

「あいつしか追いつけないですからね……酔ってたらもう少し遅いのかもしんないけど」
「どうかなあ。前は確かパンサーくんが追っていった気がするけど、凄い速かったような」
 NASAエイリアンズ戦の直前だったらしい。またもや未成年飲酒をさせてしまったと栗田が慌てているが、とりあえずの措置として一角にいる酔っ払いから酒を奪っていた。ばれて出場停止にでもなったら大変だ。
「まあ、つまり……お似合いってことでいいな?」
 進が追ったのなら大丈夫だろう。そう呟いた後、高見は室内にいる全員に一言問いかけた。
 桜庭も気になっていたことだ。ブリッツしに来た彼らは進に叩き潰されていたわけだが、実際二人でいる様子を見てどう思ったかはわからない。さほど一緒にはいなかったというのは置いておいて。
「……誰もお似合いじゃないとは思ってませんよ。悔しいだけで」
「セナが好きなら仕方ねえ……」
「ケケケ、元後輩のためにご苦労なこった」
 何ともいえない空気になるかと思いきや、どうやら彼らは何とか納得してくれたらしいというのが伝わってきた。
 まあ、それはそうだ。互いが互いにこの人が良いと暗に言っているのだから、納得せざるを得ないだろう。
「そりゃそうさ。元がついても後輩だからね」
「やー、でもたぶん相性良いよね」
「そうなのかな?」
 ふいに瀧鈴音が一言口にしたことに、桜庭は一つ瞬いた。不思議そうにした姉崎は首を傾げたが、瀧はぼんやりと瀬那たちが出ていった外へ目を向けた。
「うん。セナって何でもできる人とか世話焼きの人とも付き合えると思うけど。……やられっぱなしは自信失くしちゃうんだよね。だから適度に抜けてる人だと、……たぶん安心できる。兄さんみたいな馬鹿だと苦労しかしないしね」
「………、そっか」
 姉崎がどこか寂しげに頷く。瀧夏彦を引き合いに出したことで、元泥門の面々が少々嫌そうな顔をしたが。
「まあ、進のあれが適度かどうかはわかんないけどね」
「やー! 私知らないからいいの!」

 高速道路の細い端をひたすらに走り続ける。進が手を伸ばした時、瀬那はふと身体をずらして避けた。タックルではなく捕まえるのが試合とは違うが、それでもアメリカに渡っていたこの半年で瀬那は避けるのがうまくなっていた。
「………っ」
 だが、だからといってただ置いていかれるつもりはない。瀬那の超加速に似た踏み込みで距離を縮め、もう一度腕を伸ばして腰に手をまわした。無理やり捕まえたことで瀬那のバランスが崩れ、道路の下に転がり降りた進は着地を少し失敗して膝と片手を地面につき、その拍子に捕まえた瀬那の身体がごろりと転がった。
「小早川、怪我は」
 地面についた膝と片手の間で、酒の力で赤らんだ頬のまま瀬那が仰向けに倒れた。まるで押し倒したような状態で進は狼狽えた。それを知らぬ瀬那はようやくぼんやりと目を開けたが。
「………、……進さんだあ」
 今にも閉じてしまいそうな目を向けてひどく嬉しそうな笑みを見せた瀬那に、進の心臓がどくりと揺れる。
「わあ、格好良いなあ。……うーん……夢、夢かあ……良い夢見たなあ」
「夢ではない。小早川」
 どうやら走ったせいで酔いが回ったのか、夢と現実が曖昧になっているらしい。酔いに任せた瀬那の言葉で進の感情も浮足立ってしまうが、ふいに抱き着かれたことで更に狼狽えてしまった。
「うわー凄い。本物みたい」
「……本物だ」
 いつまでも押し倒しているわけにもいかない。瀬那を抱き着かせたまま進は上体を起こして地面へと座り込んだ。半年前よりも伸びた髪に触れると、存外柔らかくしなやかな質の髪がさらりと指を通る。
「……もっと、釣り合うようになれればなあ。……頼れるくらいになりたいなあ……」
「……釣り合うかどうかなど考えたことがない」
 瀬那が聞こえていないことなどわかりきっているが、独り言のように呟かれる言葉を、そのまま放置しておくのは憚られた。何より進へ向けての言葉なら、応えなければ失礼にあたる。応えたいと思うのだ。
「お前以外に見ていなかった」
 自分より速く走る者を見たことがなかった。自分より疾く前を駆け、手をすり抜けた瀬那に追いつくために光速の世界に足を踏み入れた進は、彼女に釣り合うためにそうしたともいえるかもしれない。
「お前が、頼りないと思ったこともない。小早川」
「……早く会いたいなあ……。また触ってほしい……」
「………。小早川、もう会ってる」
 瀬那は時折進の感情を揺さぶるような言葉を口にする。それは酒を飲んでいなくとも、以前からあったことだ。瀬那の小ぶりな後頭部を撫でていると、黙り込んだ瀬那がいつの間にか眠っていることに気がついた。
 服越しに感じる体温に進は落ち着かないというのによく眠れるものだ。夢だと思われて何も伝わらなかったようだが。
「……その言葉、覚悟しておくことだな」
 眠って力の抜けた身体を抱えた進は、立ち上がって来た道を戻るために走り出した。

「回収完了した」
「言い方……って、お姫様抱っこで帰ってきた!」
「しかもわりとすぐ……二時間位消えるかと思ったのに」
「あ、私たち泊まるから、こっち運んでくれる?」
 姉崎まもりに促され、進は抱えた瀬那を部屋へと連れていった。すでに布団が並べられ、真ん中に寝かせてほしいと要望が飛んでくる。言われたとおり真ん中の敷き布団へ瀬那を運び、髪へ触れてから立ち上がった。
「ありがとう進くん」
 女子の部屋で無意味に長居するのは良くない。会釈をしてから進は早々に部屋を出た。
「そういえば桜庭。あの質問は誤魔化されたのか?」
 どこまで進んでいる、という何とも抽象的で明言を避けた言い方は、初めて進に向けられたものだ。結局進の機械音痴に話が進んで有耶無耶になっていた。これで再確認されても話すつもりは毛頭ないが。
「ああ、そういえば途中からどっかいったな。良かったな」
「……ああ」
 元来口数も多くはなく、プライベートなことなど率先して話したりはしない。辛うじて聞かれたら一言答える程度のものだった。しかし、自ら黙しておきたいと思うこともある。それは、瀬那との関係が変わる前からあったような気もするが。
「あれ、進くんは帰るの?」
「ああ」
「もし問題ないなら、泊まってくれれば嬉しいんだけど」
 帰り支度を始めた進に気づいた姉崎が妙な提案をしてきた。嬉しいと言われるほど進は彼女と関わりはなかったはずだが、姉崎まもりはよく瀬那の話にも出てきていた幼馴染だったはずだ。進を引き止める理由は恐らく瀬那にあるのだろうと思い至る。
「セナも朝起きてあなたがいたら喜ぶと思うし。さっきもすぐ帰ってきたし、あんまり二人で話せなかっただろうから」
「………。空きがあるなら泊まらせてもらおう」
「ありがとう!」
 予想と違わぬ理由が語られた。起きて喜ぶかどうか、進は先程会いたいとはっきり言われたのでまず間違いなく喜ぶのだろうが、もし先程のことを夢ではないと理解した場合、瀬那は逃げる可能性もありそうだ。
「あれ、泊まるのか」
「引き止められた」
「ふうん。じゃあ俺も泊まろ」
 そうなる前に捕まえたほうがいいだろうか。瀬那の見せる感情は、進にとっていつ見ても愛らしく映るものだ。見せてもらえるなら見たいとも思うが、あまりつつき過ぎると気分を害してしまう可能性もあるだろう。
 逃げ出さないよう、慎重に。そう、瀬那に触れたあの時の力加減を忘れないようにしなければ。

 早朝、目を覚ました瀬那が最初に思い浮かべたのは疑問だ。
 ここがどこか。ホームステイ先の天井ではない。潜っているのもベッドではなく布団。ああ、そうだ日本に帰ってきたのだと瀬那は気づいた。
 昨夜はえらく良い夢を見たが、日本に帰ってきたからかもしれない。時刻はまだ早朝だ。まもりも鈴音も眠っているのを確認し、のそのそと布団から抜け出したところで昨日着ていた服のまま眠っていたことに自分で呆れた。栗田家に泊まることは始まる前にまもりたちと決めていたし、トランクの中には多少の着替えもあるにはあったというのに。
 そうだ。確か昨夜はグラスに酒が混じっていて、瀬那はまたも口にしてしまったのだった。未成年飲酒はこれでもう二回目である。瀬那は酒に酔うと走り込むことも確定した。わりと面倒な酒癖のような気がして溜息が出る。
「……あれ。進さん」
「おはよう」
「おはようございます……」
 時間はかなり早朝で、人の気配も感じなかったから誰も起きていないと思ったのに。洗面所までの廊下を歩いていると見知った姿が向かいから現れ、何故ここにいるのか瀬那は疑問符を浮かべてしまった。だがその直後、瀬那の脳内で全て線となって繋がった。
「………っ!」
 寝起きの洗顔前の顔だとかぼさぼさ頭だとか、そっちも気になり過ぎる要素ではあるが、今の今まで瀬那が夢だと思っていたことが現実にあったことだと突然理解した。理解してしまった。瞬時に耳まで真っ赤になった瀬那に、思い出したかと訳知り顔の進が問いかけてきたが、二の句を告げずに顔を覆い隠す羽目になった。いや男である彼に瀬那の乙女心は理解できないものなのだろうが。
「………、………。……ご、ご迷惑をおかけしました……。あの、……昨日ぼくが言ったこと……全部忘れてほしいんですけど……」
「それは無理だ。小早川の本心を聞いたと思うからな」
「うううう……」
「照れる必要はない。嬉しかった」
 確かに紛れもない本心が出てきていたことを思い出したが、そこまではっきり嬉しいと言われると瀬那も強く頼むことができなくなる。色々キャパシティの限界で、顔を覆って唸るばかりで何も言えなくなってしまった。
 寝癖がついていると言いながら進が瀬那の髪に触れる。
 髪を切っても気づいてくれない、と桜庭は呆れていたことがあったけれど、進は瀬那の変化には気づいてくれる。それは間違いなく特別であると瀬那にも理解できるものだった。