最後の夏

 進が大和のようなノッポではなかったことを有難く思う。
 瀬那は女子の中でも平均的な身長しかないし、こうして立ったまま手元を覗き込まれる時、ノッポだと今より更に屈ませてしまうことになっただろう。だから河川敷ではいつも座っているのだが、現在電車を待っている駅のホームで、列に並びながら携帯電話の使用方法を教えている状態だった。
 何度も言い聞かせたほうがいいと桜庭からの案だったので河川敷でもそうしてはいるが、何度も同じことを伝えてうんざりしていないかと瀬那は少し不安だった。確かに最近は携帯電話を手に持てる時間が延びているので効果はあるようなのだが。
 本日は花火大会である。浴衣を着てほしいと瀬那が控えめに言えば少し困った顔をさせてしまったけれど、進はきちんと着て来てくれたし瀬那の浴衣を褒めてもくれた。浮かれた瀬那は今日くらいは少し踏み込んだことをしてみようと思い、とりあえずいつもどおり通話の使い方を教えている最中である。最近は持つだけならわざわざ二つに折ろうとはしなくなったし、うまくいくことを祈っている。まあ改札機を通る際に壊すさまを目の当たりにして悲鳴を上げてしまったが。
「あ。あの、ぼくお腹空いたので何か買ってきます。進さんは何か食べたいものありますか?」
「特にないな。買いにいくなら付き合うが」
「あ、いえそんな。僕の分だけなら一人で行きますので……」
「一人で行かせてあの時のような輩に捕まっても困る」
 だよね。進はそういうことを言ってくれる人だ。
 露店も人も少なく座れそうな土手が見えてきて、そういえば空腹だったと瀬那は通ってきた屋台を振り返り、買い食いすることを提案したのだが、望む答えを導き出すには言葉だけでは足りなかった。
 瀬那のしたいことのためには別行動をしなければならないのだが、まさか瀬那の食事のために進をパシらせるなどできるわけがないし、以前のストーカーを知っている進は単独行動を良しとしない。巾着袋には自分の携帯電話と進用の予備の一つを入れてきており、瀬那は自分が普段使っている携帯電話を取り出した。
「あの、これ普通に使ってるぼくの携帯なんですけど。戻る時電話するので場所取っててください。振動したら通話ボタンです。じゃあ、行ってきます!」
「小早川、」
 目を丸くした進が名を呼んだ声を背に、人混みを縫いながら走り出した。浴衣の裾を気にしながらなので普段よりかなり遅い。追いかけられたら捕まっていたけれど、進は追っては来なかった。瀬那のしたいことを優先してくれたのだろう。
 進は要らないと言っていたが、せっかく二人でいるのに一人で食べるのは何だか味気ない。しかし無理に食べさせるのも嫌だ。買って戻って余れば両親に持ち帰ることを決めて、何を食べようかと露店をきょろきょろと物色し始めた。
「セナちゃん?」
「え。桜庭さん?」
「あれ!? 進は!?」
 焼きそばの屋台を覗いた時、並んでいた行列の一番前から声をかけられた。浴衣を着た桜庭と隣に立っているのはこれまた浴衣を着た綺麗な女の子。目を丸くして瀬那を見ていた。
「あ、いえ、待ってもらってます」
「えーっ、何で? 一緒に買いに来ればいいじゃん!」
「ええと、電話使いたくて」
「えっ……。だ、大丈夫なの? あいつ出られる? 逸れたままとかに……いやま、力づくで見つけそうだけどさ」
 慌てていたような桜庭の様子が急に神妙になり、恐らく彼女なのだろう女の子がただ困惑してしまっている。桜庭の想像に瀬那は口元を引き攣らせながら笑った。生真面目な進なら本当にありそうな気がするので困ってしまったが。
「大丈夫かな〜と……回を追うごとに壊さない時間延びてますし、ぼくの使ってる携帯預けてきたので……」
「いやそれは自殺行為だよ?」
「で、電話出るくらいなら……」
 進の機械音痴を瀬那より見てきた桜庭だ。瀬那の携帯電話が壊れるのを心配してくれているのだろうが、進を信じたのは瀬那であり、渡米まで数えるほどしか日数がないのである。
「一応力加減は頑張ってくれてるので……。元々会う時は一台だけ使うことにしてたんです。壊したらその日はもう解散することにしてて。だから、」
「スパルタ過ぎない?」
 それを決めた当初、携帯電話を手渡された進が早々に壊したので泣く泣く帰ることになったのだが、回を追うごとに保つ時間が延びているのは嘘ではない。今日は花火大会で、これで壊されてもこのまま別れて帰るしかなくなるのだが、そんなことは進はしないと瀬那は信じたのである。
 このペナルティは瀬那も正直辛過ぎたが、進ばかりが無理を強いるのは申し訳なかったのだ。
「寛大過ぎると思ったけどスパルタなの、そういや泥門だもんな……そういう無茶なことばっかやってたんだ」
「い、いや別にそこは関係ないかと……」
「頼んだのは俺だけどさ、無理しなくていいからね。エアメールがあるんだからわざわざ機械使わなくたっていいんだし」
「いえ、その。……ぼくも電話したいですし、何でもできる人だと思ってたので、嬉しいですよ」
 短所だとはっきり言えるような部分が進にもあるという事実が、追いかけるだけだった頃よりも身近に感じられて瀬那は嬉しかった。瀬那など得意なものだとか長所だとか、自慢できる部分が殆どないという体たらくだ。本当に何故、進が瀬那を好きになってくれたのかと不思議に思えるくらいである。
「セナちゃんが本当に良いならいいけどね。仏頂面で心配してると思うから早く戻りなよ。むしろよく追いかけずに残ったな」
「はは……はい。お邪魔しました」
「こっちこそ呼び止めてごめん。あ、見覚えある顔ちょこちょこ見たから、見つからないようにね。邪魔されそうだし」
「………、桜庭さんも。じゃ、じゃあ!」
 桜庭の一言に頬を染めたのをばれないようにしながら瀬那はその場から踵を返した。楽しそうに笑みを浮かべた桜庭の隣の女の子が手を振ってくれ、瀬那は会釈をして人混みへと進んでいった。

 焼きとうもろこしやいか焼きならまだ栄養がありそうな気がしたので、これなら進ももしかしたら食べてくれるかもしれない。両親も瀬那も食べるものだし、誰かの胃には収まるはずだ。自分が今食べたいものも購入し、瀬那はようやく巾着袋からもう一つの携帯電話を取り出した。
 緊張しながらボタンを押す。逸れても力づくで見つけそう、なんて桜庭が言っていたから進は見つけてくれるのだろうけれど(力づくとはどうやって、とも思うが)、これで出なかったら解散するしかなくなってしまうのだ。どきどきしながらコール音を耳にして、やがてぷちりと音が途切れた。
『小早川か?』
「―――、はい」
 携帯電話の奥から、好きな人の声が聞こえる。思わず立ち止まってにやにやと口元が緩み始め、瀬那は今いる場所を口にした。
 先程別行動のために別れた場所で見つけていた目印を探す。道なりに並んだ屋台が途切れた奥、薄暗く人通りも疎らになっている場所。電話で声を聞きながら瀬那は歩いた。
 対面で聞くばかりだった進の声が、端末を通した音として耳のそばで聞こえてくる。それが嬉しくて瀬那はゆっくりと歩いていた。
 でも、桜庭は心配していると言っていたし、早く戻って顔を見たい。暗闇でも人に紛れていても、後ろ姿だったとしても、進の姿は瀬那の目にすぐ飛び込んでくる。
「進さん!」
 見つけて声をかけた時、振り向いた進の奥でひと筋の光が夜空を割った。花火が始まってしまったと気づいたが、それよりも先に進との電話がうまくいったことを一緒に喜びたかった。の、だが。
 どおん、と耳を打つ大きな破裂音と同時に、瀬那は進に抱き締められた。
 本当に瀬那の私物ならうまくいった。その事実が擽ったくて笑いそうだったのに、現状の体勢を認識した瀬那の顔は真っ赤になった。
「し、進さん」
 瀬那を抱き締めた腕が緩む。とはいっても空間が空くようなことはなく、間近に進がいるのは変わらない。進越しに見上げた夜空にまた一つ花火が上がっていくのが見えた時、屈んだ進の顔が瀬那の視界いっぱいに広がった。耳をつく音も視界に残る光も、唇に当たる感触が花火を見る余裕など全部叩き落としてきた。
「……すまない」
 離れた唇のすぐそばで進が謝った。羞恥で涙が出そうなほど視界が揺れていた瀬那には、進の表情が泣きそうなのか嬉しそうなのか判断しかねた。ただ一つわかっていることは。
「………、……い、いえ」
 謝られるようなことはされていない。また抱き締めてきた進の腕に、緊張と安堵と照れととにかく色んな感情が入り混じってぐるぐると目をまわす羽目になった。

「電話……使えましたね」
 ハグ、キス、ハグのあと手を繋ぐ。いや順番がちょっとおかしくないかと少し瀬那は思ったが、機械を壊さないようになるまで触るなと言った桜庭の提案に、進は頷いて本当に指一本触れなかったわけだ。瀬那も寂しく思っていたが、進も我慢していたのかもしれない。一気に三つ終わらせたという事実は少し照れてしまうが。
 買ってきた食べ物を差し出してみると、進はしばし考えてから焼きとうもろこしに手を伸ばして食べてくれた。いか焼きは家に持ち帰ることにして瀬那はたこ焼きを食べ、食事の後も続く花火を手を繋いで見ていた。
 たぶん、力加減を頑張ってくれている。簡単にほどけそうに思えて案外しっかりと繋いだ手は、進より小さい瀬那の手に力を込めないようにしてくれている気がした。
 初めて触れる進の素手は分厚くて大きい。男の人の手だ、と急に意識してまた緊張したりして、何とも落ち着かない時間だった。
 しかし、緊張より嬉しいこともあったわけで。
「ああ。小早川の私物を壊すわけにいかないから、試合以上に気を張った」
「……ありがとうございます」
 瀬那の携帯電話は無事起動した状態のまま返ってきた。まさか本当に桜庭の言うとおり、瀬那の私物だから壊さなかったと進が言うとは思わず、事実だったとは照れるしかない。それでも心が満たされるのだから現金なものである。
「これ、進さんの予備の携帯電話です」
 先程瀬那が通話に使ったもう一つの携帯電話には、瀬那の携帯電話のシールと同じ物を貼っておいた。鈴音には笑われたけれど、見かけて貼りたくなったアメフトボールのシールである。
「今日みたいにこれ使って連絡取ってほしいです。文通はエアメールで、電話はこれでしませんか」
「……小早川の私物に似せたものを借りるのか」
 指摘されてふとお揃いになってしまったことに気づき、瀬那は一人頬を染めた。何度も照れてしまったので今更だが、顔を隠すように小さく頷いた。
「わかった。最大限注意しよう」
「……へへ。ここ押すとすぐぼくの番号出るので……」
 進にも見えるように画面を少し離そうとして、瀬那は髪に何かが当たる感触につい視線を上げた。目と鼻の先に手元を覗き込む進の顔があって、思わず仰け反りそうになるのを堪えたせいで動きがぎくしゃくとぎこちなくなった。
 先程のアレを思い出してしまい、頬の熱が引かなくなったまま必死に操作を伝えることになった。無理やり無心になろうとしても、ふいに握り直された手の存在感が強過ぎて無理だ。瀬那が狼狽えるのを楽しんでいたり、わざとやっていたりしないだろうか。進に限ってそんなわけはないのだろうが。
「すまない。考えるより我慢していたらしい」
 狼狽えた瀬那に気づいたのか、進は一言口にした。
 やはり進も我慢してくれていた。瀬那とて寂しく感じていたことを、きちんと進も気にしてくれていたのだ。
「い、いえ。………、……ぼくも、行く前に、……ちょっとでも触れたらなあって思ってました」
「………、……そうか」
 進と居ると考えていたこともどうでもよく思えてくる。
 進が瀬那の何を好きになったのか、など。好きだと思われていることがわかっていれば、それでもう充分だ。それだけでもう胸がいっぱいで締め付けられるような気分になるのだから、むしろこれ以上あると身が保たない。だって進は瀬那限定のたらしなのだ。気を抜いていると大変な目に遭うことを身をもって知っていた。
「そ、その、使い方とか注意とかばっかりでうんざりしてないかって思ってたんで、使ってもらえてよかったです」
「うんざりはしない」
 確かに、そもそもが手を抜かずストイックにトレーニングをする人だ。鍛錬の一種として携帯電話にも臨んでくれていたのだとしたら、いずれは使えるようになれたのだろう。
「小早川から言われることは苦に感じないからな」
「………。……ありがとうございます」
 やっぱり始まった。
 瀬那限定のたらしは健在で、トレーニングではなく瀬那の言うことだから聞いていた、という解釈をして瀬那はあまりの羞恥で膝に顔を埋めた。空気に晒された耳がとんでもなく熱くなっているのが自覚できていたけれど、どうせ暗いのだから誰にもわからないだろう。進にばれたとしても、こんなことになったのは進のせいなのだからどうしようもない。

「ありがとうございます」
「ああ」
 小早川家の玄関で向かい合い、送ってくれた進に一言礼を告げる。
 ここまでは恒例となったやり取りだが、特別だった今日は何だかもう少し話をしていたかった。
「……本当は、今でも変だなって思うんです。ぼくは進さんに総合力で勝てた試しがないし、アメリカに呼ばれたのはなんでぼくだったんだろうって。……でも、行くからには全力を尽くします。ちゃんと成長して帰ってきます」
 進にがっかりされたくない。幻滅されたくない。性差も体格差もパワー差も何もかもある相手だ。パーフェクトプレーヤーと呼ばれる進に、瀬那はたった一つの武器で立ち向かわなければならない。そのたった一つの武器だけは、磨くのを怠ってはならないものだ。
 できるかわからないことを、自信を持ってしてくると言わなければならないのだ。そうして皆己を磨き上げている。それがアメリカンフットボールプレーヤーだと瀬那は教えられた。
「……お前の、そういうところが好ましい」
「え」
「前を見据えたまま、俺を引きずり込んでいく。光速の世界に俺が入れたのはお前のおかげだ。電話も、小早川の物でなければ確実に壊しただろう」
 またたらしている。そう思うと同時に進の手が頬を撫でた。ひくりと肩が揺れ、緊張で視界も揺れた。頬に触れた手が腕を引っ張り、瀬那は進の腕の中に収まった。
 キスされるかと思った。
 予想していたことと違っていて恥ずかしくなったのだが、腕の力が花火の時よりも強い。力加減を試しているのかもしれないが、瀬那はもうどんなに力が強くても何でもよかった。
 進が好き。大好きだ。胸がいっぱいで何も言い返すことができないまま瀬那は抱き締め返した。