ただ一人の
「若菜さんあんな可愛いのに無反応なんだけど……」
「あー駄目駄目。進は筋肉でしか人を識別してないから」
瀬那以外は、だが。手伝い要因と称して監督に連れてこられた若菜だが、ドレスコードのあるホテルなのだから着飾ってきているわけだ。だがどれだけおしゃれをしていようと、部員の面々が小綺麗なスーツを着用していようと、進にとっては何一つ変わりのない普段どおりのチームメイトなのである。特別視という文字どおり本当に特別に見えている瀬那以外は、全員ただの筋肉だ。
そうでなくとも真面目過ぎる進が瀬那を見てきちんと褒めるかはわからなかったのだが、瀬那が会場に現れた時に進の動きは固まった。
瀬那の格好によっては恐らく驚くだろうとは思っていたが、思っていたよりわかりやすかった。良かった、瀬那限定の見え方は健在らしい。良いぞ、このまま褒めに行け。そう念を込めていたが、進はその場で監督に話しかけられ捕まった。くそ。
「うっわ、泥門の女子皆可愛い」
「若菜も混じってきたら?」
正確にはチアの瀧鈴音は泥門生ではない。着飾った姉崎まもりに鼻の下を伸ばしているモン太に以前聞いた情報だ。瀧の妹だからという理由でチアをするよう蛭魔が指示したのだとか。
「で、あれがフィッシュテールっていうシルエットのやつですよ、可愛い」
グラス片手に瀬那たちの元へ行こうと準備をしながら、若菜は泥門三人娘のドレス姿について説明してくれた。
姉崎まもりが着ているのがマーメイドラインというもので、瀧鈴音はレースをあしらったフェミニンなミニ丈ドレス、そして瀬那がフィッシュテールという前は膝上、後はふくらはぎまでという、前後でスカート丈の違うワンピースだという話だった。色もバラバラだったが、髪にあしらっている飾りが三人揃っている。
桜庭も女子の服について詳しいわけではないが、ぱたぱたと駆け寄っていく若菜の後ろ姿を見ながら華やかで眩しい、と目を細めてしまった。
「もー、誰か似合うねとか言える奴は泥門にいないの!?」
「勿論似合うよ三人共! 僕も似合ってるしね!」
「あんたのことはいいのよ!」
「硬派な漢はそうそう褒めたりしねえって言っただろ」
「いや、事実言やいいだけだろ、似合うって。何だよその意地は」
褒めている兄は換算されないようだが、瀧鈴音が振り向いて感心したような顔で十文字を見上げた。モン太と違って褒めるところはきちんと褒めるのが好印象のようだ。戸叶と黒木が大袈裟にも思えるほど騒いでいる。
「やー! モンジやるじゃん! ほら、セナも似合うでしょ?」
「それ無理やり言わせてるだけだから……」
「似合うッスセナ先輩!」
「あ、ありがと……」
勢いが必死にも見える中坊が率先して瀬那を褒めた時、進のいる方向からじわりとひりひりした空気を感じたのと、泥門内にも緊張が走ったように感じられた。戸叶と黒木が中坊を踏み潰そうと騒ぎ出し、十文字は唖然としていた。良いところを持っていかれたような気分なのかもしれないが、怒っている瀧鈴音とは対照的に、瀬那は少しばかり困ったような顔で笑っていた。
あの様子だと社交辞令に聞こえているのかもしれない。それとも相手が進でなければ嬉しくないのかもしれない。可愛い格好を進に見せたくて頑張ってくれたのかもしれない。どうにかして褒めさせてやりたいが、進は進でまだ監督と話をしていた。こんな日くらい後まわしにしたって怒られないだろうに。
卒業生たちのために開催したビンゴ大会も終了し、再び歓談の時間となった。少し落ち着き始めた頃、モン太がまもりに声をかけて会場の外へと向かっていくのを見ていた。
まもりは卒業するのだから、これから同じ高校で顔を合わせることはなくなる。告白すると意気込んでいたのを瀬那は知っている。砕ける可能性が高いことだってわかっているとモン太は言っていたけれど、それでも悔いを残したくないと決意していたのだ。
凄いなあ。素直にそう思う。まもりの気持ちがどこに向かっているのか、それとも誰にも向いていないのか。モン太はそれを知っているのかもしれない。それとも、まもりはモン太を受け入れてくれるだろうか。二人が納得できるようにできればいいけれど。
モン太たちが出ていってからしばらく経つと、会場内はどこか気が抜けたような雰囲気になり始めていた。
宴会場を貸し切っただけのドレスコードのあるただの飲み会。とは溝六が言っていたことだが、正に今そのような状況が当て嵌まるような気がしてきた。席を入れ代わり立ち代わりしていた参加者たちは、もう腰を据えて誰かと話し続けている。お開きのような空気になっているわけではなく、ただ気のおけない誰かと話しているだけの気楽な空間だった。
こういうひと段落ついたくらいの頃、焼肉店で鉢合わせた時の進はトレーニングを始めていたのを思い出した。まさか今回もしていたりしないだろうかと周りを見渡すと、進は宴会場の隅、窓際の小さなテーブル席に一人座っていた。
行ってみようか。それとも邪魔だろうか。進を見つけてしまった瀬那はそわそわと落ち着かなくなった。普段のパーカーと違いスーツを身に着けた進に見慣れないせいだ。
モン太が頑張っているのだ。せっかくなのだから瀬那だって話くらいはしたい。告白まではできなくたって、何とかしてプレゼントを渡したい。考え込むより行動だ。えいやと瀬那は足を目的の場所に向かわせた。
「あ、……あの、もしかして、疲れましたか?」
「……いや。考えごとをしていた」
「そうですか……お邪魔しちゃってすみません」
「邪魔にはなっていない」
そうは言ってくれたものの、進はやはりまだ考えたいのか無言になってしまった。瀬那もさほど話すのはうまくないので、黙られるとどうしていいかわからなくなった。黒美嵯川で会う時は、沈黙も苦には感じなかった気がしたけれど。
どうしよう。勉強のお礼と卒業祝いは鞄に入れて持ってきていたが、クロークに預けてそのままだ。取りに行こうかどうしようか。周りも好きに話しているので今がチャンスかもしれない。そうだ、卒業おめでとうと直接伝えてもいなかった。
「集合ー! 皆で写真撮るからこっち来てー」
クロークに向かおうと腰を浮かせかけた時、王城生の一人が声を張り上げた。それに勢いが萎んで瀬那はがくりと項垂れてしまった。声をかける前にクロークに取りにいけばよかったのだが、瀬那は元々要領が良くなかった。自分にがっかりである。
「行けるか?」
「あ、は、はい」
先に向かう背中を見つめながら、瀬那は溜息を噛み殺した。言えなかった。どうしよう。せっかく意気込んだけれど、別の日にすべきかもしれない。進が帰りに黒美嵯川を通るなら渡せるかもしれないけれど、通るかの確認もできなかった。この後話せる時間があればいいのだが、集合写真を撮ったら解散になりそうだなあ、と瀬那は寂しくなった。
いや。まだ可能性はある。黒美嵯川で待ち伏せしておけばいいのではないかと瀬那は思いついた。直後にストーカーではないのかと妄想のデビルバットが文句を告げてくる。瀬那が悩まされていた人と同じことをしようとしていることに気づいてやめることにした。
帰り際に声をかけてくれた桜庭から話を聞いて、瀬那はワンピース姿のまま慣れない靴で走ることを決めたのだが。
「進さん!」
スーツでトレーニングをするなと言われていた進は、黒美嵯川の河川敷を歩いて帰っていた。考えごとをしていたせいで横から現れた影に一瞬反応が遅れるという失態を演じてしまったが、目の前に現れたのは少し前に宴会場で別れた相手、小早川瀬那であった。
「す、すみません、帰りもここ通るって桜庭さんに聞いて、急に飛び出てきちゃって……」
ずっと考えていた相手が目の前にいる。夜道の黒美嵯川、誰かと帰っていたわけでもなく、一人で進を追ってきたか。一人で帰って危険な目に遭ったというのに、進を追いかけるためだけにまだそんなことをするのかと思うと、何ともいえない気分になった。
「あの、ちゃんと言えなかったので……卒業おめでとうございます。それからこれ、勉強のお礼と、卒業のお祝いと……ありがとうございます」
突然視界に現れた瀬那が街灯の下で頬を染め、ひどく柔らかな笑みを見せた。
進と話している時、瀬那は時折顔色を赤く染めることがあった。体調不良がそれほど頻繁に起こるものなのかと不思議に思ったが、気になりはしても瀬那の顔色の変化を見るのは嫌いではなかった。むしろ見ていたいと思えるほどの。
「……進さん? ど、どうかしました?」
応えなかったからか、不安げに瀬那の眉尻が下がる。
骨格から違う異性だというのに、彗星のように目の前に現れ、光速の世界に進を引きずり込んだ。進が見据え続けたただ一人の強敵手であり、進の想い人。
我慢が利かない。感情が溢れて落ちていく。伝えてはならないと決めたはずなのに。
いや。そもそも英語を教えると決めた時点で、進は向かってはならない道を行っていたのだ。
一度崩れたら、抑え込むのは難しい。ままならないものであるということを、進は今身をもって理解した。
「小早川」
「あ、はい」
「好きだ」
「―――、」
進へ差し出していたはずのプレゼントとやらを、声もなく瀬那はどさりと地面へ落とした。瀬那の表情は唖然としたまま、ただ進を見上げ続けていた。
「お前が誰を好きだろうとも邪魔をするつもりはないが、俺が小早川を好きだということは知っておいてくれ」
唖然とした顔が真っ赤に染まるのが街灯の下でもよく見えた。同時に泣きそうに目がじわりと揺れる。
そういえば、何故小早川の表情も顔色も、すべてこの目に見えてわかるのだろう。何度も指摘されたはずの視界は確かに瀬那の筋肉も見えてはいるけれど、普段の視界とは別に彼女だけは姿かたちが見えていた。他人とは何もかもが違っていた。
これが好意による特別視というものだろうか。それはいつからだっただろうか。もしかしたら初めて抜かれたあの最初の試合から、進は彼女を想っていたのかもしれない。見据え続けた結果、じわじわと侵食するかのように見えてきたのだろうか。何にしろ、自分はあまりにも節穴だったのだ。情けなくなりながら小さく笑みを浮かべた。
「大丈夫か」
真っ赤な顔のまま俯いた瀬那は、進の問いかけに勢い良くかぶりを振った。大丈夫ではないらしい。
「一旦落ち着くといい」
「落ち着けません……」
進の言葉にまたかぶりを振り、唇を噛み締めていた瀬那の双眸からほろりと涙が零れ落ちた。驚いた進は狼狽えたが、俯きがちの瀬那は気づかず目元を擦っている。
「何故泣く。それほど気を悪くしたか」
「ちが、すみません……」
「いや。俺のせいだろう、すまなかった。忘れてくれとは言えないが」
無理を言っているとは思うが、進の感情をなかったことにされるのは少々辛いものがある。鼻を啜りながら落とした荷物を掴み上げた瀬那を、河川敷のいつもの場所に座らせることにした。
「ち、違います。いや違うってのはちょっと違う気がしますけど……じゃなくてその……。ぼ、ぼくは、進さんのことを知りたくて、連絡先を……でも、なくて……」
要領の得ない、だが聞き捨てならないことを口にしながら瀬那は顔を上げた。泣いた痕、目を擦った痕が痛々しいというのに何故だろうか、いつも以上に。
「………、ぼくも好きです」
そう、綺麗に見えるのだ。進の視界がまたも瀬那に対してのみ見え方が変わったのかもしれないが。
聞き間違いかと疑った言葉は、間違いなく進が欲しかった言葉だった。
「……雷門太郎は」
「えっ? も、モン太ですか? ええと……あ、も、もしかして進さんは、男女の友情がない派っていう人ですか……?」
「………? いや、考えたことはないが。……以前、好きだと言う言わないと叫んでいたことがあった」
男女の友情の有無という議論は確かに一度部室でも聞いたことがあったが、女子の友人などいなかったし、恋というものをしたこともなかった進には無関係のものとして、トレーニングに集中したまま答えなかったことがある。先程の質問の仕方は、瀬那自身はあるという派閥に属しているということだろうか。
「ぼくとモン太が……?」
「ああ。だからそういう仲なのかと」
今日も瀬那は雷門太郎が姉崎まもりを連れてどこかへ行くのを寂しげにも見える視線で追っていたように進は感じられたものだ。しかし今の瀬那の様子は本当に困惑しているように見える。
「ま、まさかあ。だってモン太は、……別に好きな人がいるので、それを知ってるから有り得ないです。……しかもたぶんそれって、告白しろとかしないとかの話だと思うので……」
「告白?」
瀬那の頬から引き始めていた赤みが舞い戻ってきていた。進の言葉に口を引き結び、うろうろと視線を彷徨わせては眉尻を下げる。
「は、はい。モン太には、し、進さんに告白しろって背中押されたので」
「―――。……確認するが、先程の好きは俺を特別視しているということで間違いないか」
「は、……はい」
「……そうか」
色々と誤解をしていたらしい。どうしようもなく口元が緩みそうになるのを無理やり抑えつけながら、どうしても一言伝えておきたいことを言葉にするために口を開いた。
「……言いそびれていたが――今日の格好はよく似合っている」
頬を染めたままだった瀬那がぽかんと進を見上げてくる。元来進は人の外見を褒めるということを一度もしたことがなかった。それでも瀬那にだけは、伝えたいのだと強く考えてしまうのを我慢していたのだ。
「これを言ってしまったら、距離を違えていないか不安になったから言えなかった。遅くなったが……不快だったか」
抱えた荷物に顔を埋めた瀬那は、進の問いかけにまた強くかぶりを振った。
「……嬉しいです」
俯いていた顔を上げて一言口にした瀬那は、蕾が花開いたような、眩しさに思わず目を細めてしまうような笑顔だった。
どんな社交辞令も恐縮するばかりだった瀬那だが、進の褒め言葉だけは素直に受け止められたから本音を返した。進の言葉で一喜一憂するあたり、特別視だというのはまず間違いない。これは夢ではないかと思いつつ、隣にいるのは間違いなく本物の進であることに浮足立っていた。むしろ地面から浮いていたような気さえする。
「落としちゃってすみません」
「構わない、俺のせいだろう。ありがとう」
指摘されると瀬那は恥ずかしくなって顔を覆った。しかも泣いたりまでして非常に醜態を晒してしまったし、せっかくまもりにしてもらったメイクも擦って崩れてしまっていた。瀬那はそれほど濃いメイクを施されたわけではないけれど、それでも鏡でよく見れば目の下に黒が滲んでいたし、それを何とか元に戻そうとしているところを進に見られていたのも恥ずかしかった(背中を向けても視線を感じたのだ)。街灯の下だからそんなにわからないかな、ともはや祈るような気持ちで諦めてしまったが、そもそも試合で散々必死な顔も何もかも見られていたと思うから今更だ。試合とパーティーでは全く違う? それを考えると羞恥で逃げ出したくなるのでそう思い込むことにしたのである。
「ぼくも来年はもっと強くなって、進さんに追いつけるようになって帰ってきます」
「ああ。俺もそれまで己を磨き続ける」
二度目の秋大会でも更に強くなっていたというのに、まだ磨かれるのか。
だが、それでこそ進なのだ。本来雲の上の人だったのに、スピードだけが進と並んだ。瀬那には脚しかないのだから、それだけは磨くのを怠ってはならないのである。一年目の秋大会、あの試合で言葉無く訴えられた時のように、もう幻滅されたくはなかった。
「あの……今度こそ文通ができるかもしれませんね」
「ああ」
意外だったのか少し目を丸くした進だったが、相槌を打った後に口を開いて続けた会話に、瀬那はまたも頬を染める羽目になった。
「しかし、あの日記はすぐに小早川の字が見えたのが良かった」
「うっ……ぼく字が進さんみたいに綺麗じゃなくて……」
「良し悪しの話ではない。小早川の字だからだ」
「………、……あの。ずっと思ってたんですけど……進さんてたらしですよね……」
これを照れずに聞けと言われても瀬那には無理だ。真面目な人だから本心で言っているというのはわかりはするのだが、それを受け止めきれるかは別問題だった。本人がわかっていないようなのが余計に酷い。
「しかも天然の……女の子皆勘違いします。特別なのかもって思っちゃうんで……」
「勘違い? 小早川にしか言ったことがない」
「………。………、……そ、……そうですか……」
できればやめてほしいなあ。なんて言葉を続けるべきかどうすべきかと考えていたところにこの爆弾発言だ。ああ、これぼく限定のたらしなのか。そう頭の冷静な部分が理解したのだが、その事実は瀬那の頭を丸ごと沸騰させるに値するものだった。
「ああ。だからそれは不要な仮定話だ。これからもお前以外に言いはしない」
「………、はい……」
この世に進以上の格好良い人がいるのだろうか。
絶対にいない。こんなに瀬那を浮かれさせるような人は、瀬那の頭を茹だらせるような人は進しかいない。というか他に居られてもちょっと困る。
本当にもう、どうしようもないほどに。
心臓が暴れて落ち着かなくて走り出したくなるくらい、瀬那だって進が好きなのだ。