卒業準備
いまいち要領を得ない話を桜庭としたのが数ヶ月ほど前。提案された交換日記を始めてかなりの日数が経っていた。元々毎日顔を合わせるわけではない上に、大会の間は練習に集中するため数日ストップさせることも多く、ノートはようやく一冊書き終わり、二冊目に着手したところだった。のんびりだが順調そうだとは桜庭の言だが、ふと進は、桜庭には最初からわかっていたのかと今更ながらに気がついた。
最近変だよな、と桜庭が声をかけてきた時は、実際自分でも狼狽え過ぎていると自覚があった。
季節は冬。最後の関東大会が終わり、クリスマスボウルが終わり、進と桜庭は部活を引退して卒業を待つだけの身となっていた。大会は二年で終わりだという泥門の面々も、次の春大会には顔ぶれががらりと変わるのだろう。進は王城大学へ進むので受験というものはしないが、瀬那にはある。進の内心を知ってか知らずか、どうせなら勉強教えてやればいいのにと桜庭は軽く口にした。否、今考えれば明らかにわかっていて口にしたのだろうことが理解できた。
進より先に進の心情を理解して応援してくれていたのだろうと理解したのである。
しかし、進はそれを甘んじて受けるわけにはいかなかった。こればかりは道を踏み外すわけにはいかなかったのだ。
桜庭が考えろと言った心臓の緊張の理由を、進は真面目に考えた。何日も考えに考えて、ある日突然雷でも落ちてきたかのような衝撃と共に進は人知れず狼狽した。アメフト部での打ち上げとして焼肉店で食事を摂取していた時、背後に座るテーブル席から聞こえた話題がきっかけだった。
普段なら他人の会話など耳に入れることもない進が気に留めたのは、アイシールド21についての話題だったからだ。それも賞賛やプレーについての評価ならば目くじらを立てることもない。ただその時はアイシールド21という選手ではなく、その中身である小早川瀬那が女であることについて下世話に語ったものだった。
進が衝動的に立ち上がろうとした時、テーブル席の客もまた立ち上がって出口へと向かっていく。その様子にふと理性が戻ってきた進は立ち上がりかけた体勢をそのままに、頭を冷やすために手洗いへと向かうことにした。そこで頭と感情の整理をしている時に雷が落ちたのである。
今まで自覚したこともなく、恐らく感じたことすら初めてだった感情だ。しかし思い返してみれば、桜庭が理解者のように瀬那のことを口にした時の不快さも、雷門太郎と話していた時に感じたショックも、焦燥感にも似た何かが進の胸中を渦巻いていた。桜庭がずっと言いたかったことをふと理解したのである。
しかし進は、それを認めるわけにはいかなかった。
認めてしまえば恐らく、今までどおりにはいかなくなる。瀬那に対しての態度ではなく(それも変わるかもしれないが)、進自身の変化が起こってしまう。
今でさえこれなのだ、認めたら確実に欲しくなってしまうと断言できる。好意の奥にある独占欲が、制御できなくなるのが目に見えていた。
小早川瀬那は雷門太郎と好意を伝え合う仲なのだから、それだけは避けなければならないのだ。
そう思っていたというのに、クリスマスボウルが終わった後のノートに書かれた一文は進の感情を大きく揺さぶってきた。桜庭はそんな進の動揺に目敏く気づいたのだ。
*
「あれ、セナちゃん」
「桜庭さん」
たまたま寄り道した駅前の図書館で、瀬那が一人丸テーブルで本を広げていた。
クリスマスボウルが終わったばかりの年末の時期だが、もう受験勉強に精を出すのだろうか。丸一年あれば確かにいい成績は残せそうだが、年末年始くらい休めばいいのにと他人事ながら考えてしまった。
「もう受験勉強?」
ちらりと数冊出された本へ目を向けると、中学英語だとか英会話本だとか、主に英語の参考書のようなものが多い。苦手なのだろうかと不思議に思っていると、どうやら元マネージャーの姉崎まもりや十文字からおすすめのものを教えてもらい、図書館で確認してから購入を決めようとしていたのだという。
「今からでも間に合わない気がしますけど。その、留学することにしたので」
「えっ!? そうなの!?」
驚きに声が大きくなり、桜庭は慌てて周りに会釈をしながら声を潜めて向かいの椅子へと座った。
どうやらアメリカにいるクリフォードから直々に誘いの連絡があったらしい。留学を決めたとはいえ、瀬那自身も未だに何故自分なのか謎なのだという。
「パンサーくんが何か言ったのかも。三年の夏から半年なので帰るのはたぶん、卒業の頃だと思います。迷ったけど……もっと追いつけるように、行こうと思います」
最強ランナーの称号を持っているとはいえ、強敵に完全勝利できているわけではないからと瀬那は言う。ただでさえ女子というハンデがあるのだから、できることは全部してしまいたいのだと。前だけを見据えるその姿は、女子だ何だというものが全くどうでもいいものに思えてくるくらい真っ直ぐだ。
半年アメリカへ。泥門の三年は引退して大会には出ないと聞いたし、瀬那ももう出場はない。留学には絶好の期間だとわかる。
「進には言ったの?」
「あ、ええと、口では言ってないですけど……」
交換日記か。未だに続いているのは二人だからこそのような気もして微笑ましいが、そうか。
もしかして進の様子が変だったのはこれが原因だったのだろうか。何も言ってこないが、いい加減感情を自覚したりしていないだろうか。していたら教えてほしかったが、やっぱり未だに無自覚なのだろうか。最近の進はよくわからなかった。
「そっかあ……留学ね。凄いな」
勉強が苦手で英語もからきしだという瀬那だが、たとえわからなくとも留学には行くという覚悟がある。アメフトに出会ってから、そうして目標にだけ進もうとしてきたのだろう。あまりにも眩しくて、あまりに進とお似合いに見えた。
「……英語か。そういえば進も勉強はできるし、教えてもらったら?」
「え!?」
今度は瀬那が大きな声で驚き、慌てて口を塞いでペコペコと頭を下げている。やはり謝り慣れた様子に見えて何だか切ない。
「どうせ卒業式まで何もないし。俺も進もエスカレーターだからね」
「そうなんですか……」
頼るかどうするか、気持ちが揺らいでいるのではないだろうか。そのまま頼ってくれれば進も機嫌を治すかもしれない。そう単純ではないような気もするが。
「本当に教わりたいなら俺からも言っとくよ」
「い、いやいやいや。迷惑になると思うので……」
まず間違いなく瀬那ならば進は迷惑に思ったりしないはずだが、あの仏頂面では勘違いされても仕方なくはある。瀬那には進の気持ちが伝わっていないらしい。この調子ではまだ自覚していないのだろうなとぼんやり呆れてしまった。恋など今までしなかったのなら仕方ないか。
「まあほら、進もわりと頼られるの嫌いじゃないからさ。聞いてみなよ、ランニング中にでも」
「そ、そうなんですね……その、卒業式っていつなんですか?」
「三月九日だったかな」
照れたように焦る姿が可愛らしい。桜庭が伝えた日にちをぽそりと反芻する様子から、もしかしたら進に卒業祝いのプレゼントでも考えてくれているのかもしれない。桜庭が相談されれば答えるのはただ一つ。機械はやめておけということだけだ。
やはり桜庭には瀬那の気持ちがばれているような気がひしひしとするのだが、それを確認するのは気持ち的にもできなかった。瀬那の知らない進の情報をくれるのは嬉しいけれど、観察されていたりしないかと自意識過剰なことを考えてしまう。
しかし、頼られるのは嫌いではないという桜庭の情報だ。交換日記を提案してくれたこともあるのだし、桜庭を信じて当たって砕けてみるべきだろうか。断られた時が怖いけれど、そんなことを言っていてはこの先も諦め癖が抜けなくなりそうだった。
これは試合だ。進との試合。そう思えば少し勢いもつくかもしれない。そう思って瀬那は黒美嵯川へと向かった。
「それで、そのぉ……え、英語をですね……教えてもらえないかなと……」
「俺がか?」
わかりやすく驚いている。あくまで学業での英語は勉強しているが、実際に使えるレベルにあるかはわからないと進は言う。ワールドカップでアメリカに行った時、周りは日本人選手ばかりだったし、外国語で話しかけられても大和なり筧なり、英語に堪能な誰かが率先して話してくれていた。進も瀬那もあまり英語を使う機会がなかったのは間違いない。
断りたいのかな、と瀬那は残念に思った。桜庭が教えてくれたのは、相手が桜庭のような友人だから頼られたのが嬉しかったのかもしれないし。よく考えるとかなり図々しい頼みだった。
「いえ、都合が悪いならいいんです。すみません、急に」
「………」
瀬那の隣に座る進の横顔が、どこか苦しげに見えたのはやはり瀬那の頼みが嫌だったからだろうか。ぐっと眉間に皺が刻み込まれ、目を瞑った後すぐに瞼は持ち上がった。瀬那へと視線を向けた時は、普段の進の空気だったけれど。
「わかった。会話に使えるかはわからないが、力になろう」
「あ、ありがとうございます……む、無理はしてませんよね……?」
「していない」
返答に安堵はしたものの、瀬那はあまり喜べなかった。
嘘とまではいかなくとも、瀬那に気を遣わせないよう気配りをするということは進だってするのではないだろうか。複雑そうな表情が瞼から消えてくれなかった。
やはり嫌なのかもしれない。小遣い制である瀬那には給料の支払い能力などまるでないのだが、せめて礼を渡すべきだと考えた。礼と一緒に卒業祝いも渡せばそうおかしくはないだろうか。
食べ物なら形が残らなくて受け取りやすいかな、とぼんやり考えていたのだが、よく考えたら進は食事もかなりきっちりと摂るべきものを摂っているのだった。嗜好品など渡したら持て余すかもしれない。ああどうしようかなあ、と瀬那はまた一つ浮き上がった問題に頭を抱えそうになった。本人に欲しいものを聞けばいいのだが、不要と言われたらどうしようもない。引き下がるしかできなくなるので、瀬那はどうすべきかを悩むことになった。
その日瀬那が学校で勉強してわからなかったところを進と黒美嵯川で会った時、河川敷でノートを広げて教えてもらうことにした。どこかの店に入ればいいとも思うのだが、ランニングの時間を貰っている以上はできるだけ不要なことはやめておきたかった。
会った時のほんの数十分。それでも瀬那は充分嬉しかったし、進は教えるのがうまかった。
凄い! わかった! なんて瀬那が子供のようにノートを掲げてはしゃいでしまった時、進は少々目を丸くしていたけれど、ほんの少しだけ柔く笑みを向けてくれた。一年の時のあの準決勝の後も彼は笑みを見せてくれたが、あの時よりも柔らかくて瀬那は不覚にもどきどきしてしまった。進から目を逸らした瀬那は誤魔化すようにノートに顔を向ける。
馬鹿みたいに喜んだのは最初の一度だけだ。その代わり、教わっている間の進の笑顔もその時だけだった。少し、いやかなり残念ではあったけれど、教えてもらっているだけでも有難いのだからそれで満足しなければ。だって見てしまったら、また心臓が落ち着かなくなってしまうので。
「え、どぶろく先生が卒業祝いを?」
そうして年末年始が過ぎ、まもりたち三年のセンター試験が終わり、デビルバッツでも卒業祝いをどうするかと考えていた時のことだ。ホテルの宴会場を貸し切って卒業パーティーをするからと、わざわざ引退したはずの瀬那たちまで部室に呼び出されて伝えられた。
「また借金したのかよ」
「それが、王城の庄司監督と折半というか、合同でパーティーすればいいという話になったらしいッスよ」
「わかんないよどういう理由!?」
呼び出されたのは蛭魔たち三年生もだった。相変わらずの溝六にまもりが呆れ、蛭魔も武蔵も呆れ、栗田と雪光は苦笑いを漏らす。クルーズ船の二の舞になるのではとまもりと同様に瀬那も焦ったが、どうやら王城はそもそもアメフト部で毎年卒業パーティーを開催しているらしく、それを聞いた溝六が合同でやることを持ちかけたらしい。王城の監督がついているならストッパーになってくれているだろうか。
しかし、王城との卒業パーティーだなんて。本来なら瀬那たちは参加しないはずだが、王城の部員が多いから泥門の少なさが際立ってしまうだとかで、強制的に引っ張り出されることになったようだ。
進も卒業。同じ高校生だった今までも遠い人だったけれど、それでも交換日記をしている間、距離は近づいたような気はしていた。気がするだけのような気もしないでもないが、瀬那としては嬉しかった出来事だ。
その日は迷惑をかけないようきちんと弁えなければ。他にも祝いたい人はいるのだし、彼の邪魔をしないよう瀬那は挨拶だけして、残念だけれど不必要に近づかないほうがいいかもしれない。
「王城ととか、めちゃくちゃおめかししないとねセナ!」
「せっかくのパーティーだもんね。じゃあ三人で服買いに行こうか。セナの服選ぶの久しぶり!」
「え〜……パーティー用のでしょ? 似合わないし……」
まもりと鈴音なら目を惹く美少女なのだから、着飾れば皆喜ぶだろうけれど。二人で行ってくればと言いかけた時、まもりが怒ったような顔をしていることに気がついた。
「そんなことないわよ! 似合わないって誰が言ったの!?」
「いっ、言ってない言ってない!」
「本当に!? 言われたら私に言うのよ!」
「わかったから!」
久々過ぎるまもりの過保護が炸裂し、瀬那は慌てて必死に宥めた。確かに口にして言われたことはないのだが、まもりと並んで立っているだけで言いたいことは伝わってくるような気分だったのだから仕方ないと思う。それをまもりに言ってもわかってはもらえないだろうが。
「セナのワンピースって……いや、似合うやついくらでもあるだろ」
「俺が似合うやつ描いてやるよ」
「そ、そうッスよセナ先輩! 自分は、ええと、見たいッス!」
部室で丸聞こえだったやり取りだ。十文字が想像でもしているかのように天井へと目を向けて一言呟き、戸叶が適当なノートを取り出して急に絵を描き出した。便乗して中坊も気を遣って続いてくれる。それはそれで逆に恐縮してしまうのでやめてほしいが、気を遣ってくれた気持ちは嬉しくはあった。
「でも慣れないし……」
「私だって慣れないよー! インラインスケート履いてるほうが楽だもん。でもたまにはいいじゃん、三人でお揃い買おうよ!」
「それ似合わないやつじゃ……」
「姉妹みたい! 楽しみだね鈴音ちゃん!」
まもりが話を聞いてくれなくなったが、つられたのか鈴音もはしゃいで瀬那一人置いてけぼりだ。はあ、と溜息を吐いた時、気づいた鈴音が肩をぽんと叩いて笑みを見せた。
「大丈夫だってセナ! 私自信あるんだもん」
「鈴音にあっても……意味なくない?」
「大丈夫! 全員どきーっとするようなやつ選ぶよ!」
「いや、無理でしょ……」
壮大すぎる夢を口にした鈴音だが、何故か部室は盛り上がった。キッドではないけれど、変にハードルを上げてがっかりされるのは嫌なのだが。特に、進には。