セカンドミッション

 次のミッションはアドレスを聞くこと。
 何故そんなことになっているのかわからないが、まあ流れとしては理解できる。たまに会う敵チームのエースという微妙な関係ではあるが、試合外なら少し話したりもするような間柄にはなっている。では次、携帯番号とメールアドレスを聞こうとするのは決しておかしなことではない。
 しかし、進にメールアドレスを聞くという行動の難易度が異常に高く感じるのは、瀬那の気持ちを置いておいても勘違いではないはずだ。何というかこう、どうしても進が携帯電話をぽちぽちしている姿が思い浮かばない。
 だがそんな理由は鈴音の前ではないも同然である。黒美嵯川を歩きながら瀬那は溜息を吐いた。
「何だよ元気ねえな。本格的に風邪か?」
「違うよ……進さんの番号聞いてこいって鈴音から言われてるんだけど……どうやって聞けばいいかなって」
「何だそりゃ。普通に教えてくださいって聞けばいいだろ」
 そもそも瀬那は引っ込み思案で、アメフト部に入ってからようやく人並みに話題を振ることができるようになってきたのである。他校の先輩、敵チーム、いつも相手から教えてほしいと言ってきてくれていたし、そんな微妙な関係の人に自分から聞くのは難易度が高い。しかも相手は進だ。
 しかし鈴音に言われずとも、瀬那だって進の連絡先は知りたかった。何というか、試合だけでは見えない色んなことを知りたかった。どんなものが好きでどんな生活をしているのか、そういう他愛もないことを知りたかったのである。
「てかなんで鈴音が進先輩の番号聞きたがるんだ?」
「や、その……鈴音が聞きたいんじゃなくて……」
 不思議そうに疑問符を浮かべるモン太に見つめられ、いたたまれなくなった瀬那はじわじわと顔に熱が集まるのを感じたが、抑えることができなかった。その様子を見て目を丸くしたモン太がやがて満面の笑みを浮かべ、瀬那の肩を力強く掴んだ。
「おいおいセナー! いやいやわかるぜ、年上に憧れる気持ちはよ。しかも進先輩なら納得だ」
 まさかモン太にばれるとは。慣れない感情にどうしようもなくなってしまった瀬那が悪いのだが、陸以来の男友達であるモン太は案外瀬那のことをよく見ている。誤魔化せなくなった瀬那は溜息を吐いた。
「や、そのぉ……」
「何だよ、煮え切らねえな。もっとでけー声で好きだって言えばいいだろ!」
「そ、そんな、モン太だって言えないくせに何言ってんの!?」
「ムキャー! そんなん漢はなあ、おいそれと言ったりしねえのよ! おっ、進先輩!」
「えっ!?」
 立ち止まって顔を突き合わせていたモン太の視線の先を振り返ると、いつもどおり走ってくる進の姿があった。いつもこの辺りで見かける服装で、もはやそれすら格好良く見えるのが取り返しのつかないところまで来ている気がした。いや、元から進は格好良い人だとは思ってはいたが。
「ほれ行け、俺先急ぐからな!」
「ちょっ、と待っ、も、モン太ぁ……」
 こっそり耳打ちしてきたところを捕まえてしまっても、今すぐ追いかけて捕まえてもよかったが、瀬那としても鈴音のミッションは遂行したい気持ちはあるのだ。頑張れ瀬那、番号を聞くだけだ。他の人とも交換したことくらいある。自分から言うのは初めてだが。近づいてくる足音に心細くなりながらも、意を決してもう一度瀬那は振り返った。そのすぐ後に進の足がスピードを落とす。
「……雷門太郎は家が近いと聞いた気がしたが、気のせいだったか」
 進の雰囲気はいつもピンと張った糸のような、気が引き締まるような感じではあったけれど、今は空気が何だか痛くてひりひりするような気がした。どこか怒っているような、機嫌が悪いような。嫌なことでもあったのだろうか。瀬那が声をかけようとしたからだろうか。怯んでしまいそうになるのを必死に堪えて瀬那は口を開いた。
「や、その、今日も用事があるとかで……途中まで一緒に帰ってもらったんです」
「………、そうか」
 ほんの少しだけ緩んだ気がしたけれど、それでも進の空気はひりついてくる。何だろうこれは。試合の時とは違う、何だかいたたまれなくなるような気分だった。
 しかし、目的の達成のためにも瀬那は覚悟を決めなければならないのだ。せっかく足を止めてくれたのだからと瀬那は唇を引き締めて、眉を釣り上げて進を見上げた。
「あ、……あのぉ……れ、連絡先とか、交換しませんか……」
 勢いは口を開くまでしか保たなかった。進に連絡先を聞くのがこれほど力を消耗するとは、考えていた以上である。きっと他の人ならもっと気軽に聞けたとも思う。こんなに勇気が必要なのは進だけだ。ああもう、身の程知らずにも程があるが、やっぱり瀬那はそうなのだと認めるしかなかった。
「……連絡先?」
 あ、から既に俯いていた瀬那が恐る恐る顔を上げると、進は驚いたように薄っすらと目を丸くしていた。よほど瀬那が連絡先を聞いたことに驚かれたらしいが、断られる前にとにかく言ってしまおうと瀬那はまた口を開いた。
「は、はい。進さんの携帯番号とか、メールアドレスとか……教えてもらえたらなと……」
 またも俯きかけた視線を無理やり斜め前に向けると、一瞬進の視線が惑うように揺れたように見えた。瞬いた後はそれも見えなくなったから見間違いだったかもしれない。進の口が薄く開いたのを目にして、ぎくりと瀬那は身体を強張らせた。
「すまない」
 あ。
 やっぱり駄目だった。
 まあ、それはそうだ。所詮瀬那はただの敵チームの選手でしかない。こうして顔を合わせれば挨拶くらいはするけれど、結局はそれだけだ。勇気を出してみたけれど、失敗すると心にくる。今し方認めたばかりだけれど、好きな人に断られるのはこんなに苦しいのかと驚いた。ちょっと泣きそうだった。
「機械関連は触るなと言われている」
「……へ?」
 予想していたのと全然違う理由のようなものを告げられて、緩みかけた涙腺がきゅっと閉まるのを感じた。泣きそうだったのに、よくわからなくて疑問ばかりが先に募ってくる。
 機械関連は触るな。誰に言われたのだろう。何故触ってはいけないのだろう。触らないと生活なんてできないと思うけれど、どうやって過ごしているのだろう。瀬那が疑問符を浮かべ続けるのを見兼ねたのか、進は少しいつもと違う声音で話し出した。
 どうにも機械を持つといまいち動きがおかしくなるらしく、何度も壊したと言われて禁止令が出たのだとか。いつまでも触らずにいるのもどうかと思って挑戦しようとしても、周りが目敏く見つけては即座に取り上げられるのだという。いつもと違う進の声音は、もしかしたら拗ねているのかもしれないと考えてしまった。瀬那は進に可愛げがあることに感動して、進にも苦手なものがあるのかと驚いて、そんな反応がおかしくてたまらなくなった。
「………、ふふ……す、すみません。ごめんなさい、面白くて……」
 笑ってはいけない。本人は本当に困っているかもしれないのに失礼だと頭ではわかっていても、どうしても震える肩と声を我慢できなかった。瀬那が嫌で断られたわけではないらしいというのも気が緩む理由になって、何とかして笑いを引っ込めようと頑張った。
「あの、じゃあ、ええと……進さんと連絡を取るにはどうしたらいいですか?」
 進の普段など瀬那は知らない。ランニング中と試合中の彼しか知らないけれど、今日の進は瀬那の知っている彼からは有り得ないような雰囲気を持っていた。またも驚いたのか薄っすら目を丸くしていた進が、瀬那の問いかけに更に不思議そうに眉を顰めた。
「俺と連絡を取りたいのか?」
「う。……は、はい」
 改めて問い返されると恥ずかしい。顔が熱くなるのを感じながらも恐る恐る頷くと、ひりひりしていた進の空気が消えたように感じられた。何だかわからないが、いつも会う時の雰囲気に戻った気がする。
 というか問い返されて気づいたが、こうして顔を合わせているのに連絡を取りたいのは何故、なんて質問が来たら瀬那は答えられなくなる。そんなのもう告白紛いになってしまう。
「……そうか。手紙なら書けるが」
「手紙……じゃ、じゃあ今度書いてきます」
「わかった」
 古風だ。携帯電話を持てない進にはそれが一番まともな連絡方法なのだろうか。というかいつも本当にどう生活しているのか気になって仕方ない。手紙で聞いたら答えてくれるだろうか。
 深くは突っ込まずに頷いた進に安堵しながらも、これは気を遣われたのではないかと不安になった。急に連絡を取りたいなどと言って、考えなくても理由は明らかだ。ばればれではないか、恥ずかしい。
 けれど。
 ばればれだとしても、瀬那がはっきりと言わなければ事実にはならない。
 もう少しだけ、素知らぬふりで近づいてもいいだろうか。できればばれないように、ばれていないといい。送ると口にした進に驚愕して散々断っても結局は送ってもらうことになり、ぼくって現金、と喜んだことを反省しながら帰路についたのだった。

「小早川に連絡先を聞かれたが」
 ごふ、と飲みかけたスポーツドリンクが器官に入って桜庭は噎せた。
 電話を禁止されている進は連絡先を聞かれても返答することができず、やむを得ず手紙ならば問題ないと告げると書いてくると言ったのだという。瀬那のような控えめな子がまさか先に行動するとは。女の子は積極的だなあ、と自身のファンを省みながら感心した。
「そうかそうか。そうなるともうお前が機械使えるようにならないと駄目だな」
「おかしいのは機械だ」
「お前がおかしいんだよ! 何で機械をまず二つに分けようとするんだよ……」
 進のこれだけは本当にやめたほうがいいのでは、と諭したくなる気分になるが、これさえ差し引けばアメフトのパーフェクトプレーヤーである。性格は生真面目で面白みのない男だが、まあ、その分裏切るようなことも恐らくない。他でもない瀬那ならば尚更彼女しか見ていないのだし。
 しかし、せっかく瀬那から連絡先を聞かれて手紙を渡すと言われているのに、何故進はあまり喜んでいないのか。何かあったのかな、と気にしつつも手紙かあ、と桜庭は考えた。
「メールなんかはすぐやり取り見返したりできるんだけどなあ。あ、どうせなら交換日記でもやれば? ページ捲ればセナちゃんの書いたとこ読めるし、自分がなんて返したかもわかる」
 若干冗談のつもりではあったが、高校生で交換日記をするという事実にさえ目を瞑ればそう悪い提案でもないような気がしてきた。
 ランニング中の河川敷で会った時に受け渡しをすれば進も機械を使わずに済むし、一番安全ではないか。まあ聞かれたのは連絡先なので、住所くらいは教えてもいいのではないかと思う。瀬那ならば悪用することもないだろう。向こうが恐縮してしまうかもしれないが。
「わかった」
「わかったのかよ……」
 注意深く観察してみたが、浮かれているのか凹んでいるのかよくわからなかった。浮かれるのはわかるが何故凹んでいるように見えるのだろう。本当に何かあったのかもしれないが、瀬那が進を凹ませるようなことをするとも思えなかった。
 しかし、この感情の浮き沈みは今までにないものだった。不調のようなものがあるとわからないのか、何が原因でこうなるのか自分で気づかないものなのか。気づいたら、進は桜庭に教えてくれるのだろうか。今はわかっていないからさらりと伝えてくれるけれど、意識して気づいた時、こいつは一体どうするのだろう。
「ま、頑張れ」
 ふ、と桜庭は笑みを漏らした。控えめな瀬那にばかりリードさせてしまっていたら、桜庭は進に思い切り情けないと罵ってやることにした。
 しかし、こんな提案をしてしまったが、交換日記を瀬那は喜ぶのだろうか。小学生じゃあるまいし、と気を悪くさせたら桜庭も良心が痛む。進の機械音痴を考慮した結果ということだけはわかってもらわなければならないのだが。

*

 部屋に戻って鞄からノートを取り出す。部活後の遅い時間ではすぐにゆっくり見る時間はない。なので夕飯を終え、入浴を終え、あとは寝るだけという状態になってようやく邪魔されずに読むことができる。布団に潜り込んでスタンドライトの明かりだけを点けて、掛け布団を頭まで引き上げてノートを開く。かっちりとした進らしいと思えるような字がノートに広がっていた。
 これを眺めるのは三回目だ。最初差し出された時は驚いたが、進が機械を使えないのなら交換日記は有用なのだろう。
 高校生にもなってしないだろうという人がいることも何となくわかっているのだが、そもそも瀬那は小学校でも交換日記などしたことがなく、初めてこれを渡す人ができたというのも非常に嬉しかった。何より進もしたことがないと言うのだから更に喜んでしまったのである。
 桜庭が提案してくれたと聞いたので、桜庭には瀬那の気持ちがばれていそうだと不安になったが、進の友人ならば仕方ないと諦めることにした。そもそも鈴音もモン太も知っているのだから今更な気もするので。
 手紙を渡そうと意気込んでいた日に真っさらなノートを渡されたので引っ込めようとしたのに、進はそれの返事を書くと言って手紙とノートを引き取った。
 しかし、瀬那は手紙もかなりの難産だった。元々説明だとかうまく話すということが苦手な瀬那は、文字にする手紙でもそんな感じだ。本当につまらないことばかり書いてしまっているのだと必死にハードルを下げ、何なら往生際悪く取り返そうとも思ったのだが、進はものともせず瀬那に言い放った。
「小早川と話していてつまらないと思ったことはない。思うまま書いてくれればいい」
 やっぱりたらしではないだろうかと瀬那は考えた。さらりと瀬那の嬉しい言葉を告げてくる進が計算しているようには見えず、天然のたらしなのだろうと予想した。こんなのでは桜庭と同じくらい女子ファンがいてもおかしくないはずだ。
「……進さんも思うまま書くんですか?」
「そうだな」
 瀬那にするよう言っておいて自分がしないのはおかしい。そう呟いて頷いた進に瀬那は思わず口元が緩んでしまった。
「わかりました。じゃあ、つ、つまらないと思いますけど……進さん?」
 ぼんやりしているような気がして呼びかけるとふいに進の視線の焦点が瀬那へと戻ってくる。よろしく頼むと口にした進に瀬那は笑みを向けた。
 優しい。最初は怖い人だったのに。クリスマスボウル行きを自慢されて、意地悪な人だとも思ったことがあった。まあこれは勘違いだったのだが、印象はどんどん塗り替えられていった。ただ一つ変わらなかったのは、何をしていても格好良いということだけだ。そう、瀬那はずっと進を格好良いと思っていたのである。

 小早川を見ていると時々妙な心臓の動きをする。
 脈拍が速くなり、体温が上昇して熱が燻るように篭っていく。落ち着きがなくなり発散しなければどうにもならなくなりそうになる。
 そんな言葉を聞かされた桜庭はただひくりと口元を引き攣らせ、小さく相槌を打つだけしかできなかった。
 そこまで分析できておいて理由に思い至らないのもどうかと思うが、進の頭にそもそも恋愛という概念がないのかもしれない。いやどんな高校生だよと思ったものの、片っ端から機械をぶっ壊していく高校生なので今更だ。勉強もできてアメフトではパーフェクトプレーヤーといわれるほどの男が、私生活では本当に頭が痛くなる。なんで料理だけはできるのかが不思議でならない。
「あ、そう。そこまで分析できたら後は病名を探すだけだな」
「病名……俺は病気なのか」
「まあね。しかもこれが厄介なことに医者では治せないやつな。そういう妙な心臓の動きするの、セナちゃんの前だけなんだろ?」
「ああ」
 素直に頷く進を見ながら桜庭は少々恥ずかしくなった。わかっていないからここまで赤裸々に教えてくれているわけだが、いざ気づいた時進は狼狽えたりするのだろうか。それを表に出すことはなさそうだが、桜庭なら気づけるかもしれないと少し楽しみになった。
「進の心臓はセナちゃんに反応してるんだよな。それは何でだろうな」
「……わからん」
「考えてみたらいい。前も言ったぞ。セナちゃんを見てどういう時に心臓が反応するのか、よく思い出してみろよ。反応した時お前はどう思ってたのか。交換日記読んでる時とか顔緩んでたりしてな」
 桜庭なら好きな女の子にどういう時にどきどきするのかと考えて、やはりメールのやり取りをしている時はにやけていたような気もすると思い出した。まあ、世の男子高校生は大体そんなものだ。
「何故わかる」
「まじかあ」
 それが進にも当て嵌まるのだから、結局男なんてのは例外などない。他の子ならそうはいかないかもしれないが、きっと相手が好きな子なら進でさえ単なる男子高校生になってしまうのだろう。
 できればこのまま普通の男にしてやって、機械音痴も治してくれればなあ、などと桜庭は思ってしまったが。