恋に落ちる瞬間は
人が恋に落ちる瞬間を目の当たりにしたのは初めてかもしれない。
たまたまだった。進がいつもランニングコースにしている黒美嵯川を共に走っていただけの偶然。河川敷をランニングコースにしているのは進だけではなく、時折アイシールド21――小早川瀬那とも鉢合わせるのだと聞いた。会った時はこれまたたまに一緒に走ったりもするのだと、進の声はほんの少しだけ弾みながら教えてくれた。中学から一緒にいた桜庭しか気づかないような弾み具合だったが。
相変わらずわかり難いけれど、小早川瀬那が進にとって特別であることは間違いない。後にも先にもあれほど執着したプレーヤーはアイシールド21にだけだった。蓋を開ければ正体はまさかの女の子だったが、それも進は早い段階で気づいていたのだろう。何せ人を筋肉で識別するような奴である。
と、それはともかく、一先ず進については後まわしだ。
唖然としたまま固まった瀬那の視線が進へと向けられている。制服だから練習が終わって帰るところだったのだろうことは間違いない。その彼女が見ているのは進。進が掴んで腕を捻り上げている男には一瞥もくれずに。
正確には、怯えた目が男を見ていたはずが、視線が進へと吸い寄せられるように固定されてから外せなくなった、というところか。それも理解はできる。だって確かに、こいつは格好良かったので。
黒美嵯川を走っていた時に見かけたのは瀬那と他にもう一人。遠目には話し込んでいる様子だったから、泥門の知り合いなのだろうと桜庭は考えたのだが、近づくにつれて瀬那の表情が怯えを乗せていることに気がついた。掴まれた手首を外そうとしているようにも見えたので、さり気なさを装って割り込んでしまうかと桜庭は考えた。桜庭より威圧感のある進に向かわせれば男も怯むかも、と思って進に声をかけようとした時、進はいつの間にか瀬那の手首を掴む男の腕を捻り上げていたのである。
「知り合いなら放す。謝ろう」
「………、し、知り合いじゃないです」
「そうか」
「うぎゃ!」
捻り上げていた腕を更に背中で固定し、瀬那を背中に庇うように男との間に身体を割り込ませ、悲鳴を上げた男は痛がりながら謝った。ファンだからつい、ほんの出来心で、もうしません。ああ、成程。さてはファンの皮を被った迷惑な男が瀬那を困らせていたのだろう。怯えていたから、もっと怖い目に遭っていたのかもしれない。それこそ止めなければ軽々連れ去られていたかもしれない。早過ぎた進の行動も、男が逃げた今は正解だったようだと安堵した。一般人にタックルでもしてしまっては殺しかねないと実は焦っていたので。
その安堵した直後に見たのが、背後を振り向いた進を驚愕したままの瀬那が頬を染めて見つめる姿だった。そう、人が恋に落ちた瞬間だったのである。
「怪我は? ……掴まれたか、ネクタイが乱れている」
「っあ、いえ、ないです。これはその、元々適当に……あの、ありがとうございました」
「そうか。困っているように見えたから手を出したが、間違ってなかったようだな」
「そ、そうですね。えっと……最近よく見かけてた人で……」
進の指摘で瀬那は焦ったように胸元のリボンタイを手で押さえた。
待ち伏せ、ストーカー。そのあたりだろうか。瀬那が正体を晒してから時間は経っているが、覆面ヒーローの中身が女子選手だったという事実はかなり騒がれていた。顔出ししてから厄介なファンが増えたのだろう。もしくは元々ついていたファンが拗らせたのか。どちらにしろ危ないが。
「一人で帰らないほうがいいんじゃないか? チームメイトに家近い人いない?」
「モン太が近いですけど、今日は家の用事で。あとまもり姉ちゃんは……受験だし危ないので」
「危ないのはセナちゃんもだって」
女の子二人では心許ないかもしれないし、ただでさえ受験の勉強漬けにあるのも、泥門のマネージャーを危険な目に遭わせたくないという気持ちもわからないでもないが、それでも一人よりは対処のしようもあるだろう。一番良いのは蛭魔なり栗田なりがボディガードしながら帰ることだろうが。
「家まで送ろう」
「へ!?」
「今し方見逃せないことが起きてここで別れる選択肢はない。顔色も赤い、体調も悪いんだろう」
「へ?」
瀬那と同じ感嘆詞を漏らしてしまったが、驚いたポイントは別のものだ。瀬那は恐らく送るという進の行動に恐縮したのだろうが、桜庭は違う。いや、進の言動に反応したのは同じだが。
先程も瀬那のリボンタイについて言及していたが、進は人を筋肉だけで識別していたはずだ。桜庭が髪を切っても髭を伸ばしてもさっぱり気づいていなかったし、言われても疑問符が飛んでいた。顔色、表情までは筋肉を見る流れで見えると説明がつくかもしれないが、これは。
「体調管理を怠るのはプレーヤーとしてあるまじき行動だ」
「す、すみません……いや、その……」
「嫌そうだな」
「い、いえ! 嫌というわけでは……。じゃ、じゃあ、お願いします……」
「ああ。行くぞ、桜庭」
「え、うん」
ぽかんとしつつも頷くと、瀬那はあからさまにほっとしたような顔をした。今し方感情の転換点のようなところに鉢合わせてお邪魔虫になるのは避けたかったのだが、瀬那は進と二人で帰ることを今は避けたいのだと暗に伝えてくる。嫌というわけではない。それは本心なのだろうが、いきなり過ぎたのだろう。
というか。というかだ。
先程から聞き捨てならないことを進が口走っているのだが、桜庭はあまりに驚いて何も言えなかった。
桜庭もチームメイトの変化も気づかなかったくせに、進は瀬那の変化を認識していることがわかってしまった。彼女だけ、筋肉以外が見えているのである。
特別だとは理解していたが、まさかそこも特別だとは。こんなの両想いじゃん。何だよ全部が特別なのかよ、と恐らく自覚していないだろう進を生温い目で眺めた。いつからだろう。そういえば以前はアイシールドの仮面を認識していなかったはずだが、試合中は筋肉しか見えないとかそんな感じだろうか。理由付けが無理やり過ぎるだろうか。
まあとにかく、ムキになったり楽しそうだったり、桜庭すら見たことのない顔を引き出した相手なのだからこれで良かったのだ。それはそれとして案外に問題児である進だが、機械関連は誰が相手でも苦労するだろう。そのあたりは申し訳ないと思う。
瀬那が進をそういう意味で好きになってくれたのなら、桜庭は諸手を挙げて喜ぶ他ない。存分に応援できるというものだ。
「あの、ありがとうございました。今度お礼を……」
「必要ない」
無事玄関前まで送り届けた時、おずおずと瀬那が伝えようとしたことを進はすっぱりと断った。二の句を告げなくなった瀬那が俯いてしまったので、思わず桜庭は進の背中に肘鉄を入れてしまった。両想いかもしれないが、もし成就したとしても瀬那の苦労が半端ないのではないかとお節介にも考えてしまう。
「助かったって言ってくれてんだから受け取っとけよ。お礼しないと性格的にも気にしちゃうだろ」
「あ、いえ! そんな」
「……そうか」
何でちょっと不機嫌になってるんだ。
またもや桜庭にしかわからない進の感情の機微が声に乗って伝わった。ほんの薄っすら不貞腐れたような声だ。いやいや、今のやり取りで何故不機嫌になる必要があったのか不明なのだが。
とはいえ一先ず桜庭の言葉に納得した様子の進に安堵した瀬那は後日礼をしに行くと言って深々と頭を下げ、見送られるままに進と桜庭は小早川家を後にした。
「何に怒ったのか知らないけど、セナちゃんの前で不機嫌になるなよ」
そんなんだから怯えられるのだと言いかけて、瀬那はあまり進を怖がっていなかったなあと思い返した。今日は怯えというよりも落ち着かなかったようだったし、理由も怖いなどというマイナスなものではないはずだ。
「………。怒った自覚はなかったが……何故桜庭が小早川のことを理解したような言い方をしたのかと考えたら、何故か少し気分が悪くなった」
隣を歩く友であり、ライバルであり、目標である進の横顔を、桜庭は驚愕のままに凝視した。
何故かってお前。まじかお前。ここまで特別扱いしておいて未だ進に自覚はない。いや、恋愛感情に敏い進というのも桜庭の中で解釈違いを起こしそうだが。
「……気分が悪くなった理由、考えてみたら? 大事なことなんじゃないのか」
「む」
しっかり自覚したら、進はどうするだろう。狼狽えるのか、真っ直ぐ瀬那に告白しに行くのか。恋愛と進が結びつかなくて、桜庭はいまいち想像できなかったが。
どんな対応をすることになっても、納得だけはするのではないだろうか。まあ、周りが一番当然の帰結だと納得してしまいそうなのは間違いないけれど。
*
「セナー、元気ないっていうかふわふわしてんね。何かあった?」
「へっ、え、な、何も!?」
「なあに、風邪でも引いた!? 気をつけてねセナ、ただでさえ男の子に混じって試合してるから、何かあったら」
「だ、大丈夫。風邪とかじゃなくて」
焦ったような浮ついたような様子の瀬那に、息抜きにと部室に顔を出していたまもりは心配そうに風邪薬を用意している。それを制しながら瀬那は曖昧に笑っているけれど、鈴音はふいにピンときた。
ただの勘だ。経験則というものですらない、親友である瀬那の表情を見ていたら思い至ったもの。グラウンドで休憩していたチームメイトから離れ、先に着替えてくると立ち上がった瀬那は部室に向かっていった。それを追いかけるまもりを眺めながら、鈴音は顎に手を当てた。
恋、という単語が頭に浮かんだ。
だがしかし、それを口にすることは憚られた。
泥門デビルバッツの面々はエース、あの小柄な女子選手である瀬那のことを非常に大事にしている。彼らが恋という言葉を聞いて激しく動揺する可能性もある。そして瀬那の恋がうまくいかなくなるのは避けなければならない。だって鈴音は瀬那の親友なのだから、親友の恋路は応援しなければ。
しかし、ついに瀬那もそんな浮いた話が出てくるようになった。親友である瀬那の相手は鈴音も吟味してやりたいが、やはり瀬那自身が好きな相手であることが大前提になければならない。
時代の最強ランナー、アイシールド21。小早川瀬那が好きになる人は一体どんな人なのだろう。
関わりが深いのは泥門のチームメイトだ。蛭魔、栗田、武蔵に雪光。引退した先輩たちだけでも四人いる。瀬那は優しい人に懐くから、栗田や雪光、助っ人だった石丸も可能性が高いかもしれない。しかし蛭魔のことも多少恐れはしても大信頼しているのだ。更には仲の良い雷門太郎と、十文字、黒木、戸叶。チビ仲間の小結、そして鈴音の兄である夏彦。後輩ももしかしたらあるかもしれない。そういえばもし瀬那が兄を好きになっていたら、鈴音の義姉になるのかあ、とぼんやり想像して少し笑ってしまった。楽しそうだけれど、瀬那は鈴音の親友なので兄にやるのは勿体ない。
というわけで、泥門だけでも色んな可能性があるのである。鈴音の見る限り、何人かは恋愛的な意味で好いているのではないかと鈴音は思っているくらいだ。好きになるだけなら、そう、誰だって、いくらでも構わないだろうし。
「えーっ、もっと早く言ってよ! 大丈夫だったの!?」
「う、うん。進さんが追い払ってくれたから……」
元々泊まりに行く話をしていたところだった。親友である瀬那の家に泊まりに行って、眠る前に色んな話をする。落ち着きをなくしていた瀬那に何があったのかをしつこく聞き出してみれば、帰り道でもある黒美嵯川に現れたことのあるストーカーと鉢合わせたという話だった。
モン太が家の用事で先に帰った日、瀬那は一人黒美嵯川を歩いていた。たまに見かける男に手首を掴まれた時は走って帰るべきだったと後悔して恐ろしくて、どうやって抜け出そうか考えていたらしい。
小柄で体重も軽い瀬那のタックルが効くのはスピードを乗せているからだ。手首を強く掴まれるような至近距離ではそうはいかない。というか防具をつけた選手でも何でもない一般人なのだからやってはまずいはずで、どうしようと焦っていたのだとか。
そんなところに急に現れたのが、王城ホワイトナイツの進と桜庭。
何を言うでもなく、進は男の腕を捻り上げて手首を放させ、瀬那を背中に庇って追い払ってくれた。
「聞いてるだけで格好良いー! 凄ーい! しかもしかも、顔色とかセナのことめちゃくちゃ見てくれてんだよね!? 特別なのかな!?」
「ま、まさか。きっと他の人にも同じだよ」
進は倒すべき敵チームのパーフェクトプレーヤー。試合中は立ちはだかる壁、恐ろしくとも瀬那が越えるべき目標だと目を輝かせては語っていた。背筋に走る悪寒なんてものも感じるというほどの。だというのに。
「………、……でも格好良かったなあ……」
ぽそりと呟いた瀬那の頬がじわりと赤くなっていて、恥ずかしそうに布団にまみれて顔を隠した。
心臓がうるさくて、怖いわけではないのに目の前にいたらきっと逃げ出したくなる。そんなふうに呟いた瀬那があんまりにも可愛くて、鈴音は目を輝かせた。
「やーセナ可愛い! それは恋だね! 向こうもきっと満更でもないよ!」
「な、な、何言ってんの! ぼくなんか可愛くなんて、ていうか恋って」
「いやいや、セナはずっと前から進さんは格好良いーって言ってたでしょ。他の人より頻度多かったよ? 大体セナは可愛いんだから! フィールドじゃ格好良いヒーローでも、中身は恋する可愛い女の子だよ」
「鈴音に言われてもな……」
「なんでよ!」
可愛いからだよ、と嬉しいことを言ってくれるが、布団から顔を出した瀬那は力なく曖昧に笑みを浮かべていた。どこか諦めたような顔が、鈴音から笑みを落とさせた。
「まもり姉ちゃんみたいになれれば、もっと……良かったんだけどね」
ピンときた。
経験則ではない、ただの勘。瀬那と親友であると自負する鈴音にしか見せないものを、瀬那は今見せている。きっとまもりには見せられないものだ。
瀬那とまもりは幼馴染で、ずっとまもりに助けてもらっていたと言っていた。まもりは綺麗で頭が良くて、優しくて何でもできる人。ずっと一緒にいて助けられてきた瀬那が憧れた人なのだろう。憧れと同時に羨みもしたのだろうと察することができた。
「……そりゃまも姐は私も尊敬してるけど。まも姐にないものセナは持ってるよ」
もしかしたら、あんなふうになりなさいと言われたこともあるのかもしれない。比べられてきたのかもしれない。瀬那もまもりも悪くないのに。
まもりだって瀬那を大事にしてきたのだ。それがわかっているからこそ、瀬那にとっては。
「あの進って人は、セナだからこそ助けたと思うけどな? だってあの人、セナしか見てないんでしょ」
「ぷ、プレーヤーとしてね……いやそれも何か烏滸がましいけど……そ、それにぼくは、恋とかは」
「違わないでしょ?」
目を輝かせて進の話をしていたのを見ていたのだ。進との戦いは特別だと言っていたのも聞いたことがある。
こんなに頬を染める瀬那は初めてだけれど、恥ずかしそうに照れる姿は可愛く乙女だなあと思わせる。こんなに可愛い瀬那を進が好きになったっておかしくないのだ。
「………、……わ、わかんない、けど」
――格好良かった。
決戦の約束を告げられた時も格好良かったのに、試合中もいつも格好良いというのに。うまく説明できないけれど、何だかとてもどきどきしたのだと。
「間違いないじゃん。よーし、向こうがどう思ってるか聞き込みしに行こうよ!」
「ええっ!?」
「待ってるだけじゃどうにもならないし、自分から動かなきゃ!」
王城に偵察ついでに聞き込みに行く。そう提案すると瀬那は目を剥いて悲鳴を上げた。その後の鈴音の言葉にふと表情を変えた瀬那は、しばし黙り込んだ後ゆるゆると頷いた。
*
「なあ、あれ……アイシールド21じゃないか? 小早川セナ」
「す、鈴音〜……もうばれてるんだけど……」
「そりゃ変装もしてないからね!」
鈴音も瀬那も制服のまま王城高校の校門で立ち止まっていた。瀬那はブレザー、鈴音はセーラー服。インラインスケートを履いて仁王立ちする鈴音の背中に縋りつくように隠れる瀬那がいた。ちらちらとこちらを気にする王城高生の中には、二人を可愛いと噂している者もいたことを鈴音は耳聡く聞いたのだが、緊張している瀬那には聞こえなかったようだ。
「えーと、マネージャーの人がいれば……」
「何言ってんの、本人探すんだよ!」
瀬那が礼をしなければと言ったことで、偵察なんかよりよほど喜ばれそうな理由を見つけて潜入に来たのだ。助けてくれた時の礼を持って会いに来れば、進もホワイトナイツの面々もそう追い出したりはしないだろうという予想だ。偵察だとばれた時につまみ出される可能性があるし。
「泥門のチアの子と来てたな」
「なんか小動物みたいな可愛さあるよな。サイン貰っときゃよかった」
「小早川セナ来てるのまじじゃん。何、偵察?」
廊下から聞こえる会話に桜庭は顔を上げ、テーピングを施していた進の集中がふいに途切れた。聞こえたらしい他の部員たちもそちらへと注意が向いていく。
「猫山、アイシールド来てるのか?」
「ああ、はい。校門にいるらしいから若菜さんに行ってもらいました」
「お礼しに来てくれたのかも」
「お礼?」
部室に顔を出した部員たちも不思議そうな顔をして呟いた桜庭を眺める。当事者ではない桜庭が言うのは何だか違う気もするが、もし本当に礼に来たのなら、偵察と勘違いされたままは少し可哀想だ。案外に桜庭もあの女子選手を気にかけているのである。
「進がな、この前困ってるところ助けちゃったんだよ」
「助けちゃ駄目だったみたいな言い方だな」
「まさか。彼女も助かったって言ってたんだけど、こいつにべもなく礼を断ろうとしたから。もう少しセナちゃんの気持ちを考えたらって話をね、したんだよ」
「ランニングの延長だった。助けたと思われるほどのことはしてない」
「そうでもないと思うぞ……」
何せ男である桜庭すらあの時の進は格好良かったと手放しで褒められるくらいだった。あれは瀬那ではなくとも惚れるだろう。そしてランニングの途中で遭遇したとはいえ、男の腕を捻り上げて瀬那を庇うのは助けたと言って差し支えない所業だ。間違いなく進はあの時ヒーローだった。いや、こいつはいつもそうなのだが。
「進、ベンチプレス測るんだろ? 来いよ」
「ああ」
瀬那の話を聞いていなかったであろう部員に呼ばれるまま進は部室を出ていった。桜庭が大きな溜息を吐いたと同時に呆れたようにぼんやりと笑みを漏らした。
「開けますね。連れてきました」
「お」
「お、お邪魔します……」
若菜と後から覗き込むように部室へ顔を出した瀬那に、ひっそりとチームメイトは浮足立った。
何せ関東唯一の女子選手、しかも光速のランニングバック、アイシールド21の正体である小早川瀬那だ。監督の手前表立っては言わないが、敵チームだろうと王城にも隠れファンはいたりする。
「あ! 桜庭さん。この間は本当にすみませんでした」
若菜に促されて部室へと足を踏み入れた瀬那ともう一人、チアリーダーをしていた女の子は扉の近くで部屋を覗いている。ぺこぺこと必死に頭を下げる瀬那に謝り慣れていることを察し、桜庭は少々労りの視線を向けた。
「俺は何もしてないよ。進が殺さないか心配はしたけど」
「は、はは……殺すなんてそんな、ひい……」
「いや、何したんだ本当に……」
部員が戦々恐々と問いかけるので、瀬那に一応許可を得てから桜庭は掻い摘んで説明した。ストーカーだか何だかに絡まれていた瀬那を進が助けたわけなのだが、相手の男の腕を捻り上げたので骨でも折らないか、飛び出るトライデントタックルで殺してしまわないかと不安になっていたのだ。その間桜庭は反応できず、ただ見ているだけだったので申し訳ないと謝っておいた。瀬那は余計に恐縮していたが。
「成程、それでお礼かあ。大変だなアイシールド21も。そういう時こそあのヒル魔の出番じゃないのかと思うけど」
「いえ、そんな……物珍しいだけだと思うので、そのうちなくなると思いますんで……」
この間から少し思っていたが、彼女はわりと自分が狙われやすい人間であることを自覚していないような言い方をする。大丈夫なのかと心配になった。
確かに物珍しさで見てくる人はいるだろうけれど、それより多いのがファンであり、厄介なファンというものはどこにでもいるのに。
「今進はトレーニングルームにいるから、戻るまで待ってくれる?」
「あ、はい……。……いえ、それならお邪魔になると思うので、これだけ渡してもらえれば」
「えっ、会わないの? 進も喜ぶよ」
せっかく王城まで来てくれたのに、目当ての進に会わずに帰るのは何とも勿体ない。計測さえ終われば戻ってくるはずなのでそれほど待たないとは思うのだが、瀬那は困ったような顔をして曖昧な笑みを浮かべていた。
「セナ、」
「行こう、鈴音。じゃあ、お邪魔しました」
扉近くで待機していた女子に呼ばれても制しながら、ぺこりと頭を下げた瀬那は女子の手を掴んでずぎゃんと走り出した。フィールド外で見る走りもチームメイトたちは驚いていたが、いいのかなあ、と桜庭は進のこの後を想像して少し身震いした。
引き留め損ねたことで無意識にまた怒ったりしそうだ。ああ、もっと時間を稼いでおくべきだった。
これでは何のために来たのかわからないだろうに。聞き込みも会うこともできずに瀬那は鈴音の手を掴んで廊下を走った。規則に厳しそうな高校だから廊下は走るなとか言われそうだ。すれ違う人がスピードに驚いて二度見もしてくるし、フィールドではあれほど押せ押せなのに、困ったものだ。
「……小早川?」
「やー!」
ひと際大きく肩を震わせた瀬那は、急ブレーキをかけて後ろの鈴音をせき止めたせいで背中にぶつかってしまった。ごめんと慌てて謝りながら、恐る恐る声をかけられた方向へ顔を向ける。目当てにしてきた当の進が、トレーニングルームと書かれた部屋から出てくるところだった。
「進、さん……あ、あの! 部室にお邪魔したんですけどいなかったので、この間のお礼は桜庭さんに預けました。本当にありがとうございました。要らなければ捨ててもらったら……」
「………。小早川からの貰い物を捨てるつもりはない。ありがとう」
要件のみの手短な返事だったけれど、その一言は鈴音にはひどく嬉しそうなものに思えた。瀬那からの贈り物はすべて貰いたいという意味ではないのかと問い質したい気分だったが、そのまま鈴音たちが出てきた部室側へと足を向けていってしまった。いや、だがしかし。
「やー、脈ありじゃない? これ」
ちらりと盗み見した瀬那の顔は真っ赤で、つつけば泣いてしまいそうなほど情けない表情をしていた。これがきっと乙女の顔なのだろうと鈴音は思うが。
「……し、進さんてたぶん、たらしだよね」
「セナ限定かもよ」
「絶対ないよ、ない……」
言葉で否定しつつも瀬那は耳まで真っ赤だった。両手で顔を覆って蹲りそうになるのを鈴音が引っ張り、王城高校を後にする。
聞き込みよりも何よりも、果てしなく雄弁に教えられた気がしてしまう。なんだ、パーフェクトプレーヤーなんていわれていても、きっと中身はただの高校生だ。瀬那という女の子を特別視する男の子ではないか。
「セナ可愛いー。乙女だね。好きだよあれは絶対に」
「違うってば……」
また期待しないよう誤魔化している。
大体セナは気づいてなさ過ぎるのだ。
自分に恋愛経験がなくとも、鈴音のアンテナは節穴ではない。いくらまもりが近くにいたからといって、セナ自身を見ている人は沢山いるのだ。
雪光も、十文字も、蛭魔も。きっと他にも沢山いる。鈴音が本人を差し置いて教えるわけにはいかないけれど。
これセナちゃんから、とトレーニングルームから戻ってきた進にプレゼントを差し出すと、先程聞いたと頷いて受け取った。
「会ったんだな、良かった」
本当に良かった。部室に戻ってきたらやけに機嫌が良かったので、恐らく帰り際の瀬那に会ったのだろうことは気づいたが、渡したプレゼントを抱えた瞬間の進が今までにないほど喜んでいる。来てくれて、会ってくれて助かった。会えずに八つ当たりでもされたらたまったものではないので。
「ま、進に期待はしてなかったけど……女の子にプレゼント貰っといて仏頂面過ぎるな」
「いや〜あれは……めっちゃくちゃ機嫌良いよ……」
「そうなのか? むしろ機嫌悪いのかと思った」
半端なく機嫌が良いよ、とまた桜庭は付け足した。中一から知る桜庭でも見たことがないほど進は浮かれている。傍目にはわからないのでいつもどおりにしか見えないが。
こうして考えてみると、進も中身は案外普通の男子高校生に見える。瀬那が普通の男にさせたことは間違いないので、どちらも何だか微笑ましく思えた。