遠距離の終わり

「炎馬大の練習試合があるらしいけど。ヒル魔妖一が取り付けたようだよ」
「そうなのか。俺も迎えに行く予定だったんだが、何となく思惑が透けて見えるな」
 十中八九帰国する小早川セナの偵察のためだろう。学校も変わったというのに扱いがまるで泥門の時と変わらない。
 最京大学へ推薦入学する予定の大和と鷹は、本日入学前にアメフト部への入部手続きをしに来ていた。その足で大和は炎馬大学に向かい、合否を確認したセナと合流する予定だと聞いていたのだが。
 偵察なら一緒に行くことになりそうだ、と鷹は考えながらアメフト部室へと辿り着いた時、部室前に設置された机に座っていた女性と目が合った。入部手続きはこちら、と書かれたプラカードを壁に立て掛けて立ち上がり、部室前に仁王立ちした。何事だろうか。
「こんにちは、大和猛くん」
 近くにいた見覚えのある面々がこちらを振り向いた。すでに最京大ウィザーズに所属している部員たちだ。細川、番場、山伏など、ワールドカップでも顔見知りとなった連中から一斉に視線を集めたようだが、そこに元泥門の十文字も現れた。どうやら彼は一般入試で最京を受けて本日合格発表だったらしく、無事受かったついでに入部手続きをしに来たらしい。
「やあ。姉崎まもりさん、だったね」
「ええ」
「え、何何……?」
「告白?」
「いや、ヒル魔とやり合ってる時より殺伐としてる」
 あのヒル魔とやり合っているのか。なかなかの女傑らしいが、鷹は何故彼女が仁王立ちして大和を呼んだのかいまいち理解できなかった。アメフトで何か大和に文句があるのか。それとも誰かと関係があるのか。ふとワールドカップの合間に見た、ある人物を中心に置いた様々な関係を思い出した。ああ成程、そうか。大和は至って穏やかに笑みを向けるが、姉崎まもりは真剣な顔をしている。
「セナがいつもお世話になってます」
「とんでもない。あまり頼ってくれないからね」
 仁王立ちから深々と頭を下げた姉崎に、大和も倣って頭を下げる。何が何だかわかっていない面々は置いておいて、十文字ははっと何かに気づいて大和にガンを飛ばし始めた。茶々を入れずに二人を見守る気ではいるようだが、相変わらず泥門は血の気が多い。
「……私ね。無理やり付き合わされてるんだったら実力行使してでも別れさせないとって思ってたんだけど……」
「過激派過ぎる……」
「危なっかしいんだよあいつは」
「てか付き合ってんのか!」
 外野の突っ込みにも十文字が睨みつけながら言い訳する。姉崎が筆頭なのかは知らないが、泥門がそもそもセナに対して過激派だ。恐らく無理強いしているようなことがあれば、誰だろうと絶対に別れさせにくるという嫌な信頼があった。内情にさほど詳しくないはずの鷹にもそう思えるくらいには、端から見る泥門はセナを大事に大事にしていた。
「一応前までは、よ。だってセナは……、……セナはね、意外とあなたのことが好きみたい」
「意外?」
 ぴくりと笑みを浮かべた大和の眉が反応して問いかける。さすがに看過できない言葉だったようだ。
「そう。私、実はセナと大和くんは合わないんじゃないかってずっと思ってたの、性格的に。強引なところがあるみたいだし、自分本位なところもあるみたいだし、傲慢なところもあるみたいだし、ついていけなくなるんじゃないかって」
「まあまあ言われてない?」
「棘あるなあ……」
「嫌いなんかな」
「俺なら傷つくかも……」
 大和の笑みは崩れないが、恐らく内心は非常に面白くないと感じているだろう。いくらセナの幼馴染でも、面と向かって挨拶以外で話したのは恐らく今が初めてだ。女傑と称した鷹は間違っていなかったようだ。
「……でもセナは、ちゃんとあなたのことが好きみたいだから」
「………」
「要するに、セナを傷つけたら地の果てまで追いかけてブッ殺してやるから覚悟して手出せってことだ。うちのエースを傷物にした責任は取ってもらわねえとなァ」
「傷……っ、やめてよそんな生々しい話。邪魔しないで!」
「ほほー。風紀委員様は傷物ってだけで生々しい発想が出てくんだなあ? ムッツリめ」
 現れたヒル魔の言葉に姉崎が頬を赤らめ、壁に立て掛けていたプラカードを振り回してヒル魔を追い払おうとしている。仲が良いのか悪いのか、とりあえずこの二人は気心知れる仲というのは何となく理解したが。
「うちの、ね。確かに彼女は泥門デビルバッツのエースではあったが、これからは新しいチームのエースだよ。よってきみにうちのと言う権利はないな、ヒル魔氏。幼馴染の姉崎女史にはあるかもしれないけれどね」
 大和の反撃にヒル魔の口角が一瞬固まったように見えたが、即座に悪魔のような笑みを浮かべて大和へと向き直った。
「あれは俺が見つけた黄金の脚だ。てめーが戦えて惚れることができたのは俺のおかげと言ってもいい」
「暴論きた……」
「ちょっと! セナは私の妹です!」
「ああ? 血繋がってねえだろ」
「繋がってなくても妹なの! とにかく! セナを泣かしたら私絶対に許さないから!」
 大和の中で要注意人物に含んでいたのは何を隠そうヒル魔もだ。今の大和の心情を推し量るのは鷹には少し難しかったが、大和の笑みは崩れなかった。
「それなら安心するといいよ、泣かせはしないからね」
「……大和の絶対予告は信じていい。絶対反故にしないからね。したのは……、………。……小早川セナに負けた時だけだな」
「信用できないじゃない!」
「確かに……」
 よりによってセナが絶対予告を覆した張本人なので、援護するつもりが何とも締まらない言い方になってしまった。優雅に見えていた大和の笑みが苦笑いに変わり、やがて肩を震わせ声を漏らして笑い始めた。
「うん、まあ、俺をランで抜いた人だからね」
「ケケケ。この女はなあ、自称姉であり姑であり小姑であり近所のおばちゃんだ。泣かしたらしつけえぞ」
「誰がおばちゃんですか!」
「糞チビが呼び出し食らってた時の反応」
「う」
「……呼び出し?」
 笑みを浮かべつつ大和が問いかける。プラカードを振り回し続けていた姉崎はヒル魔から大和へ向き直り、少しばかり呆れたような顔をして口を開いた。
「クリスマスボウル優勝した後にね。あの子デートの誘いを助っ人あるからで普通に断って……酷い時はモン太くんも一緒にどうかなんて言い出したりしたし、皆心配で覗いてた時があったの。確かに告白ではなかったけどさすがに……」
「成程」
 大和と付き合う前の話だ。クリスマスボウルの当日、終わった直後に大和は部員たちの前で告白していたわけだが、その後もそういうことがあったらしい。しかし、雷門まで呼ぼうとするのは。
「……だいぶズレてる子だったんだな。大和は正解の行動をしたから意識されて今があるのか」
「ズレてるっつうか、そういう対象に見られると思ってねえんだよ。誰かさんのせいでな」
 ヒル魔の意味深な言葉に姉崎が疑問符を浮かべたがそっぽを向いたまま、姉崎からの視線が外れるとヒル魔は彼女へ目を向けた。詳しいことはよくわからないが、大和がセナの自己評価が低いと不思議がっていた理由は姉崎の存在が大きいのだろう。そしてそれを姉崎本人はわかっていないのかもしれない。
「ふうん。しかし、小早川セナって確か王城の進が唯一特別視する相手って噂があったし、付き合うなら進なのかと思ってたぜ。横恋慕ってやつかねえ」
「………。失礼。誰だか知らないが、特別視が恋愛感情のみとは視野が狭くていけないな。彼はアメフト部員かい?」
 片眉がぴくりと反応したのを隠し、穏やかそうに見える笑みを浮かべた大和はちくりと一言物申し、割り込んでまで地雷を踏んだ男の素性を問いかけた。姉崎もまたその男に驚いていたが、今年四年のラインマンであると大和に紹介している。万年三軍で偉そうにする迷惑な先輩であると細川がこっそり補足していた。帝黒にも似たようなのがいた気がするが、どこにでもそういった輩はいるらしい。
 大和の中にある要注意人物リストはセナが信頼を置く、セナを取り巻く人物たちだ。そこに恋愛感情が絡まない可能性はゼロであるとはいえないが、セナ自身は不実を働くことはないと信じているので、付き合うようになってからは彼らへの警戒も鳴りを潜めたわけだ。大和は嫉妬や独占欲というものも当然持ち合わせているので、鳴りを潜めただけであってなくなったわけではない。周りが恋愛感情を持ってセナに近づくのは大和だって許さないが。
 しかし、そういった大和とセナを取り巻く複雑な関係性や感情に口を挟むのは二人に近しい者だけに許していることであり、彼らを知らない外野から揶揄されるのは不快なのである。
 明らかに大和を睨んだ四年のラインマンは、つまらなそうに部室へと引っ込んでいった。

*

 なし崩し的に出場することになった練習試合を終えて、シャワー室を借りて着替えを済ませたセナはようやく部室を出た。さすがに久しぶりに会うのに汗臭いままなんて嫌だったので(これでも一応女子である)、申し訳ないがシャワーを借りる時間は待ってもらうことにした。話す暇がなく何も言わずに借りて待たせてしまったことを謝らなくてはならないが、まあ、許してくれるかな、と甘い考えで、四月からチームメイトとなる先輩たちへ挨拶をし終えて振り返った。
「セナ」
「大和くん、」
 すでに部室前で待っていてくれたらしい。振り向くと同時に思いきり抱き締められてセナは潰れた蛙のような声を漏らしてしまった。どこの世界に好きな人の前で汚い悲鳴を上げる女子がいるというのだろう。最悪の再会になってしまった。
「やー! 熱烈だあ!」
「えっ。あれ、大和と小早川ってそうなの!? 付き合ってんの!?」
「そうッスよ! 納得いってない奴もいるッスけど」
「嘘、まじかあ」
 これだけで色んなところに諸々が伝わってしまい恥ずかしかったが、まあ口で言うよりは恥ずかしさもましかもしれないと思い直した。鈴音は背後で興奮したようにはしゃいでいるし、止めてはくれないようだ。
「ん? ちょっと厚みが増えたかな」
「そ、そうかな?」
「厚みって……それセナじゃなきゃ確実に怒ってるからね」
 選手であるセナはまだまだ重みが足りず、体重は増やせるなら増やさないといけないので大和の台詞はわりと嬉しいものでもあった。確かに普通の女の子であれば怒って引っ叩くくらいはされるかもしれないな、とぼんやり考えた。
「セナー! 久しぶりだし皆でご飯とか行けそうにないかなって思ったけど、どう?」
 手を振って駆け寄ってきたのはまもりだ。鈴音とも仲良くハイタッチしつつ、せっかく集まっているのだからと行ける人で食事会でもしようという打診だった。それは何とも魅力的な誘いではあったが。
「申し訳ないけど、今日は俺に譲ってくれるかい」
「!」
「大和くん。セナはそれでいいの?」
 無理強いされていないかを心配していたまもりは、どうやらセナの意思はきちんと伝えられているのかを気にしているらしい。そんなに心配せずとも大丈夫なのだが、セナ自身の言葉でなければ不安なのかもしれない。
「あ、う、うん。約束してたから……」
「……そっか。わかった」
「じゃあ意地でも引き止めてあげないとねー! 早く行きなよ、捕まっちゃうよ! まあセナなら逃げ切るだろうけど!」
 笑みを向けて納得したらしいまもりは快く送り出してくれるらしく、鈴音などは率先して周りを引き止めると宣言してくれた。何で皆が追いかけてくる前提なのかは知らないが、とりあえず鈴音の言うとおりにすることにした。
「ありがとう。行こう大和くん!」
「了解」
 見上げた先に柔らかい笑みを浮かべる大和がいて、久しぶりだったせいもあってかついセナは頬を染めてしまった。やっぱり格好良いなあ、なんてぼんやり考えながらグラウンドを駆け出した。
「呼び方が戻ってるよ」
「………! ……た、猛くん」
 隣を走る大和がふと身を屈め、セナの耳元で小さく呟いた。その声とか近さとか内容に思わずセナは過剰に反応してまた頬を染めてしまったが、電話口で望まれていた呼び名を小さく呟いた声は聞こえたようだった。嬉しそうに笑う顔を横目で確認すると、羞恥のあまりセナは超加速をして突き放そうとしてしまった。

「卒業式終わってからようやく住み始めてね。大学からは近すぎず遠すぎずの距離にあるんだ。ここだよ」
 上京してひとり暮らしをするという話を聞いたのは留学中だった。セナは実家から通える範囲だからひとり暮らしをする予定はないが、毎日の暮らしは大変そうだといつも思う。自炊とかするのかなあ、と気になっていたのだが。
「た、高そうなマンションだね……オートロック……」
「そんなでもないよ。まあ、学生のひとり暮らしには贅沢かもしれないかな。――いらっしゃい」
 オートロックを抜け、エレベーターに乗って大和の住むフロアへと向かい、立ち止まった部屋を解錠し、ドアを開けて大和はセナを歓迎した。お邪魔しますと恐縮しながら挨拶し、玄関へと足を踏み入れた。
「わあ、綺麗だし広いね」
「うん、何を置くかはまだ決めてない。トレーニング用品で埋まりそうだけど。はい」
 引っ越したばかりだからさほど使わないダンボールはまだいくつかそのまま置いてあるらしい。
 片手を取られて手のひらに小さなものが乗せられた。鍵である。
 この部屋の、合鍵。ひとり暮らしをすると聞いた時、誕生日にこれが欲しいと電話越しに言ってしまったのはセナ自身だった。
「誕生日当日には渡せなかったけど。……これが欲しいと言われた時は舞い上がった。夢かと思ったよ」
「………、た、猛くんも舞い上がったりするんだ……」
「そりゃあね、名前を呼ばれるだけでも舞い上がるよ。いつでも来てくれると嬉しい」
「……ありがとう」
 乗せられた鍵を握り締めて、照れながらも顔を上げて礼を告げると大和はやけに嬉しそうな顔をした。

「紅茶淹れたよ。おいで」
 その台詞でどきりとしたセナは、目を泳がせつつもソファに座る大和のそばへと近寄った。大きめのテレビを前に隣へ座ろうとした瞬間、急に腰を引かれてバランスを崩し、気づいた時には大和の膝の上に乗っかっていた。
「ええっ!? ちょっ、」
「………。やっと遠距離が終わった……」
 首筋に顔を埋めるようにして抱き締められたセナは落ち着かずに真っ赤になってしまったが、ぽそりと呟かれた言葉に瞬いた。顔を合わせるのは数ヶ月に一度、会わない間はメールか電話で、更に昨日まで国を跨いで離れていたのだった。
「き、気にしてたんだ……?」
「当然さ、寂しかったしね。それにきみを疑うわけじゃないが、気が気じゃないんだよ」
「……そんな。気にし過ぎだよ、ぼくみたいなの……猛くんしかす、好きだとか、言わないし」
 むしろセナが愛想を尽かされないか不安……まあ、好きだと態度でも言葉でもくれるものだからあまり不安にはなっていないのだが、胡座をかいていてはそのうち本当に愛想を尽かされるだろう。それは絶対に嫌だと思うくらいには、セナだって大和のことが好きなのである。
 間近にある大和の目が嬉しげに細められたのが見えた後、唇を塞がれてセナは目を瞑った。大体いつも何も言わずに突然キスをしてくるのだから慣れることがない。でも今はそういう雰囲気になったからなのかも、とセナはようやくその手の空気を読めるようになった気がした。
 しかし、これがどれほど続くかなんてのはわからないのである。あの日家に呼んだ時もカーペットに倒れ込んでまもりが来るまで続けられたのだから、今もそうなっておかしくなかったのだ。
「………っ、ふ、ぁ」
 本当に全っ然止まらない。いつの間にか膝の上からソファに転がされて、気づいた時には咥内を思いきり舐め回されて頭が痺れて翻弄されて、身体を押し戻そうとしても力が抜けて大した抵抗にもなっていなかった。そもそもセナと大和ではベンチプレスの記録も雲泥の差があり、それはアメリカから帰ってきた今もほぼ差が埋まらないのだ。
 苦しい、誰かちょっと止めてほしい。そう考えた時、今は大和の部屋に二人きりなのだと蕩けかけた頭が思い至った。現状とそれに気づいたおかげで更に耳まで熱くなり、押し戻せない身体を諦め手を無理やり隙間に挟み込み、何とか大和の口を押さえた。ようやく離れた口で荒く深呼吸をし、顔を背けて息を整えようとした。
「……いつ泊まりに来てくれてもいいよ。アポなしでも構わない、見られて困るものはないし。何なら今日でも」
 小さく笑った気配の後、口元を覆ったはずの手はそっと指を絡め合わせて外され、口が自由になった大和は耳元で囁いた。何なら耳朶に唇が触れていたから、ぞくぞくと背筋に何かが走って変な声が漏れそうになった。
 今日。今日? 知らない間に溜まっていた涙で視界が滲んだまま大和を見つめると、何だか感情の読めない笑みを浮かべてセナの頭を優しく撫でた。ぼんやりして思考が落ち着かないけれど、両親には今日帰ると言ってあるのでそれは難しい。しかもあれだ、泊まりにしてこのまま続けられたらさすがにセナだって何が起こるかくらい察する。未知の領域に足を踏み入れることになる。キスだけでも気持ち良くて困るのに、未知の領域なんてそんな。
「………、………。……夜には、帰らなきゃ……。……そ、それまでなら。ほ、ほらいろんな話も聞きたいし……」
 無意識に膝を擦り合わせた時、すり、と頬に大和の手が触れた。笑みを浮かべていたはずが、真剣な、どこか切羽詰まったようにも見える目でセナを見据えた。逸らすこともできずにただ見つめ返してしまっていた。
「……どこまで触れるのを許されるか、試してもいいかな」
「………っ、」
 これ以上何かされたら、セナの心臓が爆発四散してしまいそうで恐ろしい。だが二人きりでここにいるということは、夜ではなくともそういうことができてしまうのだとセナだってわかってしまった。
 遠距離が終わった。寂しかったのだ、大和も。セナだって電話ばかりで寂しかった。そう思ってくれているのが嬉しい。
「……う、ん」
「……ありがとう」
 大和の背中へと手をまわし、蚊の鳴くような声で頷いたにも関わらず大和にはしっかり聞こえたようだった。そのまま再び、今度はもっと奥深くを貪るように唇を塞がれた。