勝利の女神の帰還

 姿を視界に収めた瞬間、泥門での一年間が脳裏を駆け巡った。
 憧れと尊敬を抱いて入部したものの、正体を知るのは何ヶ月も後だった。全く気づかなかったことを少し悔しく思いつつ、正体を晒した後も尊敬していることは変わりなかった。
 何ならもっと憧れるようになったものだ。まさか己より小さく臆病に見えていた女の子が、まさかあの光速のヒーローだったなんて。
 近づくにつれて姿がはっきりとしてくる。先に気づいた雷門太郎が挨拶をくれた。卒業してから顔を見るのは一年ぶりだ。肩を叩かれ己へと顔を向けた彼女は、記憶よりもよほど女の子らしくなっていた。
「雪さん!」
 泥門時代と変わらぬ呼び名を変わらぬ声が口にした。お久しぶりです、高見さんも。隣にいた元王城の高見へと挨拶をする様子が見える。曇り始めた視界の奥で、彼女の驚いた顔が見えた。
「えっ、雪さん? あの」
「いや、ごめん。違うんだ。嬉しくて……一年ぶりだし、僕引退してからはほとんど顔も見せなかったから」
「受験勉強で部室覗く暇がなかったって」
「それもあるけど、部室見に行ったら甘えちゃうからね。邪魔したくなかったし。うん、だから嬉しいんだ、みんなの顔が見られて」
 差し出されたハンカチが目元を拭う右手の甲に当たる。可愛らしい柄の入ったハンカチが、彼女らしい気がしてつい眺めてしまった。手のひらに乗せられては借りるしかなく、雪光は礼を告げて涙を拭いた。
 その様子を色んな感情を乗せた視線が各所から集中しているのがわかり思わず身震いをすると、隣の高見が励ますように背中を叩いた。
「みんな元気そうで良かったです」
「そうだね。きみもアメリカで元気にしてた? ムサシくんも栗田くんも、言わなかったけどヒル魔くんも気にしてたよ」
「色々良くしてもらいました。パンサーくんの家に泊めてもらったりとか」
「パンサーの家に……泊まった?」
 彼女の背後で会話が聞こえたらしい面々がざわついた。こちらへ顔を向けて近寄ってくる人物と、向き合う形に立っていた雪光には表情が大層良く見えた。小柄な甲斐谷陸は進や阿含のような、見るからに威圧感を抱く人柄ではないが、凄みを効かせれば見ていた雪光の背筋に悪寒が走る。高見は呆れたかのような目で口元を引き攣らせていた。
「え、うん、お婆さんのために豪邸建てるんだってずっと聞かされて……どうかした、陸」
「まさか留学中パンサーの家にホームステイしてたのか?」
「最初はワットくんちにホームステイしてたんだけどね。途中からパンサーくんちにいつの間にか」
「……ふーん。その話初めて聞いたな」
「あれ、そうだっけ。言ったのはモン太と鈴音だけだったかな」
 泥門アメフト部内でも当時は騒ぎになったと聞いている。案外恋の話に敏感な鈴音が深読み――と判断して良いのかはわからないが――し、真に受けた部員たちはそれは様々な反応を見せたらしい。黄色い悲鳴と妄想を繰り広げる鈴音を横目に、三兄弟は固唾を飲みながら冷や汗をかき視線で会話をしつつ、中坊は何かを叫びながら立ち上がった勢いで椅子を転がり倒し、戦々恐々の様子にモン太は呆れていたらしい。かくいう雪光も驚いておろおろと右往左往してしまったわけだが。姉崎も聞いた当初は取り乱したのだというし(彼女の過保護は筋金入りだと蛭魔は馬鹿にしていたが)、その話を耳にした蛭魔は、アメリカ様にタダで献上するつもりはねえ、と呟いていたのだという。
 要するに、皆一様にどこの誰にも譲らないと息巻いているのだろう。それが友愛であれ恋愛であれ、彼女は様々な者に様々な形で執着されているわけである。なんて遠い。
 そりゃ最初から雲の上の存在ではあったけれど。
 とはいえ彼女自身は平凡で、蛭魔や不良たちの存在に怯えるような、普通の女の子だったわけだけれど。
 ただの憧れだけの感情だとは嘘でもいえない。瀬那に対して抱く感情は、周りの彼らに負けないくらい大きなものだと自覚はある。だが彼女が自分を選んでくれるなどとは万に一つも思っていない。そもそも瀬那を幸せにできる自信なんてありやしないのだから。
 だからせめて、彼女が一生幸せな気持ちでいられる相手が攫ってくれるのなら、それは雪光にとっても大変喜ばしいことなのだ。優しくて誠実で、瀬那を第一に考えてくれるような王子様を、本人は求めていない気もするけれど、それならば己が望んでおこうと思うのだ。
 目の前の邪気のない笑顔を眺めながら、雪光はそう思ってしまったのだった。

*

「まあ、一緒にアメフトやれる女の子なんて貴重過ぎるし、何より可愛らしいし。そういう目で見る奴らが多いのは理解してるよ」
「はは……耳が痛いです」
「そうかい? 雪光や泥門の連中はずっと彼女の勇姿をそばで見てきたわけだろう。惹かれるのもわかるさ。敵チームの俺ですら格好良いと思ったし、いじらしいと感動することもあった」
 正体を晒すまでは小柄な男子だと信じて疑わなかった。男に混じってアメフトをやる女子は関西にも一人いたわけだが、それがどれほど珍しいことなのかは理解している。ポジションは違うが二人はメル友らしいということも風の噂で聞いたことがある。
「小泉花梨はもうアメフトを辞めたようだから、小早川セナに目がいく連中が多いのもわかる。あわよくばを狙うお馬鹿な奴らだよ」
 女子というだけで珍しがり、人となりを無視してお近づきになろうとする者は一定数いる。幸い小泉花梨も小早川瀬那もチームメイトに恵まれていた。物珍しさだけで寄ってくる者たちは意識的か無意識にかは知らないが、チームメイトが壁の役割を果たし寄り付かせるようなことはなかった。
「俺は応援してるんだよ。彼女はきみに懐いてるようだし」
「……えっ、僕ですか? いやいや、あれはチームメイトとして慕ってくれてるんですよ。ヒル魔くんにすらセナくんはあんな感じです」
「それも凄いな……まあ、泥門の連中なら誰があの子と付き合ってもおかしくないだろう?」
「まあ、そうかもしれませんけど」
「この一年先輩としてきみを見てきた俺からしたら、小早川みたいな子が雪光を慕うのはよくわかるし、きみの気持ちも何となく察してるよ。だから報われてほしいって、泥門のなかでも応援したくなるんだ」
「……進くんよりですか」
「進なあ……」
 穏やかだった心境が若干乱される。雪光の口から出たかつての後輩の名前。進が執着した相手は後にも先にも彼女だけだった。恐らく最初から女子であることも見抜いていただろう。それでも手を抜くことなどなく、最強の好敵手として戦い、ひたすらに努力を重ねていた。彼女もまた追いかけ、応え、時折笑い合う様子を見てきた。
「確かに、進の相手は小早川以外に考えられないけど」
 ほんの少しだけ微笑んだ雪光が俯いた。本人は違うと言い張るが表情は雄弁だ。彼は彼女が幸せなら誰でも応援すると言うものの、それでも雪光が選ばれなかったら傷つくことはわかりきっている。
「あいつは幸せになるけど、セナちゃんが苦労しそうですよ」
 背後からの声に振り向くと、かつての相棒桜庭春人が立っていた。聞くつもりはなかったと謝る桜庭に、雪光は構わないと笑う。
「セナくんも好きならきっと幸せだよ」
「そうかなあ。あいつ筋肉で識別するから相手の表情とか心の機微とか疎いと思う」
 友人をやっているからか桜庭の進評は辛口だ。進は幸せになると断言したあたり、チームメイトであるだけでは見えない部分が桜庭には良く見えているのだろう。
「セナくんに今好きな人がいるかはわからないけど、進くんが不幸にさせるなんてことはないと思うよ」
「いや機械壊すし、かなり苦労すると思う」
「それは誰が相手でも苦労するんじゃ……」
 確かに。桜庭は納得したように頷いた。大人しく控えめな小早川には文句を言うこともできなさそう、というのは少しわかる。蛭魔に対する態度を聞けば、慣れれば案外言うだろうとも思うが。
「進に辛辣だな」
「そりゃ、あいつも幸せにはなってほしいですけどね。追いかけ合ってるのがこの上なく嬉しそうに見えるんで、あの二人はくっつかなくてもいいんじゃないかって」
 恋愛が絡んでしまったら、意味はどうあれ関係性が変わってしまう。桜庭はそれが嫌なのかもしれない。
 本人たちが良いと言うならば構わないのだろうが。
「ここまで勝手な想像で話してたけど、進くんがセナくんを好きかどうかなんてわかりませんよね」
「好きだよ。意識してるよずっと」
 桜庭の目にはやはり進の感情が見えているようだ。言い切れるほどのものが進から溢れた時、桜庭は目にしたのだろう。努力する天才と呼ばれるようなストイックな友の恋路を、応援したいのか何なのかわからないけれど。
「それなら応援してあげても……」
「うーん、それは無理だ。だってくっついたら困る。俺だってセナちゃんのこと好きだし」
 雪光が唖然とするのが視界に見えたが、恐らく自分も似た顔をしているだろう。
 桜庭は惚れやすいような性格ではない。桜庭が彼女を好きになるほど関わりがあったかというと、恐らく進ほどやり取りしていたわけではないだろう。恋愛という繊細な話題で、自分の気持ちを明け透けに笑いながら話すような性格だっただろうか?
「桜庭……」
「高見さん、野暮ですよ」
 桜庭は口元に人差し指を立てて、言いかけた高見に黙っておくように誘導した。雪光はどうやら思考が停止しているようだ。彼の中で彼女を巡るレースの参加者に、桜庭は全く当てはまらない人物だったらしい。
「言いたいことはわかりますよ。いつからとかどんなことがあってとか。まあそのあたりはね、俺の思い出にしておこうかと」
「いやまあ、話したくないなら構わないが」
「俺はね、あいつがセナちゃんと一緒になりたいならなれば良いとは思うんですよ。でも今の進はまだアメフトを通してのセナちゃんへの気持ちしか自覚してない。そんな状態で周りが焚き付けたって、無意識にあいつは傷つけそうでしょう」
「自覚……」
「もう大人になるんだから、いい加減自覚するべきなんだ。認めないなら俺が行こうと思ってる。雪光くんにも負けたくないし」
「い、いや僕は……」
「というか現時点で進と俺と雪光くんだったら、雪光くんが一番可能性高くないですか?」
 問いかけられた高見は顎に手をやり、背後の足音が遠くなるのを聞きながら考えた。
 正直、普通の女子を相手にすれば桜庭が負ける要素は何一つない。進はストイック過ぎて面白みがないだろうし、真面目さでいえば雪光も進と同様。桜庭はさすがに女の子慣れしている。恐らく小早川のような引っ込み思案な子でもうまく打ち解けるだろう。
 だが相手は、天下のアイシールド21である。
「凡人が勝つところを俺は見たいんだけどな」
「いやいや! そんなつもりはないんですよ本当に」
「勿論、雪光くんの中で決めてるのなら構わないんだ。ただ見込みがないから諦めるとかだったら勿体ないなって。まあでも、人の気持ちをどうこう言えないし」
「思いきり誘導しようとしたくせにな」
「高見さん、すぐ察さないでくださいよ」
「……え? え?」
 先程までと雰囲気が変わったのを察知したのか、雪光がおろおろと桜庭と高見の顔を見比べた。
 背後に聞こえた足音は、今はもう消えている。
「進も近くにいるの気づいたんで、ちょっと発破かけようかと思ったんですけど、うまくいきませんね」
「発破より驚愕のが勝ったよ」
「二人にはてきめんだったからまあいいですけど」
「あ……ああ、そういう……そうですよね、びっくりした……予想外で」
 どうやら察したらしい雪光が胸を撫で下ろしていた。その様子を見た桜庭は少し眉尻を下げた。
「なんで予想外? 俺がセナちゃん好きなのは別に嘘じゃないけど」
「え、」
「あっ、皆さんここにいたんですね」
 不安げにも聞こえる声を発した雪光は未だに衝撃らしいが、可愛いし、と揶揄うように口にした桜庭に高見は苦笑いを漏らした。それと同時に軽やかな声がかけられる。笑顔でこちらに駆け寄ってくる小早川の姿は、誰が見ても可愛らしいと称せるもので。
 少しばかり慌てたらしい雪光と桜庭の頬がじんわり色づいていくのを小早川は気づかなかったようだが、高見も少し彼らの気持ちは理解できていた。
「お疲れ様。帰国したばかりで災難だったね」
「はは……久しぶりで焦りましたけど、いつものことだったので……」
「いやでも、いつまでもヒル魔に好き勝手させるのはまずいよ。あいつは最京の選手だし、小早川はもう炎馬の人間だしな。ちゃんと更生させないと、この先も悪魔のまんまだぞ」
「ひ、ヒル魔さんを更生……? 誰が……」
 青褪めた小早川に雪光が吹き出し、続けて桜庭もまた困ったような顔で笑った。後輩である小早川には無理だろうから、やはり対等そうに見えたあのマネージャーしかいないだろうか。
「あ、あの、この後ご飯行こうって栗田さんが……皆さんももし良かったら」
「いいね。高見さんたちはどうします?」
「ああ、そうだな。小早川を勝ち取った炎馬の連中に気持ちを聞いてみたいし」
「モン太くんも陸くんもだし、栗田くんも雲水くんも大喜びだろうなあ」
「雲水さんとはあまり話したことなかったですけど、優しい人で良かったです」
 はた、と雪光と桜庭の動きが止まる。荷物を家に一旦置きに帰ると言うと、今度は武蔵がトラックに乗せて送ってくれると言ってくれたのだとか、偵察タワーカーに乗せてやると蛭魔まで提案してくれただとか、帰国したばかりだからか皆優しいと小早川が嬉しそうだ。
 栗田や雪光を見ていればわかる。優しい判定がつくと小早川は怯えず懐く。同じ時間を過ごした泥門の面々には、蛭魔相手にすら怯えることはなくなっているようだし、もうそんな選別はしていないかもしれない。しかし阿含には未だに引き気味なあたり、内心はやはり優しいほうが良いのだろう。当然といえば当然か。
「どっち乗るの?」
「あ、高いところ苦手なので、ヒル魔さんは丁重にお断りを……ムサシさんがしてくれました」
 蛭魔を断る選択肢が小早川にあったとは。とはいえさすがに面と向かって断るには、蛭魔は横暴過ぎる悪魔だ。武蔵が口を出したのなら安心できるか。桜庭や雪光からすれば安心できないかもしれないが。
「セナ、行かねえのか。車出すぞ」
「あ、はいっ!」
「カカカ、このまんま別の店行ってもいいけどなあ」
「セナは武蔵工バベルズの独り占めってなあどうよ!」
「なにそれ……」
「そりゃ全員から恨まれるねえ」
 呆れたような声音を発した小早川を泥門ラインだった黒木と戸叶が囲みながら、キッドが手招きしてトラックへと誘導していく。ふと我に返ったらしい雪光が、背中を追いかけて声をかけた。
「………っ、お店変わるなら、僕にも教えてくれないかな?」
「おー、任せろ。悪魔出し抜いてやろうぜ」
「ヒル魔さんに内緒でお店変えるとかできるの……?」
「セナよお、試合みたいに出し抜きますって言ってみろ」
「え、うーん……む、難しい。桜庭さんと高見さんも来てくれますか?」
「勿論。ヒル魔出し抜くなら手伝うし」
「………。面白そうだな、俺も手を貸すよ。ついでに腕っ節要因で進も連れていこう」
「はいっ!」
 進の名を聞いた途端、小早川の表情がぱっと明るくなった。
 この表情がどんな感情を伴って浮かべられたものなのか、高見には判別ができなかったが。
 少なくとも普通よりは特別な感情があるように見えたし、進にも可能性はありそうだった。
 まあ、その分桜庭や雪光の苦労が目に見えるようだったが、そこは何とか張り合ってもらいたい。彼女が好きになる相手は、そんじょそこらの有象無象とは一線を画す者であってほしかった。そしてその有象無象と一線を画す者は、高見の知る限り彼女の周りに山程いるのである。