芽吹き

 ある意味で花梨は恵まれていたと思う。
 漫画家を目指した花梨にアメフト経験があったせいでそちらに舵を切られてしまったものの、経験と伝手を使って取材ができて、連絡先の交換もできて、取材相手は花梨の聞きたいことを教えてくれる。すべては試合で会った顔見知りだからだ。
 大和や鷹からは社会人アメフトチームに入ればまた試合ができるよ、なんて今度は敵チームになるための勧誘を受けてしまったこともあったが(最後まで大和は大和だった)、上京してしまえばそうそう会うこともなくなると考え、のらりくらりと躱して今に至っている。
 花梨の意見など大雑把に笑い飛ばして話を聞いてくれない兄や体育会系な男子たちとも違う、セナは花梨の周りにはいないタイプの人間だった。何より花梨の意見を聞いてくれるし変な受け取られ方もしない。さほど回数は増えていないにも関わらず、この取材の時間が花梨にとって癒やしとなっていた。セナくんやったら気負わんと話せるわあ、セナくんみたいな人どっかにおらんかなあ、なんて話を溢した時、呆れた友人の言葉に花梨は焦ることとなったが。
「いや、みたいな人って、“セナくん”じゃあかんの?」
「へ?」
「彼女おらんのなら行ったらええやん」
 思いもしなかった言葉が友の口から飛び出てきて、花梨は文字どおり震え上がった。何をそんな簡単に言っているのか、この友人は。相手はアイシールド21、漫画の題材にしようと取材している人である。しかも敵チームだった相手だ。
「だからなんやの。別に良くない? ええ人なんやろ」
「う。そ、それはそうやけど」
「ガハハ系ちゃう、話聞いてくれる、優しい、無理強いせん。花梨の好みどストライクなんちゃう?」
 指折り数えてセナの特徴を挙げていく友人に、花梨は再び震え上がった。こうして羅列されると完璧にモテる男の子の特徴ではないだろうか。本人を前にすると花梨と同じくらい小心者なのだろうなと思えるというのに。おかしい。いや、おかしくはないのかもしれないが。
「そ、それも、そう……かもしれんけど。で、でもほら、セナくんてモテるし」
「そうなん?」
「うん。試合中も女の子から名前呼ばれてる」
 本人の腰は低いので、黄色い声が上がっていてもアメフト部の応援だと思っているだろうと想像がつく。確かに他の人の名前が呼ばれていることも多いから仕方ないとは思うが、セナの名前を呼ぶ回数は、一度見に行った練習試合でも一番多かったように思う。まあ、黄色い声だけでなく野太い声も多かったのだが。とにかく、漫画の題材にしようと言われるくらいなのだからモテるのは当然にも思えた。
「ふーん。特定の子は?」
「そんなん聞いたことないし……あ、マネージャーの子がそうっぽいかもしれんわ」
「わかった。じゃあ次会う時な、聞いといで」
「えーっ!」
 マネージャーの子は部員全員と仲が良さそうにも見えたけれど、友人を誤魔化すには良い相手だと思ったのだが。セナには彼女がいる。これで終わると思ったのに、友人は更なるミッションを勧めてきた。
「まだ彼女ちゃうかもやし彼女にならんかもしれんやろ。あのなあ、おるならおるで諦めつくし、おらんならチャンスやん。セナくんみたいな人がええんやろ」
「ううっ。い、いやいや! そ、そもそも、私別にセナくんのことは好きとかちゃうし」
「いや、好みのタイプやん……? そのうち変わるて。ま、もう言い訳とかええから聞くだけ聞いといで。な!」
 結果的に無理やり背中を押されたまま、花梨は何度めかのセナとの待ち合わせに向かうこととなってしまったのだった。
 溜息を吐きつつ集合場所に向かったが、開いた携帯にメールが入っていた。
 泥門公園に用事ができたから遅れる。いつ終わるかわからないから後日にしないか。家を出た頃に送られてきていたらしいメールに花梨は無意識にしょんぼりしてしまった。まあ友人の妙なミッションにも辟易していたので良かったのかもしれないが。
 泥門公園とはどこだろう。気になった花梨は携帯からルートを調べることにした。
 花梨のいる駅から徒歩二十分程度のさほど離れていない位置にあるらしい。
 行ってみようか。何か困っているのかもしれない。短い期間で知ったセナの性格上、先約を適当な理由で断るような人には思えなかった。いやしかし、後日という選択肢を用意された時点で、花梨が行っては迷惑かもしれない。
 ――聞くだけ聞いといで。
 ぶんぶんとかぶりを振り、友人の言葉を頭から振り払う。そういう意味の質問をしたくて行くつもりではなく、単純に気になるから行くのだ。そう、近いし。ぎゅっと携帯電話を握り締めた花梨はその場から足を踏み出した。

「あ、ここ? かな……?」
 泥門公園と書かれた銘板を見つけ、花梨はそっと中を伺ってみた。
 ブランコやシーソーが設置してあるわりと広い普通の公園だ。右から左へと視線を向かわせると、蹲って茂みを覗く誰かの後ろ姿がある。恐らくセナで間違いないが、何をしているのだろうか。
 声をかけるべきだろうか。ここまで来て今更挨拶もせず帰るのも何だか失礼な気がするし、拳を握って公園へと足を踏み入れようとした。
「待って待って、暴れないでー、何もしないから。病院! 病院行くだけだって! あいたたた!」
 茂みに向かって一人喋っている。そこに何かいるらしいことは何となくわかったが、何がいるのかわからず花梨は踏み出そうとした足を戻した。痛がりながらそばに置いていたキャリーケースらしきものに手ごと突っ込み、さっさと蓋を閉めてからセナは溜息を吐いた。
「ひい、やっと捕まえたあ」
「!」
 立ち上がったセナが踵を返した場合、公園の入り口を前にすることになる。花梨は今公園の入り口に立っている。そうなれば自然と目を合わせることになってしまうのである。
 ばち、と視線がぶつかった瞬間、花梨はぎくりと肩を震わせた。
「あ、小泉さん! ごめん、約束してたのに」
「ううん……大丈夫やけど……」
 その瞬間はセナもまた顔色と表情を変え、花梨のそばまで寄ってきて謝り倒し、非常に低い腰を披露してくれた。
 どうにか頭を上げさせるも、花梨の視線はセナの持つケースに向かっていく。
「な、何がおるん?」
「ああ……ええと、子猫。昨日から猫の鳴き声聞こえてて、今日親は朝から出かけるからって、僕が今まで探してたんだ。母猫いないみたいだから」
 怪我もしているらしい。キャリーケースの側面から覗き込むと、確かに小さな猫が隅で丸くなっていた。震えているようにも見えるし、非常に警戒しているようにも見える。
「時間までには終わらせるつもりだったんだけど……ごめん。これから病院連れていくから今日は……」
 それでセナは今日は行けないと連絡してきたのか。納得すると同時に、花梨がここまで来たのは何か困っているのかと気になったからである。実際困っているような気がするので、おずおずと花梨は口を開いた。
「あ……、あの、な、なんか手伝うことある?」
「え」
「来てすぐ帰るのも何やし……猫ちゃん、ちょっと見たいし」
「……いいの?」
 怯えていたり警戒しているなら触れはしないだろうけれど、そばからちらりと眺めたりくらいはできるかもしれない。窺うような視線が花梨を見つめた後、小さく笑みを浮かべてありがとうとセナは口にした。
「じゃあその、ちょっと待っててもらえるかな。何も持ってきてなくて、家まで財布取りに行くから、あの、ちょっと待つかもしんないけど……急いで戻るから!」
 キャリーケースを手渡され、返事をする間もなくずぎゃんとセナが走り出し、花梨は土煙に咳き込むことになった。相変わらずの速さで目を剥いてしまうほどだ。しばらく茫然としていた花梨は一先ず隅に設置してあるベンチに座ることにした。
 空気に晒された腕が引っかかれていたが、大丈夫だろうか。ケースを覗き込んでも、子猫は先程と同じ場所で蹲ったままだった。
 セナは猫を飼っているのだろうか。わりと動物に慣れていそうな様子にも見えたし、ペットはいそうだ。そういえばそんな話はしたことがなかった。
 花梨は何かを待つ時間は特に苦痛ではない。その待っている時間、色々なことを空想していられるからだ。絵でも描いて待っていようとノートを取り出せば、数十分などあっという間である。公園の入り口から光速でセナが戻ってくると、またしても必死に謝られたが。

「ちょっ、怒んないでよ。ご、ごめんって!」
 セナの付き添いのような形で動物病院に向かった花梨は、獣医から治療と薬を施された子猫を連れて小早川家へと訪れた。
 セナの後からリビングに入った瞬間、扉近くにいた猫が毛を逆立てながら思いきり威嚇していた。それに謝りながらセナはリビングへと入っていくので、花梨も慌てて後を追っていった。
「ごめん、他の猫の臭いが付いてるから怒ってて……適当に座ってて。ケージ出してくるから」
「あ、手伝うよ」
 花梨は家で動物を飼ったことはないが、親戚の家には犬も猫もいたりする。大きめのケージも設置されていたのを思い出した。
 飼い猫用に使っていたものらしく少し使い古したようではあったけれど、子猫には充分な大きさのように思える。これまた古びた説明書を読みながら、何とか花梨も組み立てを手伝った。準備が完了したところで子猫をケージに移動させ、落ち着けるように毛布を掛けて暗くする。元々の飼い猫とは隔離しなければならないのでリビングには置けず、勝手に入らないよう別の部屋で扉を閉めておくのだそうだ。眺められないのは少し残念だったが。
「お疲れ様」
「小泉さんもありがとう」
 ほっとひと段落したところでお茶も何も出していないと慌てたセナは、キッチンで用意したお茶と買ってあったらしいクッキーを出してくれた。そこでふと花梨は思い至ってしまった。
 男の子の家に二人きり。
 急に緊張し始めた花梨は、慌てて話題を探して口を開いた。
「ね、猫飼ってたんやね。どおりで動物慣れてそうやと思った」
「うん。まあ、でも、うちの猫の中で僕の立ち位置だいぶ低いから……」
 花梨が疑問符を浮かべたのがわかったのか、セナは曖昧に笑いながら言葉を続けた。
 飼い猫の名前はピット。そのピットの中で一番はセナの母親で、セナと父親は母親より遥か下なのだそうだ。謝り倒していたところを思い浮かべながら、何となく想像がつくような気がして花梨は笑った。
「ふふ、カーストみたいなやつやね。セナくん猫にめっちゃ謝ってるから……」
「あはは……逆らえなくて……」
 猫に逆らえない男子学生というのも気が弱すぎるのではと思わないでもないが、猫を飼っていた友人は、自分たち家族は飼い主ではなく猫の下僕だと言っていたことがある。セナは単純に勝てないから、というのも想像できてしまうが。
「……うちもある。私も家族の中でわりと下のほうで……お兄ちゃんに逆らうとかちょっと無理やわ。……あ、べ、別に仲悪いとかはないけど」
 どう返していいか困らせてしまいそうな言い方をしてしまった気がして、花梨は慌てて仲違いしているわけではないことを付け足した。実際花梨が困っていたらきっと助けてはくれるのだろうが、兄の性格に辟易していることは気づいてすらいない。そのあたりは何となく、大和にも通じる気がする。
「ええと、その。なんていうんかな……がさつというか、体育会系で……ついていけんくて」
「あ、ああ……」
 花梨を見た後、どこか遠い目をしたセナが曖昧な返事ともいえない声を漏らした。成程、とやがて納得したらしい言葉が紡がれた。
「だから男の子って結構苦手意識があったんやけど……」
「あ。じゃあ僕と話すのも……」
「い、いやセナくんは! その、話聞いてくれるから……大丈夫」
 勢い余り過ぎたような気がする。花梨の声にびくりと肩を震わせたセナが何ともいえない表情で相槌を打った。恥ずかしい。なんか物凄く恥ずかしいことを言ってしまったような気がする。
 だってセナの家で、二人きりで、好意のようなものを伝えて。もしかして私、めちゃくちゃ大胆なのでは……? そう考えてしまい、花梨は今すぐ逃げたい衝動に駆られた。だって男の子はわりとすぐ勘違いも好きにもなるって聞いたことがある。セナがもしその気になってしまったら、花梨はどうしたらいいのだろう。
「あの。この間クリフォードさんが送ってくれたDVDがあるんだけど、ノートルダム大の試合。観る?」
 びくりと今度は花梨の肩が大袈裟に震えたが、何とか悲鳴を上げずに普通に頷くことができた。ソファから立ち上がろうとするセナを眺め、取りに行ってくると告げてさっさとリビングを立ち去っていく。
 これは、気を遣われたかもしれない。
 助かった。落ち着かなくて逃げ出しそうになっていたところを、既でセナの気遣いに救われたような気がする。恐らくは、似た者同士だから何となくわかったのだろうか。
「はあ……」
 勘違いがどうとか言っている場合ではない気がする。
 あんな人はもしかしたら花梨の気づかないところで近くにいたかもしれないけれど、花梨が知っている周りにセナのような人はいなかった。ちょっと、本当に、心中でぐるぐると考えを巡らせかけて、花梨は慌ててぶんぶんとかぶりを振った。
 これ以上考えたら意識し続けて大変しんどいことになる。落ち着くために絵でも描こうか。鞄を漁ろうとした時、セナはDVDを持ってリビングに戻ってきた。

「アメリカてほんま凄いんやね……」
 高校までフィールド上で見ていた試合よりも凄い試合がテレビの中で繰り広げられている。
 セナや大和のようなとてつもなく速い選手、栗田並に大きくそして速さを伴った選手。とにかく全員が日本のトッププレーヤーのような者たちがゴロゴロしていた。凄過ぎる。
 しかし、ぶつかり合いにびくびくと目を背けそうになるものの、テレビ越しに観るアメフトの試合はルールもよく知っているのでそれほど嫌ではない。むしろ観るのは好きな部類だ。炎馬の練習試合も見応えがあった。カーペットに座るセナが少し笑う気配がして、花梨はソファからちらりと視線を向けた。
「あ、ごめん。いや、小泉さんて無理やりアメフトやらされてたって聞いたし、今はもう辞めてるし。漫画の題材ってのも、もしかして嫌々なのかなって思ってたんだけど」
 完全否定はできない。アメフト部から足を洗ってもまだ関わらなければならないのかと、最初こそ花梨はしくしくと泣きながら炎馬大学へと試合を観に行ったのである。
 しかし、今は別に嫌というわけではない。
「でもほら、試合観るのは嫌じゃなさそうだから。アメフト嫌いになってたらちょっと、寂しいなって思ってたから良かったよ」
「……あ、うん。好き。………、……み、観るのは」
 瞬いた目がセナから向けられ、はっと気がついた花梨は慌てて言葉を付け足した。うん、とセナは頷いて、良かったともう一度呟いた。
 自分の好きなものが嫌われるのは寂しい。その気持ちは花梨にもよくわかる。けれど花梨はアメフトをやることは嫌だった。同じように無理やり試合に出されていたはずなのに、セナは楽しいと感じられてアメフトを好きになっていったのだ。それが男女差なのかもしれないけれど。
「セナくんは、なんでアメフト好きになれたん?」
「え?」
「ほ、ほら、やるのはやっぱ怖かったんよね? 好きになったのって結構珍しいんちゃうかなって……」
 一度恐ろしいと感じたら、花梨はそこから逃げ出したくなる。体を動かすのも好きではなかったし、パスがうまいなんて理由で男子に混じってやるなんて辛かった。セナは男の子ではあるが、セナは花梨と似ているのだ。
「あー。まあ、ほら、その、僕元パシリだから……。……怖いよりも、抜いた時の気持ち良さみたいなのが、上回ったっていうか。えーと……な、何ていうかうまく言えないんだけど……」
 性格を知ればパシリというのもわからないでもない。気が弱く小市民であるというセナは、争いを好まずいつも言いたいことを飲み込んできたのだろうということも。花梨にも覚えのあることだ。
「ラインの皆が道作って、僕が走って、モン太がキャッチしてって……そういう、仲間で連携して戦うみたいなのも初めてだったし、何というか……ううーん。………、……たぶん、泥門だったから良かったんだ」
 部員数が少なくて、最初など助っ人を必死に掻き集めて。そこまでしないと試合には出られなかった。出たら出たで連携も何もできない素人集団で、アメフト正部員である栗田とヒル魔しか敵チームと渡り合える者はいなくて。そんなところにセナは入部した。
「僕じゃないと駄目、みたいなのが嬉しかったっていうか……。いや僕でも駄目なことはいくらでもあったんだけど。うまく作用したというか、使ってくれたというか……このチームを優勝まで連れていきたいって思えたから」
 ああ、そうか。そういうことなのか。
 帝黒学園はアメフト強豪校だ。部員数は三桁を超えていたし、花梨より経験も才能もある者が数え切れないほどいた。花梨でなければならない、花梨でなければ駄目だという言葉が、建前のように聞こえていたのだ。
「……そうなんやね。何となくわかった」
「そ、そう? 僕説明得意じゃないから……」
「大丈夫。伝わったから」
「だったらいいんだけど……」
 結局のところ、仲間から向けられる期待を背負えたかどうかによるのだろう。勿論花梨がセナのようにヒーローになれる素質があったとは思わないけれど、仲間のために必死になれるかどうか、それが違いだった。環境の中で自分が奮起できたかどうかなのだ。
 凄いなあ。
 当然か。相手はアイシールド21。漫画の題材。昔はパシリだったかもしれないけれど、今はアメフト界のヒーローだ。
「せ、セナくんて、自分の短所とかどこやと思う……?」
 このままではまずい。そう考えた花梨はセナの短所を聞くことにした。小さくかぶりを振った花梨を不思議そうに眺めてから、セナはええと、と口を開く。
「大体全部かな」
「け、謙虚やね……」
「いや、事実……僕が誰かと張り合えるのって本当に脚しかないし。武器一つだけでもアメフトはやりたいから、これだけは鍛え続けなきゃいけないし、壊しちゃいけない。他に何もない僕がプロの世界に行くために」
 プロの世界。
 そうか。セナはアメリカに戻るつもりなのだ。
 部活の延長でもなく、趣味でもなく。戦いたいからプロに行く。だから留学だってしたし、できることは何でもするつもりなのだ。
「………、セナくんて格好良いね」
「………。へっ!?」
 無意識に言葉が口をついて飛び出てきた。普通なら焦るところだったけれど、実際格好良いのだから仕方ない。どれだけ小市民だろうとセナは格好良い。少なくとも花梨の目にはそう見える。
「い、いやいやいやいや。だって小泉さんだって、プロの世界を目指してるんでしょ!?」
「え?」
「アメフトじゃないけど、漫画描くってそういうことだよね。格好良いよ」
 ――漫画で食っていける奴なんてひと握りやから。
 なんて告げられた言葉がふと脳裏に過ぎった。
 そんなことは花梨にもわかっているけれど、諦めきれないというのはある。好きなものをのびのび描けなかった高校時代が、もしかしたら意地でも漫画家になるという思いを強くしたのかもしれないが。
 そうだった。うまくいくかなんて、そんなことはどんな仕事でもそうなのに。
「……あ、……ありがとう……」
「い、いや……僕は何も。小泉さんが凄いからだよね。ご、ごめん、なんか……僕ボキャブラリーがなくて……」
 ――何があかんの?
 もうわからんわ。
 友人の言葉を思い出した。
 皆のヒーローだから。ファンが沢山。花梨が及び腰になる理由はいくつもあるけれど。
 セナはアメフトしか見ていないような気がするけれど、好きになるだけならええか、と花梨は思ってしまったのである。

「今日はありがとう」
「ううん! また猫ちゃんの経過も教えてほしい」
 里親が見つからなければこのまま飼うだろうとセナは言った。
 花梨は実家でも動物を飼ったことがない。ひとり暮らしになってしまった今ではペットを飼うということも考えたことがなかったが、何故か花梨の住むマンションはペット可物件でもあった。猫に慣れていれば引き取ったのに、とピットに触れた後である今はそう思う。
「あれ、セナ?」
「ん? あ、陸」
 駅前で帰り際の挨拶を済ませようと立ち止まっていたから、生活圏であるセナのチームメイトはここを通るのだろう。練習試合にも出ていたセナと同じくらい小柄な男子が目を丸くしてこちらを見ていた。
「……ふーん? 隅に置けないなセナも」
「いや、ふーんじゃないよ!」
 にやついた男子に駆け寄ったセナが慌てたように弁解している。
 男子は隠さなくてもいいとやけに訳知り顔で楽しそうに言っているし、恐らく関係を誤解されたのだろう。しかしそれを解くには少々苦労しそうだ。揶揄いついでにセナと花梨の反応を観察したいのか、ちらりと花梨へ視線が向けられた。
 ――まあ、私はふーんかもしれへんからね。
 花梨は弁解しようにもできそうにないと自覚してしまったので、セナに便乗することはできない。しても構わないけれど、泥門と同じくらい炎馬でのチームが楽しいのだと言っていたし、楽しそうにするセナを眺めるだけに留めておいた。