差し入れ行脚
「失礼します……まもり姉ちゃん」
「あ、セナ」
泥門デビルバッツの秋大会が終わった冬の始まりの季節。二度目の関東大会優勝は結局奪い取ることはできずに終わってしまったが、それでも皆すべての力を出し切って戦えた。悔しいけれど妙に晴れやか。セナたち二年は満足げに部活を引退し、後輩に後を託すことができたと思う。
クリスマスボウルまで約一ヶ月。今年はセナたちも観客側だ。しかし打倒関西、関東勢二連覇を狙うため、去年と同様クリスマスボウル出場校のマンツーマントレーニングに参加することになっている。
この時期になると三年生もあまり学校には来ていないが、事前に来ることを確認していたセナは三年の教室でまもりを見つけ、近くにヒル魔と栗田がいることも確認して教室へと足を踏み入れた。
「セナくんだー。試合見てたよー惜しかったね」
「あ、ありがとうございます……」
泥門アメフト部は去年から生徒たちによく目をかけられていると思う。知らない相手から話しかけられることもよくあるのだが、それでもやはりセナが応えるのは少し恐縮してしまい、必要以上に頭を下げてしまっていた。
「……この匂いは……」
セナが近づくとまもりの目がぎらりと光り、持っていた袋へと視線が向かう。相変わらずの嗅覚だと口元を引き攣らせてしまったが、渡すつもりで来たのだからとセナは袋から箱を取り出した。
「雁屋のシュークリーム!」
「わー! どうしたのセナくんこれ」
「差し入れです……皆から。勉強疲れには甘い物だって話になって。あとジュース」
「ありがとセナくーん!」
「ありがとうセナ!」
栗田の渾身のハグを間一髪で避けたのに、背後にいたまもりに捕まって抱き締められた。この受験時の三年の教室で騒がしくするのは怒られそうな気がしたのだが、周りの視線はどこか戦々恐々としているものの静かだった。
「ケケケ、キャプテン様が部員のパシリか!」
「いや、中坊くんに引き継いだので僕はもう……」
「セナだってクリスマスボウル終わったらすぐ英語の勉強しなきゃなのよ。大丈夫なの? 手伝うわよ」
「う。だ、大丈夫とは言い難いけど……受験生に教えてもらうつもりはさすがにないよ」
「別にいいのに。終わったら手も空くんだし」
「残念そうだね姉崎さん」
まもりの手を借り続けてきたセナは非常に手のかかる相手だったと思うが、まもり自身も世話を焼きたがる節があり、セナの世話を焼いてくれていた時は決して嫌そうには見えなかった。とはいえ、彼女の第一志望は難関の最京大学なので、さすがのまもりでも受験に集中しなければ万が一ということもあるだろう。関東大会が終わってから、セナは合間を見つけては十文字に少しずつ聞くようにしていた。
「あ、ヒル魔さんにはこれです」
出てきたのが甘味のシュークリームだったからか、興味が失せたらしいヒル魔はセナたちへ背中を向けようとした。まもりの腕からすり抜けたセナは袋を漁り、新たにビニール袋を取り出した。
「あ、ヒル魔がいつも噛んでるやつだね」
無糖ガムと缶コーヒー、あとは飲んでいた気がするコーラ。袋の中身に目をやったヒル魔は驚いたように固まった。彼は時折予想外のことが起こるとこうして目を見張る。何に驚いたのかはわからないが。
「………。おいこら、微糖じゃねえか!」
「わっ、あ、それはですね! 勉強したらやっぱり糖分はいるんじゃないかって思って、すみません」
舌打ちしつつもプルタブを開けてひと口流し込んだものの、甘くせえ、とヒル魔は舌を出して非常に不快そうな顔を晒した。
やっぱり駄目だったか、とセナは苦笑いを浮かべた。いくらヒル魔とはいえ、彼の脳にも糖分が必要なのではないかと思ったのだが、口に合わなかったようだ。
「ヒル魔が残したら僕が飲むから大丈夫だよー」
「はい。じゃあ、雪さんとこ行ってくるね」
「うん、ありがとねセナ」
「おい、糞チビ」
「はい?」
「英語。行き詰まったら言え。暇があったら見てやる」
「え。あ、でも……ええと、ありがとうございます」
ヒル魔も受験生なのに。断ればまた銃を乱射されそうだと思い、セナは一先ず礼を告げた。
この時教室の空気が一瞬にして変わったような気がして、気になったセナはヒル魔から視線を外して教室内を見渡した。しかしクラスの三年生は皆机に向かって勉強していて、そろそろ邪魔になりそうだと考えてまもりと栗田に手を振り、口にしたとおり雪光のところに向かうことにした。
「何笑ってやがる糞デブ」
「だってクラス中がびっくりするくらいセナくんに優しいんだもの!」
ひと口飲んで文句を言った微糖の缶コーヒーは、渋い顔をしながらも未だにぐびぐびと飲んでいるわけで。そもそもセナがヒル魔の分だと差し出した袋を受け取ったことすら周りは慄いていたくらいだ。クラスでは非常に珍しいシーンだった。
その後の英語の話など、クラス中が息を呑んで固まって動けなくなっていたくらいである。
「素直にありがとうって言えばいいじゃない。セナの英語は私が教えるから大丈夫です」
「ケッ。優等生様にはスラングなんか教えらんねえだろうが」
「教える必要ないわよ!」
「まあまあ。ふふふ、半年後には行っちゃうんだもんね。アメリカかあ……」
栗田にとってもアメフトの思い出ばかりのアメリカだ。たった半年、されど半年。その短く長い時間でセナは成長しに行くのだ。帰ってきた時はきっと、今よりもっと強くなっている。
「セナくんに負けないよう頑張らないと!」
ヒル魔や姉崎と違って栗田は頭も良くないが、それでも行きたい大学くらいある。栗田たちが受験に受かれば先輩としての手本を見せてあげることもできるのだ。
そしてあわよくば、成長したセナがまた後輩になってくれれば嬉しい。まあ、スポーツ推薦で最京あたりに行かれてしまうとヒル魔たちと共に敵になってしまうのだけれど。
*
「雁屋のシュークリームかあ、ありがとう。僕これ入部の面接の時に初めて食べたんだよね」
「そうなんですか?」
「あ、俺もいいの? ありがとう」
雪光のクラスを覗くと近くの席に石丸もいて、ジュースとシュークリームを渡しつつあと一人はいないのかとセナは教室内を見渡した。雪光が言うには職員室に行っているらしい。
「陸上部であんまり役に立てなかったので……」
「いいよいいよ、助っ人には来てくれたし」
「セナくんたちは大丈夫?」
「はい」
関東大会で敗退したことはもう皆吹っ切れている。今はもう、今年はマンツーマンコーチをする側で全員駆り出されているだけだ。とはいえ雪光や石丸までもが心配してくれていたらしい。
「クリスマスボウルが終われば、中坊くんたちも皆来年に向けて再出発です。僕らも」
「うん、応援してるよ」
「あ、セナくんじゃん! 頑張ってたねー」
「残念だったなあアメフト部」
「はは、どうも……」
「何だ、騒がしいと思ったら……三年の階で何してんだ?」
雪光たちのクラスメートらしい男女に声をかけられた後、すぐ後ろにちょうど戻ってきたもう一人、ムサシが廊下側の窓から教室を覗き込んでいた。セナは袋からコーヒーを取り出し、箱を開けてシュークリームを見せるように差し出した。
「差し入れです」
「俺もか? 俺は進学しねえぞ」
「わかってます。現場仕事でも糖分は必要だと思うんで、皆で出し合って……」
「……出し合ってセナがパシってんのか」
「僕が一番速かったので……」
中坊は自分が行くと言ってくれていたし、さすがにパシらされたなどとはセナも思っていないし、ムサシもただの軽口で聞いているだけだ。しかしこの脚はパシリのために速くなったわけで、セナと同タイムの者は他校の人間で、セナより速く走る者がアメリカにしかいない以上、セナが買いに走るのが一番速いのである。
「ははは! 自信があって何よりだ」
「う、わっ」
大工仕事で鍛えられた大きな手がセナの頭に乗る。ぐらぐらと体が揺れるくらい力が篭っていて踏ん張らなければ倒れそうだったが、ムサシは基本的にこんな感じで力が強い。鍛えたとはいえまだまだベンチプレスは部員の中でも軽いので、セナがひと際貧弱であるのも原因だと思うが。
「まあ有難く貰うけどな。自分の心配が先じゃねえか?」
「ははは……ムサシさんや雪さんたちが先に卒業なので……」
留学の心配をしてくれているらしい。セナの学力は平均以下なので心配されるのも仕方のないことではある。というより、会う人会う人に英語の心配をされることばかりだったので、よほどセナの学力に不安が募るのだろう。
「俺は進学も就活もねえからなあ。仕事の合間で良けりゃ英語見てやるぞ」
「本当ですか? 今はちょっとずつ十文字くんに教えてもらってるんです。ヒル魔さんもまもり姉ちゃんも教えるって言ってくれたんですけど受験組だから……」
「………。成程なあ。まあ、あいつらもセンター試験まで日がなくなって来てるからな。卒業まで見てやるよ。ま、俺の英語は実際に使えるかはわからんが」
「試験が終われば僕も教えてあげられるんだけど……」
「ありがとうございます! いやいや、受験が一番大事ですから。じゃあ僕戻ります」
「うん、ありがとう」
三人が差し入れを手に取ったのを見届け、用件を終えたセナは雪光たちのクラスを離れ、部室へと戻ることにした。
「あんたらめっちゃ可愛がってんじゃん」
「いやそりゃまあ……可愛いでしょう。後輩だし」
「ヒル魔と違って素直だしな」
「陸上部掛け持ちしてほしかったなあ」
廊下側にいたムサシがシュークリームを頬張ったまま教室へと入ってくる。強面に似合わない姿だ。
クラスメートの突っ込みに否定できる者は泥門アメフト部にはいないと雪光は思っている。程度の差はあれど、ムサシだって後輩は皆可愛く見えているだろう。しかも雪光にとっては高校に入って初めてできた部活の後輩だ。
それに、雪光はアイシールド21に憧れて入部したのだ。正体がセナだったことは驚愕するほどの事実だったけれど、彼が良い子であることは知っていたし、正体を知ったことで更に憧れてしまったところもある。あんなに凄いのにセナ自身は大人しくて及び腰。憧憬と尊敬と親近感が一気に押し寄せたのは初めてだった。
「ヒル魔の馬鹿もセナの世話焼こうとしてんのが面白えな」
「ヒル魔くんはセナくんのこと好きだよね。理想のランナーだったんだっけ」
「あー、ヒル魔が見つけた原石だからなあ」
ムサシがいなくなった後、二人きりだった泥門デビルバッツに現れた光速のランナーだ。当初はヒル魔だってはしゃいでしまったかもしれない。まあ、主務をやる気になっていたはずのセナを拉致して強制入部させたという話だったから、やり方は間違っていたと思うが。
「ヒル魔の嘘を本物にしちまうからな。来年はノートルダム大のヒーローだ」
「うーん、凄い」
憧れたヒーローの正体が身近な後輩だったというのに、これでまた雲の上の人になってしまいそうな気分だ。しかしセナ自身はきっと、そんなことを構いもせずに雪光たちを慕ってくれるのだろうな、と確信めいた思いが胸中にある。セナという人間はそういう人間だ。セナだけではなく、デビルバッツのメンバーがそうなのだ。
「僕も頑張らないと!」
差し入れまで貰ったのだから、しっかり受験に打ち勝たなければ。雪光だってセナたち後輩に誇れる人間でありたいのだ。
*
「やっぱ勉強には甘いもんだろ。まもりさんの好物!」
「ムサシとヒル魔は食うのかよ」
「栗田さんが全部食べちゃったけど、ムサシさんはケーキ食べようとしてたこともあるし食べるんじゃないかな。ヒル魔さんは……ガムかなあ」
三年の先輩の人数を指折り数え、シュークリーム、と呟きながらメモを書く。ヒル魔には無糖ガムと缶コーヒー。コーラを奢ってくれようとしたこともあるからコーラも飲むかもしれない。小銭が音を立ててテーブルに置かれ、千円札を置いた部員が釣りを持っていく。
「誰が買いにいく? じゃんけんするか?」
「あっ、自分が行くッス!」
「え? いや僕が行ってくるけど」
勢い良く手を挙げた中坊たち一年だったが、セナは誰かに頼む選択肢を持ち合わせていなかった。十文字たちが眉を顰めて凄んでいるが。
「だって僕が行ったほうが速いし」
「それはそうだけども!」
「そこ言われると何も反論できねえ……」
「なんでキャプテンが率先してパシってんだよ!」
「い、いやいや、パシリじゃなくてお使いでしょ? しかも差し入れ買いに行くための」
そもそもこの差し入れも今日全員が登校してくると聞いたセナが提案したことだ。言い出しっぺが買いに行くのも当然だと思うのだが、時折モン太や十文字たちはセナのしようとすることに文句を言ってくる。
「こういう雑務は後輩の自分がやるべきことッス!」
「いやでも、栗田さんたちの差し入れだし。しかもほら、キャプテンはもう中坊くんだから……」
「まだっ! まだッスセナ先輩! 自分は年明けからキャプテンを継ぐので!」
「わ、わかったよ!」
とはいえセナはすでに中坊をキャプテンに任命している。
去年はさほど違いのなかった背丈だが、一年で二十センチも背が伸びた中坊はセナが見上げるほど大きくなってしまい、少しばかり圧迫感がありつい頷いてしまった。本人に言うと悲しみそうなので言わないが。
「俺も付き合うぜセナ!」
「いいよ、そんなに量多くないし。行ってきます!」
集めた費用は封筒に入れ、ポケットに入れて部室のドアを開け、早速セナはロケットスタートした。セナが去った部室前は土煙に包まれ、見送ろうとした部員たちが咳き込んでいたらしい。
「うーん、光速!」
「あいつパシリ属性まだちょっと抜けねえんだよな……」
「最強ランナーをパシリに使うの凄え贅沢じゃね?」
なんてやり取りがあったことを帰ってから聞かされたのだが、今回のはパシリではないと何度言っても聞いてはくれなかった。