幼馴染の男の子

 挫いた足を抱えたまま、まもりは生垣に腰掛けて溜息を吐いた。
 受験勉強が本格化してきた夏の終わりから秋の肌寒さを感じ始めた頃、予備校帰りの駅階段を踏み外して倒れ込んで足首を挫いた。何とか立ち上がってロータリー近くの生垣で休んでいたところだ。
 今滑っておけば受験当日は大丈夫かもしれない。前向きに考えるものの、まもりの口からは溜息しか出なかった。
 家からの最寄り駅ではある。母に連絡すれば迎えに来てくれるだろうか。それともテーピングすれば歩けるかもしれないと鞄を漁るも、部活を退いたまもりの鞄には絆創膏しか入っていなかった。
 何かあった時のためにと鞄に忍ばせるものは色々あったはずなのに、今は何も役に立たない。そもそもこの絆創膏は年下の幼馴染のために入れていたもので、まもりのためのものではない。けれど、いつからか鞄の中の絆創膏は幼馴染に使うことがなくなっていたことに気がついた。
 当然といえば当然である。蛭魔たちと同様、まもりも部活を引退して久しい。幼馴染は高校最後の大会に精を出しているし、部活のマネージャーはもうまもりではなく後輩が入部しているのだ。
 昔は毎日箱を開けていた絆創膏。いつもの癖で鞄に忍ばせたまま、入っていたことすら忘れかけていた。幼馴染の顔が脳裏に浮かぶ。
 受験で大変だろうから。差し出した弁当を受け取りながら、もう必要ないと言われたのは一学期の初めの頃だ。立派なアメフト選手になっても幼馴染であることは変わらないのだからと、まもりは卒業まで弁当を渡すつもりでいた。というより渡さない選択肢がなかった。困ったような顔がへらりと笑みを作り、幼馴染はいつもありがとうと言ってから、自分のことを優先してほしいとまたへらりと笑っていた。それを一学期の間は持ってくるからと無理やり頷かせたのはまもりだった。
 痛めた足首に触れながら、挫いたのがまもりで良かったとぼんやりと考えた。これが幼馴染であったならば、大会での泥門の戦力は大幅に落ちていた。泥門アメフト部のエースである幼馴染に、こんな日常での足の怪我などあってはならないことである。
 そう、泥門デビルバッツのエースであり、キャプテンであり、日本一のランナーだ。怪我などしてほしくはないけれど、アメフトとは怪我が当然の競技である。せめてフィールド内での怪我でなければ納得できない。別に、幼馴染が足を挫いたわけではないけれど。
 溜息を吐く。
 勉強で気が滅入っているのかもしれない。何だか今は少しも気分が軽くなるような思考にならなかった。仕方ないと鞄から携帯電話を取り出し、まもりは連絡帳から家の番号を呼び出そうとした。
「まもり姉ちゃん?」
「……セナ?」
 駅階段を行き来する人波の中から、聞き慣れた声がまもりへと向けられた。顔を上げると今の今まで考えていた幼馴染である瀬那の姿がある。咄嗟に足首から手を離したけれど、訝しげに見てくる視線にまもりは少し笑みを見せた。
「怪我したの?」
「階段踏み外してね」
「そうなんだ。珍しいね」
「そうかも。疲れてるのかな」
 テーピングテープの残りがあったはず、と抱えていた鞄を漁りながら、瀬那はまもりの前にしゃがみ込んだ。あったと嬉しそうな声とともに手にはテーピングテープが一巻き掴まれていた。言葉どおり半分以上使われた形跡のあるものだった。
「足出して」
「ごめんね」
 申し訳なくなったまもりが謝ると、不思議そうな顔をした瀬那は少しばかり首を傾げながらテーピングテープを引き伸ばし、靴下を脱いだ素足にテープを巻きつけていく手元をぼんやりと眺めた。
「……テーピングも慣れたねセナ」
「うん、どぶろく先生にも上手いやり方教わったんだ。――できた!」
「……うん。痛くない。ありがとね」
 トレーナーの溝六は困った人ではあるが、悪い人では決してない。彼の教える技術は選手たちのことを一番に考えてくれているのだ。生垣から立ち上がろうとしたまもりを制して瀬那は背を向けた。
「まもり姉ちゃん、乗って」
「……え。駄目よセナは、大会中でしょ」
「大丈夫だよ。放っといて帰れないよ」
 少しの攻防が続いて瀬那に折れる気がないことを悟り、こんなことで時間を使わせるのも駄目だと考えたまもりは仕方なく折れた。大会中の瀬那には休める時に休ませなければならないのだ。小さく溜息を吐いてから瀬那の肩に手を置き、背中に凭れると膝裏に腕が差し込まれてまもりの体は持ち上げられた。
「………」
 こんなに広くなっていたのか。まもりを軽々と持ち上げた瀬那の背中が、まるで初めて会う人のようで言葉が出なかった。ロータリーを抜けて危なげなく帰路を歩いていく。昔はまもりがおんぶしてあげていたのに、今はもう、瀬那を背負うことなど恐らくできない。
「走っていい?」
「うん。……わ、速っ」
 ひゅお、と耳に風を切る音が聞こえ、まもりは視界が流れていく速度に思わず呟いた。聞こえたらしい瀬那はそこから少しスピードを落とし、ジョギング程度の速度に落としてくれた。
 ――ああ、そうだなあ。男の子だもんね。
 背負われたまま、まもりは実感していた。いつまでも子供ではないと、まもり自身が去年思い知ったことだ。自立していく瀬那を見守っていたのだ。知っていたことのはずだった。
 瀬那の背中に抱き着くように、肩に置いていた手を首にまわして頭を寄せながら、まもりは何ともいえない気分を味わっていた。
「ありがとね」
「いいよ。いつもしてもらってばっかりだし」
 玄関の軒先でまもりを降ろした瀬那が立ち上がる。
 アメフトを始めるまで小さく丸くなっていた背筋がぴんと伸びている。まもりより下にあった瀬那の目が、今は少しばかり見上げなくてはならなくなっていた。
「……セナ、大きくなったね。もう追い抜かれちゃった」
 ぱちりと大きな目が瞬く。気づいていなかったのか、驚いた声が本当だと喜色を乗せた。去年の年末にも伸びていたし、まだまだ背は伸びるかもしれない。
「ふふ、今更気づいたの?」
「うーん。まもり姉ちゃんに勝てるとこがないから、追い抜くとかはあんまり……伸びてほしいとは思ってたけど。へへへ」
 嬉しそうな顔が嬉しそうに笑みを漏らす。陸はどのくらいあるんだろう、と少し気にしているらしい言葉が呟かれる。
 バイブの振動音が服を隔てて聞こえてきて、携帯電話を取り出した瀬那は鈴音だ、と相手の名を呟いた。瀬那とひと際仲が良いのはモン太と鈴音で、去年から三人揃ってどこかへ走って行くことが多くなっていた。
 可愛い可愛い、泣き虫で最弱の幼馴染だった瀬那が、友を見つけて熱中できるものを見つけて、まもりの追えない速度でどんどん先へと進んで行くのだ。
「……次勝てばベスト8だね。頑張って」
「うん、まもり姉ちゃんも。勉強……全然余裕だと思うけど……」
「ふふ、そんなわけないよ」
「そうかなあ……でもポスト入れとこうと思ってたんだ。全然要らないと思うけど……合格祈願に」
 鞄に手を突っ込んだ瀬那が腕を引き抜き、出てきた手のひらにはお守りが握られていた。
 色々と悩んだけれど、シンプルなのが一番効くのではないかと考えたのだという。こんなことに気を割いている時間など瀬那にはないはずなのに、差し出されたお守りはまもりのためのものなのだ。
「何言ってんの、要るわよ! セナからのプレゼントでしょ?」
 半ば奪い取るような形になったのは瀬那が今にも手を引っ込めそうだったからだ。安堵したような顔がまもりへと向けられ、まもりもまた笑みを見せた。
「ありがとね。……頑張るから。次も応援に行くからね」
「無理しないでいいよ」
「ううん。……セナの頑張ってるとこ見たら元気出るから。お弁当も作って持ってく」
「……うん、ありがとう。皆喜ぶよ」
 瀬那に喜んでほしいからしていることなのに。
 チームメイトの皆が喜ぶならまもりはそれも嬉しいが、やはり一番は瀬那のためだ。瀬那が喜ばないなら差し入れを持っていく意味は半減する。
「セナ」
「ん? ――まもり姉ちゃん?」
 目の前に立つ瀬那に抱き着いたまもりに、どこか心配そうな空気を纏った声音が名を呼んだ。それに答えないまま、まもりは目を瞑った。
 縋るではなくあやすかのように、まもりの背中を柔らかく叩かれる。
 背中に触れる手が大きくなった。まもりの後ろに庇われることもなくなった。もう、男の人なのだ。成長は良いことのはずなのに、何だか無性に泣きそうだった。
「……うん。今も元気出た!」
「……そう?」
 瀬那から離れて笑みを見せれば、心配そうな丸い目がまもりを見つめる。普段とそう変わらない距離だったはずなのに、瀬那にはまもりがいつもと違うように見えているらしい。間違ってはいない。瀬那はまもりをよく見てくれている。
「そうよ。じゃあ、気をつけてね。怪我しちゃ駄目だよ」
「うん」
 少しばかりまもりの様子を気にしながらも、挫いた足を気にした瀬那は冷やすよう口にして自宅へと帰るためにまもりへ背を向けた。
 ――セナにはセナの格好良いところが。
 昔励ますために瀬那へとそう口にしたことがあったのをふいに思い出し、まもりは一人小さく笑みを浮かべた。
 まもりの世話を焼くかのような一言を残して帰っていった瀬那の良いところ。あの時答えられなかった良いところだ。
 臆病さや泣き虫ばかりが目立って見えていなかったけれど、瀬那は昔から優しい子だった。
「ただいま」
「おかえりまもり。さっきのセナくん? 格好良くなったわねえ」
 玄関先に立っていた瀬那を見かけたらしい母の言葉に、まもりは少し惚けてから小さく頷いた。母も瀬那のことは泣き虫な子供という印象しかなかったはずなのに、今は全く別の印象を抱いたようだった。
「小さい頃はよく泣く子で、ずっとまもりが手を引いてたわね」
「うん。アメフト始めてからかな?」
 弱くて臆病な子が、強くなって大人になった。喧嘩も人とぶつかることも怖がっていた子が、自らタックルしていくようなアメフトの選手になった。まもりの手に掴まっていた瀬那の手は、楕円のボールを持つ手になったのだ。
「ふふふ。寂しいの?」
「え?」
「セナくんが離れてって寂しいーって顔よ。離れてほしくなかったら、ちゃんと掴んでおかないと」
「………。……でも、セナは大人になったから。私も、大人にならないと」
「いいのよ別に。お互い異性だって意識すれば一緒にいられるわよー」
「お母さん!?」
 母の指摘にまもりは一瞬言葉を失ったけれど。
 その後の言葉にまもりは慌てた。考えたこともない意見を母はぶつけてきて、そういうことではないと口にしてまもりは困り果ててしまったが。
「あら。でも将来有望でしょう、日本一だもの」
「はあ……。あのね、セナは、」
 知らぬ間に溜息が溢れる。うきうきと楽しそうな母に呆れ、まもりは小さく笑みを浮かべた。普段よりも翳りのあるものであったことは、自分自身気づいていたけれど。
 ――ちょっとだけ待ってあげて。
 銭湯で口にしていた鈴音の顔が脳裏に過る。
「……セナは、もっとセナ自身を見てくれる子がいいよ。私はずっと、何も見えてなかったから」
「子供の頃から知ってたり、毎日見続けてたりするとね。すぐには成長に気づかないものよ。大丈夫、これからアタックすればいいのよ!」
「だからあ」
 母の浮かれた様子にまもりはまたも溜息を吐き、挫いた足を庇いながらリビングへと向かっていく。救急箱を出してくれた母に礼を告げながら、まもりはソファへと腰を下ろした。
「……弟が本当にいたらこんな気分なのかなあ」
 まもりが守っていたはずの瀬那の手が離れて、寂しくて切ない。好きなものを見つけて進んでいく姿は眩しいけれど、無理をしないでほしい。けれど、瀬那が頑張っているとまもりは嬉しくなる。ひどく複雑な感情がまもりの胸中を渦巻いていた。
「……私も頑張ろう」
 きっと今日という日が駄目なのだ。足を挫いて情けない姿を瀬那に見せることになってしまった。大会中の大事な時期に、まもりを背負って連れ帰らせてしまった。年下の幼馴染はまもりが世話を焼いていた相手だったから、反対に世話を焼かれたことが気恥ずかしかったのかもしれない。だからこんなに気持ちが落ち着かないのだろう。
 明日になったら、きっと元に戻る。瀬那が大人になっていくのを見守れるようになる。そうでなければ、瀬那にもきっと悪影響になってしまう。
 大丈夫。まもりはもう、一年前にそう決めたはずだった。
 瀬那の成長を妨げるようなことは決してしない。そう決めたのである。