サインください

 泥門との練習試合が終わり、せっかくなので飯を食べにでもと監督と泥門のトレーナーの話がついた帰り際。桜庭は早々に着替え終え、皆の準備が整うのを待っていた。
 着替え終えたのは進もで、更衣室から顔を出した小柄な泥門生徒が彼に挨拶をしている。小柄であろうと日本最速のランナーなのだが、彼の性格は非常に控えめで腰が低い。
「桜庭さん」
 進と小早川、キャプテン同士が何やら話し込む様子を眺めていたはずだったのだが、小柄な生徒――小早川瀬那は桜庭に向かって駆け寄ってきていた。視界の奥には泥門の選手に話しかけられる進の姿が見える。
「お疲れ様」
 ぺこりと頭を下げる。背は少し伸びたようだが、まだまだアメフト選手の中では小柄だ。性格も相まって本来ならアメフトのような競技とは無縁そうな子だった。今やアメフト界で知らない者はいないプレーヤーなのに、相変わらずだと笑ってしまったが。
「あのぉ……もし良かったら、サイン頂けないかなと」
 おずおずと伝えてきた頼みに桜庭はぱちりと瞬いた。彼から、というより知り合いのアメフト選手からそんなことを言われたのは初めてのような気がする。聞こえてでもいたのだろうか、視界の奥にいる進の目がこちらへ向いた。
「サイン?」
「はい。うちのお母さんが、いつの間にか桜庭さんのファンになってて」
「あ、そうなんだ、成程。アイシールドじゃなくて?」
「はい」
 息子としては母親が敵チーム選手のファンになられるのはどう思っているのだろう。相変わらず引き攣り笑いを浮かべながら頭を下げているが、そういえば桜庭のクラスにもアイシールドファンがいたのを思い出した。
「えーと、いいけど何に? 色紙かな。名前教えてくれたら宛名も書くよ」
「ありがとうございます! えっと、これです」
「………っ!? そ、それはっ!?」
 桜庭はぎょっと目を剥いた。小早川がごそごそと鞄を漁って取り出したのは、モデル時代にリリースしたCDだったからだ。もはや記憶から消え去っていた過去の遺物、黒歴史。自他共に認める音痴である桜庭が出した曲のCD……である。
「モデルやってたこととかいつの間にか調べて知ったらしくて……す、すみません、何か駄目でした、」
「いやっ……いいんだけども!」
 恥ずかしさのあまり顔が熱くなっていくのがわかる。遠目に様子を窺ってくる進の目が怖いし、着替え終えた泥門の選手たちもまた進の後ろから桜庭へガンを飛ばしてきている。さすが泥門、フィールド外こそ敵にはとりあえず威嚇しておく感じだろうか。今の桜庭に他意はないのだが。
「………、あの……。……聴いた?」
 真っ赤な顔のままCDにサインを書き込み、手渡しながら問いかける。ありがとうございます、と跳ねた声音で返されていたたまれなくなる。ちらりと目を向けた桜庭に、小早川の大きな目が見上げてきた。
「はい、良かったです。桜庭さんは歌と地声違うんだなって」
「いやーこれは!」
 真っ赤な顔にまた更に熱が集まっていく。仰いでみても隠してみてもどうしようもなく、耳まで熱い。どうすれば引くのか対処に困った。
「あーその。俺音痴だから、声全部加工してんだよね。こんなの出して恥ずかしいったらないよ」
「へえ、加工……音痴には聞こえませんでしたけど……」
「聞こえないように加工ね」
 成程、と手渡したCDを抱えたまま、小早川は感心したような声を漏らした。感心するようなところがどこにあったのかは謎だが、蛭魔や栗田が彼を可愛がる気持ちが非常に理解できてしまった。こんなに素直なら先輩から可愛がられるだろうなあ、と逃避のように納得したのである。まあ、パシリで鍛えたなどというとんでもない脚を持っているので、泥門に入学するまで可愛がられずにいたのだろうが。
「でも、桜庭さんがいたからアメフトの知名度も上がったんじゃないですか?」
「………。そうだといいけど。まあ、それを言うならセナくんもだけどね、アイシールド21」
「あ、あはは……そんな僕は……」
 今の桜庭にはルールを知らない女子だけでなく、アメフト選手として応援してくれるファンがいる。桜庭のプレーでルールを知ってくれた人もいるなら、それは非常に光栄なことだ。
「おいセナ、何だよそれ」
「何かと思ったらCD? ハ? お前桜庭のファンなの?」
「ハア? 泥門のアイシールド21が?」
「ハアアア? 最強のランナー様があ?」
「ひええ……これはお母さんが、桜庭さんファンになってて」
 寄ってきた三人に奪い取られたCDを取り返そうと試みるも、高く掲げられたせいで小早川の両手は空を切った。わちゃつき始めた彼らに気づいた他の泥門選手たちがまた集まってくる。ついでに進も近づいてきていたが、まじまじとCDジャケットを見られて非常に恥ずかしい。桜庭としては見られたくないので、今すぐにでも叩き割りたい気分である。
「母親?」
「うん。いつの間にかハマってたらしくて」
「息子はどうした。アイシールドじゃねえのかよ」
「CDプレーヤーあるぜ。ちょっと聞かせろってセナ」
「うわーっ! やややめて!」
 蓋を開けてCDを取り出す泥門ラインの三人に手を突っ込み、桜庭は必死になってCDを取り返そうとした。しかしボールと違ってCDは力を込めれば割れてしまう代物だ。わかっていたのだが。
「あーっ!」
 インターセプトを決めたくて伸ばした手はCDを宙へと飛ばし、できる限り優しく掴もうとした手の中でぱきりと音を立てて真っ二つに割れ、ジャケットはかしゃんと地面へ落ちた。その場の全員が唖然として青褪め、しんと一瞬静かになった。
「………、わ、悪ぃ……割れるとは……」
「い、いやいいよ……いや、良くはないけど……怒られる……」
「どっちなんだよ……弁償すっか?」
「………。ごめん……割ったの俺だから……」
 叩き割りたい気分ではあっても、実際にしようと思っていたわけでは決してない。確かにこのまま焼却してしまいたい代物ではあるが、これは桜庭の物ではなく小早川の母の物だ。割ってしまったものは弁償しなくてはならない。幸いというか不幸にもというか、入手できるものではあるのだし。
「あとでセナくんに新しいの渡すよ……はあ……これだけは消したい過去なんだけど……」
「す、すみません……」
「いや、ファンになってくれるのは有難いんだけどね……」
 大きな溜息を吐きながら桜庭は割れたCDを鞄に仕舞い込み、小早川には詫びとして何か他に渡せるものを見繕うことに決めた。ブロマイドだとか何だとか、自分から渡すのは気恥ずかしいのだが、モデルだった頃は色々と販売されたもので何かとグッズがある。
「家族が聴いてるやつってさあ、自分も好きになってたりしねえ?」
「あ、ある。お母さんが流し続けるから、僕も桜庭さんのファンになってる気がするし」
「おいおい、いくら桜庭先輩でも敵チームだぞセナ」
「いや、わかってるけど……チームと歌は違うし……」
 喜んでいいのか止めるべきなのか複雑な気分である。母親がファンという部分までは許容できるのだが、まさかあのCDを小早川が気に入っているとは。桜庭自身は歌など聴けたものではないので、加工された曲を気に入られるのは何とも複雑だ。まあ、気に入られること自体は嬉しいのだが。
 引き攣った笑みを浮かべていると、小早川が不思議そうに大丈夫かと問いかけてきた。
「いやあ、大丈夫のようなそうでないような。あ、じゃあセナくんにもサイン書こうか?」
「え、いいんですか?」
「喜ぶんじゃねえよ」
 落ち着かなくてつい口走った言葉に明るい声音が返ってくる。本当に喜んでいるのが伝わってきて、何だか非常に心を擽られた。小早川のような素直な人間が後輩だったら、間違いなく桜庭は可愛がっただろうなあ、と想像してみた。まあプレースタイルは可愛いどころか進しか止められないレベルで凶悪なのだが。
「アイシールドのサインくれるならね」
「えーっ! サインなんて僕、ふ、普通に書くくらいしか……」
 アイシールド21のファンは多いとどこかで聞いたことがあったが、やはりサインをしたこと自体はあるらしい。恐縮に恐縮を重ねて更に小さくなったような小早川を眺め、桜庭は開き直ることにした。
「サインの作り方とか相談に乗ろうか?」
「い、いやあ……そういうのは桜庭さんとか赤羽さんみたいな人じゃないと……」
「僕も作ってるよ!」
「……瀧くんみたいなね……」
「赤羽と馬鹿の間に突っ込まれるのはちょっと不憫じゃねえか?」
 泥門ライン組の三人より赤羽は学年が上だったはずだが酷い言い草だ。とはいえ赤羽についていけるかといわれると桜庭には恐らく無理である。音楽性とやらもたぶん合わないだろう。
「試しに書いてみてよ。クラスのアイシールドファンに自慢するからさ」
「じ、自慢にならないと思いますけど……」
 広げて差し出した手帳とペンを手渡すと、迷った結果アイシールド21と小さな文字が書かれて返された。思わず吹き出してしまった桜庭を困り果てた顔が見上げてくる。
「セナくんのフルネームじゃないのか!」
「い、いやあ……言われたら書き直すくらいです……」
 アイシールド21の下に小早川瀬那と書き足され、ようやく桜庭はありがとうと口にして笑みを向けた。