おとなへの階段

「セナ!」
「まもり姉ちゃん! 良かったあ、見つけられないかと思ったよ」
 人混みの中からきょろきょろと動く頭を見つけた時、まもりは手を振って声を上げた。
 近所に住んでいたはずのセナと顔を合わせるのは久しぶりだ。最京大学に進学したまもりが住んでいるのは関西で、親元を離れひとり暮らしをしている。
 母に連絡した時にちょっとだけ寂しいかも、なんてちらりと漏らしたおかげで、何故か使いの如くセナが関西へと来ることになった。
 何をやっているのやらと母には呆れるばかりだったが、まもりも久しぶりに見るセナの姿に喜んでいるのだから現金なものだ。中学の頃も学校は違ったけれど、今のように遠い地に離れていたわけではなかった。顔を合わせることもあれば、勉強を教えてもいたのだし。
「人多いからね。こっちこっち」
 手を掴んで人混みの中を誘導していく。改札から移動し構内に建ち並ぶ店を案内しながら、空腹ではないか、疲れていないか、なんてまもりは以前のように甲斐甲斐しく問いかけていた。久しぶりだから浮かれているのかもしれないな、と自分でも笑いそうだった。
「でもびっくりしたよ。まもり姉ちゃんも寂しいとかあるんだ。思う暇なさそうだけど……」
「そりゃそうよ、家に帰ったら一人だもん。家族もセナにも会わないし。ねえ、セナは? 卒業してから、留学中とか、寂しかった?」
 私がいなくて。
 口にしなかった真意が伝わったかはわからないけれど、セナは頷いてふにゃりと笑みを見せた。
「本当にい? いいんだよ別に、いつ遊びに来ても。……編入しても。……ヒル魔くんだって、本当は待ってたんだよ。セナは来ないだろうって言ってもいたけど……やっぱりね」
 推薦を断ったことを知ったヒル魔は少し不機嫌だったし、まもりも内心はがっかりしていた。セナの決めた進路を応援するつもりでいたことは間違いないけれど、聞いた当初はやはり寂しかったものだ。
 それでも、敵となるからには倒さなければならない相手だが。
「見学おいでよ、今日じゃなくてもいいから。ね」
「うん……」
 困った顔は子供の頃からよくしていた。
 筋張っているまもりより大きな手を引いて前を歩き、振り向いて少し上向いた先にセナの目がある。
 子供の頃から知っている表情なのに。目線はまもりの下だったはずなのに、柔らかな手だったはずなのに、まもりにとって一番近かった男の子がいつの間にか更に大きくなっている。
「まもり姉ちゃん?」
「なんでもない。寄るところあるのよね?」
 セナが男の子であることも、まもりの手を必要としなくなったことも思い知っているはずなのに。顔を見るとやっぱりまもりはセナを構ってしまうらしい。
 嫌がられる前にやめないといけないけれど、久しぶりなのだから今日くらいはいいか、とまもりは繋いだ手を引っ張った。

「寄るところってホテル……わざわざ取らなくたっていいのに……」
「………」
 まもりの様子を見に来ただけでわざわざホテルを予約しようとするなんて。そんなことをせずともまもりは部屋に泊まるものだと思っていたし、来客用の布団だって用意してあるのに、なんだか離れている間に他人行儀になったようで寂しく感じていた。
 しかし、変わらないのはセナのおっちょこちょいなところだ。予約したはずができていなかった、なんてなかなか起こることではない気がするが、セナなのだから仕方ない。本人も自分にドン引きしているような顔をして、おかしいおかしいとうんうん悩んでいる。溜息を吐いたまもりは再びセナの手を掴み、ホテルのロビーから歩き出した。
「まあ、やっちゃったことは仕方ないわよ。しかも別にいらないんだから良かったじゃない。私だってうち泊まるんだと思ってたし、全部用意しちゃったもの。ほら行こう」
「えええ……い、いやその」
「何よ。使う必要のないお金使わずに済んで良かったでしょ」
 まもりの母がそんなアドバイスをするとも思えないが、セナの両親が気にするとも思えなかった。とするとセナ自身がホテルに泊まることを考えたのかもしれない。
 カプセルホテルだとか、当日泊まれる場所も探せばあるのかもしれないけれど。顔を見るのも久しぶりなのだから、ひと晩語り明かすくらいしてもいいだろうに。
「嫌なら仕方ないけど……」
「……い、嫌とかじゃないけど」
「ならいいでしょ。試合映像も沢山あるのになあ」
「うっ。じゃ、じゃあ、お邪魔します……」
「もう、他人行儀なんだから!」
 アポなしは少し困るけれど、まもりとセナの仲である。こちらに来た時はいくらでも泊まればいいのだ。

*

「………、あれ……?」
 暗闇のなか目が覚めたまもりは、しばらくぼんやりとしたまま固まった。
 時間はまだ夜中。ベッドの中で上体を起こして周りを確認する。自分の部屋らしいことはわかった。
 昨日は、そうだ。遊びに来たセナをもてなすために評判のお店で夕飯を奢って、セナを部屋に招き入れたあとは風呂に入らせて。ソファに座って試合映像を観ながら話していたはずだった。
 用意していた着替えと歯ブラシを見たセナは困ったような顔をしていたけれど、まもりとしては普通のことだ。セナが遊びに来るのだから準備くらいする。ホテルの備え付けの寝間着を着るつもりでいたセナは碌な着替えを持ってきておらず、まもりが用意した着替えを着ることになっていたが。そら見たことかと内心勝ち誇ったのは内緒だ。
 しかし、久しぶりだからとすっかり当然のように思っていたが、よくよく思い返せば少しやり過ぎだったのかもしれない。セナもそれに少し困っていたのかな、と今更になって思い至る。気を抜くと昔のように世話を焼いてしまうのは、反省しなければならないところだ。セナはもう、成長してしまったのだし。
「ていうか、私ベッドに寝てたっけ……」
 ベッドから立ち上がり、寝室のドアを開ける。リビングに置いてあるテレビの前にソファがあり、近づくと寝難そうに横たわって眠っているセナがいた。来客用の布団だって寝室に用意していたのに、まもりは促さなかったのだろうか。いや、そうか。
 いつの間にか眠ってしまったまもりを、ベッドまで運んでくれたのか。
 それに思い至った時、まもりの心臓がふいに音を立てた。
 寝顔は昔のまま。名前だって姉ちゃんと呼ぶままだ。当然だ、離れたって関係は変わらないのだから。なのに繋いでいた手は確かに筋張って男の人の手になっていたことを思い出した。思い出してしまった。今こうして眺める体格も、小柄ではあれど成人間近の男の人で間違いない。
 成長したとはいえ目の前で寝ているのはセナなのに、なんでこんなにどきどきしているのだろう。気を紛らわせるためにタオルケットを取りに寝室へと戻り、セナに掛けてからまた寝室へと戻った。
 セナが、男の人にしか見えなくなっている。ドアを隔てた先に眠るのはセナなのに、心臓が落ち着かなくてよく眠れなかった。

「おはよう。よく寝てたね」
「………、……うーん……ごめん……」
「なんで謝るの。ソファに寝かせた私が悪いでしょ。運んでくれたんでしょ?」
「あー……うん……」
 翌朝、ソファで目を覚ましたセナにまもりは平静を装って挨拶をした。
 やっぱりセナがまもりを寝室まで運んでくれたらしい。よく運べたなあ、どうやって運んだのかなあ。礼を告げながら考えを巡らせる。もしかしてお姫様抱っこだったかもしれない。落ち着かない心臓が余計に落ち着かなくなった。
「えーと、安心したからかも。まもり姉ちゃんだから心配ないのはわかってるけど、おばさんも心配してたし。僕も久しぶりに顔見たし」
 欠伸をしながらセナがソファから起き上がり、開き切らない目を擦りながら間延びした声がまもりへ答える。それを眺めていたまもりは、小さく笑みを浮かべて目を細めた。
 しっかり成長して男の人になっているのに子供の頃と変わらない仕草で、いつもの弟みたいなことを言う。心臓は落ち着かないのに世話を焼きたくなる。どういう反応が普通なのか、まもりにはわからなかった。
「まもり姉ちゃん?」
 けれど関係は変わらない。変わっていない。セナがまもりを姉ちゃんと呼び続けるなら、まもりはセナの姉のような存在でいられるはずだ。落ち着かない心臓なんて放っておけばそのうち元に戻る。
「……そんなに心配なら一緒に最京来ればよかったのに!」
「はは……悩んだけどね」
「本当に? ……ねえセナ、炎馬は楽しい?」
「うん。行って良かったと思ってるよ」
 端から見ているだけでも楽しそうな様子だから、まもりも心配なんてしていない。高校に入る前は気にしていた友達作りだって、そんなことは必要ないほどセナは慕われているのだ。きっとどこに行ったって大丈夫だっただろう。
 炎馬を卒業したら、次は社会人。社会人になったら、セナはどこのチームに所属するだろうか。次はまもりもまた同じチームになれたら最大限のサポートをしてやれるけれど。
 でも。まもりが社会人としてセナを待っていても、きっとセナは同じ場所には来ない。
 寂しいなあ。弟が手を離れていく感覚はあの時に嫌というほど味わったのに、今度はよくわからない感情も混じって切ない。離れていくのが寂しいのに、今そばにいるととても落ち着かない。セナはまもりを姉ちゃんと呼ぶのに、変な感情を混ぜては困るだけだというのに。
 昔のように朝の支度を促し、朝食を食べ終え、少し落ち着いた頃にセナは帰ると口にした。駅まで送るつもりで立ち上がったが、今度こそ大丈夫だと言うセナに苦笑いを溢し、まもりは玄関で見送ることにした。
「泊めてくれてありがと」
「ふふ、セナったら本当変わんないね。予約取れてないなんて……」
「うん、まあ、最悪だね本当に……」
 自分でも呆れているらしいセナは、靴を履きながら口元を引き攣らせて遠い目をした。昔と変わらないところがあるほうがまもりにとっては安心できるけれど、セナとしては情けない部分だったのだろう。
「助かったけど、でももう駄目だよ」
「え? 何が」
「いくら幼馴染でも男だから、泊まるのはもう駄目だよ」
「―――、」
 立ち上がったセナが鞄を背負うのを眺めていても、まもりは言葉を発せなかった。
「姉弟じゃないんだし、手を繋ぐのもね。おばさんには元気だったって言っとくね。年末年始は帰っておいでだって。じゃあ、また来るよ」
「う、……うん」
 手を振って笑みを見せたセナはそのまま玄関ドアを開け、外へと足を踏み出してそのまま歩き出していった。
 茫然と立ち尽くしたまもりは、昨日集合した時の困った顔を思い出した。
 もしかして、まもりが手を繋いだから困っていたのだろうか。
 そんなの。
 だってセナは、姉ちゃんって呼ぶじゃない。幼馴染でも姉弟のような関係だったのだから、その延長で今も来ているはずだったろうに。どうして今になってセナはそんなことを。
 まもりが落ち着かなかったひと晩、セナもまた昔とは違うことを考えていたのだろうか。まもりは眠れなかったのに、セナは眠っていたようだったけれど。
 ふとセナが起きた時のことを思い出して、返答を少し迷うような様子があったことを思い出した。曖昧に何かを誤魔化そうとしていたのではないだろうか。それは一体、何だったのか。
 もしかして、セナも本当は眠れなかったのか。
「………っ、せ、セナ!」
 ああ、なんてこと!
 玄関ドアを慌てて開けて、まもりはサンダルを突っかけながら名前を呼んだ。
 頬が熱い。こんな熱さは感じたことがなかった。
 エレベーターに引っかかってくれていることを願い、まもりはマンションの通路を駆け出した。
 散々男の人だと思い知っていたはずなのに、自分はまだわかっていなかったのだ!