純血の仙女―呂望・普賢―

「ほう、新しい者が?」
「うむ。二人とも筋が良い。機会があれば会わせてやりたいのう」
 玉虚宮から聞こえる二人の男女の声。一つは師である原始天尊の声だ。もう一つの声は、とても綺麗な声だった。崑崙に来てから、聞いたことのない声だ。
 気になったが勝手に覗くわけにもいかず、普賢はそっとその場を離れようとした。
「普賢。何しているの?」
「望ちゃん。何でもないよ」
 今日の修行が終了したらしい呂望がそこにいた。普賢は少し迷って、素直に話す。
「今、原始天尊様にお客様が来てるみたい。後にしよう?」
「お客様? そうなんだ、じゃあ後で来よう」
「おうい、二人とも。おるのじゃろう、入ってきて良いぞ」
 室内から聞こえた師の言葉に二人は顔を見合わせて、失礼しますと声をかけた。顔を上げれば教主である原始天尊の隣には、水を周りに浮かべた女性が宙に浮いていた。
 まるで女神のような、奇跡のような姿に、普賢は目を離せなかった。隣にいた呂望も同様に、まるで固定されたように視線を外せなかった。
「紹介しよう、普賢と呂望じゃ。二人とも、此方は竜吉公主。名くらい聞いたことはあるじゃろう」
「原始天尊。まだ来て間もない子たちじゃ。知っているはずがなかろう」
 窘めるように自分たちの師に向かって女性は言った。竜吉公主。その名は知っている。十二仙から――特に太乙から幾度となく聞かされた名だった。いつか会えるといいね、彼女は本当に綺麗で可愛いから、と言われ、どんな人なのだろうと想像は膨らむばかりだった。
「初めまして、普賢、呂望。私は竜吉公主と申す」
 はっと目が醒めたように二人は瞬きした。視線を合わすように降りて美麗な微笑みを向けられ、二人の頬は同時に染まる。
「呂望、です」
「普賢です」
 ぺこりと一礼して挨拶をする。瞬時にできなかったのを師に咎められるだろうかと不安になったが、彼の顔はにこにこと気にする様子はない。
「頑張っているそうじゃな。原始天尊が褒めておったよ」
「これこれ、本人のおる前で伝えるでないよ、公主」
「照れておるのじゃ」
 くすくすと楽しそうに笑う竜吉公主は、綺麗でもあり、可愛らしいとも思った。太乙の言ったことは大げさなんかではない。この世にこれほど美しい人がいるのかと感動した。

 ぼんやりと空を見つめる呂望に、普賢は近づいて隣に座る。考えているだろうことを普賢は口にした。
「……綺麗だったね」
「うん」
「あんな人が、この世にいるんだ」
「うん」
「何だか、どきどきしちゃった」
「うん」
 聞いているのかいないのか、先ほどから呂望の相槌は同じものだった。普賢はさして気にもせず話を続ける。
「僕なんかが触ったら、消えてしまいそうだね。儚くて、まぼろしみたいな」
「……消えちゃうのかな」
 ふと呟いた呂望に普賢は顔を向けた。とてつもなく清廉な空気を発して、あれほどの存在感を放つ竜吉公主は、決して消えたりはしないだろう。あくまでも、目にした時の衝撃と感じたままの気持ちを口にしただけだった普賢は、少し後悔した。
「望ちゃん。公主様は消えないと思うよ。消えてしまいそうなほど、僕には手も届かない人だって言いたかっただけだよ。だって、原始天尊様は、ずっとあの方を知っていらっしゃるんだから」
 今も生きて、僕らは会うことができたんだから。そう言う普賢は困ったように笑った。呂望自身も本気で消えてしまうとは思ってはいないが、普賢の言葉に揺れてしまったのは事実だった。
「体が弱いんだって」
「浄室から滅多に出て来られないんだって」
「そうだった……。じゃあ、今日は元気だったんだ」
 ほっとしたように二人とも息を吐いた。また会えたらいいね、と普賢が呟く。
「……なんじゃ。二人揃ってどこかに思いを馳せてでもおるのか」
 ふいに聞こえた声に、驚いたように二人は振り向いた。先ほど会った竜吉公主が空に佇んでいた。
「竜吉公主、様」
「玉鼎の処に寄るところでな。おぬしたちの姿が見えたものじゃから。お邪魔だったか?」
「そんな。ただぼんやりしていたんです。あ、今日の修行は終了して、」
 面白がるように笑う竜吉公主に、普賢は恐縮した。わかっておるよ、とフォローしてくれる竜吉公主を見つめて、普賢も笑う。
「やっと笑ったな」
「え、」
 ふ、と目を細める竜吉公主に、普賢も呂望も目を丸くする。
「一人で此処に来るということは、家族や周りにいた人たちと別れるということじゃ。寂しいとは思うだろうが、それを悲しまないでおくれ。おぬしたちの家族の代わりにはなれぬが、新しい友人にはなれるから」
 二人の座る岩場に竜吉公主も腰を下ろし、そっと二人の顔を覗きこむ。呂望は驚いた。普賢もだが、こんな風に言ってくれるとは、夢にも思わなかったのだ。
「此処は、優しい者たちばかりじゃ。私もそうであったように、おぬしたちもきっと、彼らに感謝しても足りないと思える日が来る」
 手を伸ばされて、二人の手が竜吉公主のそれに触れる。あ、と普賢は先ほど自分が言葉にしたことを思い出し、不安そうに瞳を揺らした。
 竜吉公主は、消えることはなかった。今も二人の手に触れてそこにいる。温かい体温の心地よさに、ふいに涙が出そうだった。
「公主様。ありがとうございます」
 にっこりと笑う彼女は、ではな、とその場を離れ目的の場所へと向かう。その後ろ姿を見えなくなっても見つめて、ふいに呂望は呟いた。
「……消えなかった」
「そうだね」
「神様みたいだ」
「そうだね。女神様だ」
 相槌を打つ隣の少年に呂望は顔を向けて、普賢も呂望へ視線を向ける。元気づけてくれたあの美しい女神へと、いつか感謝の気持ちをいっぱい伝えようと心に決めた。