想い焦がれる
竜吉公主に懸想されて靡かない者がいる。
彼女の姿を一度でも見た者たちがその噂を耳にすれば、口を揃えて有り得ないと言ったことだろう。
絶世の美女と謳われる仙界の姫。傾国と名高い妲己にも引けを取らぬ美貌と実力を持っている。清浄な空気のなかでしか生きられず 、崑崙の仙道たちであれど滅多と姿を拝むことのできない大仙女である。接見できるのは教主や十二仙といった高位の仙人たちか、地位の関係ない彼女の友人くらいのものだろう。
崑崙の宝とすら称されることもあるほどの彼女が口にしたとされる言葉がどこから広まったのか、噂どまりに関わらず崑崙の仙道たちに衝撃を与えることとなった。
「相手は誰だって道士の間じゃ持ちきりなんだぜ。公主サマに振り向きもしねえなんて有り得ねえ」
「いや、僕は忙しいんだけど」
隠す気もない大きな溜息を吐いて、楊戩は頬杖をついて目の前の道士を見た。君と噂話をするほど仲良くないだろう、とにべもなく追い返そうとするがそうはいかないと食い下がる。腹が立つが件の竜吉公主と親しい者は、彼女の弟子と十二仙以外では楊戩か太公望くらいのものだろう。
「たとえ経緯を知っていても君に話したりはしないよ、土行孫くん」
悔しそうに歪めた土行孫の表情を眺めてから、鄧蝉玉には言わないでおいてやる、と口にした後、楊戩は出て行ってくれと二度目の溜息を吐いた。袖から哮天犬という名の宝貝が飛び出して、土行孫の首根っこを咥えて部屋の外へと引き摺られる。こちらに見向きもしないままぞんざいに手を振る楊戩の姿が見えた。
音を立てて扉が閉まった後も、暫く土行孫の叫びは聞こえていた。楊戩の耳に声が届かなくなってから、肘をついていた机の上で頭を抱えた。
「公主の恋慕……!?」
よもや己の師以上に仲の良い相手が居たとは。いや、片恋だという噂であるから、仲が良いとは言えない相手なのかも知れない。崑崙には他にも彼女と親しい者はいるが、楊戩は師以上に彼女と親密な者は居ないと信じていた。
そもそも、竜吉公主と親しくしている者たちが相手ならば、きっとこのような噂は広まらなかっただろう。土行孫には興味がない素振りを見せたけれど、噂を耳にしたとき楊戩は大いに狼狽えたのだった。
「もしや崑崙の仙道ではない……? 金鰲島とか、まさか人間界の?」
どちらも竜吉公主には出会う機会は滅多にないだろう。彼女が人間界に降りることなどあってはならないことであり、金鰲島と崑崙山は表立って交流をしているわけではない。隠れて逢瀬を重ねていたのならばわからないけれど。
「……そりゃ、僕には関係ないことなんだけれど」
己の師や十二仙たちの彼女への想いは、きっと恋などという感情だけではないだろう。だがどこの誰とも知らぬ者に竜吉公主が振られるなど、一体どういう了見なのだと三尖刀を突き出して小一時間は問い詰めたくなった。我が師を差し置いて、誰が彼女を射止めたというのだ。
仙人名すら賜ったはずの己が、たった一人の女性の感情に右往左往している。まだまだ修業が足りないな、と楊戩は三度目の溜息を吐いた。
彼女の周りに渦巻く感情を考える。仙界の姫である彼女に恐れ多くも懸想する道士を見ることもあれば、良き友といった関係を築いている十二仙たちも見てきた。彼女を大事にしなければならない、大事にしたいと思う気持ちが根底にあることはどの感情にも共通している。傷ついてほしくなどないからと、こうも噂が回っては、考える者もいるだろう。事実楊戩は一瞬でも頭を過ぎったのだ。
振り向きもせぬ者などやめて、もっと近しい者に目を向けてくれと。
そこまで考えて楊戩は顔を上げた。何を考えているのやら、と自身の思考を霧散させるかのように頭を振った。
「いくら何でも失礼が過ぎる……」
まあどこぞの馬の骨よりは余程幸せになれる筈だとは思っているけども!
土行孫の思惑通りかはわからないが、竜吉公主の噂は天才道士である楊戩の思考すら奪った。重い重い四度目の溜息を吐いた。
「まあ、そんな噂が広まっているのですか」
青峰山で修業をしていた黄天化へ声を掛けたのは、顔見知りの女道士だった。入山したばかりの頃に彼女の師とともに知り合い、以降顔を見れば挨拶をする程度には交流がある。
「師叔がでっかい溜息吐いてたさ」
「ふふっ、太公望さまは公主さまと仲がよろしいですから」
竜吉公主には昔世話になったことがある天化は、耳にした噂を良く思っていなかった。下世話な噂話に彼女を巻き込むなという想いとともに、お節介と自覚しつつも、自身の師や彼女の友人たちのことを考えてしまう。天化が知っているのだから、普段どおりであった師の耳にも噂は入っているだろう。
「浮いた話などありませんでしたから、面白がって広まってしまうのは致し方ないのかも知れませんね」
「でも放っとけって思うさ。公主さんだって迷惑しちまう」
「そうですね。恐らくまだご存じないでしょうから」
どんな反応を見せるのか想像がつかないと女道士は口にした。常日頃穏やかに微笑んでいることの多い大仙女は、俗な噂を耳にしてどんなことを思うのだろうか。
「面白がられるかも知れません。公主さまは案外悪戯を楽しまれますし」
「……あー」
入山したばかりの頃を思い浮かべる。悪戯を仕掛けるつもりでいたわけではないが、彼女は子供だった天化が仕出かしたことにも怒ることはなく、むしろその後を楽しんでいた節があった。天化や女道士からは想像もつかないほど永く生きている彼女にとっては、このような噂も楽しむものとして受け入れるのかも知れない。
とはいえどう考えても余計な世話であることに変わりはない。女道士は気にした様子もないが、周りの連中のほうがやきもきしているような気がした。
「天化さんが気に病まれる必要はありませんよ」
「気に病むというか……」
仙道とはいえ人間と同じく日々を生きている者たちは、思考回路にほとんど変わりはないのだと感じる。
「皆暇なんかと思うさ」
「平和ということでしょうか」
それを良しとして良いものか天化は少しばかり悩んだが、当人ではないのだからと、これ以上考えることをやめた。
ここに十二仙筆頭のあの男が居たら、さぞ憤慨して炎を撒き散らしただろうと容易に想像できた。
異母弟であるあの男がまず彼女を神聖視している節があった。純血の仙女と呼ばれる彼女は正しく神聖な存在ではあるのだが、知り合ってみるとなんの事はない、好奇心も悪戯心もある、愛らしささえ感じることのできる女性だった。今回のこともどうせ噂に尾ひれがついて、一人歩きしているような状態なのだろうと思っていた。
だから鳳凰山に顔を出して、こんな噂を聞いたのだと伝えて笑い飛ばそうとしたのだが。
「うむ。誰か聞いていた者が広めたのじゃろうな」
噂を肯定する言葉が彼女から飛び出て来たのだ。
「えっ……え、本当の話なの?」
「懸想していることか? 気の遠くなる昔からじゃ」
あんぐりと開いた口が元に戻らず、太乙は迎え入れてくれた鳳凰山の主人である竜吉公主を凝視した。意外か、と問いかけられても頷くしか出来なかった。
「そ、そんな素振りあった? 私も君と知り合って長いけど、好きな人がいるなんて一言も……あ! 元始天尊さまのこと!?」
以前崑崙の教主である元始天尊について語っていたのを思い出し、太乙は食いつくように投げかけた。勢いに少し驚きつつも、竜吉公主は微笑むだけだった。
「元始天尊は恩人であり、良き友じゃ」
「昔格好良いって言ってなかった?」
「今も思っておるぞ」
椅子から転げ落ちそうになりながらも太乙はテーブルにしがみつき、醜態を晒さずに耐えた。いや、自身の師である元始天尊ならば納得もしよう。だが彼女は良き友と口にした。
「でも元始天尊さまじゃないんでしょ」
「噂についてはそうじゃな」
こんなに広まるとは、と意外そうに呟いた竜吉公主は、彼女の存在がどれほど仙道に影響を与えるのかを考えていなかった。純血種であり希少な存在であることは本人も自覚しているし、妲己と並ぶ美仙女だなどといわれていることも知ってはいる。だが竜吉公主という女性が周りにどんな感情をもたらすのかを理解していなかった。美しい仙界の姫である自身の一挙一動がどれほど人の目を集めるか、崑崙に住まうただの一仙人程度としてしか認識していない。
元始天尊が伴侶を持ったとしてもきっと大騒ぎになるだろうが、それと同じくらい彼女は有名で憧れで、常に人の目がまとわりつく存在だ。
きっと太乙のほかにも気になって何も手につかない、なんて者がいてもおかしくない。
「元始天尊さまじゃないなら誰だい。君を袖にしようなんて輩は」
「うむ。全くつれないものじゃ。もう少し優しくしてくれても良いと思わぬか」
微笑んで洞府の外へ視線を向ける。何よりこの美しく穏やかな麗人にそのようなことを言わせる輩に良い感情は持てそうにない。だがその後の彼女の科白を聞いて、太乙の感情は今までのものと全く違うものが渦巻いた。そんな輩は忘れてしまえと、冗談交じりでも言うことは出来なかった。
誰が通るとも知れぬ場所ですべき話ではなかったかもしれない。体調が良かったからと外を浮遊して、洞府を設けられそうな大きな岩場に玉鼎真人が居ることに気づき、ひと休みと称して会話を楽しんだときのことだ。竜吉公主に良くしてくれる友人には色んな話をすることがあった。ほんの少し望みを口にしただけだった。玉鼎真人は言葉を選んで返答してくれたのだが、会話の一部しか聞こえていなかった誰かは、世間話の一環として誰かに話したのだろう。
広めるつもりもなかったかもしれない。付近に人が居ることに気づかなかったのは己の注意不足である。その辺りのことは誰を責めるつもりもなかった。隣で聞いていた玉鼎真人は生真面目であるから、長引く噂に責任を感じてしまっているかもしれないと、竜吉公主は次の機会に謝ることを決めた。
「思わせぶりな言い方をしてしまったのがまずかったのじゃな」
最初に噂が立っていると聞いたときは、すぐに収まるだろうと思ったのだが、予想以上に長引いて、竜吉公主はここ最近げんなりとしてしまっていた。滅多に姿を見せぬ仙女の噂話にこれほど気を惹くものがあるのかと驚いてもいた。平和である証かも知れぬと竜吉公主は一人己を納得させた。
「今日は調子が良くてな。籠もりきりでは滅入ってしまうからのう」
「そうか。元気ならば何よりだ。貴方には息災でいて欲しいからな」
穏やかに微笑んだ玉鼎真人に笑みを返し、竜吉公主は岩場へと腰掛けた。その様子を眺めてから玉鼎真人も倣って座る。洞府ではない外での会話など滅多にない竜吉公主は、体調の良さも相まってか随分機嫌が良かった。
「良い風じゃ。少し暖かくなってきたか」
「そうだな。そろそろ鳳凰山にも花が咲く頃じゃないか?」
「ああ、最近は太公望が人間界の花を手土産にして遊びに来る」
見たことのない花を持って来るのだと竜吉公主が楽しそうに伝える。
人間界よりも遥か上空に位置する崑崙山では、花が自生することは殆ど無い。暇を持て余した竜吉公主が自身の洞府で手塩にかけて育てたおかげで、春になると鳳凰山は色とりどりに咲き乱れる。竜吉公主の親しい友人はその様を見に訪れる事も多かった。
「普賢や太公望が持ってきてくれた人間界の花も咲くと良いのじゃが」
「育てていたのか」
「野草だと言っていたが、どれも美しいものじゃった。咲けば一時でも人間界に降りたような気分になれる気がする」
どう返答すべきかと逡巡しているような気配を感じ、竜吉公主は気を遣わぬよう玉鼎真人へ声を掛けた。
心の片隅に在った想い。遥か昔に諦めた筈の感情だった。それを口に出すことなどしてはならないと心の奥底に仕舞い込んでいた筈だが、ふいに零れ落ちた言葉を取り消す事はせず、竜吉公主は独り言のようにその先を呟いた。
「どれほど想っても振り向きもしてくれぬ。もうずっと、焦がれてやまない」
旧知の仲である玉鼎真人だったからこそ、竜吉公主は言葉を続けた。穏やかで優しい玉鼎真人は竜吉公主の身体を想って頭を悩ませてしまうかも知れないが、言葉を紡がずとも隣で、ほんの少し聞いてほしくなっただけだ。
「叶わぬ恋なのであろうな」
人の営みが綺麗なものばかりではないことは知っている。争いは命を奪うだけではなく、誇りも尊厳も失うことだってあるだろう。それでも竜吉公主は、健気に生きる人の姿に憧れ、営みを護ろうとする姿に心を震わせた。
愛おしい、千代に繋ぐべき光景であると。
「……貴方に想われる人間界を、これほど羨ましいと思うとは」
「何じゃそれは」
鈴の転がるような笑い声を漏らした。ふと見上げて玉鼎真人の顔を見ると、苦笑いといえそうな笑みを浮かべている。笑いが治まった竜吉公主は、隣に座る友へ礼を口にした。
「気を遣わせてしまったようじゃ」
「違うよ、公主」
先程の苦笑いからいつもどおりの穏やかな笑みへと表情が戻っている。玉鼎真人は生真面目であるから、太乙真人のような軽口など滅多に聞くことはなかった。珍しいこともあるものだと得をした気分になった。
「貴方が本音を話してくれたから、私も少し本音を言うことにしたんだよ」
音が鳴りそうな瞬きを一つして、竜吉公主は隣を見つめた。
「貴方は天に愛されたのだろう。下界になど降りず、空の近くに居させるために。きっと一人では寂しいからと、仙界を天と地の間に置いたんだ」
詩人のような言葉を紡ぐ玉鼎真人に、竜吉公主の双眸が見開く。なんと都合のいい解釈であろうか。
「まるで私のために仙界が在るかのような言い草じゃ」
「そのくらい自惚れてみても良いだろうと思ったのだが」
「……それでは人間界にばかり気持ちを持っていかれる訳にはゆかぬな」
「天も私たちも妬いてしまうからな」
困ったように眉尻を下げた竜吉公主は、じわりと頬を桃色に染めたあと、やがて玉鼎真人へ柔らかい笑みを向けた。