御伽噺を
仙界にあるとある洞府。そこは崑崙山の中心、原始天尊の住まう玉虚宮だった。
そこに現れた世にも美しい女の腕には、まだ少女と思わしき娘が堅く瞼を閉じたまま抱えられている。
「瑶池金母様!? お久しぶりです、どうなされたのですか?」
突然の出現に驚いた崑崙の主は、しかし驚きをすぐに表情に隠し、尋常でない女の様子に冷静に言葉をかけた。
「いきなりすまぬな、原始天尊」
「いいえ。そちらの方は?」
「ああ……妾の娘の、竜吉じゃ。そなたとは、初めて顔を合わすかのう」
腕の中で未だ目を醒ます様子のない少女へと目を向け、原始天尊はしばし呆けるように息を吐いた。
瑶池金母と呼ばれた女の容貌は、この世のものとは思えぬほどの美しさを持っていた。仙界出身である彼女は随分前に同じく仙人である夫と結ばれ、何を思ったか人間界でひっそりと暮らすようになった。子を成したとは聞いていたが、仙人同士の子というのは前例がなく、体の弱い子だと聞かされ、原始天尊ですら会うことは憚られていた。
「七つを数えた頃か。それまでずっと人間界におったのじゃが、この子の体の弱さはどうにも人間界の空気にあるようでな。今までそこに思い至らなかったのが悔やまれるが、療養のためと天界におったのじゃ」
「天界? 此処や人間界からは到底行けぬ処では?」
「うむ……」
言葉を濁す瑶池金母の表情は硬い。言うべきか、迷っているようにも見えた。
やがてゆっくりと、決心したように口を開いた。
「三年ほど前になるか。何かいい薬はないかと桃源郷へと向かった時じゃ。昊天上帝の使いの者と会う機会があってな。何か知ってはいないかと無礼を承知で聞いたのじゃ。使いは快く昊天上帝へ伺うと言ってくれ、妾と竜吉は天界へ招待されたのじゃ」
「成程……」
前例のない仙界ではどうすることも出来なかったかもしれない、と原始天尊は思う。見たところ、少女の顔色は悪いというわけではなさそうだ。しっかり療養できたのだろうと推察する。
「天界へは、人間界、仙界の男子は容易に出入りすることはできぬ。それがどんな事情であれ、夫であり父であってもじゃ。竜吉が元気になるまでと、夫も承諾し人間界で待つことにしたのじゃ。元気になれば、三人で仙界に戻ろうと決めていた。しかし……」
「何か、あったのですか?」
美麗な顔を歪めて唇を噛む瑶池金母に、原始天尊は嫌な予感がしていた。
「……あの時ほど、自分の姿を恨んだことはなかったよ」
昊天上帝は絶世の美女である瑶池金母が仙界に戻ることを良しとしなかったという。それどころか、瑶池金母が下界へ戻るならばまだ幼い竜吉を残していけとまで言った。瑶池金母は怒りに震え、こっそりと天界を抜け出すことにしたのだ。
黄巾力士がなければ移動することのできない仙人の多いなか、瑶池金母だけは今いるその場所から姿を消し瞬時に移動することができた。そうして天界を抜け出せたのだ。
「妾は、あの人のもとへ帰りたい。しかしこの子を置いて行くこともできぬ。昊天上帝に感謝こそすれ、憎むことなど……あってはならないのに。あの方は、本当に良くしてくださった。見ず知らずの妾たちをもてなしてくれ、体の弱いこの子を、我が子のように可愛がってくださったのに」
ぽろりと、一粒雫が瑶池金母の瞳から落ちる。どこにも向けることのできない怒りが胸中に燻っているのだ。恩人を憎んでしまう自分に、とてつもない罪悪感を抱えながら。
「まだ若いそなたに……頼めるようなことではないと自覚しておる。……しかし。頼む、原始天尊。妾の生涯の願いじゃ。……この子を、頼む」
「瑶池金母様。死ぬおつもりですか」
かつて崑崙山で世話になった瑶池金母を良く知る原始天尊は、彼女が決めたことを曲げることはないということは重々承知していた。それでもその言葉を言ってしまうほど、原始天尊はまだ若かった。
「妾が戻れば、昊天上帝は満足なのじゃ。しかし、妾は、愛した夫を裏切りたくはない。たとえ共に生きることができなくなろうとも。……すまぬ」
そっと腕の中の少女を床へ下ろし、瑶池金母は立ち上がった。未だ眠ったままである少女の頬へ手の平をあて、いとおしむように目を細める。そして原始天尊へと一礼をして、瑶池金母は消えた。
寝台へと移動させられた竜吉を、原始天尊はじっと見つめる。どう説明するか。止められなかった自身を責められて憎まれても、仕方のないことだと溜息を吐いた。
ふるりと長い睫が揺れ、ゆっくりと双眼が開かれる。瞳の色は父親似だな、とぼんやりと原始天尊は思う。目だけをきょろりと動かし、見知らぬ場所にいることを理解したのか、ゆっくりとした動作で寝台から起き上がった。
「初めまして、竜吉公主。私は原始天尊といいます」
原始天尊へと焦点を合わせ、竜吉はぱちりと瞬いた。今度は首を動かして周りを確認する。仙界の姫君は、ぼんやりとした表情からすぐに自身の置かれた場所がどこか、目星をつけたようだった。
「行ってしまわれたのですね、母上……」
聡い子だと内心で原始天尊は感心した。年端もいかぬ少女は、すぐに母親がどこへ向かったか気付いてしまったようだった。頭がいいのも考えものだな、と原始天尊は思う。
「気付いておられたか」
「……昊天上帝様は、母を、気に入っていらっしゃったようでしたから」
悲しそうに目を伏せる少女は、母親がこれからどうするかすら、すべてを知っているようにも見えた。
「お父上を、仙界へお連れしましょうか」
「……父は、きっと、戻りたがらないでしょう。母がいないのですもの。それに、私だけ、父と二人で暮らすのは、母上がかわいそう」
「……では、あなたは此方で暮らしてください。お母上の願いですから」
「ご迷惑を、おかけします……」
「あなたのお母上には良くして頂きましたから。いつまでも此処にいなさい。仙界は来る者は拒みませぬ」
父親を連れてきてあげたかったのだが、この様子では余計なお世話になるだろうと原始天尊は考えた。恐らく彼自身も、この後の瑶池金母の行動を予測しているだろう。そして、戒めのように人間界から動こうとしないだろう。この少女がそうであるように。
良くも悪くも原始天尊は、彼らをよく知っていた。
「少し休んだら、洞府へと案内しましょう。今はゆっくり休みなさい」
薄らと口角を上げる竜吉は母親に似て美しかった。いつかは本心から笑ってくれるだろうか、と少し心配にもなったが、休ませるためにも原始天尊はその場を離れた。
「鳳凰山にある洞府をお使いください。他の洞府とは少し離れているが、住み心地はいいと思いますよ」
「ありがとうございます。……あの、原始天尊様」
「公主。様はやめていただきたい」
「ですが、恩人ですので。それに、私の方こそ、敬語をお使いになるのはやめてください。年下ですし」
困ったように言う竜吉に、原始天尊も困ったような笑みを浮かべる。世話になった瑶池金母の娘である竜吉に敬語を使うことに何ら抵抗はなかったが、それが逆に彼女を恐縮させる種となっていたようだった。
「ふむ、確かに……。では、お互い敬語はなしということにしよう。対等に」
「え、でも、」
「姿はこんなんだが、私は確かに公主よりはるかに年上なので。しかし瑶池金母様のご息女だし、ここはお互い対等でいようではありませんか」
まだ腑に落ちないといった表情で竜吉は原始天尊を見上げる。生まれながらの仙女である彼女はこれまた生まれながらに浮遊術を何の苦もなく身に付けていた。それでも成長途中である少女は宙に浮いていようが、原始天尊を見上げる形となる。
「それと、公主というのも」
「気に入らんか?」
「そうではなく、」
そうやって崇められるように呼ばれることに、少女はまた恐縮してしまうようだ。
「ふむ。私としてはだいぶ妥協した方なのだが。良いですか、竜吉公主。私は瑶池金母様よりもよほど下の位の者なのです。教主なんぞをやっているが、これも騙されてやらされているようなもの。本来あなたの名を口に出すことすら憚られる。それをあなたの頼みで頑張ってタメ口にして。公主と呼ぶくらい、あなたにも妥協してもらいたいものじゃ。なあに、あだ名と思えばいい」
半分は真実だが、原始天尊は少女を言いくるめるためにしれっとした顔で出まかせを口に出す。
「それとも、竜吉様とお呼びした方が良いか?」
「……公主で、構いません」
「対等なのでは?」
「構わない」
半ば自棄になりながらも、少女はようやっと承諾した。負けたとでもいうように項垂れる竜吉に、原始天尊はにっこりと笑った。
「何か御用があれば、呼びなされ。話し相手にはなれる」
小さく笑った少女に、これからもっと笑顔が増えればいいと思いながら。
これは、昔昔、気の遠くなるほどの。封神計画の発動する、何千年も過去の話。