おめでたい話

「聞いたか、奈瀬。進藤の」
「伊角くん」
 自販機の前でコーヒーを飲んでいた奈瀬は、院生時代から知る男の声に顔を向けた。
「子供子供と思ってたけど、もうそんな歳なのよねえ。なんだかびっくり。進藤ってとくに、碁にしか興味ないと思ってたから」
「確かにな」
 缶を揺らしながら奈瀬は溜息を吐いた。
 進藤ヒカルの結婚。他ならぬ本人から告げられた報告だ。奈瀬にも言っとこうと思ってさ、などと恩義もなにもない報告は、奈瀬の怒りを誘うよりも彼らしいという諦めと驚きが勝ってしまっていた。
 彼と出会って十余年。やんちゃで明るくて、失言王とまで称されたただの悪ガキだったのに。今でも思うことがある。常識に疎い彼は、手合以外の場ではまだまだやらかしてしまうこともあった。
 中身だって、碁が関わらなければ子供だった進藤ヒカルのままだ。プロになってしばらく経った頃から、随分と大人っぽくなったと感じたことはあったけれど、根本が変わったわけではない。塔矢アキラが関われば途端に二人で子供の喧嘩を始める。男の子の成長は一瞬なのだとは言うけれど、それは見た目の話だけかも知れない。
「進藤のお嫁さんかあ。どんな人なのかな」
「和谷が、森下先生の研究会に挨拶に来たって言ってたな。可愛らしい美人だって」
「やだ、進藤ってばやるわね。どこで出会うんだか」
 塔矢アキラの好敵手として、数年前から人気が高まっていることは知っている。進藤ヒカル自身の女性人気が高いことも。とはいえ奈瀬の見ていた進藤ヒカルという人間は、その女性人気に困ったような、少し照れたような表情をしていたことが多かった。
 物怖じしない性格で、誰とでもすぐに仲良くなる。和谷もそうだったけれど、進藤ヒカルはその上を行く。敵も作りやすいが、友人も多くいる。そんなイメージだった。
 しかし、まさか結婚するほど深い仲の女性までいたとは。碁でも私生活でも上を行かれたような気分で、奈瀬は祝福する反面羨ましいとも感じていた。
「ファンが多いのは知ってるけど。はは、なんだか進藤が羨ましいよ」
「伊角くんもそういうこと思うんだ。伊角くんのほうが女性人気高いのよ」
「奈瀬だってそうだろ」
 同時に息を吐き、二人はちらりとお互いを見た。わかっているのだ。人気が高かろうと、一歩踏み出した関係の者がいなければ、結婚なんて夢のまた夢である。
「……可愛らしい美人って、完璧じゃない? そんな女の子今どきいるのね」
「性格も良さそうだって言ってたな」
「進藤のどこがいいのかしら」
 妬みではなく、純粋に不思議に思って口をついた言葉だった。
 十代の頃は一部で可愛いと評判だった進藤は、二十歳前後から格好良いと言われるようになっていった。確かに、碁を打っているときは格好良いと奈瀬でも思うことはある。あの若さでタイトル戦に名を連ねている。最近は囲碁教室なんかにも引っ張りだこらしい。
 しかし、相手は進藤ヒカル。昔を知っているからこそ、奈瀬は不思議でならなかった。碁馬鹿としか言いようのない彼を、一体どうやって射止めたのだろうか。
「伊角さんに奈瀬? 今日手合だったんだ」
「和谷」
 近づいてきたのは和谷だった。軽く手を上げて挨拶を交わし、年若い棋士の話題を振る。
「ああ、進藤の嫁さんな。ちょっとだけ話したけど、中身も可愛い感じの人だった」
 去年婚約を発表した和谷は、羨ましがっちゃいけないけどさ、と前置きをしながらも印象を語る。
「幼馴染って言ってたな。嫁さんも碁を打つんだって。囲碁部の大会にも出たことあるとか」
「どこで出会うのかと思ったら、幼馴染かあ……。へえ、進藤も結構一途なところあるのね」
 なんか可愛い、と笑う奈瀬に、伊角も微笑んだ。それがさ、と和谷が続ける。
「しげ子ちゃんが嫁さんにすっごい食いついて聞いたんだけど、付き合いだしたのは高校卒業してからだって言ってたらしいんだよ。それまで彼女の片思いだったとか」
「ああ……疎そうだもんな、進藤」
「ずっと好きだったんだ彼女……一途だあ」
 幼馴染との結婚。昔から知っていると恋愛感情は生まれないと世間ではよく聞くが、奈瀬も妙齢の女性である。幼馴染というものに多少なりとも憧れはあった。
「でもさ、付き合うってことは進藤も好きだったんだと思うじゃん、流されるような奴じゃねえし。ならさっさと言えよな。相手は学校行ってて会う時間も限られるだろうし、何より可愛いんだぜ!」
「そりゃ好かれてる自信がなかったんじゃないのか?」
「あの自信家の進藤が? ……まあ、そう思えば可愛気もあるわね。それより自分の気持ちに気づいてなかったって考えるほうが進藤らしいけど」
 確かに! と三人は笑い出す。憶測で話を膨らませていく年頃の棋士の会話は、当人が聞けば顔を真っ赤にして怒り出しそうな内容になっていた。
「報告の挨拶に来たとき、進藤はいつもどおりだったけど。いや、挨拶に対しては緊張してる感じだったけどさ。なんか俺たちに対する態度とあんま変わんなくて、大丈夫かよって思ったんだけど。帰り際にやっと目合わせて笑い合ってる顔見てさ……あいつ、好きに種類があるって知ってたんだなって、なんか感慨深くなっちまったよ」
「和谷、進藤のお兄ちゃんみたいね」
「あんな破天荒な弟いらねえよ」
 礼儀もなってないしさ、と続ける和谷は、それでも昔から何かと進藤の世話を焼いたり気にかけたりと、大いに人の良さを発揮している。和谷自身も、進藤の人となりを好ましいと思っているからこその軽口だ。
「まあまあ。進藤も大人になって礼儀も学んできたし、今じゃ立派に若手のトップ棋士だ。和谷だって子供の頃はやんちゃだっただろ?」
「俺はあいつほど無茶苦茶じゃなかったよ」
「でしょうね」
「それにさ、なんかお似合いだったんだよな」
 ぼそりと呟いた和谷の言葉。進藤には勿体無いくらいの美人だったけど、と続ける。
「それでも、隣にいるのが当たり前って感じるくらい。幼馴染ってすげえよな」