春の先へ

 三年間ずっと浮いた噂も出なかった彼女の横に見知らぬ人影が立つ。
 特別仲が良いわけではなかった。噂がないだけで親しい人たちは知っていたのかもしれない。彼女が誰を見て、誰を待っていたのかを。

 卒業式が終わり、最後のホームルームも終わり教室を後にした。クラスの連中が連れ立って遊びに行こうとする輪の中には、普段話をあまりしたことのない者たちもおり、彼女の姿もあった。
 大勢でどこに遊びに行こうかとはしゃぐ彼らと、もう毎日顔を合わせることがなくなるのは随分寂しい気持ちにさせた。クラスの全員でどこかに行くなどなかったが、環境が変わる節目はセンチメンタルな気分にさせる。
 駅までの道のりをぞろぞろと、あるいは少し団体から離れて、それでも同じ方向を向いて歩いて行く。今日が終わればそれももうなくなる。提げた紙袋の卒業証書の筒が、やけに重く感じられた。
「よう、あかり」
 なんとなく視界の端に入れていた彼女が隣の女子生徒から視線を外し、驚いたようにえ、と声を上げた。その声に気づいたのは自分だけではなかった。驚いて、それから頬がじんわりと染まっていく横顔を目の当たりにして、ようやく彼女の視線の先へと目を向けた。
「ヒカル! 久しぶり、どうしたのこんなところで」
「棋院の帰りだよ。お前こそ。……卒業式?」
 歳は同じくらい。今どきの若者の装いらしいラフな格好。派手な髪型。それから、端正な顔立ちをしていた。親しげに名を呼んだ彼に対して彼女も彼の名を呼ぶ。
「そうだよ。今からみんなでどこか行こうって」
「そうなんだ。そういやこの時間珍しく制服の人多いもんな。もうそんな時期なんだ」
「ねえ、あかり。お店教えるから少し話しておいでよ。久しぶりなんでしょ」
 傍にいた女子生徒が彼女に気の利いた言葉を投げかける。でも、と逡巡する彼女はやがて、ありがとうとお礼を告げて彼とともに離れていった。
「藤崎さんの彼氏?」
 誰かが漏らした疑問に、近くにいて見守っていた数人が騒ぎ始める。彼氏いたんだね、結構かっこよかった、各々好き勝手に口にし始め、また駅への道を進み始める。
 振り向けば随分と距離ができてしまった。己の足はそろり、と輪から抜けだした。


「今日手合だったの?」
「今日は休み。忘れ物取りに行ってたんだ」
 持ってやるよ、だなんて今までの彼からは想像もしない言葉が飛び出し、遠慮しているうちに荷物を奪い取られてしまった。なんだか重そうに見えたらしい。
 家が近所であっても、プロ棋士と高校生の活動時間は違う。ちゃんと話をするのは随分久しぶりだった。
 ほんの少し緊張する。
「週刊碁見てるのよ。ヒカルずっと勝ってるね。北斗杯ももうすぐ予選だよね。今年もヒカルと塔矢くんと社さんなのかな」
「なんで社だけさんづけなんだよ。あいつ同い年だぜ」
「直に会ったことないし、いいじゃない別に」
 笑みをこぼした彼の横顔を眺めながら、少しだけ中学の頃に戻ったような懐かしさを感じた。大人っぽくなった。あの時も感じたことだ。
「大学にも囲碁部あるかな? サークルとか、研究会とか」
「はは、なければ作るんだろ」
「当たり前だよ! 高校には運良くあったけど、大学にもあるかわからないし。囲碁は続けたいの」
「お前、碁好きだな」
「――、うん」
 どくりと脈打った心臓が、新たに動きを変えた。
 声をかけられた時に大きく鳴ったけれど、それよりももっと大きく。
「ヒカルが始めなきゃ、私は今頃やってなかったよ」
 そうだ。こんなにもおもしろいものだと知らなかったままだっただろう。彼が碁を始めなければ、もっと違うことに興味を持って、もっと違う未来が待っていたはずだ。
「そうか。良かったな、俺がいて」
 嬉しそうに、悪戯が成功したように笑った彼に、心臓が跳ねる。今日は良く動く。運動した後よりも激しい動きをしているように感じた。
「うん。ヒカルがいてよかった」
「なんだ? 何か奢って欲しいのか?」
「違うよ!」
 茶化す彼に無理やり怒ったように声を荒げた。声を上げて笑う彼は、子供のころと変わらない。楽しそうに笑う顔を見つめていると、ずっと仕舞い込んでいた感情が漣のように押し寄せてくる。物心つく頃にはすでに彼はあかりの傍にいた。吹けば弾けてしまいそうな淡いものだったはずの感情だ。
 振り上げた腕をゆるゆると下ろしながら、抱く想いは突然口をついた。
「ヒカルが好きだよ」
 彼の視線はいつだって前を向いて、後ろをついていく誰かを構うことなく見向きもしなかった。悔しくて寂しくて、けれどそれが進藤ヒカルという人間なのだと諦めて、そうやって一直線に進んでいく背中をずっと見つめていた。
 彼の顔から笑みが消えた。立ち止まって向かい合ってしまった今、視線を外すこともできない。この先に待つ言葉はきっと、自分の望む言葉ではない。
 ――望んでいることなんて、ない。
 進藤ヒカルに望むのは、碁を打つことだけだ。彼の周りがそうであるならば、彼自身が望んでいることが碁を打つことだけならば、己はそれ以上を望んではいけない。打つこと以外に気を逸らしてはいけない。歩む道はとうに違えてしまっている。彼の進んだ軌跡を見ていられるだけでいい。そう思っていた。
 溢れた言葉はもとに戻らない。高校に進んで様々な人と出会っても、彼はいつでも心の片隅を占拠していた。そこにあるのが当然であるように、彼は藤崎あかりの心に深く関わっていた。
「――うん」
 小さく聞こえた彼の声は、ひどく穏やかだった。
「俺も、好きだよ」
 風が大きく唸りを上げ、ざわざわと草原が揺れる。耳の奥がぼんやりして、聞こえた彼の言葉が幻のように感じた。
「え、」
 瞬きをする。彼の頬は少し色づいているように見えた。
「え、ってなんだよ。お前が言ったんだろ」
「だって、ヒカル。私の言葉の意味わかってるの?」
「お前な、俺だってそこまで子供じゃねえよ。バカにしてんのかよ」
「そうじゃなくて、ヒカル、碁しか興味ないと思ってたから」
 馬鹿にしてるよな、と不審そうに眺めてくる彼は、先ほどの恥じらった表情が嘘だったかのように拗ねた顔を見せている。やはり幻聴だったのか、と肩を落としそうになった。
「好きでもないやつに気が落ち着くから打とうなんて言わねえよ」
 特別な手合らしい日の前日は、よく声をかけてくれていたことを思い出した。三年生になってからは受験のことを考えて、彼なりに気を使った結果会う頻度が減ったということらしい。
 口約束だった指導碁にも来てくれた。道ですれ違えば声をかけてくれた。思っていたよりもあかりを気にしてくれていた事実に今気付き、あかりの頬にも朱が走る。
「じゃあ、ヒカル。一緒にいてもいいの」
「どっか行くのか?」
「違うよ。こうやって、時間の合う日に一緒にいてもいいの?」
「いいから言ったんだろ」
 視界がぼやけて彼の姿がよく見えない。デコピンを食らわせられたのは気に入らないけれど、それでも嬉しいという想いが止められない。
「ねえ、休みなら今から打ってよ」
「いいけど、お前遊びに行くんじゃないのかよ」
「いいの! 少しくらい遅れたって。ヒカルの気が変わらないうちに、一局だけ」
「指導碁くらいいつでも打ってやるけどな」
 碁のことだけじゃないよ、なんて、口にする気はないけれど。ここからなら家帰ったほうが近いな、とつぶやく彼の声を間近に聞きながら、あかりは目一杯の笑顔を見せた。


 だから、意外だった。彼女と彼は当然付き合っているものだと感じたから、今告白を盗み聞きして、穏やかな空気を感じて、思わず感動してしまっている自分に驚いた。
 ――これは入り込めない。
 もともと告白なんてするつもりもなかった。同じクラスになって、気になっている人の位置づけでよかったのは確かだけれど、こんなにお似合いだと感じた二人は初めてではないだろうか。
盗み聞きという事実に良心は傷むが、言わなければいいだけの話だ。彼女と会話をする機会などこの先ないと断言してもいい。失恋ともいえぬほど淡い感情だ。彼女の想いに比べれば。
 きっと言葉が溢れ出たのだろう。そうとしか思えないほど、彼女から零れた言葉は綺麗だった。彼もまた、純粋な返事だった。
 ため息をついてその場を離れ、駅とは違う道を歩いて行った。